COMA
都市はどこも同じ顔をしている。
鈍色の空。雲の隙間から日が射すこともなければ雨が降ることもない、昼も夜も鉛のように重く、呼吸ができない。
排気ガスで汚れた道。縦横無尽に自動車が走る、その真ん中にぽっかりと開いた空間、誰の意志でもなく作られた安全地帯。
スモッグでくすんだガラスのビルたち。千の目を持つ怪物の群れのようにわたしを見下ろす。
あらゆる色が混ざり合った喧噪。あまりにも色が多いので、どれもその音を失ってしまっている。
無数の影のような人間、人間、人間。誰ひとり顔がない。
都市は灰色だ。滲む濃淡といびつな輪郭でできている。
灰色はわたしの色だ。なにもかも不安定で曖昧、遠すぎてはっきりしない、あるいは、近すぎてぼやけている。
わたしは寂れたアパートメントに住んでいる。どうしてそんなところにいるのか、なんのために暮らしているのか?壁は打ちっぱなしのコンクリート、歪んできちんと閉まらない窓には色の抜けた穴だらけのカーテン。
部屋の中にはベッドがひとつ。マットレスは硬く、寝返りを打つたびにうめき声をあげる。ベッドの下にはトランクがあるが、いったいいつ使ったのかまったく思い出せない。
それから机、机の上には雑多に置かれたガラクタ――ライト、鉛筆、万年筆、ナイフ、スケッチブック、灰皿、ネジ、針金、空の瓶――みんな埃をかぶっている。
本棚にはこれまた乱雑に積み重ねられた本。わたしはこれをぜんぶ読んだのだろうか?ペーパーバック、大判の本、豆本、年季の入った皮の装丁、何の秩序もなく打ち捨てられた言葉たち。机の上と同じく、こちらも埃に覆われている。
わたしはバルコニーに出て錆だらけの鉄柵に寄りかかり、タバコを吸いながら薄汚い路地裏を眺める。二メートル先には長い歳月雨風にさらされて灰色になった隣の建物の壁。
太陽が出たとしても、わたしの部屋に陽は射さない。ちゃんと閉まらない窓からすき間風が吹く。
わたしはそれがとても気に入っている。
扉はあった。わたしは扉を開くのが好きではない。しかし開かないことには出て行くことも再び中に入ることもできない。わたしは考える――どうして外に出る必要があるのか?
もちろん外に出なければならない……でないと、やつらがやって来る。一体それが誰なのかは分からなかったが、わたしは訪問者を恐れていた。存在するかどうかも定かではなかったのに。
こんなことではいけない。
わたしには思い出さなければならないことがたくさんある。どこから始めればいいだろう?あまりにもなんにもなくなってしまっていた――分かるのは、たくさんの時間を無駄にしたこと。
いちばん古い記憶。これは案外すぐに戻ってきた。
最初の場面。わたしはベッドに横たわっている。わたしは起きあがり、窓から外に抜け出して、街灯のまわりをパタパタと飛び回る羽虫の横をすり抜け、夜の道を歩く。
次の場面で、わたしは木材が放置された袋小路にたどり着く。重なり合った木材はまるで扉の枠のように見える。わたしはそこをくぐり抜けようとし、ふと思いとどまる。忘れ物をした。
最後の場面。わたしはベッドの上に戻っている。わたしは仮面を抱えている。暗闇でもはっきり見ることができるほど真っ白な仮面には、外を見るための真っ黒い穴と、鼻と唇の凹凸がある。とても美しくて無機質だ。これをつけないことには、あの扉を通りぬけることはできない。
これがいちばん初めの記憶。
その後の記憶は、覚えてはいるが、歳月とともにねじ曲がり、歪み、まったく違うものになってしまった。
仮面。
人の顔を見分けるのは難しい。男か女か、どちらでもないか、歳はどのくらいか、背は高いか低いか、太っているか痩せているか、分かるのはせいぜいそのくらいだ。ほかの部分はぼんやりとしている――美しいか醜いか、善人か悪人か、どんな表情をしているか。
「分からない」のではなく「見ていない」と言うべきかもしれない。
わたしは人を見ない。わたしは部屋の中で、しっかりと扉を閉めている。
「人(person)」の語源は「仮面」なのだという。演劇で役者がかぶる仮面だ。この単語には「役割」という意味もある。
誰もが仮面をかぶっている。
わたしは考える、人という存在は、個人的なものか、社会的なものか――つまり、人は「その存在」なのか、それとも何かの一部、ただの「仮面」に過ぎないのか。
強いて言えば、わたしは白痴の仮面をかぶっている……もしかすると、本物の白痴なのかもしれない。それを判断するのはわたしではない――わたしにとって、自分自身はごく当たり前の、自分自身でしかない。
大昔、演劇の際に役者は仮面をかぶり、どの役者が誰なのかを判断する手段は声だけだった。
ちゃんと声が聴こえる人と、声がすり抜けていく人がいる。「すり抜ける」方が圧倒的に多い。
わたしは言葉を話すのが苦手だ。口に出すと、言葉はばらばらになり、自分にも支離滅裂な音の羅列にしか聞こえない。自分の考えていることを言葉にするのは難しい。
無口ではない――まったくもって違う。その気になれば、機会さえあれば、わたしはひたすら喋り続ける。目の前に人がいても、いなくても。
内容がまともだったとしても、わたしの声から言葉を拾い上げることができる人は少ない。わたしの話し方は――大人になってやや改善されたものの――アクセントもピッチも安定しない。それでも話しだすと止まらない。
いずれにせよ、誰にもなんにも伝わらないのだから、それが悪いことだとはあまり思わない。わたしは、誰かに、本当になにかを伝えなければならない、と思ったことがない。
わたし自身が上手く喋れないこともあり、古い知り合いほど、わたしには会話をする能力がないと思っている人が少なくない。好都合だと思う。聞きたくもない話を聞かずに済む。
“喋る”という行為はわたしにとって武器なのだ。意味のない言葉は誰にとっても聞くに堪えない。わたしは部屋に閉じこもっている。
攻撃は最大の防御だ。
わたしが完璧にできる表情――仮面、それは笑顔だけだ。
笑顔は無防備な印象を与える――その印象を与えるためには、笑顔に一点の曇りもあってはならない。笑顔に対し、人は気を緩め、好感を抱く、もしくはその人物を侮る。偽物の笑顔に対し、人は警戒し、不快になり、距離を置く。
大人になってから、わたしは笑顔の効果を学んだ。
しかしいま、わたしは笑うことをやめた。
街を歩く。
音の洪水、脳を刺す光、目まぐるしく変化する臭い、人々の顔は煙のよう。
カーブミラー。実際よりもやけにくっきりと事実を映している。
雨の日、特に夜は最悪だ。濡れた地面が光を反射し、頭の中で反響する。音はますます入り乱れ、どす黒いタールのようにねっとりと、わたしの心臓を締め付ける。
どうしてみんなこんなことに耐えられるのだろう、こんな場所にいるとつらくなってしまうのはわたしだけではないはずだ、それなのに彼らは何でもないように生きている、
だからわたしは彼らと分かり合えない、と考える。
わたしはまだ若かったが、すっかり古びてしまった。それでいてじゅうぶん年老いてもいない。分からなくてもいいことは分かるようになったが、知りたいことの多くは謎のままだ。
わたしは疲れてしまった――わたしは淘汰されようとしている。
うんと幼い頃から、わたしの夢に出てくる人物がいる。
夢の中で、ふと後ろを向くと、彼は揺れることもなくぶら下がっている…彼は首を吊って死んでいる。
わたしの夢に出るのは死人ばかりだ。ゴミ捨て場に打ちやられた女の死体、ドアから半分飛び出した腐りかけの死体、地下室の石の棺に納められた死体(棺に納められた時は、まだ息があった)、波打ち際に打ち上げられた無数の死体……。
生きている人間の姿ははっきりしない。首から上は煙のようで、音もなく徘徊し、理解できない言葉を話す。死体よりよっぽど気味が悪い。
吊られた男は、頻繁にわたしの夢に現れる。わたしは彼を見上げ、彼はわたしを見下ろしている。でも――夢によくあるように――わたしは彼の顔を見たことがない。わたしが見ているのは、彼の後ろ姿、それから彼の顔を見る自分。
わたしは彼の顔を見たことがない。
彼はわたしなのではないか、と思ったこともあった。しかしその考えは、どうもしっくりこなかった。彼は誰だろう?この先わたしが出会う誰か?なぜ首を吊っているのか、彼を殺すのはわたしなのか。
奇妙にも、わたしは彼の存在を疑ったことがなかった。わたしは彼が確実に存在するということを知っていた。
わたしは夜の街を徘徊する。何を求めてのことか、何の目的もないのか。そのまま街を抜けて海へ行くこともある。夜の海は素敵だ――月のない日は特に。真っ暗闇の中、あるのは潮風と波の音、ざらざらした砂の感触。見上げるとおびただしい数の星が瞬くこともなく空にはりついている。わたしはただ、そこにじっと突っ立って、ゆっくりと呼吸をする。
自分の存在が消えてしまったようで、とても心地よい。
海に行く途中に、異常者を隔離する施設があった。
施設はぽつぽつと明かりがついていた。何の気なしにその建物に近づくと、どうもわたしは正面ではなく裏口の方に来てしまったようだった。
誰もいないと思っていたが、出入り口の前で一人の青年が煙草をふかしていた。職員なのか患者なのかは分からなかった。表情は見えなかったが、やや背中を丸め、すっかりくたびれてしまっているように見えた。
彼だ、とわたしは思った。
彼だ。
青年はわたしがいることに気づいていないようだった。わたしはゆっくりと彼に近づいた。
「ねえ、あんた」
わたしは言った。
彼は顔を上げ、わたしの方を見た。
「首を吊ろうと思ってる?」
わたしがそう言って、彼が何を思ったのか……分からなかった。わたしは微妙な表情の変化を読みとることができないし、彼の顔の筋肉は、わたしにはまったく変化していないように見えた。
彼はただ、二回瞬きをしただけ。ぱち、ぱち。
わたしはというと、いきなり奇妙なことを言ってしまった、という自覚はあった。とつぜん奇妙なことを言うのはいつものことだが、それにしても奇怪なことを言った、と。
しかしわたしは黙っていられない。
「ね、首を吊るんでしょう」
わたしはもう一度そう言った。
彼は無表情のままわたしを眺め、言った。
「君はここの患者か?」
「違う。自分の面倒は自分で見られるよ」
「結構なことだね」
彼は施設の中に戻ろうとした――頭のおかしい人間と関わる気はないのだろう。わたしは彼を引きとめるために問いかけを続けた。
「ここには、どんな人がいる?」
「いろいろだよ……健康そのものなのに病気だと思い込んでいる人や、死にたがっているくせに、医者に頼み込んで必要のない治療を受けている人、自分はもう死んでいると思っている人……」
「都市に毒されてしまったんだね」
「ああ」
「あんたはどうして、ここにいるの?」
彼は煙を吐いた。
「さあね。昔のことなんか、何にも思い出せなくなった」
彼は煙草を地面に落とし、踏みつけた。
「思い出したとしても、もう終わってしまったことだよ」
わたしは頷いた。昔のことを思い出すと、まるで昔住んでいた家に戻ったような感覚に陥る。そこに戻ると、わたしは子ども時代の抜け殻を見ているような気分になる。
「ここは奇妙な場所だ」彼は言った。
「すべてが奇妙に食い違っていて――いやむしろ、どうしようもなくちぐはぐで矛盾ばかり、それなのに誰も気づいていない――もしかすると何人か、それとも大部分の人は なにかがおかしいと気づいているのに、知らんぷりをしている……」
たぶんその選択は正しい。気づいてしまったら、まともに生きていくのは無理だ。
「きっと考えるのをやめるべきなんだ、決まりごとに慣らされて、流されてしまえばこんなに混乱することもないだろう」
しかしそんなことはできない。彼はそんなことはしないだろう。
考えるのをやめてしまったら、いったいわたしはどうなるのだろう?
”我思う、故に我あり!”
考えるのをやめれば、わたしは何にもなくなってしまう。
彼はしばらく自分が踏みつぶした煙草を眺めていたが、ふと顔を上げて言った。
「君はどこにいるんだ?」
「それが分かればいいんだけど……ここにはいたくない、でもどこにも行く場所はないんだよ」わたしは続けた。
「前に、古くなって毀れてしまったものを――それは大事なものだったから――どうにかしようとして、もっとひどいことをしてしまった。それは決して元通りにはならなかったし、どんなものだったのかも分からなくなってしまった」
「新しいものを作るしかない」
「作れなかったら?」
「それでもうおしまい――おしまいにするか、立ち去って、何かを見つけにいくか?」彼は肩をすくめた。
「いつだって終わりにできる……だからって、それが簡単なわけではないけれど」
わたしたちの間にはもう、お互い言いたいことを言い終えてしまった、そんな空気が流れていた。だが、わたしはまだなにも話していない――
「あのね」わたしは言った。
「人に会わなくちゃならないんだ。誰でもいいんだけど、誰と会っても同じってわけじゃない」
彼はわたしが言った言葉についてなにかを感じ、なにかを考えただろうか?
しかし、彼の口から出てきた言葉はこんなものだった。
「君は幽霊か?」
「まさか――」違う、と続けようとして、わたしは言い直した。
「さあ、どうだろう」
わたしたちはため息をついた。
今日はこれでおしまい。
「じゃあ」
わたしは立ち去った。
彼はわたしについてなにも尋ねなかった――名前すらも。わたしは名乗るのが好きではない――名乗るというのは誰かになるということだ。
想像力があれば、本物らしい人物像を描くことができる。想像力がなければ、他者についてなにひとつ分からない……なにひとつ!
わたしは想像力に乏しい。人々について、わたしが知っていることはあまりにも少ない。では、人々がわたしについてどのくらい知っているのか?それも分からない。何も知らないでいてくれればいい。きっと何も知らない……
わたしは名乗らない。わたしは誰でもない、と言うことはできない。わたしが誰かであるのは間違いない――だが、それは人々が思い描く人物ではない。
アパートメントに戻りながら、わたしは自分の過去について考えた。しかし相変わらず、わたしにはどの記憶が実際に起きたことなのか分からなかった。どの記憶にも覚えはあるが、中を見るとすべて空っぽなのだった。
わたしは夜の海岸にいた。じっと波の音と星々の沈黙を聴いていると、彼がやってきた。
彼は黙って突っ立ち、湿った砂を踏みしめていた。
それから独り言のように言った。
「君はよく、ここにいるな」
「なぜそれを知っている?」
「施設の屋上から、ここが見える」
「でも周りは真っ暗だよ」
「月が明るい日もあるだろう……」
わたしは首をかしげる。
わたしは月の夜にここに来たことがあっただろうか。
いずれにせよ、彼がなぜここに来たかなんてどうでもいいことだ――そう思った矢先に、彼がこう言った。
「君が溺死すると思ったんだ」
「水の中に入ろうなんて、思いもしなかったよ」
わたしたちはお互いが死ぬ姿を見ていたらしい。
「ねえ、じゃあ、あんたはわたしが死ぬのを止めようと思ったってこと?」
「さあ……ただ死ぬのを眺めようと思っただけかもしれない……」
彼はわたしの隣に座った。
わたしたちはお互いになにも喋ろうとしなかった――知るべきことはなにもなかった。
朝が来ると、わたしたちは街に戻った。そして何とはなしに連れだって歩いた。
道行く有象無象を眺め、わたしは問いかけた。
「ここの人たち……本当に存在していると思う?」
汚れた空気を吸い込み、彼は少し咳をした。
「どうだか……目の前の人間が本物かなんて、誰も気にしちゃいないよ」
人ごみは蜃気楼のようにわたしたちを惑わした。
彼が言った。
「眩暈がする――路地裏へ行こうよ」
わたしは頷いた。
路地裏。
長らく閉まったままの店、崩れかけたビル、ろくでなしに壊され、落書きされた扉やシャッター。
何年も回収されていないゴミ、野良猫、ドブネズミ、その他の得体の知れない生き物。
「こっちに来てごらん」
彼に言われるまま、わたしはその小道に入った。
そこには小さな噴水があった。煉瓦を積み重ねてできた縁はすり減って苔でおおわれ、水は溜まっていたがそれはどう見ても雨水で、藻が生えて緑っぽい色をしていた。その中に、白い骨がいくつも浮いていた。
まるでちょっとした遺跡のようだ、とわたしは思った。
「都市には、こういう秘密の場所がたくさんあって、」彼は言った。
「静かに滅んでいくんだよ……そして永遠に隠されたまま、忘れられるんだ……」
「たぶん、それがいちばん良いね」
わたしたちは行くあてもなく路地を彷徨った。
「君は都会で生まれたのか?」
わたしは首を横に振った。
「昔は、田舎に住んでいた。そこが好きだったーー小さな世界、安全で平和だった。でも今ではすっかり毀れてしまって、あるのはがらくたばかり……今ではもう、どうしてそんなものがそこにあるのか分からない」
彼は潰れた空き缶を蹴飛ばした。それは無機質な音を立て、溝に落ちた。
「都市は無機質でよそよそしいけれど、決して近しくならない分、いつでも同じ顔で付き合える」
わたしは脇道を覗きこみ、袋小路であることを確認した。彼が別の小道を見つけたので、わたしたちはそこに入っていった。
「昔あった場所が、今どうなっているか見てみたくなることがある……きっと何にもなくなってるって、分かってはいるけれど」
だしぬけに、私たちは大通りに出た。やかましいサイレンが、横殴りの雨のようにわたしたちを襲った。
「行ってみようか」サイレンが遠のくと、彼は言った。
「どうせ、ここでやらなくちゃならないこともないんだから」
わたしたちはそこに向かうことにした。
わたしたちは線路を歩いた。線路はあってもこちらへ向かう汽車はなかった。わたしたちは子どものように、綱渡りをするように、手を繋いでレールの上を進んだ。たまにどちらかががバランスを崩すと、もう一人もレールから落ちた。
研磨されてきらきらと光るレール、何年も雨風にさらされて錆びついたボルト。
彼は延々と続く線路を眺め、言った。
「この方角で合ってるのか?」
「さあね……どこにも行けなくったって構わないんだから……」
しかし、わたしたちは目的地にたどり着いた。
思った通り、そこには何もなかった。
どす黒く変色した木、枯れた川、燃えて骨組みだけ残った家々。赤みがかった地面に突き刺さる雑草。
わたしは煙草に火をつけ、大きく息を吸って、吐いた。
煙草の匂いより、朽ちたガラクタの甘い香りの方が鼻についた。
「ここでわたしが見つけられるものは、何にも残っていない――知ってたけどね」
「死人と同じ」彼は誰かに手を差し伸べるように腕を持ち上げた。
「そこにいたとしても、見ることはできない」
「失われたものほど美しく見えるんだね」
「昔ほど綺麗ではないだろうけど」
わたしたちは少しだけその空間を眺めたが、すぐに何の意味もないと気づいた。
「さあ、戻ろうかーー今度は汽車に乗るかい?」
わたしは頷いた。
「駅があればね」
意外にも駅は残っていたし、汽車はちゃんと止まった。
わたしは汽車が好きだ。心地良い揺れ、流れていく風景。どこにも辿り着かなければいい。ただずっと進んでいくだけ。
わたしは、目の前に座って窓の外を眺めている彼の名前を知らないことに気づいた。
「あんたは誰?」
彼はこちらを見たが、その視線はわたしを素通りしていた。
「君は?君は誰だ?」
「さあ、誰でもない」
「君が誰でもないとしたら、君にとって、俺は誰でもないよ」
「じゃあ、”誰でもない”がふたり、それで――」
「何にもしてないんだ、誰も、何もしなかった」
わたしはにっこりと笑ってみせ――わたしにできる表情なんてこんなものだ。
彼は逆に、顔をしかめた。
「そんなひどい顔を俺に向けないでくれ!」
わたしたちはガタンガタンと揺れる汽車の音を聴いていた。
この汽車はどの駅にも止まらないのかもしれない、とわたしは思った。
薄暗くなっていく風景を見ていると、今度は彼の方から話しかけてきた。
「初めて会った時、君は俺に、首を吊るつもりかと聞いたな。あれはなんだったんだ?」
わたしは彼の方を見ずに肩をすくめた。
「知らない──ただ、あんたが首を吊るんだって、ずっと昔から思ってたから」
「俺もだ」
わたしは思わず彼の方を向く……彼はわたしを真っ直ぐに見つめ、言った。
「長いこと、君が水死すると思っていた」
「どう思う?」
今度は彼が首をすくめた。
「分からない……でも、こんなことが続くなら、きっと窒息してしまう……」
都市に戻ると、わたしたちはお互いに別れを告げた。
それから彼がどうなったのかは知らない。首を吊ったのかもしれないし、まだどこかで生きているのかも。
どちらだって構わない。
わたしはまた、海を眺めていた。月明かりに照らされて、波がきらきらと輝いている。
遠くの方に船が見えた。汽笛も聞こえたような気がした……たぶん気のせいだ。
船に乗ろう、とわたしは思った。
あるいは、彼の見立ては正しいのかもしれない……わたしは溺れ死ぬのかもしれない。
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