第203話 ルイの日常

 食える時に食え、なんてことはよく聞く言葉だろう。軍部に入り、仕事をして、気分が悪くなった時であっても、次の仕事が目の前にあるのならば、否応なく躰を動かすのだから、無理でも食べろ、そう言われる。

 それもそうだ。現場入りして、腹が減ったと文句を言ったところで、空から食べ物が降って来るわけではない。

 犬になったルイは、同じよう、寝れる時に眠れと言われた。

 たとえば一般であっても、睡眠時間は人によって違う。短くて済む人もいれば、長く寝る人もいる。つまり、ある程度はコントロールできるわけだ。

 ルイの場合、一日に六時間くらいは寝るようにしている。あくまでも平時のことであって、戦時であれば二日くらい眠らずとも動けるが、それは最悪の事態だから、極力避けるべきであって、そうならないよう動いている。

 まとめて六時間、寝るわけではない。

 そういう生活はしてなかったし、できなかったので、一日の間で六時間。作業中に手を離せそうな時間に食事と睡眠をとる、そういう感じだ。そうなると、時間帯の感覚がなくなっていく。

 起きたら朝、寝るのは夜――という感覚もない。いつ仕事が入るかもわからない犬としては、誰もがやっていることだ。

 何故ならば。

 そんな、いつ入るかわからない仕事の準備を、常にやらなくてはいけないからだ。

 情報収集に昼夜は関係なく、もちろん仕事だってそうだ。寝ている時に叩き起こされるなんて三流のすることで、犬になったのなら、仕事だと言われた時にはもう、全ての準備を終えて――理想を言えば、現場へ向かっているくらいが丁度良い。

 まったく、馬鹿げた話だ。そんなことができる連中は、どこかおかしい。

 今でもそう思っているが、一体どうしてしまったのか、ルイだとて明るくなってからも作業を続けていた。

 いや。

 いやいや、仕方のないことだ。

 新天地に来て、新しい生活を始めようとしているのだから、やることが多いのは当然のこと。忙しいのは今だけだ、作業が多いのも今だけで、いずれのんびりと暮らせるようになる。

 ――はずだ。

 しばらくして、ノックの音が聞こえた。ネットでの作業は、どうやら携帯端末でも可能なよう移行しておくべきらしい。

「なんだ」

「ルイ君、朝食はどうしますか?」

「ああ、今行く」

 ちらりとディスプレイを見て、すぐ扉を開けばそこに――。

「ん、ああ、天来てんらい

「私の背が低いのは誰よりも知ってますけど!」

「すまんな、まだ慣れてないんだ」

 同じことを、背の低い方だった専属医師にやったら、たぶん命がなかっただろうけれど。

 下に降りてすぐ、天来は料理を温めはじめた。

「座っていてください。徹夜ですか?」

「ん、いや」

 そうだ。

 こういう時に、説明が面倒なのである。いつもならどうとでも誤魔化すのだが――。

「俺の場合は、一日六時間くらい寝る。まとめて寝るのは一時間くらいだ」

「……それ、躰は大丈夫なんですか?」

「もう慣れた。今のお前と同じ年齢になった時にどうなってるかは知らないけどな?」

「む」

「安心しろ、その時にはお前はもっと年齢を重ねてる。差が埋まることはねえよ」

「むう……」

「あと背も伸びない」

「伸びます! 牛乳は偉大ですから!」

「俺は気にしねえから、腹を壊すほど飲むなよ」

「はあい。……いえ、ルイ君が気にするかどうかは、参考にするところじゃないと思います。はいどうぞ、食べていいですよ」

「いただきます」

 ホットサンドが四等分にしてでてきた。野菜多め、腹にも溜まりそうで良い。

「もうほかの子は学校に行きましたよ」

「知ってる。物音は聞こえたし、念のため確認に来た明石あかしからも聞いた」

「そうでしたか」

「真面目だなと返しておいたが、俺も昼前には顔を出すつもりだ」

「やること、多いんですか?」

「普段やってることに、上乗せされるからしょうがねえよ。時間に追われているわけじゃないから、その点では気楽だ」

「もう一つ作りましょうか?」

「頼む」

「はい。かといって、私に手伝えるようなことはなさそうです」

「今のところは、セキュリティの強化をしておけ、としか言えねえな。俺の走らせたコードの解析も」

「はい、それは昨日からやってます」

「何かあれば言え。まあ、俺も学校がよほど面倒になったら、狩人認定証ハンターライセンスでも取りに行く」

「へ? 取ってどうするんですか」

「あ? 学校に行かないでいいって免罪符になるだろ。たまに顔を見せるだけで済む」

「……いや、それだけのために認定試験を受ける人は、今までいないと思いますよ」

「んなことはねえだろ、アレはそういうものだ。ガキの頃から躰を作って、知識をため込んで、試験のためにやれることはやって――そういうセオリー通りのやつは、だいたい落とされる。国際免許をいちいち取得するのが面倒だ、そんな理由のやつが受かるのさ」

「はあ、詳しくありませんが、そんなものですか」

「そんなものだ」

 二つ目と一緒に、天来も自分のぶんを食べる。手元にある飲み物は珈琲と牛乳だ。

「夜中に外へ出てましたね」

「いろいろ、やることがあるんだよ、クソ面倒な準備もな。ついでに桜庭さくらばのやってた夜間訓練も、覗き見はしておいた」

「あー、二日に一度くらいの頻度でやってますね」

「そんな頻度でやらなきゃいけない魔術師は、錬度が低すぎる。もっと座学の重要性を教えろと、鷺城に言いたい気分だ。次元式じげんしきなら、特にな」

「詳しいんですね」

「対策しなきゃ死ぬのは俺だからな――はは、いや、忘れてくれ」

 死にたくないとは、今でも思っていないけれど。

 死ねなくなった。

 それもまた、ルイの心変わりだろう。

「ご馳走さん。俺は外に出るが――」

「はい、登校してください」

「――まあ、それはさておき」

「いや置かないで、行ってくださいね。初日なんですから」

「明日が初日の可能性もあるだろ?」

「ありません」

「チッ、しょうがねえな。明日までに携帯端末で八割代行できるよう、システムを組むか」

「仕事が増えますねえ」

「俺にとっちゃ日常だ。一応言っておくが」

「はい?」

「薬関係の利権を拾った間抜けの尻尾、掴んでおいた方がいいぞ? 首を突っ込む必要はないが、情報は拾っておいて損はない」

「ええと、それはルイ君がここにいることと関係が?」

「直接的にはないさ」

 調べたところで何もできないし、何かあった時に解決するのはルイだ。


 一度部屋に戻ってから、寮を出た。


 町まではやや遠く、入り口付近にはフライングボードを扱っている土屋つちやの店舗があり、その手前の分岐を歩いていけば、海に到着する。

 砂浜が広がっており、そこで三人の男が走り込みをしていた。

 有事を前提とした若い軍人は、職務から離れても体力を維持したがる。いざという時に動けるようにしておきたい、常在戦場の意識だ。

 衛星で見た通りの砂浜だが、やはり広さは実際に見ておくと理解が深まる。ただそれ以上に、学校側にある高台、おそらく山に繋がっている場所には行く必要があるだろう。加えて、どこかに入り江があるようならば、調査も必要だ。

 ここ、ナナネに来るのならば、基本的にはルイの住んでいる寮の前を通らなければ入れない。例外があるとしたら、この海側からの陽陸か、空からか、学校の裏にある山越えをするのか――。

 空からならば、すぐわかるし、対処も簡単だ。山越えはあまり現実的ではないにせよ、ルートも限られるし、雑木林のようになっているので、狙撃も地点が限られるし、大人数での山越えは目立つ。

 海からならば、ボートがメインになるだろうし、大人数が上陸することも可能だ。何より、ほかと違って、ルイの対処が限られる。できれば海の上にいる間に片付けたいところだ――と、まあ、こういう準備をしておくのが、ルイのやり方だ。

 急ぐ必要もないかと、走っている三人を手招きする。

 そのうちの一人は、かつてルイの上官、つまり朝霧芽衣が訓練校で同僚だった、ファーゴ・フグルサンである。

「お前は……」

「走るだけじゃ退屈だろ、かかって来い」

 そこからしばらく、格闘訓練に付き合った、いや、してやった。

 投げ飛ばしても、転がしても、砂の上ならば大したダメージはない。当身も使うが、お互いに軍属上がりだ、痛みには慣れている。

 といっても、ルイは打撃なんか喰らわないし、一方的に投げ続けるだけだ。

 三人を相手にしても、大した息切れもせず、しばらくしてから終わりとした。

「ま、こんなもんか。機会がありゃまたな」

 多少は運動になったと思いながら、来た道を戻り、途中で脇道に逸れる。

 ゆっくり歩きながら、ぐるりと迂回して高台へ。下かた見た通り、飛び込みにはやや不安もあるが、海が見渡せる。

 次元式の中でも、汎用性があり、利便性もある格納倉庫ガレージの術式を使い、服の内側の空間から双眼鏡を取り出してのぞき込む。

 海は距離感が狂う。

 目標物がないし、双眼鏡のズーム換算を信じるしかないのが、ルイにとっては少し苦手だ。もちろん、多少は慣れているので目測を誤ることも少ないが、1300ヤード先の腕を狙うのか、頭を狙うのか、そういう状況では素直に頷けない。

 どうしても

 できるならどちらも同じなら、術式を使わないで済ました方が良い――それが、少なくともルイの考えだ。

 術式だとて実力のうちだし、実戦になった時はごくごく自然に術式を織り交ぜるが、それは、術式なしではできない事実とイコールではない。当たり前のものを、当たり前として受け入れるのは当然のことだが、受け入れ過ぎると甘えになる。

 そういう甘えを、上官はよく見抜くので、ルイも日ごろから注意していた。

 さて。

 まだ海水浴には遠い時期ではあるものの、先ほども見た通り、朝のランニング場として使われていることからも、人の視線がある場所だ。何かを仕掛けようと思うのなら、やはり入り江か何かに身を隠す必要性がある。

 陸路か、海路か。

 単独で潜入するのなら、どちらを選ぶだろうか。

 こういう時の想像力は、だいぶ落ちたような気がする。基本的には自分が侵略側に立って考えるのだが、今のルイにとって、犬にとって、どちらでも同じだからだ。

 目的が何であれ、ナナネに入ることを前提に作戦を組み立てても、どちらも差がない。やり方は何でもあるし、どうとでもできてしまう。最終的には、船を用意するのが面倒だと思って陸路にするだろう。そして正面から、歩いて入るはず。

 相手の立場になって考えよう、そういう常識があまりわからない、いや、わかるのだが共感できなくなった。

 双眼鏡を外し、視線は足元に。

 どうやら、ここへ来た人間は、しばらくいないらしい。痕跡の一つでもあれば、暇つぶしに探してみても良かったが、仕方ない、学校へ行こうか。

 大きく、伸びを一つ。

 はっきり言って、ルイには緊張感がない。侵入への対処なんてのも、新天地に行けばいつもやることだし、何かあった時に動けばいいだけで、今回は仕事でもないのだ。気楽にもなる。

 ああ、まあ。

 上官の中尉殿が、どうやら面倒を持ってくることが確定しているけれど、そんなのはいつものことだ。

 建物が見えるところまで戻ってくると、既に活動しているのがわかる。

 商店は少ないし、仕事と呼べるものもほぼないこんなところで、一体何をするのかと思うが、生活はそれぞれにあるものだ。庭で野菜を作るもよし、運動するもよし。ただ金銭のやり取りが少ないのは気になるところだが、田舎なんてそんなものかもしれない。

 となると、学校を卒業した九割の子供たちは、外へ就職するはずだ。

 ――ナナネには、いわゆる孤児しかいない。

 軍人も多いし、家族のような形式で住んでいる者もいるが、血の繋がりはない。広義ではルイだとて同じだ。

 そもそも、商売ができない、収入がない場所で、家族揃って生活することは困難である。退役軍人たちは懐に余裕もあるが、あくまでも前崎の支援ありきでこの村は成り立っており、国からも補助金が出ているはず。

 理由のある者が、ここで暮らしているわけだ。

 ルイに言わせれば、その仕組みがあるゆえに、ナナネは発展を封じられている。多少のことはできても、ここで生まれた子供が過ごせるようには、ならないし、たぶん、ならないようにしている。


 だから、学生の数も少ない。


 人の気配がする校庭へ向かえば、十数人が外に出て何かの準備をしていた。上は、ルイがそうであるよう17歳くらいだろうが、下は10歳か、それよりも低い年齢の子もいる。ここにいるのが全員だとは思わないが、男女合わせて二十人くらいが全学生だろう。

 フライングボードを各自が持っていたので、なんとなくやることは察したが、既にできている天幕の下に灰皿――ではなく、金代かなしろ教員がいたため、ルイはそちらに移動した。

「おう、来たか」

「……フライングボードで遊ぶ時間か、金代」

 流れる作業でルイは煙草に火を点ける。既に灰皿には吸い殻があった。

 ルイはそれほど頻繁に煙草を吸わな――くもないが、寮ではほとんど吸わないし、外であっても灰皿のある場所でなければ吸おうと思わない。吸わなくても生活できるが、嗜好品として吸っている。

 それでも、なくなる前に補充するくらいには、好んでいるが。

「躰を動かす遊びには分類されないけどね。小さい子は、まだ外じゃ使えないから、ここで学ぶって寸法だ」

「インストラクターは土屋か」

「資格を持ってる」

「あんたの役目は?」

「我慢しなくてもいい煙草を吸うことさ」

「気楽なもんだ」

「お前も参加したらどうなんだ? 扱ったことはないだろ」

「土屋のところに注文中で、残念ながら手元にない」

「だったら一緒に、灰皿の注文もしておきな」

「ここにあるじゃないか」

「いつまでも私を探してうろうろされるのも、一緒にいるのもご免だね」

「嫌われたもんだ」

「好かれるような行動をしてたのか?」

 さてなと、ルイは肩を竦めるだけだ。

 そこへ。

「――重役出勤か?」

 風祭かざまつりカゴメがやってきた。

 ルイは、わざとらしく紫煙を彼女に向って吐き出すが、軍部で慣れているのだろう、彼女は動じない。

「あんたと違って、じっと待っていれば上から命令が落ちてくるわけじゃないから、やることが多いんだよ。ああ、それとも空軍エアフォースってやつは、上から下を見るばっかで、現場で何が起きているのかも想像できない間抜けの集まりだったか?」

「貴様……」

「エリート様は上から目線がいただけねえな。現場で状況をひっくり返した後も、どうにかその体裁を守ろうと必死になる」

「何故、貴様はそう、私につっかかるんだ?」

「鏡を見てから言えよ」

「ふん」

 制服のないこの学校で、スーツのようなきっちりした服装で来るあたりも、常識のなさが窺える。

 背を向けてほかの学生のところに行ったカゴメに、ルイは小さく苦笑した。

「なんだ、気にしてるのか?」

「軍人の癖が抜けないのは、別にいい。けどあんなガキが、染み込むほど軍人をやってたわけがねえだろ。ああいうのは盲信に近い、すぐ死ぬ」

「――お前は違うのか?」

「訓練校にいた時間は長かったけどな、それだけじゃやってらんねえのも現実だ。そのうちわかる」

「ふん」

 学生たちはそれぞれフライングボードに乗り、動き始めた。

 グラウンドの200メートルトラックをコースに見立ててレースをしたり、会話をしながら、のんびり走るだけの学生もいる。ただ、ボードの性質上、緊迫したレースにはならない。

 最高速度の上限が決まっており、お互いに手などが触れられない以上、ミスせずいかに速度を落とさないか、そういう勝負になってしまうからだ。

 煙草を消し、ぼんやりとそんな様子を見ていたルイのところに、土屋がやってきた。

「お兄さん」

「土屋、遊び道具としてはいまいちだな」

「そうですねえ、慣れてしまうとあまり面白味はないかもしれません。便利な道具ではありますけど」

「……金代」

「あ?」

「トラック二周のレースで、俺が勝てると思うか?」

「要求は」

「なに、灰皿として文句を言わなけりゃそれでいい」

「二周だな?」

「土屋、芹沢せりざわのボードを用意してくれ、なんでもいい。それと、レースが上手いやつを五人くらい集めろ」

「はあい」

 頼むと言って、新しい煙草に火を点けた。

「乗るのは初めてじゃなきゃ成立しないけど?」

「間違いなく初めてだが、データは入ってる。機能自体もそれほど複雑じゃないからな。ただあいつらよりは、マニュアルに目を通しているかもしれない」

 フライングボードは、土屋のものを借りることとなった。足の長さが違うので、両足を固定する場所をずらす作業はあったものの、それ以外は問題ない。

 スタート地点に立ち、ボードの上に乗った直後にそれを感じた。

 ――魔術式が使われている。

 どういう仕組みだと疑ってはいたが、地上から二十センチほど浮遊するだなんて、術式で作っているのならば納得だ。同時に、躰を外側から少し絞めるような感覚があり、安全装置が作動したのだろうけれど、こちらも術式を利用している。

 なるほど。

 芹沢が開発して、その基本となる部分をブラックボックスとして他者に渡し、それで開発をさせたのか。

 なるほどねと呟いた頃、スタートの合図があり、参加した六人は先頭争いを始めたが、ルイは最後尾についた。

 フライングボードは、単純な道具である。乗って、移動方向に力を入れれば前へ進み、逆方向に力を入れれば、ブレーキとなる。右に曲がりたいのなら、右に傾けるだけ。

 この、力を入れる感覚は設定で変更できるらしい。借りた土屋のボードの場合、重心移動というよりも、軽い踏み込みの感じだ。

 速度は、最初の踏み込みで10キロほどにはなったが、そこからは緩やかに上昇していく。そもそも速度なんてものは、大きく加速、維持、停止の三種類にわけられ、これは車や単車バイクなども同じことだ。強くアクセルを踏めば加速するが、常に加速するのではなく、アクセルに足を乗せている状態で速度を維持し、ちょっと踏めば緩やかに速度は上がっていく。

 カタログデータによれば、最高速の設定は30キロほど。安全装置が働いているためか、あまり風圧を感じはしないものの、直線になれば身を屈めている学生もいるあたり、無視はできないようだ。

 一つ目のコーナーに入ると、全員が速度を落とす。といっても、どちらかといえばボードを横に軽く倒す動作によって、ブレーキが少しかかっているようだ。

 10キロ以下の速度ならともかく、それ以上になると、いくら踏み込みを入れても加速はしない。これ以上は、速度を上げる意思表示のようなもので、一気には上がらなかった。

 二周はいらなかったなと、ため息を一つ。だが、先に決めたレギュレーションなので、とりあえず最後尾についたまま一週目を終える。

 さて。

 事前にデータだけは見たが、なるほど、遊ぼうと思えば遊べる道具だ。

 二周目の、一つ目のコーナーに入るタイミングで減速したのを狙い、20キロくらいの速度から、ルイは一気に前へ出た。

 そして。

 まるでそこに壁が、傾斜があるよう、まるで自転車競技のトラックのよう、バンクがあるかのよう、空中を足場にして、躰を真横に倒すようにして、学生たちの頭上を越えてコーナーを抜けた。

「――ああ!?」

「ん? なんだ明石じゃないか」

 先頭に立ったルイは、減速して先ほどまで先頭だった明石の隣へ。同じ寮だ、顔合わせも済んでいるし、気楽なものだ。

「丁度良い、こういうのはどうだ」

 ゆらりと、ルイの躰が揺れる。

 安全装置は躰だけでなく、ボードも覆ってはいるが、加速と停止、左右への揺らぎ、それに加えて上下の作用、そうした動作をボード側に反応させつつ、上手くやれば――ほら。


 こつん、と二人のボードがわずかに触れ合った。


「は――っ!」


 弾かれたのは明石の方だ。

 そもそも、安全装置が働いている以上、ボードに乗っている人間同士が触れ合うことはできない。お互いに手を伸ばしても、一定の距離以上に近づけず、近づこうとしても動けないし、お互いにゆっくり押しのけるような動きになってしまう。

 だからこれは、緊急事態。

 あるはずのない障害物に当たったのならば、ボード側は緊急処理をして障害物から離れ、安全確保を第一とする。

 どうやら、芹沢が提供した実働データに偽りはないらしい。いや、挙動だけのデータなので、実際にやれるかどうかは怪しいものだったが、ルイなら上手くできるとでも思っていたのだろう。

 そのまま加速を入れて距離を離し、最後のコーナーも空中を足場にして弧を描き、地面に降りて停止、そこで終了だ。

 降りる時は、両足の傍にあるスイッチに触れてやれば自動的に地面へ。あとは両足を外せばいい。

「土屋、助かった。次は貸してくれなくていい、授業を受けるのが面倒だ」

「え、あ、はあ……」

 そのまま天幕に戻ったルイは、やはり、新しい煙草に火を点けた。

 一息。

 ようやく我に返った土屋が小走りでやってきた。

「ちょ、ちょっとお兄さん! 一体何をしたんですか? 空を飛ぶ……いや、空中を足場にするだなんて、そんな」

「見てわかったことを、わざわざ確認か? ボードのことならお前の方が詳しいだろ」

「想定されてません! そもそもボードは地面を検知して浮いているんです。正面の小さな障害物に対し、迂回ではなく、自動的にその上に乗るような動作が基本となっていて、それでさえ、障害物を地面として認識して浮く、といったものです」

「そうだな、その場で浮けと言われても性能上は無理だろう。だが現実に俺はやった。これはできるって証明だ。後ろの連中を見習ったらどうだ?」

「へ? ――あ! こら! 小さい子はちょっと待ってください!」

 できたのなら、あとは試すだけでいい。試行錯誤の時間に比例して、成功した時の喜びは大きくなる。

「確信があったのか?」

 金代の言葉に、小さく笑う。

「まあな。芹沢から、火を点けろって依頼と一緒に挙動データが送られてきた。試作時のものだったし、映像データじゃないあたりが研究者らしい。あとは乗ってみて、感覚的に再現してやれば、見ての通りだ」

「……地面を検知して浮いている、か。奇しくも土屋は正解を口に出してるんだよなあ」

「そうだな。どうやるかって点を除けば、コーナーの時に側面を地面にしちまえばいい。若い連中なら、すぐできるだろ」

「明石を弾いたのもか?」

「あれは安全装置の穴を突いた挙動だ、そう簡単にはできねえよ」

 それでも、できるのは事実だ。

「これで競技性も上がって、楽しめる時間が増えるだろ」

 言って、ルイは煙草を消して、大きく伸びをした。

「さて」

「おい、どこへ行く」

「あ? 顔も見せたんだから、寮に戻って作業の続きだ。今すぐにやらなきゃいけないことは、まあ、ないようなもんだが、それを理由に先延ばしにするほどじゃない」

「まるで狩人ハンターみたいなことを言うんだな?」

 その問いかけに、ルイは肩を竦めた。

「街の便利屋になった覚えはねえよ。現場でツラを合わせて、嫌そうな顔をされるから、いろいろ押し付けてやるくらいで丁度良い連中だぜ」

 ひらひらと手を振り、のんびりとルイは歩き始める。早くしないと質問攻めになりそうだが、そこはそれ、タイミングを読んでいる。

 欠伸を一つ。

 昼前に、少し寝るのもアリかもしれない。


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歯車が回る世界の中で、始まり終わって始まろう 雨天紅雨 @utenkoh_601

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