音声記録1-6:『あの事件を、やはり会社は……』


 あの事件を、やはり会社はブラックホールが与える心理的衝撃が引き起こした集団パニックと結論づけた。私にはもう、それを否定する狂気はない。たぶん――そうだったのかもしれない。宇宙では、人は見るはずのないものをたくさん見るし、聞こえるはずのない音を聞くものだから。

 本来人間が生存しえない極限環境に身を置くと、人はその異常な世界になんとか対処しようとして、理解しやすい幻影や妄想で現実を解釈したがることがある。あれも、そんな現象だったと考えるのがいいのだろう――ただひとつ、ブローチの存在を除いては。

 私は船を降り、航宙士をやめた。ブローチは会社の手で遺族のもとへ届けられた。遺族は驚いたそうだが、あのブローチが確かに少女の形見であるとわかって、意外に思う船員は一人もいなかったとあとで元同僚から聞いたよ。そしてあの事件のために、とうとうクルーズ会社はブラックホールのツアーを中止して別の航路へ就航し、少女の姿を見かける者も絶えたそうだ。私は遅い結婚をして、中央星域の先進文明からやや取り残された田舎惑星の大地に足をつけて、親戚が営む果物農園の手伝いで暮らしている。

 観測機器の結果どおり、あの子はやはり最初のときにブラックホールに呑みこまれていたんだろう。でも戻れない境界を越える前――天体の潮汐力でポッドが破壊された拍子に、奇跡的にあのブローチだけが墜落ルートから免れて放出された。ブローチは、この宇宙に残された最後の彼女の欠片だった。

 結局、なぜ少女が自死したのかはわからない。ただ確かなのは、死にゆく彼女の目に映った最期の光景が、頭上全空に押し広がって墜ちてくる、限りない虚無だっただろうことだけだ。

 彼女は恐れたに違いない、私と同じように――そして彼女は後悔して、ほんのわずかな欠片だけでも、この宇宙に留まりたがった。再び穴に呑まれる前に、ブローチが私を呼んだんだ。ブローチだけでも家族のもとに戻れて安らいでいると、それだけは私は頑なに信じている……。

 ――おや。ああ、すまない、軌道港の誘導信号がきた。もうそんな距離まで近づいていたんだな。過去の思い出に、すっかり沈みこんでいたようだ……。

 港についたら――町からの積荷を降ろして、今度は逆に星へ運び降ろすものを積み込む予定でいる。中央星域セントラル製の精密機材の部品や医療品、誰かが頼んだ娯楽品やその他の生活必需品。

 時間が許せば、このおんぼろ輸送船のちょっとした修理をしたり、買い物をしていくのもいい。昼食は少し贅沢をして美味しいものを食べ、家族に土産を買っていこう。前から欲しかった音響機材も、このさい購入してしまおうか――こんなたわいない物思いをしたり、楽しんだりできることを、私は今、本当に幸福に思うんだよ。

 遠い昔から、人は最果てに惹かれてきた。そこに真新しい発見が、自由が、救いが隠されていると期待して。だが私は知っている――この世の真の深淵は、人間とは、命とは、けして相容れないものなのだと。

 そこにはひとひらの慰めも浪漫も、どんな種類の啓示もない。私の胸底にはいまだに凄涼とした黒い穴が口を開け、折に触れて私の体温を静かに奪っていくが、穏やかな人々に囲まれた農園での日常が、やがてその虚無を見えないところに押しやってくれるだろう。

 たとえ宇宙の最果てで、あのブラックホールがこの瞬間にも淋しく誰かを呼んでいようとも。

 私は目を閉じ、耳を塞いだ。二度と少女の声を聞くことはない……。

 どうやら、ずいぶん長く喋ったようだ。誰か私の物語を聞いていたのかな。もしそうであれば、あなたの航宙の無事を心から祈っている。この局番は辺縁宙域や過疎星系でしか受信できないようだから――宇宙のうろに魂を呼ばれぬうちに、あなたが帰るべき場所へ帰れますように。

 ああ――管制塔から接近許可の通知がきた。そろそろ軌道港へのアプローチを開始する。

 じゃあ、私の話はこれまでだ。もう、チャンネルを切るよ……。

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