1.暗い穴

音声記録1-1:『このチャンネル周波数で……』

※第1話は自死の話題を含みます。閲覧にはご注意ください。



 このチャンネル周波数でよかったか……。ああ、どうやらそうらしい。

 テスト、テスト――いや、無意味だったな。聞く者がいるかどうかも、わからないのに。

 それならなぜ今、たった独りのコクピットでマイクに語りかけているのかというと……ただ、そう。どこかで誰かにむけて喋った気になりさえすれば、私の悪夢――というより、忘れがたい悲しみ、それとも怖れだろうか――そういう気持ちも一区切りさせられるのではないか、と……。そう思って、この通信局に接続している。

 宇宙に出るのは久しぶりだよ。自機を持たなくなってしばらくになる。今日はたまたま農園で懇意の輸送船パイロットが病欠で、私が代わることになった。田舎星系の田舎惑星、そのまた田舎町なんだ。航宙士の数はとても少ない。頼まれれば仕方がない。

 二度と飛ばない気でいたんだけれど、宙に上がってみるとやはり私は飛ぶのが好きだ――好きだったな、と思い出した。それから、宇宙も……過去の悪夢から遠ざかってみれば、自分自身で思いつめていたほどここは無の空間ではなかったようだ。

 無数の星の光がみえる。背景は透みきった漆黒だ。粒子や塵が少ないから、あまりに遠方のものが見えすぎるけれど、大小あらゆる星粒が無造作に、あるいは芸術的に、私をとりまく全周くまなく撒き散らされている。この光景を――どの役者の台詞だったっけ、宇宙とは、まだ幼い神々が輝く銀砂で無邪気に砂遊びをしたあとの散らかりようにすぎない、といったのは。

 輸送船の真後ろには、少し前にあとにしてきた惑星がまばゆく浮かんでいるはずだ。前を向いたままでも、私はいつでもその美しい青緑の球体を瞼に思い描くことができる。

 この世でもひどく得がたい貴重なもののように、闇のなかに決然と存在をあらわす奇跡の珠――惑星を包む大気の発光は、太陽の単純な反射光だけでは決してない。あそこには、星が内包するすべての生き物の命の熱が含まれている。惑星に息づくひとつひとつの命の熱、その放射が。

 いったいこの銀河において、自分の命を育んだ美しい母星に背を向けて、誰が好き好んで虚しい宇宙の最果てに飛んでいきたいと願うのだろう? ……だが、そんな愚か者は大勢いる。かくいう私も、以前は彼らの一員だった。

 私は、科学技術と法秩序に厳重に守られた彼らが、それゆえに享受できる安全と平穏に飽き飽きしていることを知っている。文明の手垢に汚されない未踏の星野を夢見ているのも知っているし、そこで待つだろう謎やスリルといった幻想に憧れているのも知っている。

 そして彼らが銀河の終端、人間社会の最果てに本当に求めているものが、荒涼とした何もない空間そのものではなく、膨大な虚無を鏡として映しだされるなにがしかの真実への期待であることも、私は知っている。

 だが、彼らのほうはわかっていない。たとえ世界の終わり、銀河の光を背後にする星々の断崖に立ったとして、その目に見える暗闇の中には数多の天体が満ちていることを。光と光の狭間には、無光のガスや氷塵や岩塊がひしめきあい、人の意思を乗せたものも、そうでないものも、大量の電波や放射線がせわしなく飛び交っているんだ。

 そうして彼らはやっと気づく――旅の最後、真の暗黒を覗いたときに。目に見える宇宙の暗がりが、実は様々な存在を内包した奥深い色であること。彼らの知らずにいた――幸運にも、知らずにいられた真の最果てとは、何の人間的な情緒も共感も許さない無限の闇であることに。

 ブラックホール――本物の深淵だ。そこは時空の終わりでもある。存在の一切を許さない虚ろな穴が、この宇宙にはところどころに開いていて、その境界を越えてしまえば二度とこちらへは戻れない。

 身に命の熱を灯すもので、あの暗黒に凍えないものはどこにもいない。私が見てきた多くの人は、自分を含め、皆あの虚ろの穴から遠ざかると安堵した。食い入るように眺める者がいたとしても、それは度外れた恐怖に倒錯した興奮による惑乱でしかない。もし現実に穴に呑まれたなら、落下者は穴の持つ強大な重力よりも先に、取り返しのつかない後悔に身を八つ裂きにされるだろう。

 ――そう、彼女は、きっと後悔したんだと思う。今でも私はそう信じている。

 これから話すのは、一人の少女の話だ。

 私は彼女と直接に言葉を交わしたことはない。私自身が姿を見かけたのも、たった二度だけだ。

 その二度目の際、確かに私は危うく命を落としかけた。だがあの若い娘はというと、私たちが出会う4年も前に、ブラックホールに身を投げて本当に死んでいた。

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