音声記録1-5:『何かが起こる予感はしていた……』

 何かが起こる予感はしていた。宙域はいつもどおりクリアで、母船から送られる航路データも私の機もすべて異常なし、順調だったが、逆にその静けさが嵐の前の緊張を忍ばせているようだった。

 その日、見学の航宙機は私の機を含めて三機。他に警備艇が一機つき、全四機編成で目的宙域へ向かっていた。母船は遠い彼方で待機して、船に居残る客のためのイベントに精出していた。その宙域に星系はなく、他に見所となる場所もない。元来孤立した天体でもあり、周囲百数十光年にわたって中心に座すブラックホールが生まれた際の超新星爆発の残骸が、希薄なガスの紗幕となって空間に波打つだけの荒野だった。

 その星間ガスの綾織りも、分布宙域内部まで入りこんでしまえば肉眼では捉えられない。だが私の船客たちは落胆とは無縁だった。船内にはクラシック音楽と、低めの女声による天体解説が穏やかな調子で流れている。客は家族や友人と興奮気味に喋りつつ、保護外殻を収納して巨大になった舷窓をあちこち指さしながら、それが現れるのを今か今かと待ち受けていた。そして誰かが「あそこに」と声を発したとたん、船内のざわめきは急速に収まっていく。最後に残るものはいつも変わらない。畏れに満ちた冷え切った沈黙だけだ。

 目にしたことのない者に、ブラックホールをどう形容したらいいのだろう――それは、穴だ。ほら、かもしれない。暗闇だし、暗黒だ。でも言葉で語るどんな表現も、本質からはかけ離れている……。

 人は目で見てものを判断する生き物だろう。手のない獣が噛んだり舐めたりして相手を調べ、虫や魚が触覚やひげで触れて確認するように、人はまず物の形状を光で捉えて対象を知る。だが、ブラックホールに光はない。結局は物理学者が正しいのだろう。信じがたい質量、圧倒的重力、時空間の歪み、怪物的エネルギーの放射――けれど、私の船客を黙らせる力はそんな数式の羅列にはない。恐怖は、徐々に舷窓に穿たれゆく闇の、手応えのなさにこそある。

 いくら目を凝らしても見ることのかなわぬ視界の穴。無音で、なんの圧力も激情もなく、抗いようもないまま迫りくる虚無は、例えるなら、ひどく死に似ているんだ。

 時折、パニック発作を起こす客がいる。ツアーで近づくのは天体半径長の――中心の特異点から脱出不能となる境界線、事象の地平線を結ぶ50倍以上の距離までだが、ブラックホールは光を曲げるので、実際の大きさよりずっと近く、巨大に見えるんだ。だから、航路上の最接近点まであと少しという頃合いに客室船医から連絡を受けたとき、操縦室ではそうした急病人が出たのだろうと考えた。

 だが、医師は困惑気味に連絡してきた。

『そちらで確認してないかい? 客がみんな動揺して大変な騒ぎだ。どうもポッドが一機、この機と平行に飛んでいるらしい。まさかと思ったけれど、実際にそれらしい影が取舵側の下のほうに……』

『女の子よ!』突然、通信の背後から誰かの叫びが聞こえた。『女の子が乗っているわ、なんてこと――そっちに行っちゃあ駄目、穴に落ちてしまう!』

 訓練された素早さで、私は全レーダーの走査データを目前の画面に展開した。副操縦士は母船に確認を取り、待つあいだに二人で問題の“影”を特定した。これほど近くを飛びながら、なぜ監視システムが警告を出さなかったのか――いや、小さな警告はあったのかもしれない。船への脅威ではなかったために、私たちが見逃しただけで。

 やがて入った母船からの応答にも緊迫性はなかった。飛来物。各観測値からブラックホールを楕円軌道で周回している極小天体と思われる。おそらく過去引き裂かれた親天体の遺留物で、岩石塊。あと三から五周後に事象の地平面への落下ルートに入り、その後消滅の予測。航路、ブラックホール勢力ともに影響なし。ツアー続行可能。

 だがその報告を聞きながら、私の指は吸い寄せられたように船外光学カメラの操作スティックに伸びていた。なにか言いかけた副操縦士が、そのまま大きく口を開けて動きを止めた。

 モニターに映し出されたもの――光源がないために、遠い星々の薄明かりに縁取られた濃い影は、大きさも形状もあまりに脱出ポッドに似すぎていた。そして船のサーチライトがそれの表面を滑った瞬間、心臓一拍の鼓動を置いて、私はコクピットを飛び出していた。光に照らし出されたのは、宇宙塵デブリの衝突で滅茶苦茶にへこんだ擦り傷だらけの外装と、粉々に割れて白く濁ったキャノピーガラスの半分だった。

 副操縦士は驚きに凍りついていた。しばらくして彼の戸惑いと制止がヘッドセットのレシーバーに響く頃、私はとうに格納庫に走り込んでいた。

『ど――どうしたんだ、何をやってる? 操縦席へ戻ってこい、何しようっていうんだ!』

「あの子だ。見ただろう?」私は彼に言い返した。「このままじゃ吸い込まれてしまう」

『馬鹿な、回収する気か? 不可能だ! どっちにしろもう死んでる!』

「ポッドの軌道を少し変えにいくだけだ。家族のもとに遺体を戻さないと」

『やめろ、無駄だよ、なんで――あんた、どうかしちまってるぞ!』

 レシーバーの向こうで彼が警備員を呼んでわめくのが聞こえた。だがそのときにはもう、私は離船に必要な多くの手順を省略して、修理・偵察用小型シャトルで船外へ緊急発進していた。

 ああ、よく憶えているよ――星野はとても暗かった。シャトルの振動音以外、真空はつねに無音だ。遠近感もなく、自機が流星よりも遥かに速く走っている事実を実感するのは、いつもながら不可能だった。

 航路はすでにブラックホールの強い重力圏内にあった。一度でも大きく速度を落としたり、頭上に並走する航宙機の進路からもっと内側に逸れでもすれば、たちまち引きずり込まれるだろう。だというのに奇妙にも、私の感覚はまったく麻痺していた。

 恐怖心は欠片もなく、ただ使命感ばかりが強烈なスポットライトに照射されたように明確だった。私の目には淋しげな立体投影ホロ像の微笑みしか見えていなかった。自分だけが彼女を救える、連れ戻せるんだ、と。

 シャトルの貧弱なレーダー網が、ポッドの位置を特定できたのはほとんど偶然だったに違いない。それすら運命のようで、取り付け型の小型スラスターを打ち出すコード入力の作業も励まされた。耳元では相変わらず副操縦士が必死に私に呼びかけていた。だが私に聞こえていたのは、ついに前下方に目視で捉えた脱出ポッドに眠るであろう、凍りついた少女の声なき声だけだった。

 取り付け型のスラスターを発射した。それは照準ぴったりに標的側面へ吸着し、私はポッドの軌道を変えるべく、ガス噴射の開始キーを叩いた。けれどスラスターの噴射は起こらない。内部に不具合が発生したのか、こちらの指示が届かなかったのか。今となっては原因は謎だ。とにかく私には時間がなかった。

 猶予はたったの数分。頭上の航宙機はすでにシャトルから少しずつ離れはじめ、ポッドの航路はそれよりずっと鋭角に、ブラックホールを内へ回る軌道へ移りかけていた。

 焦りが苛立ちを生み、苛立ちが分別を奪い去った。私は、自分の運命の引き金を引いた――なんの躊躇いもなく。シャトルの頭鼻部ノーズから打ち出されたケーブルアームは狙い過たず、その先端についたフォークハンドの鋭い爪をポッド後部へ勢いよく突き立てた。操縦席にまで軽い衝撃がきた。シンチオンレーザーでも焼き切れない極めて頑強な三重鎖索が、シャトルをポッドと強固に連結した。

 計算上では、ほんの少し引っ張り上げてやれば危険はないはずだったんだ。だが推進出力を何段階上げても、ポッドは頑として動かなかった。その異常な重さに、遅まきながら疑いが私の麻痺した脳裏をかすめたとき――発進時の整備不足で動かなかったサーチライトが、ほんの気まぐれのように息を吹き返した。

 刹那、暴き出されたケーブルの先に繋がったものの正体に、私は総身冷や汗が噴き出るのを感じた。それは脱出ポッドどころか、人工物ですらなかった。部分的に白氷の張り付いた、ただの円錐形の岩石だった。

 突然、現実が襲いかかってきた。気づけば、大小あらゆる警告音が狭い操縦室中を震わせていた。実際にはずっと以前から鳴り響いていたのに、私には聞こえていなかったんだ。

 ねっとり澱んだ沼底から浮上し、まとわりつく泥からやっと息を吹き返したような心地がした。私は我に返り、呪われた岩石塊からフォークハンドを引き抜こうとした。次にはケーブルの切り離しを試み、どちらも駄目だと悟ると罵声を吐きながら別のプログラムを組み直そうとした。滅茶苦茶にコードを叩き入れ、全部うまくいかず、ついには岩石を破壊すべく装備の小型爆弾を探したが、それも私が準備不足のまま慌てて格納庫から飛び立ったために、そもそも積んでこなかったのだとその時になって気がついた。

 万策尽きていた――私は自分の愚かさを嗤ったよ。未練を残して現れる、自殺した哀れな少女の霊だって? もちろん彼女は悪霊だった――道連れを求めていたんだ!

 打ちひしがれて頭上を仰ぐと、こちらを見限って離れてゆく航宙機の点滅灯が切なかった。行かないでくれ――叫びたくても、もはや呻き声もでなかった。すべてが悪い夢のようで……、なにもかも非現実的で……。

 そうしてぼんやり視線を落としたときだ。私は初めて真正面にあの闇を――私を騙した岩石塊ではなく、その向こうに、これまでずっと獲物を待ち受けて口を開けていた暗い穴を、全身で覗きこんだんだ。

 ――今でも、時折夢に見るよ。あの異質で冷え切った、底なしの穴を。

 それは休眠期のブラックホールだった。銀河中心核に渦巻く同種の天体と比べれば、遥かに小さな規模の。暴虐的な光輝を放つ降着円盤も持たず、何者をも焼き尽くす放射線バーストも放たない。かわりにごく幽かな、青銀色のガス帯を屍衣のようにまとわりつかせて、そのゆらめく陽炎で背後の星光を歪ませながら、冗談じみて平面的な黒円を空間に穿っていた。

 闇は、ほんの数歩先に、人が歩いて入れるほどの大きさでわだかまっている。手を伸ばしても永遠に届きそうになく、だが次の瞬間には肉薄するようにも思える異様さ、目眩、遠近の狂い。何も見えず、聞こえない。なのにどこからか、全身そそけだつような生ぬるい風が弱く流れてくるんだ。それは私の後方から、いや、内側から――もちろん現実の風じゃない。

 肌の産毛を逆立たせながら、直接吸い込まれていく奇妙な流れの感覚は、私の発する固有の音、光、熱――生命のすべてだった。

 あれが冥府の入り口、あるいは異界への隧道だろうか――私は誰かの古い詩を思い出していた。そんな詩情はどこにもない、そんな感傷はまるでそぐわない。あの穴を人間の尺度で語ろうとする行為自体が馬鹿げている。あれは自然の苛烈さそのもの、無関心そのものだ。この世に唯一存在する、形を持つ死の姿だ……。

 ――……すまない。あのときのことを思い出すと……、今でも思考が途絶えてしまう。ああして魅入られていた時間は、実際には一分にも満たなかったはずなのにな。……そう、しかし私は、生き延びた。生き延びて、今ここで、この輸送船のコクピットにしっかりと座っている。聞いているかもわからない誰かに向けて、喋っている……。

 あのとき虚脱していた私を救ってくれたのは、ツアーに付き添ってきていた警備艇だった。彼らは勇敢にもシャトルの軌道まで降りてきて、あの岩石塊を銃で破壊すると、対宙賊用拘束索で私を拾いあげてくれた。それから艇にシャトルを固定し、限界ぎりぎりまでエンジンを稼働して、本当に危険な重力圏から私を永遠に引き剥がしてくれた。

 私は震えながら母船に戻り、船長室に出頭したよ。その場で懲戒処分を受けた。異論などあろうはずもなかった。船長は愚行の理由を尋ねたが、私はとてもまともに答えられる状態ではなかった――そのまま事件が終わっていれば、この話は私一人が精神異常をきたした出来事で終わっていただろう。だがそこで、船長室の扉を激しくノックする者があった。入ってきた船員は青ざめた顔色で、ちょっとのあいだ落ち着かなげに船長と私を見比べていた。

「これを見てください」彼は持ってきた物を、船長に差し出した。「回収されたシャトルのフォークハンドに、飛来物の欠片が挟まっていました。我々が除去すると、表面の氷が割れて、下から出てきたんです」

 船長は、しばらく無言で手渡された物を眺めていたよ。声にはしなかったが、何かの低い祈りの文句を唇だけで唱えたようにみえた。彼は壁棚を振り返り、扁平な小六角形の立体像ホロ投影台を取り出してきた。

 スイッチを入れると像が現れた。黒髪の少女だ――その襟にあるブローチと完璧に同じ形、大きさで、船長のてのひらの上に、蝶の形の襟飾りが繊細な銀の輝きを放っていた。

 あのときポッドに少女がいると叫んだ客は、あとになって個人的に私に謝罪をいれてきた。どういうわけか白いドレスを着た若い女性が乗っているように見えてしまった、あなたが無事で本当に良かった、心から申し訳なく思っている……。

 そう言って強く手を握ってきた老婦人は、四年前に自殺した少女の話をまったく知らなかった。

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