花瓶の中のサライ

碧木 愁

第1話何十年と生きる花

 「あら、もうだいぶ水が減ってしまったわね」

 私は花瓶に収まった一輪のマリーゴールドに、そっと指を添えた。開け放った窓際、木漏れ日に照らされたそれは、未だ枯れることなく、凛としてそこに存在している。

 あの人から貰った最初で最後のプレゼントだったが、まさかこうも長く育てられるとは思いもしなかった。

 彼とは違い、私といえばどこか抜けていて、いつも誰かに迷惑をかけてばかりな人生を送っていたから、花がここまでもってくれると純粋な自信へと繋がる。

 私は花瓶を手に取り、洗面台へと赴いた。花瓶から花を抜き取り、丁寧に花瓶の底を洗っていく。

 水道水が私のひび割れた指に激痛を与えるころ、私は自然と彼のことを思い出していた。

 徴兵によって戦争に駆り出された彼は、私との別れ際にこの花を渡してくれた。それがもう三十年前のこと。もはやみんな、あのことを忘れたかのように生きているが、私だけはどこか諦めきれずに、今もこうして未練たらたらに花を育てている。

 以前、友達がいっていた。サライは歳を取っても美人なのに、近づいてきた人にいつも死んだ彼の話をするから、誰ともくっ付けないのよ、って。私からすれば、どうでもいい話なのだが、周囲はどうやら恋愛で大変らしい。

 最近は周囲の話についていけない。みんなは、美人だからと結婚を強要してくるが、私は生憎貴族でもないし、売女でもない。

 もう死んだのだろう、といわれている彼も、まだ死んだことは確定していない。戦争は終わったが、遺体は見つからず、ドックタグも見つかっていない現状だ。

 それが私の最後の希望だった。まだ役所から死亡通告が来ていないってだけで、私の彼を想う気持ちは、未だ途絶えきれない。

 よし、と一人寂しく呟いて、私は水を汲んだ花瓶に花を戻す。

 この花も、私が気持ちを保っていられる箍(たが)になっている。何かに縋った人間は、その何かが潰えないならば、まだ戦える。もし死んでいないのだとしたら、彼は一人寂しく戦っている訳で、その支えである私が挫けてしまえば、彼は生きていようと死んでしまうのだ、と私は思って生きている。

 私はその場を離れようとした、花瓶を持ちながら。今日も今日とて、友達との約束がある。恐らくまた、年甲斐もなく恋愛関係の話だろうが、今でも私を気遣ってくれる友達であることに変わりはない。

 そう思った矢先、インターホンがなった。先走って家に押し掛けてきたのか、と私は思って、玄関のドアを開け放つがそこにいたのは初めて見る男の姿だった。

 貴方は、と私はいう。

 男は胸に刺してあるマークを見せつけながら胸を張り、帽子を外してこういった。

 「役所の者です。今日は貴方の婚約者のことでお話が」

 刹那、体が反応した。花瓶が地面に落下して、その破片で足を切ってしまったが、どうでもいい。自分でも驚くほどには体を俊敏に動かし、男の胸倉を掴むと、笑顔を作ってしまう。

 「あの人がッ、あの人が帰ってきたんですね?そうですよね!?」

 「奥さん、落ち着いて」

 役所の男に宥められ、私は冷静さを取り戻す。その時の頭の中といえば、彼を出迎える為のパーティの準備のことで、一杯だった。

 そう、その時までは。

 役所の男はいった。

 「残念ながら、旦那様の遺体が見つかりました。もし良ければ、確認なさいますか?」

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