最終話 俺たちの正義

時間とは無情なもので、俺たちが心の整理をすることなど待ってはくれない。

気がつけばもう翌朝になってしまった。

そういえば、昨日は考え込んでいるうちに寝落ちしてしまったようだ。

早い時間に寝てしまったので、時間には多少の余裕があった。

寝ぼけ眼を無理やり開き一階へ降りて行くと、そこにはいつもと変わらない光景が広がっている。

「はぁ〜あ、おはよー」

「あら、おはよう。すぐご飯作るから、顔洗って着替えてきなさい」

「わかった」

洗面所で顔を洗って鏡を覗くと、そこには右頬を腫らした不細工な自分が写っていた。

「…はぁ」

昨日の久礼田の鉄拳が効いたようだ。

あいつにはお詫びに今日昼飯を奢って貰う約束をしたが、正直それでも割に合っていない気がする。

マジで痛かったし。てか今も痛いし。

帰ったら親にひどく心配されたので、誤魔化すのにもまた一苦労であった。

それにしても、改めて本当にあいつは頭がおかしい。

しかし、それでも俺がいまやあいつに対して特別な感情を抱いてしまっているのだから、本当に憎めない奴である。

ひとしきり支度を済ませ、いつもより少し早めに玄関へ向かう。

「行ってきまーす」

「あ、義也。ちょっと」

「ん?」

「最近学校どう …大丈夫?」

母さんはいつもと同じ不安に満ちた顔をしている。

しかし、その日はなぜか、それがいつもより不快ではなかったのだ。

むしろ、逆に母さんのことを心配してしまった。

もしかしたら、そのくらい俺の心に余裕ができたのかもしれない。

「あぁ、大丈夫だよ。ありがとう」

母さんは少し驚いた表情を見せ、普段の落ち着いた顔つきに戻った。

「…あぁ。変わったね、なんか」

「変わった? 戻っただけじゃねぇの? ちょっと自覚あるし」

「うーん、いや、やっぱり変わったよ。戻ったのもあるかもしれないけど、それでも変わった」

「そうかぁ? 自分のことなんかあんまりわかんねぇよ」

「前はさ、なんか隠し事してる感じがしたのよ。いや、隠し事って感じじゃないかな。何というか、無理してた感じ。学校へ行く時になると、いつもそんな顔になってた」

………驚いた。

別に意図してそうしていたわけでもないし、もしかしたら裏目に出ていたのかもしれない。

「…そっか。でも、そうかもしれないな」

「そうでしょ? 母さんも、ずっと気を使わせちゃってごめんね」

「いいよ、そういうの気にすんなよ。俺たち、もう二人しかいないしな」

「………そうね」

「そうだよ。じゃあ行くから」

「はい。いってらっしゃい」

いつものように俺の愛機にまたがり、そこを後にする。

悠々と行く通学路は、なんだか少しいつもと別の道に見えた。

こんなところにベンチがあったのか…。

俺は本当に、これまでいっぱいいっぱいだったのかもしれない。

思えば、母さんが俺を笑顔で送り出す光景を久しぶりに見た気がする。

本当に、なんでも言葉にしないとわからないものだ。

けど、言葉は万能じゃない。

最近そんな気がしてならないのだ。

人間は、世界は、言葉だけじゃできていない。

それじゃ説明がつかないことがありすぎる。

それはとても大変で面倒なことなのだが、それも悪くないのかもしれない。

昨日考えていたことといえば、専ら黒田のことであった。

考えてわかったのだが、今回の場合、もう考えないほうがいいのかもしれない。

俺はそもそもそういうことは向いていないようだ。

あらゆる可能性が浮かんできて、それに尻込みしてしまう。

だから、それを一度やめてみようと思う。

考えた結果、見切り発車というのは辻褄が合っていないかもしれないが。

いつもと違うのは、後悔する覚悟ができていることくらいか。

学校へ到着し、教室へ入るや否やクラスを見渡す。

「まだ来てないか…」

思えば最近、教室に入って最初にこれを確認することが多くなっている気がする。

会いたいと思っているのだろうか。

我ながら、少女漫画の主人公のような思考回路だ。

少し恥ずかしくなり、自分の席へ直行する。

しばらく暇を潰していると、目標が戦場に足を踏み入れた。

俺はすぐさま目標に接近する。

「よ、よう」

「あぁ、おはよう」

「あのさ…今日一緒に帰ろうぜ」

「え…嫌だけど」

「………嫌なの?」

「うん」

「そっか…」

「………」

「そういえばさ、昨日の特番見た?」

「いや、どんなメンタルしてんのよ…。冗談だって。いいよ、わかったから涙目やめて。私が泣かせたみたいじゃん」

「いや、お前が泣かせたんだろ…」

「てかあんた、チャリじゃないの? 私電車なんだけど」

「………はぁ」

「あんたバカじゃないの?」

「もういいわ、チャリ学校に置いてくわ」

「どんだけ一緒に帰りたいのよ。別の日じゃダメなの?」

「…いや、それはダメだ。今日で頼む」

彼女は驚いた表情を浮かべた。

「そ、まぁいいよ」

「サンキュー。じゃ、先帰るなよ。絶対だぞ。帰ったら泣くからな」

「どんな脅しよ。わかってるわよ…」




電車で帰るのは入学式以来であろうか。

通い慣れない通学路は、どこか新鮮に感じられた。

普段と同じ雰囲気。やはりこれは居心地が良い。

趣味がとても被っているわけではないのだが、なぜか会話が弾むのだ。

電車の揺れや、周りの雑音すらも心地よく感じる。

「そういえばさ、私中学三年の時、劇で魔女役やったんだけどさぁ」

「あぁ、見た見た。お前役にハマりすぎだったぞ。あれ以来、一層お前が怖くなったんだよなぁ」

「は?なんで知ってんのよ」

「いや、同じ中学だからだよ…」

「………嘘でしょ」

彼女は恐ろしげな表情でこちらを見ていた。

ちょっとひどくない?

こっちだけ覚えてるのが二割り増しで悔しい。

「やっぱ覚えてなかったのかよ…。ちなみに小学校も一緒だぞ。てか家の近さで気づけよ」

「いや、あんたの家なんて知らないし、どんだけ空気薄いのよ」

「時代が俺に追いついてなかっただけだ。不可抗力だ」

「頭おかしいんじゃないの?…そっか、もっと早く気づいてればよかったな…でも、それじゃあ逆にダメだったか」

「なんだそれ。まぁ俺も、お前とは一生縁なんか無いだろうと思ってたよ」

「なんでちょっと上からなのよ、気持ち悪い。じゃ、私ここで降りるから」

「じゃあ俺もここで降りるわ」

「………怖いんだけど」

「なんでだよ…。一つ先の駅の方が家から近いけど、ここだってあんま変わんねぇんだよ。…嫌か?」

「…はぁ、いいんじゃない。私が決めることじゃないし」

「そうか」




先ほどとは打って変わって、これまで何度も通ってきた道を、いつもとは違う状況で通り過ぎてゆく。

「そういえば、その頬どうしたの?」

彼女がもっともな疑問をぶつける。

「あぁ、これは名誉の負傷だ」

「なによそれ、別にいいけど」

「それよりさ、お前親とはどうだ?前なんか言ってたろ」

「どうだろ。私もよくわかんない」

「…わかんねぇのかよ」

「あ。でも、今日学校行く前に、なんか言われた」

「なんかって、何だよ」

「なんか謝ってきた。「今までは無理させてたんだね」とか言ってたな。こう考えるのは都合がいいかもしれないけど、お母さんも元はただの気が弱い人だから、罪悪感感じてんじゃない? 結構不器用で頭ごなしだし」

「…へぇ、そういえば、俺も似たようなこと言われたよ」

「変わったのかねぇ。私たち」

「少なくともお前はな」

「そうね。それに、思えば私だってあの状況を進んで受け入れてたのかもしれない。正直前よりは楽だったんだよね。責任なんて一箇所にある方が少ないけど、そう思ってた方が良かったのかも」

「………なぁ」

「なによ」

「俺、お前のこと好きだわ」

「…はぁ?」

彼女は少し動転した様子だった。

「遅くなってごめん」

「…冗談でしょ。あんたは私のこと好きになりそうにないと思ってたんだけど。あんた、私みたいなの嫌いでしょ。わかってるわよ。それに…」

彼女は途端に煙に巻こうとした。

それはまるで、自分に言い聞かせているようだ。

…そうか。

彼女が欲しいのは、言葉じゃない。

多分、証明なのだ。

なぜなら、俺だってそうだったから。

これは防衛本能のようなものなのだ。

俺たちはやはり、似た者同士なのかもしれない。

ならば、俺がやることは決まっている。

俺は少し無理をして、彼女を強く抱き寄せた。

そして唇を重ね………。

「え、えぇ…」

こいつ、間に手挟みやがった。

俺の一世一代の英断を、なにしてくれちゃってんすか…。

「な、なんかごめん…」

「いや、こっちこそ…無理矢理すいませんでした」

しかし、彼女は呆れたような、安心したような表情でこちらを覗いた。

「けど、わかったわ。ありがとう」

「そうかよ。てか、お前はどうなんだよ」

「どうって、何が?」

「…お前はその、どうなの?」

「………あぁ、私もよ」

「…よかったぁ〜」

「情けな…」

「バカ言えお前、マジで緊張したんだぞ! ずっと吐きそうだったんだからな」

「じゃあ、私の口の中に吐瀉物が注がれてた可能性もあるわけね」

「………」

俺たちはまた足を進める。

「で、どーする?」

彼女が急に俺に抽象的な質問を投げかけた。

「どういう意味だよ」

「私たち、晴れて付き合うことになったんでしょ?」

「あぁ、そうだな…じゃ、どっかいくか。今度の日曜」

「いいね、どこいく?」

「うーん、じゃあ寺とか行くか? 俺全然知らんけど、好きなんだろ?」

「いや、全然好きじゃないけど」

「はぁ? いやお前、前に言ってたじゃん」

「あぁ、あれは嘘よ」

「じょ、冗談だろ………」

「ギャップ萌えってやつ? 勉強するのクソめんどかったんだからね、ホント」

「まじかよ…なんなんだお前ほんと…」

彼女はいかにも意地悪な笑顔を浮かべる。

「あれ、キュンとした?」

「っ…! し、してねぇよ」

「ホント童貞ね。チョロすぎ」

「お前さ、口悪すぎだろ。俺の涙腺が過労死しちゃうよ?」

「知らないわよ…てかさ、それやめてくれない?」

「なんだよそれって」

「その、「お前」ってやつ。それ、私の名前じゃないんだけど」

「………美」

「聞こえないんだけど」

「………ううううるせぇな! そんな恥ずかしいことできるわけねぇだろ! 下の名前で呼ぶのなんかなぁ、慣れてねぇんだよ! 恥ずかしいだろうが! 恥ずかしい!」

「まじで情けなすぎっしょ…まぁいいわ。慣れてからでいいよ」

「そうしてくれ。というか、俺に命令するならお前も呼べよ」

「いや、私は前から名前で呼んでたんだけど」

「いや違うから、それと今とじゃ気恥ずかしさが段違いだから」

「うーん、あんたがそうなったらご褒美としてそうしてあげるわよ」

「がぁぁぁあうっぜぇぇぇ!」

「いやキモいって、静かに」


これが正しい選択だったのか、俺たちにはわからない。

多分誰だってそうなのだろう。

それは仕方がない。

そもそも正しい選択なんてものは無いのかもしれない。

では、正しさなんてものはあるのだろうか。

それは多分、本来客観的なものではないのだろう。

誰の中にでもあって、それは一つ一つ違う。

ならば俺たちは、それを疑い、迷い、それでいて信じ続けるしかないのだ。

そうやって、それを頼りにして、目印も何もない荒野をただ進み続けるしかない。

しかし今は、周りを見渡せば何人か人影が見える。

それぞれ歩幅も道も違うのだが、それでも確実にそこにいるのだ。

ならば進もう。それが多分正義だ。

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