うわごと


 “おお、歳月よ、あこがれよ!

  たれか心にきずのなき?”



 ある古本屋に行くために旅に出た。

 妙な思いつきだったが、ほかにやることもなかったので、良い気晴らしになるだろうと考えた。



 その古本屋は港町にあった。この町に来るのは初めてだったが、少しだけ私の故郷に似ていた。


 私は埠頭に佇み――店が開くのは夜更けだったので――日暮れを待ちながら、朱く染まっていく空を眺めた。

 海は穏やかだった。昼間は地獄のような暑さで呼吸するのもつらかったが、夕方になるといくらかマシに思われた。


 時間はゆっくりと流れていった。私はややノスタルジーに浸りながら、そう遠くない場所に浮かぶ島から、あるいは島へと、人びとを乗せた渡し船が行ったり来たりするのを目で追った。

 埠頭には何艘もの漁船がぷかぷかと浮かび、時おり魚の跳ねる音が聞こえた――それから私は、ぱこん、ぱこんという奇妙な音がすることに気づいた。そっと海をのぞきこむと、空になったペットボトルが、寄せては引く波に合わせてコンクリートの壁にぶつかっていた。


 太陽は深い青色の水面に金色の跡をつけ、雲に遮られながら、ちょうど島と島の隙間に落ちていった。

 そして海と混ざり合い──去った。


 島々が黒い影で覆われ、街灯がともり始めた。私は夕焼けの中を進む飛行機が一番星のように光っているのを眺めた。


 潮風は甘い香りがした。



 真夜中。

 多少涼しくはなったが、相変わらず汗は止まらなかった。

 私は古本屋にたどり着いた。入り口の扉は開けっぱなしになっていた。


 その扉をくぐった時、私は一瞬、軽い衝撃を覚えた。

 この場所のことは知っている、と感じた。最後のパズルのピースがはまったような、長年持っていた鍵に合う鍵穴を見つけたような、居るべき場所へ戻って来たような、そんな感覚だった。


 客は私ひとりだった。

 カウンターにいる店主は想像していたよりも若かった。私とそう変わらない年齢だろう。彼は目を伏せて本を読んでいた。

 私は軽く会釈するだけにとどめ、ひとまずラジオの流れる店内を物色した。



 古びた紙の香り、樟脳の匂い。

 糸がほつれて外れかかった背表紙。

 金箔の剥げた飾り文字。

 虫食いや黴に侵された古い活字。

 モノクロ写真の中で時を止めた人々。

 折れ目だらけのポルノ。

 もはや存在しない番号の詰め込まれた電話帳。

 色褪せた外国語の雑誌。

 多くの人が一度は手に取ったであろう名著。

 まだ記憶に新しい話題本。

 真っさらな新刊本。



 シミのある壁。

 歪んだ窓。

 傷だらけの本棚。

 年季の入った扇風機。

 ひび割れた天井。

 鈍い光を放つ裸電球と、その上に覆い被さる色褪せた傘。

 凹んだ煙草缶の中の瓶の王冠。

 黄ばんだ文字盤の振り子時計。

 擦り切れたソファ。

 色とりどりのマッチ箱。

 角の丸まったポスター。

 埃だらけの軍帽。

 変色した硬貨。

 塗装の削れたミニカー。

 二度と鳴ることのない黒電話。


 ――時代に取り残された遺物たち。



 一通り見物した後、私は店主に尋ねた。


「本の買取はされていますか」


 店主は首を横に振った。


「いまは引取だけです」


 私は肩をすくめた。


「では引取を」


 私が持ってきたのは、ある詩人の書簡集だった。刊行数が少ないのか、別の古本屋で購入した時はそれなりに値が張った。

 私としては、一種の果たし状のつもりで選んだものだった。

 店主はその本に興味を引かれたようだった。


「面白い本ですね――この詩人、お好きなんですか……うちでも結構、取り扱ってますよ。今日は遠くから来られたんですか」


「ええ──都会の方から」


「観光に?」


「いいえ、この店に」


 店主は眉を上げた。


「それはありがたいですね」


「来た価値がありました……とても良いお店ですね」


 彼はふっと笑った。

 窓から緩慢な風が流れこんだ。

 私は言った。


「それに、海の近くというのも素敵ですね。私がいま住んでいる場所には海がないので、羨ましくなりましたよ」


「ええ、海は良いものです」


 そして店主はなにか思いついたように続けた。


 ”また見付かつた。

  何がだ? 永遠。”


 ピンときた私は言った。


 ”それは、太陽とつがった

  海だ。”


 私たちは共犯者めいた笑みを交わした。



 私たちはしばらく、文学や人生に関する雑談をした。私たちは似たような人間であることが分かったが、同時に大きく異なってもいた。


 それから、私は目についた数冊の本の中から一冊を購入した。


「良い現実逃避になりました」


 店主は静かに笑った。


「ここは現実ですよ――また機会があれば、おいでください」


 店を出ると、空は夏の星座で埋め尽くされていた。



 海沿いの道は街灯に照らされ、思いのほか明るかった。暗い水の上で、鈍い白の光が踊っていた。

 時刻は四時を回る頃だろうか。真っ黒の島──先ほどより遠くにあるように感じられる──には瞬きをする目。灯台があちらを見たりこちらを見たりしているようだった。

 ふと横を見れば、黄色い点が二つ。目を凝らすと、野良猫がいるのが分かった。このあたりは彼の縄張りなのだろうか。野良猫はしばらくこちらの様子を伺っていたが、さっと尻尾を揺らして消えていった。


 私は再び海へ視線を戻し、瞼を閉じた。

 深呼吸をすると、心がすっからかんになってしまった。



 東の空が白み始めた頃、私は目を開いた。

 そして生温く甘い潮風の中で、記憶が古びてしまう前にこれを書き記した。


 “おお、歳月よ、あこがれよ!” 

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