第六話 台南空の戦い⑵

 四月十一日〇六五五敵急降下爆撃機八機と戦闘機八機がラエ基地に来襲してきた。(台南空の行動調書では爆撃機七、戦闘機九)日本側では〇五三〇に第一回目の上空哨戒として台南空零戦六機が上空にあった。


  第一小隊 一番機 吉野 俐飛曹長

       二番機 宮 運一二飛曹

       三番機 後藤龍助三飛曹

  第二小隊 一番機 米川正吉三飛曹

       二番機 羽藤一志三飛曹

       三飛曹 丹治重福一飛

 

 戦闘機はキティホーク、爆撃機はA24である。吉野飛曹長は降下態勢に入る爆撃機を撃墜した。キッチンズ少尉機は墜落した。後藤三飛曹も爆撃機一機を落としたとしているが、喪失した爆撃機は一機だけであった。そのご零戦はキティーホークと空戦となり、丹治一飛が被弾自爆した。キティホークのドン・ブラウン軍曹は米川機あるいは羽藤機からの被弾によりクウオン岬の浅瀬に不時着して捕虜となった。零戦隊は爆撃機三機、戦闘機二機を撃墜したと報告したが、実際は爆撃機・戦闘機各一機であった。また港にあった大順丸(一、二七四トン)が被弾沈没し、船長が戦死、軽傷三名の被害を出した。

 爆撃により地上にあった一式陸攻二機が炎上し零戦二機も被弾、戦死一名、軽傷者三名を出した。


 ラバウルでは第三三爆撃飛行隊のB26マローダー八機が襲った。ルイス・フォード中尉機は高射砲にやられ帰途中に不時着して脱出し全員無事であったが、モレスビーに戻るには四十七日間を要したという。緊急発進した零戦三機は爆撃機を追撃し射撃を加えたが有効な射撃をできなかったようで、高射砲で被弾した機を撃破したと誤認したようで、撃墜確実一、不確実一の戦果を報告した。日本側の損失はなかった。


 十二日〇八〇〇見張所からB26が三機ラバウルに向かうのを発見報告した。警戒中の零戦三機が迎撃に向かったが爆弾を投下して遁走していった。また昼前に三機が来襲した。丁度港内には春日丸があり零戦五機が警戒にあたっており、B26は慌てて爆弾を投下して遁走していったため、双方とも被害はなかった。また、台南空搭乗員を春日丸に運び、搭載中の零戦二十四機を飛行場まで運んだ。トラック島より台南空の補充搭乗員五名がラバウルに到着した。


 十三日、ラエでは第一直の哨戒、第二直の哨戒と異常はなかったが、第三直の熊谷賢一三飛曹、小林民夫一飛の時に敵機の襲来があった。八機のキティホークに護衛されたA24爆撃機九機である。台南空の行動調書にはP40六機と爆撃機六機となっている。機数からいって零戦側が不利である。二機の零戦は下方をカバーする四機とキティホークと空戦に入った。日本側は四機を協同で撃墜したとし、濠洲側は二機撃墜不確実とした。キティホークはデイビース少尉機が墜落未帰還となっており対空砲火によりとされているが、零戦二人の銃弾が影響したのかもしれない。日本側は一機が被弾したことになっているが、どちらかは行動調書に記入されていない。

 爆弾一発が滑走路上に命中したがすぐに復旧された。一名が負傷した。


 十四日はラバウル、ラエとも敵の空襲はなく、日本側からの出撃もなかった。


 十五日はココポにB17二機が一一五五に来襲して爆撃したが、日本側の被害はなかった。


 十六日、坂井三郎ら搭乗員を乗せた「小牧丸」がやっとラバウルに到着した。この時のシーンは氏の「大空のサムライ」に印象的に綴られている。

「船はやがてラバウルに入港した。しかしなんという光景なのだ。バリ島が楽園なら、ラバウルはまるで地獄ー。われわれの飛行場は、狭くるしく埃りっぽい、今までのどの基地よりも劣悪なものであり、しかもこの呪わしい飛行場の背後には、気味わるい火山がヌッと二百メートルの高さに突っ立っている。地面は絶えまなく震動して火山はうめくように鳴りながら岩石をこぼし、黒煙をもくもくと噴きあげている、まさしく地獄の一丁目だ。

 上陸すると、われわれはすぐに飛行場に行った。埃りっぽい道路が軽い火山灰で覆われている。

 飛行場は荒涼としている。歩くすぐ後から埃りと灰がもうもうと舞い上がる。基地とはまったくの名ばかりで、飛行機も使い古した零戦が数機おいてあるだけだった。そして、驚いたことには、旧式の九六艦戦までがおどけた恰好で配置されている。見るもののすべてが幻滅だった。」

 坂井三郎は酷い船内環境の船旅で病気で回復傾向にあったが、ふたたび海軍病院への入院となった。かれの活躍は退院後のこととなる。


 十六日、一式陸攻七機と掩護の零戦十四機がラバウルを発進したが、天候不良のため引き返した。


 十七日、再び陸攻七機と零戦十三機でポートモレスビー目指した。

 陸攻隊 指揮官 大尉 山縣茂夫

  第一小隊  一番機 山縣茂夫大尉

        二番機 杉井 操一飛曹

        三番機 長谷川千松二飛曹

  第二小隊  一番機 田中美幸飛曹長

        二番機 宮崎晄三一飛曹

  第三小隊  一番機 畠海國蔵飛曹長

        三番機 及川正雄一飛曹

台南空 指揮官 大尉 河合四郎

  第一中隊 第一小隊 一番機 河合四郎大尉

            二番機 和泉秀雄二飛曹

            三番機 伊藤 務二飛曹

       第二小隊 一番機 大島 徹一飛曹

            二番機 有田義助二飛曹

            三番機 山崎市郎平三飛曹

  第二中隊 第一小隊 一番機 吉野 俐飛曹長

            二番機 本田敏秋三飛曹

            三番機 後藤龍之助三飛曹

       第二小隊 一番機 吉田素綱一飛曹

            二番機 酒井良味二飛曹

  援護隊       一番機 大田敏夫二飛曹

            二番機 宮 運一二飛曹


 陸攻隊は〇六二八にブナカナウを発進、〇六一〇台南空はラエ基地を発進した。台南空の発進時刻が一時間ほど早い。これはひょうとすると、〇六二〇にP40二機が来襲して警戒中の零戦二機が交戦してそのうち一機を撃墜していると「戦時日誌」にあることから、吉野飛曹長の編隊の二機がこれに関わっている可能性が高い。濠洲軍のキティホークは第七五飛行隊のウッズ中尉とバーニー・クレスウェル中佐でクレスウェル中佐は第七六飛行隊の隊長であり出向できており、経験のためにラエへの偵察目的であった。ところが、零戦隊に発見さ追跡され、ウッズ中尉は零戦を振り切ったが、中佐は撃墜され、遺体は濠洲兵が回収して埋葬された。

 陸攻隊は途中杉井機と及川機が故障で離れたため、五機でモレスビー飛行場を爆撃した。濠洲空軍はキティホーク九機が発進して迎撃した。零戦隊で空戦して機銃を発射したのは吉野飛曹長の編隊の三機だけである。キティホークは三機が被弾したが、台南空は後藤機が一発の被弾を浴びた。被弾した箇所が悪かったのか、基地まで帰投したものの着陸時に大破してしまったが、弾丸により負傷していたともいう。また別に酒井良味二飛曹が自爆戦死しているが、交戦によるものではないようで、戦時日誌には「酸素不良によるものと認む」とあるだけで、真相は不明である。


 四月十八日、この日はラバウルで悲劇的なことが起こった。台南空の搭乗員を運んできた小牧丸が爆撃により撃沈してしまったのである。

 小牧丸は昭和八年十一月二十七日に竣工した国際汽船の商船で総トン数八、五二四トン、全長一三九メートルある。昭和十五年十一月徴傭され特設航空機運搬船となる。

 小牧丸は十六日にラバウルに入港して、この日も搭載貨物の荷下ろし作業中で、船内にはまだ航空燃料や爆弾、弾薬など危険物が含まれていた。

 この日濠洲空軍はマローダー爆撃機六機がポートモレスビーを出撃する予定であったが、トラブルなどで結局二機だけで出撃した。リチャード・ロビンソン中尉機とジョージ・カーレ機である。遅れてウイリアム・ガーネット中尉機が単機発進した。「戦時日誌」からの記載からは次のようである。


『一〇二〇Bー26一機乱雲の切間より高度三〇〇米にてRRAに来襲小型爆弾約十五個を投下銃撃せるも我に被害なし 続て一〇五〇Bー26一機低高度にてRRに来襲桟橋横付中の小牧丸に爆弾二発命中火災を生じ荷揚作業中の人員被害南空戦死三名負傷三一名(内一六名重傷)行衛不明八名、四空軽傷三名、小牧丸戦死一名負傷十一名(准士官以上二名)行衛不明九名(准士官以上二名)上空哨戒中の零戦二機之を湾外迄追撃中更に来襲せんとするBー26一機を発見撃墜落下傘降下せる搭乗員二名は陸軍に依頼捕虜とせり目下RRに向け護送中』


 ロビンソン機は飛行場に向い一〇〇ポンド爆弾を次々に投下し、機銃掃射も行なったが損害を与えるまでには至らなかった。カーレ機は波止場に向い碇泊している小牧丸に向けて五〇〇ポンド爆弾四発を投下した。最初の二発は車道に落ち、三発目が小牧丸の船尾付近に命中、四発目は至近弾となった。それでも唯一命中した爆弾は船中の燃料や弾薬などに引火をして爆発を何度か起こした。二機は零戦の追跡を受けたがマローダーは身軽になって快速を生かして一目散に逃げた。

 この様子を病院の窓から見つめている人物がいた。入院していた台南空の坂井三郎である。彼の著書に曰く。

『空襲警報におどろいて飛びおき、病院の窓から見ると、十二機のBー26が、港の上空を低く降下して、岸壁で積荷をおろしていた小牧丸めがけて巧妙に爆弾を投下した。小牧丸は炎々と燃えながら沈没した。すると今度は、濠洲軍の標識をつけたこの爆撃機は、飛行場の滑走路や、そこにあった飛行機に襲いかかってきた。もちろん基地をまもる味方戦闘機隊の手薄を知ってのことであるが、傍若無人の乱舞である。だが、これもしばらくだぞ、いまに見ていろと、私は病院の退避壕からじっと見上げていた。』(坂井三郎署、前掲書)


 この二機のマローダーがラバウル上空から離脱するが、いれかわりに一機のマローダーが現れた。遅れて飛び立ったガーネット中尉機である。悪いことに目の前には、先のマローダーを追跡していた零戦二機があった。ガーネット中尉は零戦を振り切ろうと降下を始めた。だが、笹井機からの銃弾が右翼に集中して右エンジンが火を吹いた。中尉は機を操っていたが火災が広がったために脱出の警報を発した。側面機銃担当のルッツ軍曹とリード伍長が脱出し落下傘降下をして助かったが、二人とも日本陸軍が捕虜として確保した。ガーネット中尉ら五人の搭乗員は機と運命を共にした。

 小牧丸は燃え続け沈没擱座したが、その船体は戦後もずっと桟橋として使用続けられていたという。小牧丸の炎上爆発で結局二十四名が戦死し、四十二名以上が負傷した。それと共に小牧丸で運んできた燃料、弾薬など多数の損失をした。

 司令部ではマローダー爆撃機の低空での速度は零戦より優速で追撃は困難であるとの所見があった。


 捕虜とした乗員二人の尋問から米濠軍に関し得た情報は次の様であった。 

 一、濠洲東部の米空軍情報

 イ、Pー39約二〇〇機、一名はタウンスビルに一五〇機、他の一名はブリスベー

  ンに二五機、タウンスビルに五〇機、シドニーに一〇〇機、メルボルンに七五機

  ありと証言。ほかにPー40約三〇機シドニーとメルボルンにあり。B−26三五

  機タウンスビルにあり。このほかに蘭印方面から逃避したB−17一五機がタウ

  ンスビルにあり。

 ロ、第二十二爆撃大隊(B−26)搭乗員及飛行機は、二月六日サンフランシスコ

  出港、十五日ホノルル着、Bー26組立てのうえ二十日同地発、カントン、パル

  ミラ、スバ、ヌーメア経由ブリスベーンに空輸、三月二十四日着、整備のうえ

  四月上旬タウンスビルに移動し、ラバウルに対する作戦を開始した。

 ハ、整備員は商船にて一月二十一日サンフランシスコ発、二月二十五日ブリスベー

  ン着、約三週間滞在、Pー39約一五〇機を組立て整備のうえ、第二十二爆撃大

  隊に合流しタウンスビルに進出。

   乗船は整備員約二、〇〇〇名を搭載し、他の二隻と行動をともにした。ブリス

  ベーン滞在中に他に米商船約八隻が入港した。

 ニ、Pー39はサンフランシスコまたはニューヨークからパナマ経由、南方迂回航

  路によりシドニーまたはブリスベーンに輸送しつつある模様

二、新型機の概要

 イ、Bー26一八五〇馬力空冷二基、最高時速、緩降下時三五〇哩⧹時、水平時三〇

  〇哩⧹時、後続力、一八〇〜二〇〇哩⧹時で八時間半、爆弾二瓲、機銃十二・七

  粍三挺、七・七粍四挺、防禦はBー17に同じ

 ロ、爆撃法  高度三、〇〇〇米にて進撃、緩降下接敵、機速二五〇哩⧹時、高度

  五〇〇米にて水平爆撃(照準器ノルデン)、更に低空降下しつつ三五〇哩⧹時付

  近にて避退するを常套手段とする。

 ハ、P−39アリソン  一、二五〇馬力一基、機銃十二・七粍二挺、七・七粍四

  挺、航続時間四時間、最高速力四〇〇哩⧹時、Pー40は最高速力三七五哩⧹時

三、三月中旬パールハーバーの状況は、アリゾナ、ユタ、オクラホマ、ウエストバー

 ジニアの四隻の沈没残骸を認める。修理中のもの、戦艦二隻、重巡二隻、軽巡三隻

 で、おおむね三月二十日ころまでに修理完了の予定なりという。港内には駆逐艦約

 二五隻を目撃、飛行場にはPー39、Pー40約一五〇機を認めた。

四、空母は十六年十二月下旬ノーフォークに一隻あったほか不詳

五、撃墜当日、日本艦船攻撃のため、〇二三〇タウンスビル発、ポートモレスビーで

 補給のうえ、〇九〇〇同地発、攻撃後再びポートモレスビーで補給しタウンスビル

 に帰投の予定であった。

  Bー17に関しては明確ではないが、攻撃前ポートモレスビーで補給、ラバウル

 攻撃後、直路タウンスビルに帰投する模様



 ラバウル基地では小牧丸が爆沈するという悲劇がおこっていたが、ラエ基地では敵飛行機の撃滅をはかるべく戦闘機隊だけで攻撃をおこなった。攻撃隊は一二機であった。


  指揮官  大尉 河合四郎

  第一中隊 第一小隊 一番機 河合四郎大尉

            二番機 吉田素綱一飛曹

            三番機 伊藤 務二飛曹

       第二小隊 一番機 大島 徹一飛曹

            二番機 有田義助二飛曹

            三番機 山崎市郎平三飛曹

  第二中隊 第一小隊 一番機 吉野 俐飛曹長

            二番機 本田敏秋三飛曹

            三番機 羽藤一志三飛曹

       第二小隊 一番機 太田敏夫二飛曹

            二番機 和泉秀雄二飛曹

            三番機 宮 運一二飛曹


 台南空零戦隊は〇八三〇ラエを発進してポートモレスビーに向い、〇九三〇頃上空に達したころ、Pー40九機を発見し、編隊のうち第二中隊の太田小隊が空戦に突入した。他の機は発見できずに帰投した。上空にいたのはキティホーク七機であった。レス・ジャクソン大尉は突然現れた零戦に撃たれ、風防、主翼、プロペラに被弾した。一機のキティホークが白い雲をひきながら落ちていくのをボイド中尉が見た。この機はグランヴィル機で彼の遺体は後に回収され埋葬された。太田二飛曹は四機撃墜(内一機不確実)和泉二飛曹は三機撃墜(内一機不確実)と報告しているが、実際は一機だけであり、他に数機が被弾しただけであった。零戦隊は全機ラエに帰投した。


 十九日、ラバウルにBー26が七機来襲し、飛行場および在泊艦船を爆撃したが、負傷者二名のほか被害はなかった。基地の台南空は零戦九機を発進させ爆撃を妨害するように攻撃をかけ、撃墜二機(内一機不確実)の戦果をあげ、他に白煙または黒煙を吐きつつ遁走する機が三機あったが、墜落を確認するまでには至らなかった。調書による記載だけで、戦果の裏付けとなる記録にめぐりあっていない。


 二十日、陸攻隊にとって待望の元山空の九六式陸攻九機がラバウルに進出してきた。四空の陸攻の被害が増大していくなかで、一個中隊の増援は大きな味方であった。

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