第15話 能登由紀の過去 7

「はぁ…めんどくさ…」

私は授業中の静寂に包まれた廊下を一人歩いていた。

我が校では、この季節の体育の時間に数回マラソンが実施される。

それに際し、最初に各々が毎回の記録を記入するシートを配布されるのだが、私はそれを教室に忘れてしまった。

前回までなら別に帰ってから記入すれば問題はないのだが、今日で今学期分の体育の授業が終わってしまうので、今回はそれを提出しなければならないのだ。

後から先生の元に持っていっても良かったが、体育の先生は女子バスケ部の顧問なので、放課後は体育館にいるはずなのだが、流石にそこへは入っていきづらい。

たまたま時間もあったので、今教室へ取りに向かっているというわけだ。

しかし本当に静かだな…。

いつもと同じ道であるはずなのに、なんだか別世界に迷い込んでしまったようだ。

この世界には私しかいないのではないか、そんな風に感じてしまう。

そんなことを考えていると、気がつけばもう教室は間近であった。

近づいてゆくと、中から微かに人が話している声が聞こえる。

「…ねぇ大丈夫なの?」

「大丈夫だって、バレるわけないじゃん」

何を話しているのだろうか。

鉢合わせてしまうと少し気まずいので、中の様子をこっそり覗いてみた。

するとそこには私も知っている顔があった。

黒田さんとその友達だ。

何やら山田さんの机の周りで何かしているようだ。

不穏な気配を感じ、私はそのまま身を潜めていた。

観察していると、黒田さんが急に山田さんの机を物色し始めた。

「ねぇホントやばいってぇ。」

「あんたビビり過ぎ。てかこいつが調子乗ってるから悪いんじゃん?痛い目見る前にうちが分からせてやってんだから逆に感謝しろって感じっしょ」

「いや由美性格悪すぎw」

彼女は教科書を抜き取り、したり顔で周りの子たちと目を合わせた。

「これでよし、と。じゃあこれ、どーする?」

「いやなんも考えてないのかよwどっかにしまっとけばいいんじゃん?」

「それじゃ誰かが見つけた時にめんどいじゃん。トイレのゴミ箱にでもぶち込んどけばいいっしょ」

「だねー。じゃいこっか」

彼女たちは私の存在に気づくことなく教室を後にした。

本当に緊張した。見つかったらどうなっていたであろうか。

しかし、どうやら私は見てはいけないものを見てしまったようだ。

私は今からどうすればいい?

彼女に直接言うか?

いや、そんなことを言ったとして何かが変わるとは思えない。

何より、そんな残酷なことをするのは流石に気が引ける。

じゃあ、先生に相談してみるか?

しかし、そうしたら恐らくこの事案は大事になるだろう。

彼女はそれを望むだろうか?

私ならそんな公開処刑のようなことは望まない。

では私は本当にどうすればいいのだろうか。

そもそも、私にできることなどないのではないか?

そういうことだって往々にしてあるばすだ。

人間一人の力など高が知れている。

しかもこの私の、である。そんなものは雀の涙程度であろう。

本当はどうにかしたい。

でも仕方がないのだ。

私が悪いわけではない。

そもそもこの罪悪感を私が引き受けること自体がおかしな話なのだ。

今回は運が悪かっただけ。

しかし、最後の最後についていないなぁ…。

何も知らなければどれほど楽だっただろうか。

私はモヤモヤとした気持ちをはぐらかしながら、運動場へと踵を返した。


私が戻るや否や、一人の少女が駆け寄ってきた。

「能登さん、シート見つかった?」

「…うん、家に忘れてなくてよかったよ。山田さんはタイムどうだった?」

「全然ダメだよ〜。いつもは能登さんと一緒に後ろの方で走ってるから気が楽だけど、今日は一人で寂しかったよぉ」

「ははは、ごめんね…」

本当に嫌だ。

こんな時でも笑顔が作れてしまう自分が、とても嫌になる。

しかし、本当に仕方がないのだ。

そう、仕方がない、私は何も悪くない…。


体育が終了し、私たちは教室に再び戻ってきた。

「能登さん、今日部活休みだよね?学校終わったら遊びに行かない?」

「いいね、いこっか」

「よかったぁ!一緒に出かけれるの久しぶりだね。わたし、この前面白そうな映画見つけだんだけど…なんて名前だったかな。ちょっと調べるね」

彼女の笑顔が痛い。

全身を針で刺されているようだ。

本当は今は彼女と一緒に居たくない。

罪悪感で押しつぶされそうになるからだ。

しかし、私は行かないという選択肢を持ち合わせていなかった。

寧ろ行かなければ、そんな義務感すら感じてしまう。

これは懺悔のつもりか?

そうであれば本当に気持ちが悪い。

自己満足に彼女をつき合わせてしまっている。

彼女がその映画を調べていると、途中でチャイムが鳴ってしまった。

「あ、また後でね」「うん」

彼女は携帯を懐にしまい、とぼとぼと自分の席へ戻ってゆく。

これ以上、何も起こりませんように。

そんな私の切なる願いは、天に届く寸前で落ちた気がした。


六時間目は公民であった。

初めは不安目もあったが、無事に授業が終わりそうだ。

私は肩を撫で下ろして、緊張しっぱなしだった糸を弛緩させた。

「えーじゃあ次の部分、山田、読んでくれるか?」

瞬間、えもいえぬ不安がよぎった。

「…すいません、忘れました…」

山田さんは弱々しく呟いた。

不安は的中したようだ。

しきりに黒田さんたちがお互いを見合ってクスクス笑い始める。

やはりそうだ。

こうなることはなんとなく予想できていた。

私が気づかないふりをしていただけだ。

気づきたくなんてなかったのだ。

「山田、昨日の日本史でも教科書忘れてただろ、あとで俺んとここい」

先生はそう釘を刺した。

これだって彼女らの仕業なのだろう。

これに気づいているのは多分私だけだ。

何も知りたくない。全部忘れたい。

なんで私がこんな気持ちにならなければいけないのか。

全部彼女らが悪いのだ。

彼女らは災いを振りまく邪悪の権化だ。

「………どうした山田?」

先生が困惑している。

山田さんの目からは、涙が溢れて出していた。

………私は何をやっているのだろう。

もう見ていられない。

こんな世界も、自分も。

私は分かっているはずだ。

誰が悪いとかじゃない。

そんなものは関係ない。

自分がどう感じるか、どうしたいか、なのだ。

その責任を他人に求めてはならない。

そしてもう一つ、この状況において最も有効な方法を、私はもう分かってしまっている。

それは本人や先生に相談すると言った、そんな間接的な手段ではない。

そもそもそんな遠回りなどする必要がないのだ。

ではなんでそんなことしか浮かばなかったのか。

そんなことしか浮かばないようにしていたのか。

明白だ。逃げていただけだ。

向き合っていなかった。

向き合う気すらなかった。

逃げ道は無数にあったのだ。

私がただそれに縋ってしまっただけのことだ。

逃げたって誰も咎めない。

そうする可能性があるのは、自分だけだ。

怖い。理不尽だ。私は悪くない。なんで私が。仕方がない。

それらは以前までは容易に私を負かしていたはずだった。

私をすぐに楽にしてくれていたはずだったのだ。

しかし、もっと強大なものが私の中に巣食うようになってしまっている。

これは呪いだ。

二条君は芯だと言ったが、私のような人間にとってはそんないいものでは決してない。

一生苛まれるのだろう。彼の言った通りだ。

彼は寧ろ清々しそうにすらしていたが、私はやはりそこまで割り切れない。

しかし、これは同時に繋がりなのだ。

これは、私と彼の間に残された唯一の繋がり。

ならばそれを消してしまうわけにはいかない。

自ずから踏みにじるわけにはいかないのだ。

灯し続けなければいけない。私がそうしたいのだ。

以前は大層な御託を並べていたが、決別なんて結局全然できていないではないか。

未練タラタラ、正直自分でも引くレベルだ。

だけど、悪くない。

私はそのぬくもりを確かめるように、恐怖も不安も、全部抱えて立ち上がった。

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