第3話花と花
「あら、もうだいぶ水が減ってしまったわね」
私は花瓶に収まった一輪のマリーゴ-ルドに、そっと指を添えた。開け放った窓際、木漏れ日に照らされたそれは、未だ枯れることなく、凛としてそこに存在している。
この花をここまで元に戻すのに、だいぶ時間が経ってしまった。役所の人が来た時に落下させてしまい、その際踏んだことにも気づかず一週間も放置された花は、枯れはしなかったものの、流石に萎れてしまった。それを復元するのに、五年と四か月。もはやこの花は、そこらの花とは一線を置いたものになっていた(そもそも一輪の花が三十年もったというだけで、かなり凄いことではあるが)。
私はあれから、キャシーにいわれたように我慢しないことを覚えた。別にそれは誰かに八つ当たりするとか、ヒステリックになるとか、そんな極端な変化ではなくて、ただただ他の人がやっていた喜怒哀楽の線状でしかない。だけど、それが私にとっては革命だった。普通の人の、普通の生活。周囲の男性の人たちは、どこか残念そうにしていたが、まあ、別にいいだろう。元よりあまり好ましい人たちではなかった。私を見てくれているというよりかは、この街で一番美しい女性を求めていたように見えたからだ。そこに、私でなければならない必要性は存在しない。ましてや、私はもう五十四歳。若く見えるとしても、無理がある。
私は花瓶を手に取り、洗面所へと赴いた。花瓶から花を抜き取り、丁寧に花瓶の底を洗っていく。
痛みはなかった。最近、いつ彼に会っても良いようにと、美容にも気を遣うようになったからだ。手に塗ってあるハンドクリームは、キャシーが選んでくれた。彼女とは、未だに相変わらずな仲だ。向こうが一方的に話してきて、それを私が適当に流す。だけど、ちょっとだけ変わったことがある。
――「いや、流石に五十代でそのファッションは無しでしょ」
――「何言ってんの!ばばあだからこそ輝かなければいけないのよ」
私は彼女に意見をするようになった。その一つ一つはとても些細なことばかりで、傍から見たらどうでもいいような変化なのかも知れないけど、これも私にとっては大事なことだ。いや、多分彼女にとっても。
後、余談だがキャシーはようやく本気の恋を見つけたらしい。最近珍しく弱気な彼女を見るので、彼女をからかうことでストレスを発散していたりする。だがそれももう少しで出来なくなりそうだ。これは私の推測だけど、きっと向こうの男もキャシーが気になり始めている。
私は水滴のついた花瓶を持ったまま、外にでることにした。この花が弱ってから、ずっと決めていたことがあった。
花が復活したら、花瓶なんて小さな空間じゃなくて、もっとちゃんと大地に根を張ってほしい。
何度も挫けそうになったけれど、この花が意地でも生き続けるものだから、私も多少は忍耐強くなった気がする。そんな私からの最大の感謝として、自然に返そうと思ったのだ。
もう、私は一人でも彼を待てる。不安はあるけれど、このまま彼が向かいに来なかったら、天国に行って文句を言いにいくつもりだ。
だから。
「さよなら。私の庭で悪いけど、立派に子孫を残してね」
茎を地中に埋めてあげた途端に、蝶と蜜蜂がマリーゴールドを囲んで、楽しそうに宙を舞い始めた。私はそれを見届けて、踵を返す。今日は何をしよう、そんなことを考えながら。
「サライか?」
ぼうっとしていた為に、目の前に立っていた人間に気が付かなかった。不思議と彼が誰か、すぐに分かってしまった自分に驚くのと、頬が濡れる感触がするのは、ほぼ同時だった。
遅い。遅すぎる。
何年待ったと思ってる。
「お互い、歳をとったな」
「ばか」
私たちの周りを、桜の花びらが舞っていた。それがあのマリーゴールドを囲んでいた虫たちのようで、私はとても可笑しく思ってしまった。
私は。私たちは、笑いながら泣いた。
花瓶の中のサライ 碧木 愁 @aoki_39
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