第九話 帝都東京爆撃計画
米国の日本初空襲のアイデアーそれも陸軍機を空母から発進させて使用するーのは、意外に早くに考えられていた。
真珠湾空襲直後の一二月二四日、ワシントンで開かれた米英両国の首脳と参謀長会議の席上で、アーノルド陸空軍司令官に一つのヒントがひらめいた。北アフリカ進攻作戦についての協議をしているとき、同方面への飛行機輸送に「アメリカ海軍の空母が使える」というキング司令長官の言葉が、彼の注意を引いたのだった。
キングはアーノルドの関心に気づいた様子もなく、三隻の空母の一隻に七五から八〇機の海軍戦闘機、もう一隻に八〇から一〇〇機の陸軍戦闘機を、残りの一隻に陸軍の爆撃機と輸送機を積んではどうか、という提案をした。アーノルドは空母に陸軍の爆撃機を輸送するというアイデアはこれまで考えたことがないものだった。しかし、実際には問題点が考えられるので、参謀を呼んでメモを渡して、研究するよう命じた。それは、空母を利用する陸軍爆撃機の輸送は可能だとしても、空母からの発艦が必要になる。それには現存するどのタイプの機種が最適か。そのような経験は陸軍爆撃機にはない。最小限どれほどの長さの飛行甲板が必要か。
年が明けて一九四二年一月一〇日、ポトマック河に繋留された旗艦ビィクセンのキャビンで寛いでいるキングを、不時の訪問者があった。彼の作戦参謀フランシス・S・ロー大佐だった。
「課題の日本爆撃について、あるアイディアを聞いて欲しい」
彼は続けた。
「日本軍は沿岸より三〇〇浬の外方にまで作戦可能な陸上基地航空部隊を有しており、かつ監視艇は五〇〇浬の距離にあって哨戒を行っている。この二段構えの防衛を破って英戦艦の二の舞を演ずることなく、わが母艦攻撃部隊を如何にして進入させることができましょう。海軍の攻撃機では航続力が足りません。陸軍の双発爆撃機を使用できれば申し分ありませんが、航空母艦からの発進と着艦ができるかどうかはわかりません。発進は可能でしょうが、着艦となると不可能です。そこで発進した爆撃機は爆撃終了後、中国本土へ直行し、中国側の飛行場へ着陸することができれば、この作戦は可能となります」
ロー大佐は竣工を間近にした空母ホーネットの工事のチェックをすまし、ノーフォークの海軍工廠から帰ったばかりだった。ローはノーフォークからの帰りがけに、離陸前の飛行機から見た光景を話し始めた。それは基地の滑走路には原寸大の空母飛行甲板の輪郭が描かれていて、離着陸の訓練をしていた。それも陸軍の双発爆撃機のパイロットが訓練をしていたのだった。興味を引いた訓練内容だった。
「空母から陸軍の爆撃機が発着できるか」
キング長官はローに航空参謀のダンカン大佐と相談するように命じ、いっさいの他言を厳禁した。ローは早速ダンカン大佐に電話をして翌日会見を約束した。
翌日、ローはダンカン大佐に会うなり、二つのことを質問した。
陸軍の双発爆撃機は空母に着艦できるか。
この爆撃機が満タンの燃料と爆弾を積んで空母から発艦できるか。
ダンカンは第一の質問に対しては即答した。
「双発爆撃機は空母に着艦は無理だ。それは、万一着艦できたとしても、エレベーターが小さすぎて格納庫に運ぶことができない。それと、あの爆撃機は機種に降着装置があり、着艦フックを着けても使うことが不可能であり、しかも強度不足だと考えられる。以上に理由で無理だが、次の質問に対しては、可能性はあるかもしれない。研究してみましょう」
ダンカンは当時の主力爆撃機、B25とB26の性能を見比べた。
B25 B26
全 幅 二〇・六m 一九・八m
全 長 一六・一m 一七・八m
全 高 四・八m 六・〇m
自 重 九・二t 一〇・一t
総重量 一一・八t 一二・三t
最大離陸重量 一五・四t 一五・四t
最大速度 二四六ノット 二七五ノット
巡航速度 二〇五ノット 二二六ノット
航続距離 一、三〇〇浬 九九八浬
最大航続距離 二、三九〇浬 二、四三〇浬
爆弾搭載量 二・四t 二・二t
この二機を比較した結果、ダンカンはB25を選んだ。そして、五日後には、三〇ページにも及ぶ報告書をまとめあげた。それは、B25に2000ポンドの爆弾を積み込み、二〇〇〇浬飛べるように、補助タンクの増設を行い、しかも空母ホーネットを利用して運び、日本本土五〇〇浬の地点で発艦して、爆撃後は中国大陸へ着陸するという作戦だった。
一月十六日、ローとダンカンから報告を受けたキング長官は、陸空軍司令官アーノルド中将に説明するよう支持し、翌日二人はアーノルド中将に会い、説明した。中将は乗る気満々だった。キング長官は、アーノルドと会談し、陸軍と海軍との責任分担を決め、海軍側の担当はそのままダンカン大佐が任命された。陸軍側はドーリットル中佐の名前をあげた。選んだ理由は彼の経歴であった。
ジェームス・ハロルド・ドーリットル中佐は、一八六九年一二月カリフォルニア州アラメダに生まれた。彼が一二歳のとき、アマチュアのボクサーになり、一九一二年アマチュア・フライ級チャンピオンの座を獲得した。とともに、空を飛ぶことに興味を持ち、一五歳のときに、雑誌「ポピュラー・テクニックス」に出ていた設計図をもとにグライダーを組み立てた。しかし、グアイダーは失敗する。今度は、エンジン付飛行機を作ろうとするが、これも失敗に失望する。その後、カリフォルニア大学で採鉱技師になるための勉強をするが、その最中第一次大戦が勃発し、彼は陸軍通信部隊航空部の所属して参戦した。
戦後、ドーリットルは陸軍航空隊に残り、新しい飛行機の時代を切り開くことを試みていった。一九二二年にはフロリダ州ジャクソンビルからカリフォルニア州サンディエゴまだ二十時間三〇分をかけて横断飛行するレコードを打ちたてた。マサチューセッツ工科大学の大学院で航空工学博士の学位も得た。さらには、水上機の操縦も学び、国際大会のレースで一着となり、スピード記録も立てている。
陸軍を辞めたあとは、シェル石油会社に就職し、航空を進歩させることに没頭し、会社にも実用一〇〇オクタンガソリンの開発生産を進言し、実現をみた。
一九四〇年七月、第二次大戦が激化してくるとともに、アーノルドは再びドーリットルを召集し、陸軍少佐として任務についた。
B25の性能は申し分なかったが、問題は普通千二百から二千フィート滑走して離陸するが、空母ホーネットの飛行甲板は全長七百八十フィートにすぎないことだった。
二月一日、ノーホーク沖で、海軍大尉が操縦するB25が見事にホーネットから発進させてみせた。これで最大の難関がクリアーできた。あとは陸軍パイロットの訓練とその成果をみせる実戦だけであった。
B25に搭乗するクルー達九十名は、オレゴン州のペンドルトン基地で、沿岸の対潜哨戒に就いていた第一七爆撃航空隊の隊員から選ばれた。彼らは、フロリダ州ペンサコラ海軍基地に近い陸軍のエグリン飛行場に隔離された状態で、短い滑走での離陸訓練を始めた。教官が海軍のパイロットであったが、「重要で、危険で、面白い」任務の為という以外は、何も知らされなかった。
海軍中佐のヘンリー・F・ミラー中佐が陸軍の操縦兵に短距離での発進技術の教育を施した。地上に白線で引かれた距離を示す目盛りを示し、三万一千ポンドと搭載した状態の爆撃機を七〇〇〜七五〇フィートの滑走で二回発進した。彼らは自信をつけた。空母からなら三〇ノットの速力で走れば、揚力の発生の状況からもっと短い距離で離陸できるからだ。爆撃訓練も高度千五百フィートの低高度で実施された。しかし、爆撃照準器は優秀なノルディではなく、代用の代物に変更された。万一のためにであった。
二月二十九日、ドーリットルはフロリダにある基地を訪れた。作戦室に集合した志願兵達は、経歴に満ちた中佐の言葉を待った。
「諸君。諸君の中に、これから参加することになる任務を、これまでになく危険なものだと認識しない者があれば、訓練が始まる前に下りてもらいたい。そんな列外者をわざわざ訓練に参加させて、時間や金を無駄にする気は全くないからだ。諸君が列外に出るのも残るのも、もちろん自由である」
「中佐、われわれの任務は何ですか?どこに行くのですか?」
「その質問には、今は答えられない」
「しかしだ。訓練が進行するにつれて、諸君らもそれが何の意味するのか、おぼろげながら気づくだろう。私には推理ゲームを楽しむ時間はない。そこで君達に重要な点を強調しておく。この計画の全てが秘密であるということだ。完全に秘密なのだ。そこで君らは、この基地で見たこと、そして訓練中にやるように命じられたことを、家族に洩らしてはならない。仮に諸君らが何らかの推測を得たとしても、それを口にしてはならない。君達同士で話してもいかん。一人残らず、全員だ」
作戦室は静まりかえっていた。
「さて、下りたい者はいないか」
誰も下りたい者などいなかった。重要な任務であることが推測できたからだ。翌日から訓練は始まった。昼夜間問わず、飛び続けることで、コンパス、計器類のチェックは言うに及ばず、救命具の確認に至るまで、細部にわたってその訓練は叩き込まれた。特に、短距離での離陸の訓練は、徹底しており、滑走路上に白線で二〇〇、三〇〇、五〇〇ヤードの距離で仕切られて旗がたっていた。
そのうちに改造されたB25がクルー達の前に現れた。それは、ノルデン爆撃照準器を外して簡素化した照準器であり、爆弾倉への燃料タンクの増設、胴体下部の銃座の廃止、尾部に擬装した銃座の設置などが施されていた。どこを爆撃するか不明であったが、長距離を飛行し、低空爆撃を行うことだけは理解できた。
訓練は成功裏の内に終了し、あとは実戦を待つだけだった。四月一日、サンフランシスコ・アラメダ航空基地のドックで、十六機のB25はホーネットに積み込まれた。二十二機が搭載可能であったが、実際甲板には一五機分のスペースしかなく、一機はハルゼーの同意によってなんとか十六機を搭載することができた。
空母ホーネットは一九四〇年十二月十四日に進水し、翌四一年十月二十日に就役したばかりのヨークタウン級の三番艦であり、排水量一九、八〇〇トン、全長二五一・三八メートル、全幅三三・三七メートル、最大速力三三ノット、三八口径一二・七センチ単装両用砲八基、二八ミリ四連装機銃四基、一二・七ミリ単装機銃二四基、搭載機九〇機という、本格大型空母である。
機密保持のために、この空襲の計画の全体像を知らされていたのは、キング、ロー、ダンカン、ニミッツ、ハルゼー、ミッチャーと陸軍のアーノルド、ドーリットルだけであった。
陸軍飛行兵の訓練は空母でおこなわれ、海軍中尉からの日本についての講義や、外科医による応急処置、砲術、航海術、気象学についての講義を短期間で詰め込んだ。当然、海上を飛行するので天測も行った。
最良の攻撃方法も検討が行われた結果、日没三時間前に離陸し、夜明けとともに東京上空に到着するのが最も安全で、理想的な爆撃条件で、奇襲も保証されると考えられた。だが、このj方法は夜間での空母からの発艦が困難であることが予想され、離陸のために甲板を照明しなければならないことだった。
第二の案は、夜明けに発艦し、早朝に爆撃をおこない、暗くなる前に目的地に着陸するというもので、我々が危険にさらさえれるリスクを受ける可能性があるというもので、第三案は、暗くなる直前に発艦し、夜間に爆撃をおこない、早朝に目的地に到着するというもので、このためにまず一機が先行して出撃し夕暮れに東京上空に到着して焼夷弾で火災を発生させることにより、後続機にたいして目標を照らすことであった。
最終的には第三案の方法でおこなうことになったが、その予定は思わぬ形で狂ってしまった。
米海軍の作戦遂行は決定した。陸軍爆撃機を甲板上に積載した空母ホーネットは出港したのである。真珠湾奇襲攻撃の報復をする絶好の機会が訪れようとしていた。
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