第十三話 空襲のもたらしたもの

 昼過ぎ突如水戸北方約一〇粁の菅谷防空監視哨から、敵大型機一機発見の報告が東部軍司令部に入電した。その所要時間は約七分。東部軍司令部は敵機の来襲時期を十九日早朝と判断していたので、空襲警報の発令はこの時点ではしていない。そして十二時十五分ごろ、帝都は米機の攻撃を受け、東部軍司令部は空襲警報を発令した。関東各地の防空監視哨から敵機発見の報告があいついだ。予期せぬまさに奇襲攻撃をうけたのだ。


 米爆撃機来襲の報は中部軍から西部軍へと通報された。一二五五には中部軍で警戒警報、空襲警報が発令され、一四五五には西部軍でもそれぞれ発令された。

 敵機は名古屋、四日市、神戸が爆撃をうけ、和歌山、室戸沖でも銃撃を受けた。監視哨からの報せで防空体制が整い、高射砲にて射撃を浴びせたが、戦果を確認することはできなかった。陸軍航空隊も戦闘機を迎撃させたが、発見しても追跡することはできず、有効な射撃を加えることはできなかった。


 一方、海軍は第二十一航空戦隊の鹿屋空陸攻隊、第四航空隊、加賀飛行機隊を第二十六航空戦隊司令官の指揮下に編入させ、鹿屋空の一式陸攻、九六式陸攻各九機が十八日中に木更津に進出した。

 そして十八日早朝〇六三五木更津空の一式陸攻四機が索敵のため発進した。その内の第四索敵機が米軍双発B25機を発見したが、追跡できずに断念。それ以外はなんら敵艦艇の発見はできなかった。エンタープライズの「戦闘報告」には一二一四レーダーに敵の哨戒機を距離七万ヤードで捕らえ、六万四千ヤードまで接近したとあることから、もうすこし進出していれば発見できたかもしれなかった。それでも一二三〇に陸攻三十機(木更津空鍋田美吉大尉指揮二十二機、三沢空池田拡巳大尉指揮八機)と掩護の六空および加賀の戦闘機隊(各隊十二機)が木更津基地を発進して索敵攻撃にむかった。だが、敵部隊を捕捉することはできず帰還したが、木更津空の一機が不時着(全員戦死)、四空の一機(四名戦死、三名重傷)も土浦航空隊付近に不時着、加賀の零戦六機も霞ヶ浦に不時着するという損害を出している。


 さて、海軍軍令部は当然、米空母の艦載機の攻撃圏内からすれば、空襲は十九日朝であろうと考えていたが、意に反して十八日午後空襲されることになった。それもそのはず、艦載機ではなく、陸軍長距離爆撃機であったからだった。B25は各機とも五〇〇ポンド爆弾四発を搭載し、東京方面一三機、名古屋二機、神戸一機と爆撃し、爆撃後は予定通り中国大陸に向かった。被害は家屋損壊百六十三戸以上に達し、死者八十八名、重軽傷四百五十三名以上に達した。横須賀軍港では空母に改装中の潜水母艦大鯨に爆弾が命中して損傷し、川崎ではガスタンクに火災が発生した。少数の爆撃にしては大きな損害を受けた格好になった。米軍機は奇襲の格好になったため、日本本土では損害なく飛び去った。

 B25の一機は燃料系統のトラブルで中国への飛行を断念、日本海に抜けウラジオストックに着陸し、一五機のうち四機は夜になったため着陸時に大破し、九機の搭乗員は落下傘降下した。ただし、航続距離一杯だったため、一機が日本軍の勢力圏内に不時着して捕虜となり、落下傘降下したもう一機の搭乗員も捕虜となった。八〇名の搭乗員のうち、三名が死亡、八名が捕虜となった。


 宇垣纏参謀長は「戦藻録」に次のように記している。

『四月十八日 土曜日 半晴

 敵のタスクホース急襲。

朝食終了後(七時五十分)軍令部よりの電話は第五艦隊の哨戒艇第二十三日東丸、午前六時半東京の東七二〇浬に於て敵空母三隻発見の報に接すと伝う。俄然司令部は緊張せり。直に対米国艦隊第三法を令し、出動可能部隊を調査、次々と発令を為す。第二艦隊旗艦愛宕は昨日横須賀に帰着、長官参謀長先任参謀等軍令部に出頭し在り。仍て前進部隊に各種の艦艇を一時編入し、警戒部隊を以て支援せしめ、尚台湾西方より帰路に在る機動部隊も急遽本州東方に回航せしむる事とせり。第二十三日東丸は九十噸の漁船にして第一電後消息を絶つ。粟田丸赤城丸等廿一戦隊の仮設巡洋艦駈けつけたるも、単に敵数機の空襲乃至は発見をなしたるのみにて、敵の実体を見ず。午後に到りて他哨戒艇の敵位置通報ありたる外、二十六航戦の木空(木更津航空隊)よりの偵察触接不可能に終れり。該地方面不連続線通信直後にて、視界最初十二粁後廿粁程度にて捜索に困難せるが如し。

午後一時軍令部より東京空襲を受く、敵機千葉方面に不時着、横浜、川崎、横須賀空襲せらる等各種情報這入るも、真偽疑わしもの多く敵の企図判断に苦しむ。敵の西方二百浬付近に在りたる第三潜水戦隊は襲撃の為接敵命令を発す。未だ敵の位置に就き確実なるものなし、触接せる部隊も無く敵を捕捉する事万事の前提なれば、東方追撃を命じたり。該地の日没五時、気はいらつ、一時木空より中攻三十二機零戦十二機出発せるも七〇〇浬進出して已むなく引き返せり。

敵は我哨戒線にかかり前程には潜水艦線あり。我艦船部隊飛行機の動きを無線諜報し到底明朝攻撃し得ざるものとし、其の搭載中の遠距離爆撃機(双発マーチン型或はB二六型とも云う中攻よりも小)数機を発進し、東京九ケ所(爆弾及焼夷弾投下、死者十二名、軽傷を合し死傷百余名、家屋焼失五十戸、全壊半壊等五十戸位)横浜方面次で横須賀(入渠中の大鯨艦首付近に若干損害)名古屋、和歌山、神戸等に投弾、尚一機は新潟県の石油井なる新津を襲えりと云う。之等飛行機は数機を出でざるべく母艦に帰投せるや、沿海州、或は支那に赴きしや、或は足摺岬の南方二百浬付近のソ連船に人員収容を為せるや不明の点多し。一方敵部隊は之等飛行機を発進し、東方に避退せるものの如く、茲に長蛇を再三、再四、逸するに至れるのは残念なる上、予て東京乃至本土空襲は断じて為さしむるべからずと云う余の矜持をいたく害せられたる事無念至極なり。さるにても斯る遠距離より攻撃を実施するとせば、予期せる片道攻撃にも等しき距離なり。搭載機種搭載機数の判定を行い、今後之に対する方策を根本的に改むるの必要生ず。

何れにせよ本日は敵に名を為さしめたり。』

 と、敵にしてやられたことを刻んでいる。


 ルーズベルト大統領は記者会見でこう述べた。

「ドーリットル空襲部隊は、作家ヒルトンの小説『失われた地平線』の中にある神秘なチベットの都市シャングリラから飛び立ったのだ」


 ニミッツ提督はその著書の中で

「東京空襲の物的効果は小さかった。

 東京が爆撃されたことを知った日本国民さえ少なかったが、日本の指導者はこれを知って心配した。この空襲は戦略の進展に、重大な影響を与えずにはいなかったからである。」

 と述べている。


 日本軍は今回の空襲で、本土防空が全然駄目なことを痛感する一事となった。防衛計画の見直しを図るとともに、北方のアリューシャン方面とミッドウェー方面の攻略を早急に企図する必要に迫られた。


 田中新一第一部長は空襲直後その対策について纏めている。

田中はのちにガ島戦の問題について口論におよび馬鹿者と罵倒して辞職し、南方軍へと中央部から遠ざけられた人物である。


「空襲対策の成否如何はすなわち大東亜戦争の荒廃そのものとなるという認識、並びに今回の帝都空襲方式が将来の慣用戦法化される危険多きにかんがみ、将来の防空対策としては、単なる防空兵種や装備問題の範囲に止まらず、戦争指導の立場からも国土防空の完璧を期すべき大局的考慮を必要とする。これがため

一 制空権の確保

 特に太平洋海域及印度洋海域、北方海域における制海権の確保により、今回の如き空襲企図の未然防止に努めること。これがため、必要なる陸海協力作戦を企図し、また陸軍関係としても国内防空の見地から海域におけるわが海軍部隊の行動、進退はできるだけ承知しておくこと。

二 太平洋海域における島嶼領有

 右の目的のため特に防空作戦的見地から太平洋海域における必要な島嶼の領有を図ることの検討。

三 支那大陸における占領地域の再検討

 今回の如き空襲方式が将来慣用せられるという事情にかんがみ、支那大陸における占領地域問題を再検討し、なしうる限り支那大陸地域が空襲後の着陸点となり、若しくは出発点となる危険の減少を図ること。太平洋、支那大陸、ソ連地域、印度洋及び印度大陸によって包繞せられている日本及大東亜地域が、今回の如き空襲方式によって脅威せられる危険は将来特に増大するに至る。かくして、不敗態勢の確立も危険に瀕する。

四 防空のための技術的諸問題

五 疎開の問題

 住民及生産施設の疎開、分散の具体化に着手すべき時である。

六 爾後の戦争指導と作戦指導


 陸軍の戦闘機も、当時まだ主力であった九七戦闘機では速度で米爆撃機に劣り、火力も貧弱であった。ビルマにあった独立飛行第四十七中隊の二式戦闘機が一二.七ミリ機関砲を装備し、速度は格段に速いものであって、機数は少ないものの大いに期待できるものとして、急遽本土防空に戻されたのであった。

 また、対空兵器として高射砲の装備は、東部軍一一〇門、中部軍五六門、西部軍六〇門にすぎず、高射機関砲も東部軍五七門、中部軍ゼロ、西部軍二〇門という貧弱なものであったから、緊急装備で増加された高射砲は、東部軍一〇八門、中部軍二〇門、西部軍一六門にすぎなかった。必要とされたのは東部軍七〇〇門、中部軍、西部軍ともに四〇〇門とされたから、全然足りない情況であった。


 もう一つ問題となるのが捕虜の問題であった。中国において脱出捕虜になった米軍飛行士は次の八名である。

 陸軍中尉  ロバート・ジェー・ミーダー

       チェーズ・ジェー・ニールスン

       ウイリアム・ジェー・ファラウ

       ロバート・エル・ハイト

       ジョージ・バー

       ドーン・エドワード・ホールマーク

   軍曹  ジャコブ・ディー・ドシェーシャ

       ハロルド・エー・スパッツ

 彼らは上海捕虜収容所に収監され、昭和一七年八月二十八日の軍事裁判の結果、「人道に反する行為を犯した罪」により死刑が言い渡された。十月十三日参謀総長は支那派遣軍総司令官にたいし死刑執行を三名とし、残る五名は無期監禁とするよう希望した。これをうけ、十五日上海競馬場でホールマーク中尉、ファラウ中尉、スパッツ軍曹の三名が処刑された。

 のちに大統領ルーズベルトは米人飛行士が処断されたことを知り、帝国政府の行動を非難した。そしてスイス公使を代理としてこの件について照会している。


 そして次のように回答している。

『本件に関し左の通回答するの光栄を有し候

一、帝国政府は帝国領土、満州国又は帝国軍の作戦地を空襲したる後帝国の権内に入りたる敵航空機搭乗員にして取調の結果暴虐非道の行為を為したる者を人道の敵として軍律会議に付し厳重処分せんとするものにして米国政府の有する情報の如く「其の参加せる軍事行動を理由として」重罰を課せんとするものに非ず

 帝国政府の右の措置は人道を尊重し戦争の惨禍を最小限に止めんとする崇高なる道義観に立脚するものなり

二、四月十八日帝国を空襲したる後帝国権内に入りたる米国航空機搭乗員は悪意を以て軍事施設と遠隔せる病院、学校、民衆等の非軍事施設を爆撃焼夷せるが特に悪質なるは校庭に於て遊戯中の頑是無き学童を確認して故らに之に機関銃掃射を加え殺傷せる事実なり右搭乗員は前記の事実を陳述すると共に之に当然の行為なりと主張して反省する所無し斯の如き者は人道の敵にして許し難き罪人たるは米国政府の了解する所なるべし帝国政府としては右の如き罪人を俘虜として取扱うことを得ず

三、右搭乗員は軍律会議に於ける取調の結果罪状明白となりたるを以て軍律に照し死刑の判決を受けたり尤も其の大部分に対しては特に減罰を行い一部の者のみ死刑を執行しられたり

四、帝国政府は帝国領土、満州国又は帝国軍の作戦地を空襲したる後帝国の権内に入れる敵国航空機搭乗員中暴虐非道の行為を行わざりし者は之を俘虜として取扱う意嚮なり

右申進傍本大臣は茲に重ねて閣下に向て敬意を表し候 敬具 

  昭和十八年二月十七日

            外務大臣  谷 正之

 瑞西国特命全権公使

   「カミーユ、ゴルジェ」 閣下


 この裁判による死刑を云々するのは、東京裁判でも逆に同じように死刑となった者たちがいることを知らなければならない。


【参考文献】

 この章を執筆するにあたり、以下の文献資料を参考とさせていただきました。

防衛庁防衛研修所戦史室 「戦史叢書 南太平洋陸軍作戦⑴」       

         「戦史叢書 大本営海軍部・連合艦隊⑵」

         「戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦⑴」

         「戦史叢書 北東方面海軍作戦」

         「戦史叢書 本土防空作戦」

                   以上 朝雲新聞社 

柳場豊著 「南海支隊グアム・ラバウル占領秘話」

岡之雄著 「伊二六潜米西岸に出撃す」

   以上、『太平洋戦争証言シリーズ⑧戦勝の日々』所収 潮書房

北本大吉著 「東京初空襲を失敗させた 第二十三日東丸の殊勲」

     (雑誌丸 エキストラ版No.89、潮書房)

実松謙著 「特攻第二十三日東丸暁に死す」

      (雑誌丸 エキストラ版No.73、潮書房)

甲斐克彦著 「ドーリットル東京空襲」

野村実長  「ドーリットル空襲の意味」

 (歴史群像 太平洋戦史シリーズ④ 、学習研究社)

参謀本部編 明治百年史叢書「杉山メモ 下」 、原書房

宇垣纏著  明治百年史叢書「戦藻録」 原書房

佐藤暢彦著 「一式陸攻戦史」 潮書房光人新社

柴田武彦・原勝洋著 「日米全調査 ドーリットル空襲秘録」

                     PHP研究所

日辻常雄著 「第一次K作戦」

渡辺大助著 「東京初空襲」

      (歴史と旅臨時増刊号 「太平洋戦史総覧」所収 

               平成三年九月、秋田書店)

世界の艦船増刊第一六三集 『米空母「ヨークタウン」級」

                    海人社

イアン・トール著 「太平洋の試練 真珠湾からミッドウェイまで上」

                文芸春秋 2016

チェスター・W・ニミッツ、エルマー・B・ポッター共著

          「ニミッツの太平洋海戦史」 恒文社

[国会図書館デジタルコレクション]

 椿英児著「弔鐘鳴り止まず:南海支隊の栄光と終焉」

                  昭和出版

サミュエル・E・モリソン著 「太平洋戦争アメリカ海軍作戦史 第二巻」 

                    改造社

 稲葉通宗著 「針路東へ」  鱒書房

横浜の空襲を記録する会編 「調査概報 第八集」 横浜市

 川口市編 「川口市史 通史編下巻」 川口市

松平康夫著 「荒川区の歴史」 名著出版

葛飾区役所編 「葛飾区史 下巻」 東京都葛飾区役所

[WEB]

USS ENTERPRIISE CV-6 ( http://cv6.org)

Task Force 16 Citation

Enterprise Action Report

TF16 Action Report

Doolittle Raid Aircrews

[アジア歴史資料センター]

  REf.C19100030800 「ラバウル」攻略作戦 南東太平洋方面作戦記録 

                その1 (南海支隊の作戦)

  REF.C22110111700  「機密作戦日誌 第二号(ラバウル攻略作戦の部) 

                南海支隊

  REF.C13120034800~13120035600

      「 戦時日誌 第五航空戦隊 (十七年二月)」 

  REF.C08030058200~08030058700  「昭和一七年一月五日〜一月

     三一日 R攻略部隊支隊戦闘詳報(ビスマルク)

  Ref.C08030120900~08030121500 「戦時日誌戦闘詳報 第六水雷戦隊 

     昭和十七年一月〜二月」

  Ref.C03030066300~08030067000 「戦時日誌 第十九戦隊 昭和十六年

     十二月〜昭和十七年一月」

  Ref.C08030755900~08030756200 「軍艦津軽戦闘詳報」

  Ref.C08030079300~08030079600 「戦時日誌 第一水雷戦隊 昭和十七年

     一月〜二月」

  Ref.C0805154900~0805159500 「千歳空戦斗行動調書 昭和十七年二月」

  Ref.C08030020500 「第六艦隊戦時日誌 昭和十七年二月一日から二月

           二十八日」

  Ref.C13120106900~C13120107700 「南洋部隊基地航空部隊戦闘詳報第

        十一号 第二十四航空戦隊戦闘詳報第十一号」  

  Ref.C08030215400 「第一監視艇隊戦時日誌 ⑴」

  Ref.C08030215500 「第一監視艇隊戦時日誌 ⑵」

  Ref.C08030220700 「第二監視艇隊戦時日誌 ⑴」

  Ref.C08030220800 「第二監視艇隊戦時日誌 ⑵」

  Ref.C08030220900 「第二監視艇隊戦時日誌 ⑶」

  Ref.C08030226200 「第三監視艇隊戦時日誌 ⑴」

  Ref.C08030226300 「第三監視艇隊戦時日誌 ⑵」

  Ref.B02032456700 「 2.昭和17年4月米機東京空襲関係(米搭乗員

    処刑関係を含む)/5.米国ノ宣伝ニ対スル駁論作成方神川教授ニ依頼

    関係」(外務省外交史料館)

  Ref.A05020250900 「昭和十七年四月十八日空襲被害状況」

                    (国立公文書館)

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