②
幼い頃に母に捨てられ、孤児院と親戚をたらい回しにされ、「愛」に飢えるどころか「愛」がなにかすらよくわからないまま、俺は大人になっていた。
「愛」のないこの世には支配統治するための政府や王族もいらないと、アナキストとして生きていこうと決意していた。
そんな俺の元にも、オーストリア帝国の美しく異色の皇后の話は届いていた。
もうきっかけそのものはよく思い出せないけれど、たまたま何かの新聞記事にでもその姿が描かれていたんだと思う。肖像画にもなっている、あの純白のドレスに身を包んだ、若き日の皇后エリザベートの姿を。
そのときの衝撃だけは、死んで100年近く経った今でも、はっきり覚えている。
美しかった。本当に、美しかった。生まれながらの美貌ももちろん、滲み出るオーラのようなものも強かったんだと思う。多くの国民がそうだったように、俺も彼女のその美しさに魅了された一人だった。
小説や芝居に出てくる「一目惚れ」って本当に存在するんだと身をもって知った瞬間だった。ほんの少しだけど、「愛」ってこういうことなのかなとわかり始めていた。
好きになった存在のことはもっと知りたくなり、俺はエリザベート皇后について色々調べた。幼い頃どうやって育ったのか、皇帝とはどうやって知り合ったのか、その美貌の秘密はなにか……など。
「でも調べれば調べるほど、あんたはひどかったな。何度がっかりさせられたか」
「……そうね。今ならわかる。私は、皇后に向いていなかった。妻や母になるにも、覚悟が足らなすぎた。自分を保つのに精一杯で、ひとつの家柄や国を守るなんて、無理だった」
彼女は自分の美貌が国策に役立つと知ってからは、磨きをかけた。実際それで当時オーストリアが支配していたハンガリーでの支持率を確かなものにした。問題はその美貌とハンガリーにあまりにも執着しすぎてしまったことだ。
彼女の美貌の秘密のひとつが「ミルク風呂」。けれど彼女の入浴剤として使用するために、国中から大量のミルクが献上され、その結果、ミルクが飲めない多くの国民が栄養不足で飢えて死んでいった。そのなかにはこれから国の未来を担えたはずの赤ん坊や子供もいた。不作の年に、栄養豊富なミルクがあと一缶あれば助かった命も確かにあった。
政治に関しても、肝心のウィーンよりもハンガリーでの活動がメインだった。おかげでハンガリーでの人気と反比例するように本国オーストリアでのエリザベートは不評だった。フランツ皇帝は后を選び違えたと酷評された。
特に後半は夫婦不仲を理由にあちこちを旅して回っていた。その間に皇帝である夫フランツと時期皇帝である息子ルドルフの対立は深まり、それはそのままハプスブルク王家とオーストリア帝国の危機に繋がった。王家を守りたいが故に起こした革命に失敗し、母親であるエリザベートにも拒絶されたルドルフ皇太子は自殺。俺に刺されたのはその数年後、やはり旅を続けている最中だった。
皇后としても、妻としても、母としても、彼女は「自分以外の相手を思いやる」という意識が欠落していて、見た目とは裏腹の醜い姿を晒していた。
元々平民と貴族の身だし、実際の俺と彼女は親子ほど歳が離れている。結ばれるなんてハナから願っていない。それでもせめて、好きになったものには身も心も清く美しくいてほしかった。好きになったことを誇らしく思えるようにしてほしかった。それをしてくれない彼女に、いつしか俺は、憎しみとも言える感情も抱くようになった。
それでもなお、完全に嫌いにはなれなかったのだから、一目惚れの威力とは恐ろしく、そこから歪んで生まれる人間の心理__特に「執着」というものは厄介なものだ。
「……あの日、新聞でレマン湖にあんたが来ているって知って、いてもたっても居られなかった。一目見たかったんだ。でも……想像以上にあんたは身も心もボロボロになっていた」
息子を亡くし、夫とはもはや修復不可能なほど関係が冷えきっていてメンタルがズタズタに弱りきっていた挙げ句、若い頃の美貌維持の過激なダイエットの反動からか、ほっそりを通り越してげっそりとやつれており、足取りもフラフラしていた。恐らく、俺が刺さなくてもせいぜいあと2・3年の命だったと思う。それぐらい、「死」がすぐ隣に来ている状態だった。
もうこれ以上、愛する人が傷つき、弱り、そして醜く惨めになっていく姿を、見たくなかった。
ならば、いっそ、この手でと、持ち歩いていたナイフで、胸を刺した。
後悔はなかった。むしろ、ずっとこの手で、彼女の命を奪いたかった。終わらせたかった。一人のアナキストの男が、ウィーンの皇后の運命を狂わせる。人生を支配する。それはもう俺が彼女のものになったのとほとんど同じじゃないか?
元々いつかは誰か大物の王族や貴族を殺して有名なアナキストとして名を残してやろうとは思っていた。その「誰か」ははじめは「有名なやつなら誰でもいい」だったはずなのに、いつしか俺のなかでは無意識に「憎くも愛しいエリザベート皇后」に擦り変わっていた。それほどまで彼女に執着していた。
何者にもなれずにいる俺と違い、貴族で王族という宿命を背負ってまばゆい輝きと切ない陰りを併せ持つ彼女が、羨ましくもあったのかもしれない。
逮捕され、刑務所に入れられた俺は、さっさと死刑になればいいと思っていた。そうすればエリザベートの元へ行けるから。なのに、下された判決は終身刑。死ぬまで皇后殺害の罪を背負えと言われたのだ。数年後、嫌気の差した俺は自ら首を吊った。
自殺するまでの数年間、俺の頭のなかにはひとつのストーリーが出来上がりつつあった。殺害間際のあのエリザベートの生気のない姿、波瀾万丈な人生、そしてこの俺に芽生えた執着……これらはすべて彼女にずっと付きまとっていた神のような存在のせいなんじゃないかと。それこそ「死」に愛されていたんじゃないかと……
だから、トート閣下を創った。美しく怪しい魅力を持ち、彼女を惑わせる。そういう存在こそ、彼女にはふさわしい。そのトート閣下の導きで、俺は、エリザベートを殺害したことにすればいい。その方が、彼女を美しい悲劇の皇后として語り継ぐことが出来る。そして俺は、そんな数奇な運命を背負った皇后の最後を彩ったアナキストとして、名が残るはずだ。
そしてそれを語る場を、この煉獄で与えられた。毎晩毎晩同じ質問ばかり繰り返されるのはうんざりしたけれど、ここに来て裁判の度に何か特殊なエネルギッシュな力が沸き、それを使うと見事にハプスブルクの関係者も、当時のウィーンやハンガリーも、そしてトートまでも、再現できる。
そして回想が始まる度に現れる、シシィ__幼き頃のエリザベートや、皇后となり白いドレスに身を包む姿を見る度に、胸は高鳴り、体は震えた。この手で抱きしめたいと心から切望した日もあった。でもそれが出来ないなら、せめてトートにやってもらおうと、彼にはずいぶん動いてもらった。
「気味が悪いだろ?こんな愛。でもこれが俺の……俺しか出来ないグランデ・アモーレなんだよ。
あんたの美しさは本当に恐ろしい。ここまで俺の人生を狂わせてしまった。知らなければよかったと思ったことが何度かあったよ。その美しさで人生や王家の予定調和が狂った旦那のフランツ皇帝や姑のゾフィー皇太后の気持ちがなんとなくわかった気もしたくらいだ。
そんな一方的で狂った愛であんたを殺した男を、あんたはなんで解放した?何を企んでいる?」
そこまで一気に語って、俺は、気恥ずかしくて俺は、顔を背けてしまった。何秒か沈黙が続いた。
沈黙を破ったのはエリザベートのほうだった。
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