第2話踏みつけられた花

 それから一週間、私の凡庸な人生の中でもっとも辛い時間が流れた。役所に赴き、焼きただれた彼を見ると、私は膝から崩れ落ちる。遺体は彼とは到底認定出来ないような状態だったが、役所は早く名簿の整理がしたかったのだろう。よくわからない彼は、彼と判断された。

 私といえば、彼が死んだ、といわれてまで気持ちを保ち続ける程の希望は持ち合わせていなかった。そこに横たわっていたのが、彼かどうかなんてどうでも良かったのだ。私は言葉が欲しかった。彼が帰ってきたのだと、ただそれだけを。

 夜は悪夢ばかり見続けた。彼を迎えた霊安室の映像が網膜に焼き付いてしまい、夜は死んだ彼に足首を掴まれる夢ばかりを見た。そして飛び起きては、朝日を見届けるまで起きて、いつの間にか眠りにつく。不規則な日々を送っていたからか、肌は荒れに荒れ、私の姿は見るに堪えない年相応の老婆の姿になってしまった。

 そして更にそこから三日経つと、あの日会うはずだった友人が、家に押し掛けてくる。


 「具合、どうだい?その様子だと、全然ご飯も食べられてないって感じね」

 キャシーは私の寝室のドアを半開きにしながら、そういった。玄関は鍵が開いているから、勝手に入ってきたのだろう。危険なんてどうでもいい。今はただ、何もしたくない。

 「キャシー、ごめんなさい。一人にして貰えるかしら」

 「そういう訳にもいかないのよね。あんた、ずっと外に出てないから分かってないんだと思うけど、外は豪いことになってるんだよ?婚約者が亡くなって、あんたが凹んでるのを幸いと取って、町中の男どもがあんたを狙ってる。全くうらやましいわ。なんで同じ歳なのに、ここまで変わるのかねー」

 キャシーはそういうと、諦めのようなため息と共に、寝室に入ってきた。あの日とはもうだいぶ変わってしまったように見える、木漏れ日の下、ベッドで横になっている私の横に、キャシーは腰かける。

 私はいった。

 「恋愛なら、私はしないわ。私は私だもの、私には彼しかいない」

 「今のあんたに、そんなこと要求する訳ないでしょ、ばか」

 いつものキャシーらしくない返事に、私は内心冷静でいられなかった。思わずキャシーの方を向く。

 だがそれが彼女の思惑だったらしい。私の顔面は、キャシーの女性らしいきめ細やかな指に絡めとられ、彼女の眼のすぐ傍まで寄せられた。

 「やっとこっち見たね」

 「――ッなんのつもり」

 「ちょっと調子に乗ってるみたいだから、お灸を据えてやろうと思ってね。あんたさ、何が悲しくてそんなに閉じこもってんのさ」

 「そんなの、彼が死んだのを見たからに決まって」

 嘘をっしゃい、とキャシーに叱られる。だが、その表情は相応しくない程に優しかった。

 キャシーは気圧された私をそのままに、続けた。

 「私にはそうは思えない。あんたってさ、あいつに溺愛だったじゃん。私が何度他の男仕向けても、見向きもしなかった。それがさ、殆ど彼かも分からない死体を見せられただけで、こんなになるかしら?

 ――あんた、本当はもう諦めたかったんじゃないの?彼を想い続けるのが辛くてどうしようもなくて、ただ諦められる理由を探してただけなんじゃないの?」

 私は彼女の頬を叩いていた。空気が裂ける音がして、その後に私は自分の過ちに気付く。

 こんなつもりでは、と私は布団の中に体を埋めた。目を瞑るだけではとても逃れられないと思ったのだ。

 キャシーのいうことは粗方当たっていた。私は彼がいないこの数十年が本当に辛かった。恋愛に身を投じている周りから距離を置いていたのも、実際は羨ましくなって、道端を歩くカップルの片方を、彼に重ねてしまうからだ。私は彼を救いたいと思うよりも強く、自分を救いたいと願ってしまった。きっとこれが私に対する報いなのだ。私は彼を想っている振りをしていて、実際は自分を想っていたのだ。

 「ごめんキャシー、こんなつもりじゃ」

 「良いのよ、今の、効いたわ」

 布団の外側から笑いを堪えるような声が聞こえてきて、思わず私は聞き返してしまう。

 「怒らないの?」

 「怒る訳ないじゃない。むしろ少し感動してるわ。あんたったら、私とこんな長い付き合いなのに、喧嘩の一つもしてこなかったじゃない?言いたいことは全部我慢、自分が抑えれば穏便に事が済むってさ、そんな感じで。私はあんたと正面でぶつかりたかった。どんな形であれ、うん十年経った今にそれが叶ったって訳よ」

 はっはっは、とキャシーは高笑いをして、それが止むと、彼女の気配は傍から消えた。

 「別にいいさ。そうやって凹む時間も必要だろ。私はあんたと違って、あんたが我慢している最中、色んなことに泣かされてきた。だから、私はもう十分だけど、あんたは少しぐらい良いんじゃない?自分勝手になってさ、泣いちゃいなよ?私みたいなさ、年甲斐もなく生涯付き添えるパートナーも見つけず、男漁りしてるような奴にならないんだっていうなら、またいつだって顔見せに来てやるからさ」

 キャシーはそういって、恐らく去っていった。私の中には、彼女の言葉と彼との思い出が同居していて、とてもじゃないが、許容範囲を優に超えてしまっていた。その抑えきれなかった部分が、瞳から垂れ流しになる。

 それは涙だった。ずっと良い子であろうと、彼にふさわしい女であろうと努力して押さえつけてきた感情の塊。解かれてしまった後は、止め方が分からない私には空しく、ただ毛布を濡らすだけになってしまう。

 「止め方が、分からないよ」

 ずっと泣いてこなかったからだよ、とキャシーの声がどこからか聞こえた気がして、私は一晩をずっと泣きはらすことで耐え抜く羽目になった。

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