第12話 能登由紀の過去 4

あれから数日が経過し、再び私たちに話し合いの機が催された。

とても不安で怖かった。

私たちが今後どうなってしまうかなんて、いくら考えても全然わからなかった。

けれど、その怖さと不安も、全部まとめて向き合うと決めたのだ。

わからないのはひどく怖いことだけど、それでも向き合うしか無いのだ。

そうやって、ぶつかるしか多分方法はない。

それが始まった直後、母はおもむろに離婚届を突き出した。

「離婚してください」

「はぁ!?そこまでかよ!」

父は目に見えて狼狽していた。

「ふざけないで!誰のせいだと思ってるのよ!ほんとはもう顔だって見たくないわよ!今だって、汚らわしくて近寄りたくもないの!これ以上…」

「お母さん!」

その場の空気が静止した。

私たちはもっと、その事実に、お互いに、本音で向き合わなければいけない。

「だめだよ、ちゃんと考えないと…」

「……考えろって…」

私は必死に言葉を紡いだ。

「…お母さんの気持ち、わかるよ。痛いほどにわかる。きっと、何も信じられなくて、不安で怖くて、仕方ないんだよね。私だって同じ。でも、感情に任せたらダメだよ。感情は素直だけど、コントロールが効かないもん。今回みたいなのに関しては特にそう。だから、ちゃんと考えないとダメなんだよ。考えて考えて、衝突して擦り合わせて、そうやって出した答えじゃないと、私たちは多分それを後悔する。それじゃあもう…遅いんだよ」

母は驚いたような表情をして私を見ていた。

「………由紀はすごいね…」

「そんなことないよ。これは受け売りだもん。けど、そうすることを選んだのは紛れもなく私だよ。だからこれが、今の私の答え」

「…そっか…ありがとう。でも、由紀には本当に申し訳ないんだけど、私は多分もうこのままではいられない。今だって、おかしくなりそうなの。でも、私も前に進みたい。慰謝料はとかはもういい。だから、お父さん、お願いします。私に新しい人生を歩ませてください」

母は深く頭を下げた。

その目には涙が滴っていた。

母は良くも悪くも盲目的な性格であり、父に裏切られた気がして酷く傷ついたのだろう。

高校までずっと女子校で、卒業してすぐに父と結婚した母からしたら、父は自分の全てであり、それが無いことなど考えられなかったのだ。

しかし、それでも前に進もうとしている。

離婚はそんなに軽いものじゃない。母も一人で、色々抱え込んで、悩んだのだろう。

それは多分、本質的には今の私と一緒だ。

「そうか…わかった。なんでこんなことになっちゃったんだろうな…。今までありがとう。本当に…申し訳ない…」

父も同時に深く頭を下げた。

私たちが知らないところで何をしていたって、きっと父が私たちを愛していたことに変わりはないのだろう。

その自分を呪うようで、いかにも遣る瀬が無さが滲み出ているような表情を見れば、それはすぐに分かった。

「…ありがとう。それで由紀、あなたの問題なんだけど…」

「うん。分かってる。私、お母さんについていくよ」

「……そうか。そうだよな…」

「…お父さん、そうじゃないの。二人がどうなったって、私にとってはお父さんもお母さんも、ずっと変わらない。けど、今のお母さんが一人ぼっちになったら、多分潰れちゃうでしょ?それはダメだよ。そんなのはいけない。だって私たちは家族だもん。それは絶対に変わらないよ」

「…由紀。わかった。俺のせいで本当に申し訳ないんだが、お母さんを頼む。今そうしてやれるのは、多分お前だけだよ。それで…本当におこがましいんだが…今後も俺と会ってくれないか?」

「当たり前だよ。ありがとう。私の意見をちゃんと尊重してくれて」

「………俺たちはお前の親なのに、もう助けられてばっかりだ…ダメだな、こんなんじゃ…」

「………本当にね…」

そこから先は滞りなく話し合いが進んだ。

改めて、私は母についていくことが決まった。

後に知ったことだが、その後しばらくして、父はその不倫相手と結婚したらしい。

向こう見ずな父のことだ。同じようにその人のことも愛していたのだろう。

諸々の手続きの算段も決まり、各々が新しい生活の準備へ取り掛かった。

父と別れた後、母は私に申し訳なさそうに呟いた。

「由紀、お疲れ様。本当にありがとうね。それと、私から一つお願いがあるんだけど…」

「別にいいよ。二人が決めたことだもん。それでどうしたの?」

「私の我儘なんだけど、苗字を私と同じにして欲しいの」

「え?私も勝手にお母さんの旧姓になるんじゃないの?」

「そうじゃないの。家庭裁判所で申請しなきゃいけないのよ。色々言われるかもしれないし、別に嫌なら全然いいの」

「えぇ〜、面倒だなぁ…でもいいよ。付き合ってあげる。私はお母さんの娘だからね。えーと、確かお母さんの旧姓は…能登だっけ?能登由紀って、なんか違和感あるなぁ」

「別に嫌ならいいのよ!私は…」

「だからいいって!これ以上の我儘なんて、あってないようなものだよ。というか、なんでそうしたいの?」

「…私、新しい人生を歩みたい。でもそれは、一人でじゃないの。私は由紀と、あなたと一緒にそうしたい。私が困ったときは助けてほしいし、由紀が困ったときは助けてあげたい。あんまり意味ないかもしれないけど…どう?」

母は照れ臭そうにそう言った。

なんだか、心がとても熱くなった気がした。

「そっか…そういうことなら任せてよ!」

「…ありがとう。私も由紀を見習わなきゃね」

離婚の手続きは何ヶ月かかかるらしく、私が苗字を変えるのはその後で決まった。

怖かったけど、苦しかったけど、今なら思う。

その結果がどうであっても、向き合ったのならそれには絶対に意味がある。

そうしないと、わかり得ないことがあるんだ。

どうやら私は、また彼に助けられてしまったみたいだ。

私はもっと彼に近づきたい。気づけばそう思うようになっている。

これは恋なのかもしれない。

でも本当はわからない。こんな気持ちは初めてだから。

人を好きになったことがないわけではない。

けどこれは今までのどれとも違うのだ。

彼に会うのが今から楽しみだ。彼のことをもっと知りたい。

私はそう、今までで一番、強く思った。


文化祭が終わった。

私たちはあれ以後も、つつがなく役目を全うすることができた。

というか、二条君が率先して仕切ってくれたこともあり、私は正直あれからそれほどのことをしていなかった。

なんだか申し訳なかったが、ここは信頼して任せることにした。

あまり空気が良くないときも、先生がうまくやってくれていたみたいだ。

そして私たちは、最後の仕事である備品の確認を終えて、晴れて今しがたその重役から解放されたというわけだ。

「はぁ〜疲れだぁ〜」

「そうだねー。任せっきりでほんとごめんね?」

「いいんだよそれは。てかそんなに俺ばっかりがやってたわけでもねぇだろ。そもそも高校とかと比べて、そんなに大変なもんじゃねぇしな」

私がこういうことを言うと、彼はいつもこんな感じでフォローする。

正直ちょっと露骨なのだが、彼も不器用なりに気を使ってくれているのだろう。

なんだか、最近ちょっと彼のことがわかってきたかもしれない。

彼の行動は、不可思議なようで案外読みやすい気がするのだ。

「じゃ、帰ろうか」「そうだな」

思えばこの感じは、少し久しぶりな気がする。

またこの不思議な感じだ。

「それより面白かったね、二条君の木。ライオン役の吉田君のことずっと睨んでたでしょ。あんな態度の悪い木は初めて見たよ」

「そりゃそうだろ。あんな畜生はいつでも圧死させてやれたんだけどな。俺に命を握られてるとも知らずに、アホ面晒してイキリ散らしやがって…」

「そんな物騒な木は嫌だよ…もっといいとことかないの?」

「ねぇな。俺あいつ嫌いだし。俺が必死に仕切ってる時も、露骨に文句ばっかり言いやがって。あいつにはブリキの役がよかったんじゃねぇの?良心ねぇから適任だろ」

「ブリキは最終的に心があったじゃん。というか、人の心なんてわからないんじゃなかったの?」

「そんなのしらねぇよ。あんな奴は適用外だ。少年法が適用されてる今の内に、あいつのことどうにかしておいた方がいいかもな」

「それってどう言う意味よ…なんか尊敬した私が馬鹿みたいだよ」

「だから、俺はそもそも尊敬なんてされるような奴じゃねぇって。そうだ、中川さんは打ち上げ行くのか?」

「え?ま…まさか、二条君行くの?」

私は驚いて、ポカンとしてしまった。

「その反応失礼だろ。まぁ俺は行かねーけど」

「いやそれ参加する人が聞くやつだよ…。どーしよっかな。なんか疲れたし、もういいかも」

「友達付き合いとかあるなら、行っといたほうがいいんじゃね?俺はないから行かない」

「もうそれお家芸じゃん…。意外にみんな、打算なしで動いてたりするものだよ?」

「そうなのかぁ?吉田とかはそう思えないけどな…」

なんかまどろっこしいな…。

「そうかな…それってさ、二条君が言ってた、そう思っていたほうが楽、ってやつなんじゃないの?」

「………それよりさぁ!二組の黒田の魔女役、似合いすぎててビックリしたよな!」

「流すの下手すぎでしょ…私だって今二条君といるのは、打算じゃないよ?」

「…そうか。そうだな。まだまだだな俺も。もっと戒めなきゃ」

「信徒みたいなこと言わないでよ…。そんな重く捉えなくていいじゃん。考えすぎなのも疲れるでしょ?たまには気を抜かないと」

「…あぁ、そうするよ。……あのさ…」

「え? 何?」

「…あのことの続きとか、聞いていいか?言いたくなければいいんだけど」

そうだった。彼にはあれ以来何も言っていないのだった。

「あぁ、いいよ。気になるだろうし。君ならいいや。なんか離婚するってさ。お母さんがそうしたいって」

「…そっか。なんというか…あんまり落ち込んでないな」

「落ち込んだよ…嫌になるくらい落ち込んだ…でも、それでも頑張れたのは…二条君のおかげなんだよ?」

「…まぁ、期待に応えれたようで良かったよ、じゃあ俺ここで曲がるから」

「あ…二条君っ! あのっ…!」

「? なんだよ…」

言いかけてしまった。

けど、中途半端なところで思考が追いついてしまった。

或いは、このまま追いつかなかったほうがよかったのかもしれない。

何を言おうとしたのか、そんなことはもうわかっている。

もうここで言ってしまおうか。

けど、やっぱり怖いな…。

今の関係がなくなってしまうのが、とても怖い。

人間はやっぱり簡単には変われないものだ。

私はもともとこういう感じだったことを今になって思い出した。

本当に必死だったのだ。必死で彼を追いかけていた。

手が届きそうで、でも遠くにいて、なんだか星みたいだ。

そもそも、別に何でもかんでも早いほうがいいってわけじゃないんじゃないか。

ゆっくり育てていけばいいのではないか。

たまに喋るようになって、だんだん仲良くなって、ふとした拍子に心が通って。

そういう普通でいい。そういう普通だけで、どうしようもなく私は幸せだ。

「…なんでもない。じゃあね。また明日」

「お、おう…じゃあな」

だからまだ、この心は秘めておこう。大切に、壊れないように。

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