第2話 日常崩壊
5時間目が終わり、クラスの中は喧騒に包まれていた。
次の6時間目で今日の時間割は終わりなので、クラスの雰囲気は全体的に弛緩している。
なんでも、今日は市教研で久々に部活がないらしい。
撮り溜めておいたアニメを一気に消化できるいい機会なので、俺の心も浮き足立っていた。
鼻歌交じりに教材を片付けていると、元気よく下山が駆け寄ってきた。
それに続いて、関口と奥本も集まって、いつもの団欒である。
「あーダル。さっきの授業ずっと寝てたわー。」
「それな〜お前いびきかいてたぞ。」
「えっまじ?」「いや嘘」「なんだよそれ!マジ焦ったわ〜!」
いつもと同じ他愛のない会話が交わされる。
そうはいっても下山は声がでかすぎる。
大した情報もない文字列をよくもまぁそんな猛々しく豪語できるものだ。
カラスは鳴き声で縄張りを誇示すると言うが、こいつのこれもその類であろう。
これを無自覚でやっているのだから、本当に幸せな奴である。
そういえばこいつの陰部がカラス並に黒ずんでいたことを思い出した。
声の張り様といい、こいつはつくづく自分を慰めるのが好きな奴だと痛感する。
「そういえば今日さ、部活もねーし終わったらカラオケとか行かね?」
ぼーっとしていると、関口がとんでもないことをほざき出した。
油断も隙もないとはまさにこのようなことである。
「お!関口マジで冴えてるわーよっ天才!」
思わず吹き出しそうになるのを寸で堪えた。下山の中の天才というハードルの高さはノミの座高レベルであった。
思わぬ精神攻撃に面食らったが、平然を保って看過できない提案を穿つ。
「あーごめん今日用事あんだわ」
「えー義也無理系?ノリわりーわー」
ふざけるのも大概にしてほしいものである。俺が既に空いた時間とそれを一番有効に使う術を確保しているというのに、何故それを押しのけてまでお前の歌を聴かなければいかんのだ。
そもそも、俺は休みの日までお前らに提供してやるほどお人好しではない。
確かにたまにそのような会合に出席することはあるが、それは付き合いの為と割り切っている。
必要経費と思ってはいるが、つい最近一回同行したし、暫くは休戦である。
気色の悪い同調圧力に屈することなく、湧き上がる憤りを抑えた、。
「ごめん!また今度なー」
「了解、また声かけるわ!」
ふぅ、思わぬ障害を華麗にかわし一安心した所で、校内に予鈴が鳴り響いた。
まぁ問題はない、これが終われば宴までまさに秒読みである。帰りにコンビニで補充する宴の来賓を考えていると、中居がいつもの気だるげな様相で教室に入ってきた。
6限目は公民のようだ。もう一踏ん張り、がんばるぞい!
授業も終盤に差し掛かり、その頃俺は凶悪な睡魔と格闘していた。
中居の声は何と言っても眠気を誘う。
低い声、遅いスピード、偶に挟まれる雑学めいた閑話のそれぞれが、殺人的なハーモニーを奏でて俺たちの襲いかかってくるのだ。
いつもは睡魔に忠実な俺も、今は眠気と心踊りによる一時的なハイテンションに陥っており、宴に向けて精神を極限まで追い込むという、筋肉の超回復理論を応用した謎の試みを行っていた。
この拷問はいつまで続くのか。10秒が永遠のように長ぇ、、、だが、まだ翔べる、、、!
「えーじゃあ次の部分、山田、読んでくれるか?」
今当てられるとまずかったな、、、。
「、、、すいません、忘れました、、、」
「山田、昨日の日本史でも教科書忘れてただろ、あとで俺んとここい」
うわぁ、、、ご愁傷様としか言いようがない。とはいえ山田さんは学級委員で生真面目な印象がある女子だったのでこういうのは意外であった。
その時であった。黒田とその取り巻きがお互いを見合わせクスクスと笑い声を抑えているのを発見した。悪意がたらふく含有してある、絵に描いたような嘲笑であった。
こいつら終わってるなぁ、、、。小学生並みの振る舞いに酷く嫌悪感を覚えた。
まぁ俺には関係のないことなので傍観していると、山田の背中が震えだした。
は?なんだあいつ、泣いてんじゃん、、、。
確かに公衆の面前で恥をかいたのはわかるが、泣くほどのことか?
というか、教科書を忘れたなら誰かから借りればいいというものである。
彼女は友達が少ない方ではないはずなので、それは十分に可能であったはずだ。
考えてみると、彼女の行動は明らかに不自然であった。
「、、、どうした山田?」
中居も流石に違和感を感じているようで、授業は硬直していた。
しかしこの困惑の最中、依然として黒田とその取り巻き達は先ほどと同様、高みの見物と言わんばかりの嘲笑を続けていた。
流石に違和感を覚え、少し考えたが、俺はすぐに思い当たる節を発見できた。
そういえば先日、山田が市原に告白したという話を黒田が愚痴っていた気がする。
さしずめ彼女はそれに腹を立て、山田の教科書を隠し、授業中に晒し者にすることによって復讐を成していたのだろう。
山田は生真面目そうなので、忘れ物の確認を連続で怠るということは考えづらい。
実際彼女が忘れ物をする所など見たことがないし、それどころか友達に教科書を貸している姿さえよく目にするほどである。
直前に気づいたのであれば借りる時間などないであろうし、そうでなくてもそれは困難であったであろう。
俺は知っている。
正体不明の悪意に晒されることの恐怖を。
それが人間の心に及ぼす影響を。
誰かが自分に明確な悪意を持って攻撃している。得体の知れないその事実は、人間の正常な思考を阻害するには十分すぎる要素となりうる。
なぜなら正子もそうであったのだ。
俺は間接的な悪意が、それだけで人間を死に追い込みうるだけの凶器であることを知っている。
本来ならば看過されるべきことではないが、生憎俺はそれを看過しない理由を持ち合わせてはいなかった。
閉鎖的な空間において、善悪といった類の精神論は権威の前ではゴミクズ同然である。
なぜなら、それらは権威によって容易に歪曲されるものであるからだ。
精神論はより母数が多い集団であり、それによって民意が強力である場合にしか有効に作用しない。
しかし実際それも民意の所有物であり、当然のように恣意的に歪曲されうるが。
また、このような生徒を叱咤する場合に善悪を説くことも無意味である。
それは学内での社会的地位によってアイデンティティが形成されているような、ある種の全能感を有した子供にとっては特効薬にもならない。
自分を客観視する能力が不十分であるので、無意識のうちにそれを捻じ曲げてしまうだろう。
本来有効な手段は明らかに原因を改善することであるが、教師にとってそれはとても難しいであろう。
なぜなら、その理論でいくと、たびたび被害者側にも改善を求めることにつながり、それは道徳上とてもまずいことであるからだ。
教師が道徳の鎖で雁字搦めである以上、それに守られている生徒に負けはないのだ。
つまり、ここでは精神論は何の意味もない。ここはそういった、力に溺れた傲慢な愚者によって支配される、いわゆるディストピアと何ら相違はない、そのような場所なのだ。
ゆえに、俺は善悪を考慮しない。
学生である俺たちにとって、それは破滅を招く足枷以外の何物でもないからだ。
俺は正義などというもので、心を揺らすことはない。正義に意味はない。同様に価値もない。
俺は自分にそう言い聞かせる。
何度も何度も言い聞かせる。
これまでもずっとそうであったし、これからもそれが変わることはない。
まるで洗脳のように、それによって、既にある、今にも爆発しそうなものに蓋をするように。
しかし、まるで底なし沼のような息苦しさの中で、その中でさえ必死に踠こうとするものが、たったひとりだけそこに存在した。
「、、、あの、黒田さん、もう、、、やめて、、、よ、、、」
一同の視線が声のした方向に集中した。
その声の主は、この場においてあまりにも、あまりにも弱い女だった。
確か、、、能登、、、だったか?
俺は彼女と喋ったことがない。というか、彼女がこのクラスで自己主張をしている姿すらろくに見たことがないレベルである。
確かに、そういえば彼女が山田と同じグループで喋っているところを見たことがあった気がするが、それ以上の情報を俺は有していなかった。
何なんだこいつは。俺は全く理解ができなかった。
しかし、俺は瞬間自分の中で微かな憤りを感じた。
この正体は何だ。
、、、いや、多分、俺はこれの矛先がわかっている。これは自身に向けられたものだ。
とはいえ、その状況に面食らっているのは、そこにいる全員、つまりは黒田も同様であったようだ。
「、、、は?何が?、、、ってかお前誰だよ。」
その場は依然として凍り付いた。しかし、能登は再びこの均衡を破った。
「私、、、見たんです!さっき体育の時間、、黒田さん達が、山田さんの机の中を触ってたの。」
確かに俺たちは前の時間体育で、教室は1時間丸々もぬけの殻であった筈だ。
彼女は幸か不幸か、それを発見してしまったのであろう。
しかし、これを言い出すのにどれほどの勇気が必要であったか。
、、、あぁ、そうか。
彼女のことが僅かであるがわかった気がした。
きっと彼女の中であったであろう葛藤はとても計り知れない。
それを告発しないことには、彼女は強制的に共犯者となってしまうのだから。
それを他の誰かが咎めることは恐らく一生ないが、そうしなければ彼女は自身を一生苛み続けたのであろう。
彼女がそれを看過することができない、そのような正義を有した人間であると、俺には一目瞭然であった。
俺がもし彼女であれば、こんなことはできたであろうか。いや、できるわけがなかった。
なぜなら、俺の中にそのような感情は残り火程度にしか残っていない筈だから。
残酷で凶悪で、唾棄すべきほどに気色の悪いこの世界に順応するために、そうしようとするうちに、無意識に、しかし潜在的には意識的に吹き飛ばしてしまったものだ。
そんな枷とも似た炎を、彼女は密かに、しかし確かに灯し続けていたのだ。
強風が吹き荒れる地獄の中で、それを自分の中で正当化してしまうことも、諦めてしまうことも一切せずに。
俺は自分への憤りが膨れ上がってゆくのを感じた。
「、、、おい黒田、本当なのか?」
中居も能登のこの発言を看過できなかったようで、黒田に真偽を問いただしていた。
しかし、当の黒田はずっと俯いていた。
流石の彼女も都合が悪く、黙りこくるしかないのであろうか。
いつもの饒舌は滞っていた。
「おい黒田、聞いてるのか?」
中居が再び問うと、彼女は俯いたままで微かに声を発した。
「ふ、、、、よ、、、。」
それはよく聞こえなかったが、次の瞬間教室に怒号がこだました。
「ふざけんなよ!!!!!!!!!!!!」
驚いて反射的に黒田に目を向けると、彼女は血相を変えていた。
呼吸は荒く、瞳孔は大きく開き、いつもの飄々とした姿は微塵も感じられなかった。
「ふざけんなぁ!!!なんなんだよ誰なんだよお前!キモいんだよ!何様のつもりだ?!お前なんかがなんで私に楯突いてんだ?!何様のつもりなんだよ何逆らってんだよ!?ウっザインだよ死ねよキモいんだよゴミクズがよぉ!」
恐らくそこにいる全員が状況を飲み込めていなかった。
俺たちは彼女のこんな取り乱した姿を一度も見たことがなかったからだ。
なぜか俺は、俺はひどく頭が混乱した。
頭が割れるように軋んで感じ、視界は朦朧としていた。
今にも嗚咽しそうなものを寸で堪えた。
同時にかつての光景がフラッシュバックした。
忘れるわけもない、あの日そこに残されていた手紙であった。
そんなことは御構い無しに彼女は続ける。
「だいたいなんなんだよぉ!公開処刑のつもりか?!正義の味方のつもりかよ気色悪いんだよ!偉い子ぶりやがって鬱陶しいんだよクソブスがよぉ?!」
記憶がより鮮明なものとなってゆく。手紙の文字が少しずつ明瞭になる。
「絶っ対仕返ししてやるからな!一生虐めてやる!お前みたいなクソ女は私が叩き潰してやる!」
やめろ、それ以上はもうやめてくれ。
「虐めて虐めて虐めて虐めて虐めて虐めて虐めて虐めて一生虐めてやる。お前なんか、、、」
あの時と同じ感覚に苛まれた。眼前の字はもう判然としていた。
「死ぬまで虐め殺してやるからな!!!!!!!!!!!!!!!」
頭の中で何かが弾けた気がした。
脳裏にはあの手紙の最後の一節が反芻していた。
「生まれ変わったら、悪い子になりたいです。」
俺はしきりに、この女を黙らせないといけないと感じた。
そして、考えるより早く体は動いていた。
そこから先は、あまり意識がはっきりしていなかった。
ただ、気がついた時には、眼前には黒田が泣きじゃくる姿があった。
俺は中居に押さえつけられており、拳には生々しい感触が残っていた。
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