第4話【Nightingale&Chatelaine Ⅰ 】
「師匠この御屋敷ですか?」
その日、魔法使いの弟子モートが、師匠のスクリーム公爵のお供で訪れたのは、いかにも古い歴史を感じさせる佇まいの、大きな邸宅だった。
師匠はモートの言葉に首肯くと、英国でマナーハウスと呼ばれる大邸宅の門の鍵を、弟子に手渡した。
英国北部ウェスト ヨークシャーのバーストール村に、エリザベス朝時代に建てられた、そのマナーハウスはあった。
「見てみろダーリング、この建物に使われている黒っぽい石がグリットストーンだ」
100エーカーはありそうな広大な庭園の中を歩きながら、師匠はモートに説明した。
目の前の屋敷は、中世後期の建築様式となっていた。
英国では蜂蜜色の石が使われる南部のコッツウォルズ地方と、黒っぽい石が使用される北部と、地方によって建築に使われる石の色が違う。
「ここ北部では、昔ながらの屋敷には黒っぽい建物が目立つのだ。どうだダーリング…この庭園と屋敷との調和…実に美しい景観ではないか?」
師匠は、この度購入した屋敷を前に上機嫌だった。モートは以前屋敷の階段で起きたことを思い出し、今にも師匠が歌いだすのではと、ひやりとした。
「なんと1580年だ!」
このお屋敷は1583年にジョン・ブロンテ氏という貴族によって建てられた
確かにワインでも、それくらいの年代に作られた物なら価値も高いだろう。
「しかし、こんな女王様の宮殿のような屋敷を買って、師匠はどうするつもりだろう?」
モートには疑問しか浮かばない。
師匠はこのような豪奢な古いマナーハウスや中世の古城を、国内外に多数所有しているようだ。
お金持ちの貴族だから、そんな御屋敷の一つや二つ所有していても、なんら不思議はない。しかし如何せん数が多い。
そこで王様や他の貴族のように、召し使いを抱えて優雅な暮らしをするわけではなく、年中旅を続けている。
1ヶ所に滞在することも稀で、暮らしている屋敷も、モートの修行のために滞在しているだけらしい。
一人や二人で暮らすならば、屋敷はそれほど必要とは思えない。
旅をするなら、その土地にある高級な宿を利用すれば済むはずだ。
このような住みもしない、マナーハウスを多数所有して、管理するだけで大変な金がかかるだろうに。
その疑問をモートは師匠に訊ねてみた。
「それは高貴な貴族の嗜みだ!お前も、そのうちわかるさ、ダーリング!」
貴族の嗜みなら、なるほど自分のような身分の者に理解は遠い。
高価な絵画や彫刻ばかり集めて屋敷に飾り、眺めて喜ぶ人の気持ちは、モートには理解出来なかった。
深夜師匠の部屋に、ナイトキャップを運んだりすると、師匠は机に置いた髑髏と会話をしている。
それも貴族の嗜みらしい。
「さあ、扉を開けてくれダーリング」
最近師匠は、モートのことをダーリングと呼ぶ。以前、歌を聞いて失神した。
その時師匠に、ベッドの上で乳を吸うように強要された。なんとか断ることに成功したが…その時師匠と不適切な関係を結んだわけではない。
適切な魔法使いと弟子の関係だ。
魔法使いと弟子の関係が、世間的に適切かどうかなんてわからないが。
少なくとも、髭の中年紳士にダーリン呼ばわりされるいわれはない。
師匠は師匠で、モートを不適切な目で見てはいないようで、とりあえず安心した。
もし、そんなことになったら舌を噛んで死のう…とモートは考えていた。
師匠はこの頃、弟子のモートや老若男女貴賤を問わず、会った人すべてをダーリングと呼んだ。
何を起源かわからない。しかし師匠の中では、それが今流行らしい。
それも貴族の嗜みか。
「やめて欲しいぜ」
そう思いながら、モートは屋敷の扉の鍵を錠前に刺した。
メインエントランスを入ると、グレート ホールと呼ばれる、大きな吹き抜けのレセプション ルームが目の前に広がる。
経年の埃の帯が、午後の陽射しの中で閉ざされた時のように揺蕩う。
「18世紀初頭にジョン ブロンテ卿の孫が2階部分を取り払い、吹き抜けのホールを造り上げたと言われている…素晴らしい」
「この部屋は、来客へのレセプション ルームとしても使用され…嘗ては大勢の商人たちなどが集まったに違いない!ここは、おそらくダイニング ホールとしても使用されていたのだよ。この屋敷を訪れ、グレート ホールに通された客人たちは…その部屋の素晴らしさに、さぞ感激したに違いない!今の私のようにね!」
師匠は興奮冷めやらぬ口調で語る。
モートは師匠の言葉につられ、吹きぬけのある屋敷の高い天井を見上げた。
『帰れ』
天井から低い声が聞こえた。
当時の家具がそのままに
当時の家具がそのままに
揺りかごも当時のまま
揺りかごも当時のまま
素敵なままの素敵な屋敷
師匠は上機嫌の極み。
今にも歌い出しそう。
それはそれで、モートには危険に思えた。
「し、師匠、天井から帰れって誰かが!」
「聞こえておる!私を誰だと思っておるのだ!精霊バンシーを御先祖に持つ、音の魔術師にして、叫びの第一人者スクリーミング ロード リッチ公爵なるぞ!」
師匠は怯えるモートを見て言った。
「ははあん、さては怖気たか!いつも威勢のいいことばかり言ってるくせに、だらしがないぞモ…」
「モ?」
「モーリング」
もう俺じゃなくて、それは別人です…師匠。
「師匠ここはお化け屋敷です」
「そのようだな」
「わかって買われたのですか」
「うむ」
「天井から『帰れ』という声が」
「実にお化け屋敷らしいではないか」
天井から『帰れ』と声がしたら俺は帰る。
売ったやつに文句を言って、金を返してもらうべきだ。モートは思った。
「師匠、帰りましょう」
「いやだ」
師匠は子供みたいに言った。
「お前にもこの館の主の声が聞こえたのだな。修行の成果だ!成長したな!」
師匠は天井を向いたまま、自慢の髭を撫でながら言った。思わぬところで師匠に誉められた。それは嬉しかった。
「師匠、俺は目に見えるものなら何も恐れません!しかし見えないものは…」
「ふむ」
弟子の言葉に頷くように、師匠の目線は床に落ちて、戻らなかった。
モートは、師匠の目線の先にある、自分の爪先に目をやる。
ロココ調のラウンドガウンに身を包んだ貴婦人の顔が、モートを見上げていた。
慈愛と悲しみに満ちた瞳。
金糸の刺繍が施されたパニエの胸元から覗く、白くふくよかな胸の谷間。
レース飾りと、リボン結びの列を並べたエシェルは宝石で飾られる。
着装はガウンにピンで留めるため、とても手間がかかりそうだ。
柔らかな金色の髪のひとすじが所在なく額にかかり、頭を覆うラペットは、彼女を本物の修道女のように見せた。
彼女の腰元のフレアは、膨らんではおらず、まるでコルセットのように大蛇が巻きついていた。
大蛇の鎌首がモートを威嚇する。
婦人は愛おしげに、モートの靴をしきりに舐めまわしていた。
ガウンの裾から覗く、婦人の両足ではないものが床を這いずる。
「御機嫌如何ですかな?」
師匠が恭しく、床のものに言った。
「私がこの館の新しい主。スクリーミング ロード リッチ公爵であります!以後お見知り置き下さいませ…ダーリング!」
師匠、この人にまで。
俺…もう帰りたい。
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