第11話 能登由紀の過去 3
私は母の言葉をすぐには理解できなかった。
「え…なんで…?」
私が空の返事をすると、いつも温厚な母が突如ヒステリックに憤った。
「この人が!この人が会社で尻軽女と浮気してたのよ!」
「おい!由紀の前だぞ!」
「なによ!元はと言えばあなたのせいじゃない!全部あなたが悪いのよ!あなたのせいであなたのせいであなたのせいで…」
「おい公子!いい加減にしろ!」
「綺麗事言ってんじゃないわよ!汚らわしい体で近寄りやがって!ふざけるなふざけるなふざけるなぁ!!!」
「やめてよ…もう…やめて……」
父と母の動きが止まった。
二人の視線が私に向いていた。
涙が頬を伝った。そして初めて自分が泣いていることに気がついた。
いつもと明らかに様相の異なる母。
明確に否定することもなく、ただ母をなだめている父。
その二つの光景を前にして、私の思考は完全におかしくなってしまっていた。
「ねぇ…お父さん…間違いなんでしょ?浮気なんかしてないよね…?そんなこと…するはずないよね…?」
そうだと言って欲しかった。
そうしてくれなければ、本当におかしくなってしまいそうだった。
私を見た父は酷く狼狽したが、そのままバツが悪そうに下を向いてただ呟いた。
「…すまん……」
「ほら!全部こいつのせいじゃない!気持ち悪いんだよこのクソジジィが!お前なんか死ね!お前なんか…」
「もうやめてよ!」
再び空気が固まった。
そして、二人はいかにもきまりが悪そうにしてそこに座ってしまった。
「由紀…ごめんね…」
お母さんが弱々しく、とても弱々しく呟いた。
けれど、私にそれに答える気力などは残されていなかった。
「……もう寝るよ…ごめんね…」
自分の部屋に戻った私は、一刻も早く現実から逃げるように眠りに落ちた。
あれから私は十二時間ほど眠ってしまった。
正直、こんなに寝たのは生まれて初めてかもしれない。
リビングへ降りると、父の姿はなかった。
家中を探したが、どこにもいなかったのだ。
多少落ち着いたので、私は母に少しだけ昨日の話の続きを書いた。
父の浮気相手からの着信に母が出てしまったこと。
その浮気相手も父が妻子持ちであると知らされていなかったらしい。
そして、母はこのままの生活を続ける意志がないこと。
これらを話している間、母は終始父のことを「あいつ」と呼んでいた。
私はそれが無性に切なくて仕方がなかった。
とりあえず詳しい話はまた後日ということになり、とりあえず今日は学校へ行くことにした。
母は今日は休んでいい、と言っていたが、家にいる方が私にとっては拷問だった。
食事は喉を通らなかった。
母はこんな日でも弁当を作ってくれていたが、それが喉を通るとは到底思えなかった。
私は逃げるように学校へ向かった。
「なぁ…中川さん?」
「………」
「おーい!中川さーん?!」
「ひゃっ!あ…ご…ごめん…」
「どうしたんだよ…さっきからずっとそんな感じだけど…」
二条君は不審そうな顔で私を覗いた。
私たちは以前と同様、また放課後の教室で実行委員の業務に勤しんでいた。
今日は台本を元に、それぞれの役の具体的なセリフ分けを構成している。
しかし私はそれに集中できるはずもなく、今日一日中ずっと何もかも上の空だった。
正直気が参ってしまっていた。
突然すぎて、大きすぎて、一人で抱え込んでいることなどできなかった。
そうだ…二条君なら何とかしてくれるかも…。
思えば、私は誰かにこれを受け止めて欲しかったのかもしれない。
そして何より、彼なら、二条君なら、そうしてくれると思ったのだ。
「あの…さ。ちょっと重い話していいかな…」
「お…おう…いいけど…」
私は縋るように、祈るように彼にその黒いものを放出した。
「うちの親…離婚するんだって」
「…は?」
「…昨日言われたんだ。お父さんが会社でお母さんじゃない人と付き合ってたんだって。お母さんもすごく怒ってた」
「…まぁそうだろうな」
「私、びっくりしたんだ。あんなお母さん見た事なかった。お父さんだってそう。昨日まで全然普通だったのに…なんだよ」
「…ふ…ふーん…」
「そうしたらさ…何もわかんなくなったんだ。急にすごく不安になった。お母さんも、お父さんも、急によくわからない何かになったみたい。そしたら、これまで私が見てきたもの、今見ているものが、全部嘘みたいに思えてきたんだ。もう何を信じればいいかわからない。どうしよう…私怖いよ…。こんなの知らないよ…全然…わかんないよ…」
「………そうか」
私は無責任だ。
自分の悲劇にかこつけて、勝手に人を巻き込んで、縋って、本当に嫌になる。
でも…二条君なら…その答えを知ってるんじゃないか。
私の知らないことを知っていて、私のわからないことをわかっていそうな彼なら、私をこの暗闇から照らしてくれるんじゃないか。
「…ごめん…俺…どうすればいいかなんて…わかんねぇよ。」
「………。そっか。そうだよね。ごめんね!ありがとう聞いてくれて。少し気が楽になったよ。」
そりゃあそうだ。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気になって、私はなんて我儘なんだろう。
でも、じゃあ私はどうすればいい?
私はこれから何を信じて生きればいい?
私はこの暗闇から…どうやって抜け出せばいい?
「でも…さ…」
「え?」
私は不意に二条君の方を向いた。
「…自分以外の人が何を考えてるかなんて、元からわかんねぇんじゃねえの?」
「…そ…そうなのかな…」
彼はたどたどしく言葉を紡ぐ。
「…多分、いや、絶対そうだ。そんなことは不可能なんだよ。時々その一面が見えるだけで、その全貌は絶対にわからない。身近な人ほどわかったような気になれるが、その方が都合がいいんだと思う。だっていつも近くにいるんだ。そんな人間が言葉の裏で何を思ってるかなんて考えないし、考えたくない」
「………」
「あ…ごめん。俺喋りすぎか?」
「いいよ。続けて。お願いします」
「そ…そうか。じゃあ続けるな。」
私は強く頷いた。
「だから、多分俺たちは本来そういう中で生きてきたんだ。それはわからなくてもいい、むしろわからない方がいいことだ。だけど、それに気づいてしまったらもう仕方がない。中川さんはそれに一生付き合っていくしかないんだ。常にそういうノイズに苛まれないといけない」
「うん」
「けど俺たちにできることなんかは多分ほぼない。他人の心を操ることができればいいんだろうが、そんなことは理想論だ。現実的じゃないし、そんなのは悲しい」
「そうだね」
「だから俺たちは、たぶんその上で選ぶしかないんだ。そういうことを諸々考慮して、迷って、確かめて、でも選ぶんだよ。揺るがないなんてのは難しいことだけど、それはそうやっていくうちに生まれるのかもしれない。それが多分、芯ってやつなんだろう。それはいってみれば、指針なんだと思う。けど、それは一朝一夕でできるものじゃない」
「…芯?」
「実はさ…俺の父さんはもう死んでんだ。けどあいつが生前ずっと言ってたことがある。自分の中に正義を持て、だってさ。バカだよな。お前何歳なんだよって話。アンパンマンじゃねぇんだから」
「…うん」
「…それでもさ。最近思うんだよな。あいつのいう正義ってのは、芯なんじゃないかって。あいつが唯一俺たちに残した教訓めいたものなのかもしれない。まぁ俺が考えついたわけじゃないから、あんまり意味ないかも知れないけどな。けど、それはなんでもいいんだと思う。いや、なんでもは流石に言い過ぎか…」
「………」
「流されていたって別にいいんだけどな。けど、多分それじゃあ大事な時に選べない。今の中川さんもそうなんじゃないか?選ぶってほど大それたことではないかも知れないけど、多分わからないってことはそういうことなんだろう」
「…うん」
「…だからさ!俺が言いたいのは、うーん…なんというか…まずは向き合うことなんじゃないか?その事実に」
「…向き合う?」
「逃げるな、なんて無責任なことは言えない。多分どうしようもなければ逃げたっていいと思う。それを選んだことに意味があるはずだ。そもそも、自分が変わったって意味なかったり、自分は別に悪くないことだって往往にしてあるしな。けど…それだってまずは眼前にあるその事実と向き合ってからなんじゃないか?」
「…うん」
「何を選べばいいかなんて、本人にしかわからない。けど、多分そうしているうちに、芯はなんとなく出来ていくんだと思う。まぁ俺の場合はそれが枷になって、こんな感じになっちゃってるから説得力なんてないけどな…てか俺、なんかめちゃくちゃ言ってんな…。ごめん忘れてくれ。ただの世迷い言だ」
「………忘れないよ」
「え?」
「忘れられないよ。忘れられるわけない。二条君は本当にすごいよ。私、驚いちゃった。」
「そ、そうかぁ?そんなこと全然ないだろ。一人語りしまくって、キモいったらねぇよな。以上、陰キャラの戯言でした。」
「………」
「…え?どうした?黙るほどキモかった?」
「いや、私今気づいた。二条君のそれは、多分勲章なんだよ。私しか知らない、君の勲章だ」
「勲章かぁ。そんな大それたもんじゃねぇけどな。まぁ好意的に受け取ってもらったんなら、そういうことにしとくか」
「うん。そういうことにしておいて」
「でも、それで言ったら俺の妹の方がすげぇぞ。正義オタクのDNAがバリバリ引き継がれててよ。あいつ小学生だけど、俺怒られてばっかなんだよな。曲がったことは許せないってやつ?俺とは別の方向に迷走してんだ」
「二条君の妹かあ。いつか見てみたいなぁ」
「はぁ?そんなに大したもんじゃねえよ。全然俺と似てねぇしな」
「ふーん、じゃあ二条君は大したことあるの?」
「大したことあるだろ。卑屈さとか」
「アハハハ、そうだね…二条君?」
「え?何?」
「ありがとう」
「…!それやめろって言ってるだろ…」
「ごめんね…じゃあ続きやろっか」
「もう大丈夫なのか?」
「うん…大丈夫…って言ったら嘘になるけど…決めたよ…私向き合う。その後どうなるかわからないし、まだ怖いけど…それでも決めた」
「…そうか、まぁ俺もこれから委員頑張るよ。昨日は任せっきりでごめんな」
「いいよ。二条君頼りなかったしね」
「う、うるせぇな。俺はいつも裏方なんだよ。学校でも、人生でも」
「また出たよ…。それに繋げるゲームなの?………でも、今は頼れるよ。私はそう思う。」
「…まぁ期待に添えるように頑張るわ」
彼といる時間は本当に不思議だ。
思ったことがすんなり言えてしまうし、それどころか思ってもないことまで言ってしまいそうになる。
言葉が思考を追い越していく、そんな感じだ。
とはいえ、私は決めた。
怖いし辛い。それは変わらない。
でもその中で迷うと決めた。
向き合うと決めたのだ。
それもこれも、彼のおかげだ。
私はまた彼に救われた。
二条君はとても不思議な人だ。
他の人とは全然違う。
でも、とてもすごい、素敵な人だ。
それを多分、みんなは知らない。
私はそれに少し、優越感を感じた。
そうして、私はその気持ちを、大切にしたいと思いながら、再び作業に取り掛かった。
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