第3話【バンシーの秘密】


高貴な貴族にして魔法使い。


スクリーミング ロード リッチ公爵の弟子となったモート少年。


その修行の日々は…広い御屋敷で、得体の知れぬ師と、たった二人だけで生活するところから始まった。


その暮らしぶりはいたって普通。


奴隷の身分ではないが、生活や仕事は他所の使用人と何ら変わらない。


そんな毎日が彼を待っていた。


特別に常軌を逸したものではなかった。


屋敷の中で常軌を逸していたのは、彼の師である、スクリーミング ロード リッチ侯爵その人であった。


魔法使いの弟子の朝は鶏と同じくらい早い。


モートはベッドから起き出し、暖炉に残った灰を掻き出し、新たに火を起こす。


それから湯を大量に沸かし、屋敷の階段の真鍮の手摺を、ぴかぴかになるまで磨く。本来ならば、師匠が起き出す前に朝食の支度もするところだが。


「磨きが甘いぞ、モート」


ヴィクトリア朝パジャマ姿の師匠が、持っていたステッキで頭をこつんと叩く。


モートの師匠は朝に弱い。頭に被ったナイトキャップからは、鋤いていない寝癖の髪がのぞいている。


自慢の髭も下を向いたままだ。


今もとても不機嫌そうに、モートの仕事ぶりを見ている。


こんなに朝早く起きて、使用人の仕事ぶりを監視する主も他にあるまい。


師匠は弟子が怠けずちゃんと仕事をしてるか、陰険に監視しているのかと言うとそうではない。その証拠に。


「どれ、貸しなさい!」


そう言ってモートから布巾を奪うと、自ら屈み込んで真鍮を磨き始めた。


「真鍮の手摺はこうやって上から下に布巾で包むように…やってみなさい!」


「窓ガラスは四隅をしっかり拭いて、最後に真中をさっと拭き取るのだ」


「茹で卵は塩を入れてきっちり3分で」


「やってみなさい」


師匠は仕事を言いつける前に、必ず自分がまずやって手本を見せた。


広い御屋敷にぽつんと二人。


師匠はモートに言った。


「使用人を雇えば住む話だ。一人なら魔法を使えばこと足りる。ではお前は、何のために此処に私と居るのか…修行の意味がないではないか」


モートは、立派な身なりの貴族である師匠が、自分に仕事の手本を見せる様子を見て、大変申し訳なく思った。


だから二度と同じことを師匠にさせないようにと、毎日仕事に励んだ。


魔法使いの弟子となったモートであったが、師匠が自ら進んで魔法を使う場面には、なかなか出会すことはなかった。


「師匠はもしかしたら、魔法使いなどではないのかもしれない」


そんな疑念も頭にわいた。


それでも毎日は忙しく過ぎた。


師匠はいつも自分と同じテーブルの席で食事を取るように言った。


食事も主と召し使いといった分け隔てはなく、師匠と同じ物を食べたいだけ食べていいと言われた。


故郷の国の暮らしや、待っていた筈の奴隷としての生活とは、天と地ほどの差があるとモートは思った。


御屋敷は広く手入れは大変だけど、御世話するのは師匠一人だけだ。


手抜かりなくやればやるほど、若いモートは仕事にも慣れて体も楽になった。


けれどモートが仕事をしている時、師匠はモートに言った。


「モートよ、私は熟練した一流の召し使いを雇いたいわけではないぞ」


モートは仕事慣れて、そうなろうとしていた。役にたてばそれでいい。


与えられた仕事をきちんとこなせば、重宝されて大切にしてもらえる。此処に居場所が出来る。意味がある行為だ。


普通の人間なら考える当たり前のことを当たり前にモートも考えた。


けれどそれを、師匠にたしなめられた。与えられた仕事をひたむきに、たとえ師匠の目が届かなくても、一生懸命やるのは当たり前の事だった。


しかしモートは魔法使いの弟子だった。


「どうすればいい?どうすれば、俺は師匠に認めてもらえる魔法使いになれるのだろう?」


毎日そんなことばかり考えた。しかし師匠に与えられた仕事は、修行とは程遠い家事や雑用ばかりだった。


ある朝いつものように階段の真鍮を磨いていると、二階から師匠が降りて来た。


師匠は階段の踊場にしゃがみ込んだモートの前で足を止めて、ステッキで真鍮を二度ほど叩いた。


モートは、てっきり磨きが甘いと怒られると思い真鍮を見た。汚れや曇りなどない。真鍮は輝いて見えた。


「モート、一体これはなんだ?」


「階段の手摺の真鍮です」


「真鍮はどうだね」


「真鍮は固くてぴかぴかしてます」


「なぜ固くてぴかぴかなのだ」


「真鍮だから…です」


「なるほど…お前は真鍮をそうだと思うし、世界中の人間が真鍮や手摺はそういうものだと思っている。おそらく真鍮も、そうだと自分で思うのだろうな」


「はい…真鍮もですか?」


「だから真鍮は、そこから逃げ出したりは出来ないのだ!真鍮かくあるべし!そんな思いが集まって、山も海も女王陛下の宮殿も世界もそこにあるのだから」


そう言って師匠はもう一度階段の真鍮を軽く叩いた。特別何も起こらなかった。


師匠は悪戯っぽく笑う。


小さな子供がするように、並んだ階段の真鍮にステッキを滑らせた。


まるで木琴を鳴らすマレットのように。


ステッキの先が触れた真鍮は、モートの目の前でたわみ、ハーブのような音色を奏でた。


そして師匠が気分よく一節歌った途端に世界がぐにゃりと歪んで見えた。


モートは意識を失いその場に昏倒した。


目を覚ました時モートは、自分の部屋のベットの中にいた。


部屋には師匠もいた。


「師匠…俺は一体どうしたんですか?」


モートが目覚めると弟子に向かって、師匠は即座に詫びの言葉を口にした。


「すまないモート、お前がいるのを忘れて、つい歌など口ずさんでしまった」


聞けば師匠の声は、普段会話をするのには問題ない。


しかし師匠が歌ったり叫んだりするその声は、本来人にはよくないものらしい。


それは師匠が英国で有名な、バンシーという精霊の血が流れているからだと聞かされた。


スクリムー師匠の御先祖の一人であるバンシーとは、アイルランドやスコットランド地方にその伝説が伝えられている。


本来そのすべてが女の妖精であり、混血の師匠のような特例を除いて、男のバンシーなどは確認されていない。


バンシーは伝説によると、家人の死を予告する精霊と言われている。


バンシーの泣き声が聞こえた家では近いうちに死者が出るとされている。


しかし死が近い人間すべての家に現れるというわけではない。


純粋ケルトやゲール系家族のもとにしか、姿を現さないないともいわれる。


複数のバンシーが泣く場合、その死者が勇敢な人物か聖人である証とされる。


アイルランドやスコットランドの旧家には、その家固有のお抱えバンシーがいて、たとえ故郷を遠く離れ暮らしていても、故郷にいる家族の死を伝える。


伝えられるバンシーは、長い黒髪で緑色の服に灰色のマントを羽織った、美しい女性の姿であるとされている。


バンシーの泣き声が聞こえる時、その姿は一切人には見えないという。


そして、その泣き声はありとあらゆる生物の叫び声を合わせたような、恐ろしく凄まじいものであるとされていた。


泣き叫ぶバンシーの目は燃えるルビーような赤色をしている。


これから死を迎える者のために流すのは血の涙であるとも言われている。


妖精と出会い、契りを交わした人間には昔から加護があるとされ、それはバンシーとて例外ではない。


スクリーミング ロード リッチ公爵の御先祖にあたる方が、どのようにしてバンシーと出会い、やがて子を成したのか…今となっては想像すらつかない。


「私は生まれついての高等遊民である」


もともと家に固有のバンシーがいるほどの、それこそ貴族の名家であったか。


それともバンシーと出会い契りを結んだことで精霊の加護を得たものか。


「我が弟子よ、ここでひとつの疑問が浮かばぬか?」


師匠の言葉にモートは思考をめぐらせて考えた。そして師匠に訊ねた。


「師匠…師匠の泣き叫ぶ声は、とても危険なものだと聞きました」


「さよう、悪魔も逃げ出す叫び…世間ではそう言われておるぞ」


「師匠が赤ちゃんなら大変なことです」


赤んぼうの泣き叫ぶパワーは凄まじい。


故郷の家で幼い弟や妹たちのめんどうを散々見させられたモートは知っている。


「赤んぼうが一度泣くと本当に手がつけられなくなります。もしも師匠が、赤ちゃんであった日のことを考えると…恐ろしくて身震いがします」


「その通りだモート!」


モートの話を黙って、頷いて聞いていた師匠は、彼の膝の上に兎の耳当てを置いた。


「乳母も祖母も父親も、私を育てるのに、この魔法の耳当てを使ったと聞く。我一族に代々伝わる、魔法の道具だ」


なんでもこの耳当てをすれば、師匠の声は遮断出来る。それどころか、あらゆる魔法をも防ぐことが出来る。


強力な結界を帯びた防具でもある。


そう師匠はモートに説明した。


「今日からそれをお前にやろう」


「これを、俺にですか?」


師匠の言葉が本当なら、この耳当ては敵対する相手に渡れば、それこそ師匠にとっては致命的な敗北を呼ぶ結果となる。


「それがあれば、これから私がどんなに魔法を見せようと、無事でいられる」


「それでは師匠!」


モートの目から自然に涙が溢れた。


「ふむ…とりあえず見習い期間は卒業としよう!なにしろ私のあの歌を聞いて、即死しなかった者はお前が初めてだ!」


「え」


「魔法への耐性は、この屋敷で充分に養われたようだ!普通なら、もって3日」


「師匠」


スクリーム師匠は上機嫌で、フロック コートのポケットから、1枚のカードを取り出した。


「明日から更なる修行だ!モート!」


てっきり免許皆伝の書とか、魔法のアイテムが貰えると思った。


しかし、現実も魔法の世界も、それほど甘くはないようだ。


「あの…師匠これは?」


師匠に手渡された1枚のカード。


そこにはシルクハットに燕尾服、洒落たモノクルに、自慢の髭をたてた師匠の肖像画が描かれていた。


おめかしして横顔で頬笑む師匠がカードの中からこちらを見ている。


「いらね~」


モートは内心そう思った。


けれど師匠の手前、きちんと礼を言って、シャツのポケットにそれをしまいかけた。


「慎重に扱うのだぞモート!それには強力な、我が魔力が込められている。もし扱いを間違えると…お前は死ぬぞ」


師匠に言われて、カードを持つモートの手に緊張が走る。


「物事万事見た目に騙されてはならない。この愛くるしい見た目に油断大敵!」


そう言って師匠は、モートの手からカードを抜き取る。


「やはりこれは私が保管して…修行の際にだけ、お前に渡すとしよう」


そう言って師匠は、カードをフロックコートのポケットにしまった。


「今日はよく休め。夕食は私が用意しよう…明日からの修行に励めよ、モート。己の心を石にたとえて、磨けよ。モート」


背中を向けて、部屋のドアに向かう師匠に、モートは言葉にならない感謝の気持ちが湧いてくるのを感じた。


「師匠…俺はきっと師匠の御恩に報いられるような、立派な魔法使いになってみせます!」


その言葉が聞こえたわけではないが、師匠は扉の前で、くるりと踵を返した。


「そうだ!そうそうそうだ!モート…私は一つお前に話忘れたことがあるぞ!」


人さし指を立てて、つかつかとモートのベットに歩み寄る。


「は…なんでしょうか師匠!」


今日も師匠がバンシーや魔法について、有意義な話を聞かせてくれた。


モートは師匠の言葉を、一言一句聞き逃すまいと耳を傾ける


「我が御先祖である精霊バンシーの話だが…精霊と契りを交わした者は、その加護が得られるのだと…」


「はい!先ほど確かに、師匠から伺いました…」


どうして話をしながら、師匠は上着を脱いでいるのだろう。


「それは私の先祖にあたるバンシーも、例外ではないと聞いた」


部屋がけして熱いわけではないのに、どうしてネクタイまで外して、シャツのボタンにまで手をかけて。


気がつくと師匠は、上半身に何も身につけていなかった。


「モート、私にもそのバンシーの力は宿っている筈だ…弟子お前にも精霊バンシーの加護を与えようではないか!」


「待って下さい師匠!お気持ちはありがたいですが…師匠と僕は男同士…それは出来ません…いくら師匠でも…無理やめて」


モートは顔を背けて、両手で師匠を拒んだ。暫くしても何も起きなかった。


おそるおそる目を開けると、師匠がぽかんとした表情でモートを見ていた。


「モート、お前の言葉の意味がわからん。私にもわかるように説明してくれ」


「し、師匠は今しがた俺に精霊の加護を得るためにには、師匠と契りを…交わりまぐわえと…」


想像しただけで恐ろしい。少年モートはベットの上で小鳥のように震えた。


「馬鹿を申せ!」


ステッキで頭をこつんと叩かれた。


「お前は私をなんだと思っている」


「では僕は、師匠の慰み物とならなくてよいのですね?」


「当たり前だ!供物ならもっとましな物を我は所望する。妄想は魔法の源泉となるが…もう少し健康的な発想をしなさい」


「すみませんでした」


もしも自分が引き取られたのが、師匠でなければ…奴隷の身分の自分には、想像したような、おぞましい未来が待っていたかもしれない。


そう考えると、やはり自分はこの師匠に感謝の心を忘れてはならない。


モートは心の中でそう思った。


「私も、自らの血に流れるバンシーの特性を生かす魔法使いになろうと、日々研究を続けているのだよ」


そう言って師匠の右手が空を切ると、

手の中に立派な壮丁の書物が現れた。


「読んでみなさい」


ずっしりと重い革表紙の本がモートの膝の上に置かれた。触れてもいないのに本が開いてページが勝手に捲られて行く。


今日再び見る師匠の魔法。なんという、かっこよさだろう。服さえ着ていれば。


モートは捲られた本のベージが止まっても項垂れたままだった。


「師匠…俺は…文字が読めません」


恥ずかしそうにモートは言った。


この国の言葉のアルファベットや、少しの単語なら理解出来る。母国の言葉は勿論流暢に話せる。でも、どちらの読み書きもモートには出来なかった。


「モート、お前はこの屋敷に来て何ヵ月になる?」


師匠の問いは叱責に聞こえた。


「仕事の合間にも読み書きを学んでおくべきだった…自分は努力が足りていない」


そう思うと恥ずかしくて…とても師匠の顔など見ることが出来なかった。


「私は異国から来たお前のために、わざわざお前の母国の言葉で話してやるような、親切な師匠ではなかったはずだ」


モートは顔を上げて師匠の顔をみた。


「ここで私と暮らすというのは、そういうのことなのだよ」


師匠はやはり裸だった。


モートは本のページに目を移した。


【エルフィン ナイトの章】


目次にはそう書かれていた。


エルフィン ナイト…妖精の騎士、いや妖精の守護者…加護と読むべきか。


文字が読めるどころか意味や智識まで頭の中に次々と湧き出して来るようだ!


「師匠…!俺文字が!本が読めます!」


師匠は黙って頷いて、続きを読むように促した。


文字が読める。


その内容が理解出来る。


ただそれだけのことが愉しかった。


それがモートの心を熱く興奮させた。


モートは夢中で目を輝かせ、その本の中に書かれている文面を読んだ。




妖精と出会い、契りを交わした人間には昔から加護があるとされる。


それはバンシーも例外ではない。


妖精が自身と交わった相手に加護を与える例として、バンシーの乳房を吸った人間は望みを叶えられると語られている。



「そこに書かれていることは真実だ」


耳元で師匠の声が聞こえた。


叫ばずとも、師匠の声は恐ろしい。


「遠慮するなモート」


「師匠」


「母のように」


師匠、近いです。






魔法使いモートの修行の日々は続く。


今日も部屋に隠り、机の上にうず高く積まれた真白なカードに、彼の師であるスクリーミング ロード リッチ公爵のポートレイトを模写している。


「書けば書くほどよい」


そんな師匠の言葉を信じて。


モートは、師匠の顔を描き続けた。

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