第三〇話 ビルマ作戦の完了

 第十五軍司令部はマンダレーでの英印軍の本格的な会戦がなかったことから、敵戦力は弱体化していると判断し、さらなる追撃を命令した。その目標地点は怒江(サルウィン河)であり、ビルマと支那の国境線であった。


 軍の五月一日頃の敵情判断は次のように把握していた。

一 中国軍は、わが包囲網から脱出することに焦慮している模様で、第五軍はマ

 ンダレーからミイトキーナ方面に、第六軍は東部シャン州からケンタンを経て

 車里、仏海方面へ脱出を図るであろう。

二 英印軍は右に伴い、イラワジ河およびチンドウイン河の中間地区をミイトキ

 ーナ方面に退避している様子であるが、状況によっては、中国軍との協同を断

 念して、インパール方面に退却することも考えられる。


 第五十六師団は敵主力部隊を追撃して、ミートキーナ方面に向かうことにした。軍はこれに対し、あくまで怒江に向かう方針を取り下げなかったが、師団のミートキーナ攻撃も認めた。

 師団長渡辺中将は、平井部隊をラシオーバーモーミートキーナ方面に向かわせ、歩兵第百四十八連隊主力を以て怒江に向かわせることにした。

 平井部隊(捜索連隊、独立速射砲一中隊、野砲兵一小隊、野戦重砲兵一大隊、工兵一小隊、衛生隊一部)は、先遣隊となって四月三十日ラシオを発し、センウイに向った。センウイ以北では重慶軍第二十九師団が陣地を構築していたが、迂回、包囲攻撃を行なって殲滅状態の打撃を与えた。


 平井部隊はクッカイで頑強な敵と交戦したが、集中砲火を浴びせて撃退し、五月二日夜半モンユの三叉路に進出、この時、バーモ方面から退却する敵自動車部隊と遭遇戦となりこれを撃退したが、多数の中国軍幹部を死傷させ、英軍の大佐顧問を捕虜とした。

 ナンカンの橋梁がまだ破壊されていないことが判明し、平井先遣隊は三日〇三〇〇にナンカンに向け急行した。道路はこれまでと違い舗装はされておらず凸凹の道を進んだ。途中敵兵と遭遇したが、これを蹴散らして進み、夜明けごろにナンカンの橋梁が目に入った。

 対岸には敵がまだ陣取っていた。日本軍を発見するや猛然と反撃に出た。平井部隊は降車して展開することなく、そのまま橋梁に突入した。敵も当然対岸の橋に進入し、日本軍との橋上での銃撃戦となったが、日本軍はそのまま対岸まで自動車で突っ込んだ。対岸の敵兵は日本軍の気力に呑まれてか、抵抗をやめて投降していった。約九百名が捕虜となった。橋梁には爆薬が設置済みであったが、平井大佐はその爆薬の導火線を切断させた。流れのはやい河幅約百米のシュエリー河の橋梁は破壊寸前で掌中にできたことは最大の戦果であった。

 平井部隊は休息ののち、バーモにむかい、同日夜敵を夜襲のうえ撃退してバーモを占領した。夜明けとともに市街の調査をしたところ、河畔には軍需品を満載した船十七隻が放置されており、岸辺にも軍需品が山のように蓄積されていた。飛行場には飛行機の組立て中のものを含め多くの部品があり、倉庫には米二万俵、ドラム缶八千本が残されていた。


 怒江に向っていた松本部隊は、途中で坂口支隊が到着したことをうけて、坂口支隊が怒江に向かうことに変更となり、松本部隊はバーモを経てミイトキーナに向かうよう変更となった。

松本部隊は進撃中に退却する敵と度々遭遇した。特に渡河して退却する部隊などは、多数の自動車を乗り捨ててまでも一目散に逃走し、三百両近い自動車を鹵獲することもあった。

 七日にはミートキーナの対岸に進出、八日夜明け前にはイラワジ河を渡り、ミートキーナの停車場を占領し、午前中には市街地を占領した。

 ミートキーナはラングーンから約千二百粁北にあり、この要衝を抑えれば、中国軍は昆明方面との連絡が不可能であった。


 一方、松本部隊と交代した坂口支隊は怒江の線にむけ前進を続け、五月五日拉孟の地に達した。眼下に見える怒江の恵通橋は重慶軍が爆破して破壊されていた。そして、一部部隊をもって騰越を占領した。この二つの地点はのちに玉砕の運命を遂げる地でもあった。

 

 一方、マンダレーに五月一日入城した第十八師団は、態勢を整理したのち、三日より行動を開始した。木庭支隊にはマンダレーーラシオ道沿いを掃蕩しつつ東北に進み、師団主力はサジを経てタウンギー、ロレイム方面に反転し、八日ワンコンタンで木庭支隊と師団主力は合流した。

 ワンコンタンでは敵軍が高地を利用して陣地を構築して立て籠っていた。伊藤大隊が攻撃をかけたが抵抗激しく、木庭支隊が現場に到着し、包囲攻撃を仕掛けた。九日夜ようやく敵を撃破し、後方のナンバン河の橋梁を無傷で奪取した。

 木庭支隊は追撃隊として敵を追い、東方タカオに向かった。

 

 第三十三師団は、五月一日先遣隊をもってマニワニ突入し、反撃して来襲する英印軍を撃退し、三日同地を占領した。

 桜井師団長は、原田大佐率いる先遣隊をイエウに派遣し、師団主力部隊はチンドウィン河の渡河をすすめた。

 原田先遣隊は敵と遭遇したがこれを撃退して、四日正午にはブダリンを占領した。

 師団長は第二一三連隊を基幹とする荒木支隊にたいし、タマンティに向け敵の追撃を命じた。

 原田先遣隊は敵を排除しながら前進し、六日夜イエウを夜襲のうえ占領した。

 七日、先遣隊は北上してきた第五十五師団の将兵と出会い、握手を交わした。


 荒木支隊は、五月四日夜アロン発、主力をもってチンドウィン河左岸地区を、一部をもって水上機動によりカレワに向かった。この地方のチンドウィン河両岸はジャングルに覆われており、満足するような道はなかったが、日本軍は道という道がない所を前進していった。めざすカレワの道路上には英印軍の自動車があふれかえっていた。荒木支隊は敵の退路をまず遮断したうえで掃蕩を開始した。英印軍はもはや自動車を棄て山中に逃げていくしかなかった。荒木支隊が鹵獲した敵の兵器は、戦車二十数両、火砲約四〇門、自動車約八〇〇両という膨大な数に達した。荒木支隊はさらに前進を続け、四百キロ先のタマンティ目指した。五月三十日、部隊はタマンティに達した。


 福家支隊は、五月九日ジゴンを発し、十二日朝コーリン付近で敵と遭遇しこれを撃退して北上、ウントウ付近で中国軍約六百と交戦してこれを撃退した。さらに前進を続けた支隊は、十四日第五十五師団と合流した。十八日はミイトキーナの西方モガウンに達し、その後北西にむかい、二十にはカマイン、二十三日にはロンキンに達し、ここで中国軍約三千と交戦してこれを撃退した。ここから西は獣道同様の道を進み、三十一日パホクまで達し、付近の掃蕩を終えた。


 福家支隊を続行していた原田部隊は十六日インドウから分かれて北西に進み、十九日マシンで装甲車を有する中国軍と遭遇してこれを撃退した。


 第五十五師団は五月四日マンダレーに終結後、北上を開始した。川島騎兵隊は、同日マンダレー北方のマダヤを占領、七日にはマダヤから北方四十キロにあるシングーを占領し、同付近の掃蕩にあたった。

 棚橋部隊は、自動車をもって追撃し、五日サゲインを出発北上し、六日シュエボを占領。七日北方のキヌを占領、一部をもってその西方にあるイエウを占領して、付近の掃蕩にあたった。

 宇野部隊は先遣隊をもって五月八日出発、主力は翌日出発。部隊は舟艇機動でイラワジ河を遡行し、先遣隊は十二日早朝カーサに到着、第五十六師団と連絡をつけたのち、遡行を続け、十四日バーモの到着、そのご反転して十六日西方にあるキャウキに上陸し、敵を掃蕩しながら、十九日北西にあるモーニンまで進出した。主力部隊も掃蕩をつづけながらミイトキーナに進出した。以後、宇野部隊はミイトキーナの警備に従事することとなる。


 怒江付近を制圧した第五十六師団は、五月二十四日頃より中国軍による反撃作戦が始まった。昆明防衛に不安を覚えた蒋介石からすれば、この反撃は当然ともいえた。蒋介石は第七十一軍の三コ師団をもって反撃させたのである。

 拉孟には歩兵第百四十六連隊の一コ大隊を基幹とする部隊、龍陵には坂口少将の歩兵団司令部と第百四十六連隊の一コ中隊、工兵一コ中隊があるだけであった。中国軍は龍陵に迫った。坂口少将は寡兵でよく戦ったが、苦境に陥った。

 渡辺師団長はこの状況から歩兵第百十三連隊の松井部隊に急遽龍陵方面への移動を命じた。軍もこの方面の戦況を重要視し、第十八師団から歩兵三コ大隊、山砲兵一コ大隊を抽出して、第五十六師団に派遣した。藤村大佐は第五十六連隊の二コ大隊、第五十五連隊の一コ大隊、山砲兵一コ大隊などを率いて急行した。これにより、形勢は日本軍に有利となり、中国軍を撃破して、六月十日前後には怒江右岸地区の掃蕩は終焉をみた。


 竹下参謀は前掲手記の中で次のように記している。


『残敵の大部は、イラワジ河とチンドウィン河の抱く中間地点を彷徨していた。軍はこの地区にたいし、十八、五十五、三十三師団を投入し、カレワは五月十二日に、ホマリンは同二十四日に、三十三師団によって占領された。

 かくして、英印軍の西進を遮断し、随所に敵を捕えたが、敵の逃げこんだフーコン谷地は交通網もなく、未開の山地である。掃蕩戦を打ち切ったのは六月下旬、雨季の到来のころとなった。

 この間、敵は戦力もなく、補給もなく、飢に苦しみつる彷徨し、多大の死体を遺棄した。それでフーコン谷地は「死の谷」と呼ばれた。

 一方、五十六師団は有力な一部をもって、ラシオ街道を怒江に向かって進撃し、五月五日、拉孟東側怒江の線を確保した。

ここに軍は、南方軍の命令によるビルマ戡定の雄渾壮大なる大作戦を完遂したのであった。

 筆者はこの追撃戦のさい、五十六師団の平井先遣隊に同行していたが、途中、いくつかの思い出がある。

 平井部隊は五月二日夕、シュリー河にかかるナンカンの鉄橋が(長さ百メートル)がまだ破壊されていないことを知ると、同橋梁を確保するため、夜を徹して急進した。

 三日未明にはナンカンに達し、そこを守備する敵の一斉射撃を物ととmのせず、乗車のまま橋梁に突っ込んだ。敵の部隊は対岸から渡りはじめたが、それに向けて機関銃の射撃を浴びせ、倒れる者、狼狽して四散する敵兵のなかを突破して、対岸に達した。

 対岸にあった約九百名の敵は、その気魄に圧倒され、無抵抗のまま投降した。これらは英印軍部隊であった。

 ナンカンの橋梁は、山中にある高い吊り橋で、橋梁の各所には爆薬が装着されていた。平井大佐はそこを通過中、副官に命じて導電線を切断させた。

 この大吊り橋を無事に占領したことは、その後、バーモ、ミイトキーナに向かう追撃のためには価値絶大で、平井部隊の殊勲であった。

 また、ナンカン戦闘の前日には、重慶将官以下二十数名の幹部を倒し、英軍大佐を捕虜とする戦闘をまじえている。筆者は師団司令部に連行されてきたその英軍大佐を尋問する場に居合わせたが、敵中にあって従容たる彼の態度に、さすがと思う感慨をもった。

 平井部隊はナンカン占領後、小憩ののち、なおも追撃をつづけた。三日夜にはバーモに到着し、小戦ののち、同地を占領した。その地にあった敵は印・緬・中混合の千名ほどで、翌朝、残敵の一部がイラワジ河に飛びこんで、泳いで逃げるのを目撃した。

 いくつもの頭だけが浮かんでいるのを狙撃するのだが、弾丸はなかなか当たらない。また、この地で捕獲した軍事文書のなかに重慶第五軍の命令書などがあり、五軍の司令部が近くこの地を通過したことも知った。彼らはマンダレーから河船によってこの地まで来たと察せられ、家具、兵器等の物資が河岸に山積されていた。

(中略)

 十五軍は三月七日、南方軍総司令官寺内寿一大将より、

「追撃にあたっては、遠く緬支国境に向かい敢行し、かつビルマの敵を一掃せよ」

 とに任務を受けていたが、五月末までにその任務を達成した。

(中略)

 南方軍総司令官寺内大将は、五月十九日、参謀総長にたいし、ビルマ戡定作戦の作戦任務を完遂したことを報告した。

 また六月十五日には、第十五軍戦没者慰霊祭がメイミョウで盛大に実施され、式後、飯田第十五軍司令官は左の諸隊に感状を授与した。

 第三十三師団(師団長桜井省三中将)

 歩兵第二一五連隊(連隊長長田棟大佐)

 歩兵第二一四連隊(連隊長佐久間喬大佐)

 第五十六師団(師団長渡辺政夫中将)

 捜索第五十六連隊(連隊長平井卯輔大佐) 』


 日本軍のおさめた戦果は次のようにまとめられた。

   遺棄死体     二七、四五四

   捕 虜       四、九一八

   戦車          二七〇 

   装甲車         一三四

   火砲          一〇四

   機関車         三三三

   貨車        六、〇〇〇

   自動車       七、三八三

   機動車         三八八

 日本軍損害

  戦死および戦傷死

   第十八師団  将校 一三 下士官兵  一一〇

   第三十三師団 将校 四五 下士官兵  五六一

   第五十五師団 将校 三六 下士官兵  六一九

   第五十六師団 将校 二三 下士官兵  二二一

   その他    将校 二九 下士官兵  三四二


 第十五軍司令部は八月、ビルマ作戦により得られた教訓をまとめている。一部を抜粋紹介しよう。

一、ビルマ作戦の地位及特異性に就て

 緬甸作戦は大東亜戦争の最初より計画せられありたるものに非ずして、初期主力軍の一翼にありて、その作戦を有利ならしむるに発足し、主力軍方面の作戦が予想以上に有利に進捗すると共に、軍自体の作戦も一段落を画するに至るや、次でラングーンを占領して、英支合作の拠点を粉砕し、更に北進してビルマにある英支連合軍に対し、殲滅戦を強要し、遂には緬支国境を越えて怒江の線を確保して対支圧迫を強化するに至る等幾多の階梯を経て進展せり。

 従てこの間、作戦は次等作戦より決勝作戦へ、また軍の地位は一部正面軍より主力正面軍へと転位し、この間幾多波瀾に富める作戦を経験するを得たり。

 ビルマ作戦は、ビルマの広袤(東西南北とも広いこと)、兵要地誌、敵軍の特性等より見て、幾多の特異性あるのみならず、第一期作戦(ラングーン攻略まで)と第二期作戦(その後の作戦)とは、その作戦の本質、兵力及地勢の特性等に差異さあるため、稍々趣を異にするものありと雖、通有的特異性の主要なるものと述ぶれば概ね左の如し。

イ、敵は英印、緬、支の連合軍にして、我はその弱点を捕捉し、巧にこれに乗じ

 得たこと。

ロ、作戦の終始を通じ、敵に運動戦を強要し得たること。

ハ、思想戦的地位は、我に有利にして、ビルマに対しては宣伝謀略の効果を発揮

 し得たること。

ニ、作戦地域広大にして、作戦距離長遠となれること。

ホ、熱地作戦の特性を遺憾なく発揮せること。

ヘ、複雑険難なる地形(山地、河川等)を克服して遺憾なく作戦を遂行したるこ

 と。

ト、兵力特に砲兵力その他対戦車及防空兵器に於て十分ならざりしこと。

 初期空中勢力ない於て不十分なりしこと。

チ、後方補給甚だ不如意にして各兵団、部隊は殆んど追走を待つことなく、極度

 に現地資源を利用して作戦を遂行したること。


 本次作戦特に第二期作戦の進捗速度が予想以上に迅速なりし所以のものは、各種の原因ありと雖、彼我両軍が雨期の交感を考慮したることと、敵支那軍背後の要衝ラシオを迅速に攻略し、その退路を遮断したることは重要なる素因なりと謂うべし。

 即ち、我軍は雨期以前にビルマ作戦に結末を告げんとして上下必死の努力を傾注せしに反し、敵は雨期迄確保せんとせしエナンジョン、ピンマナの線(この線以北の地区は雨期の影響少し)を失うに及んで全く戦意を喪失して退却に決せし折柄、我第五十六師団が敵の外翼を席捲し、忽ちラシオを攻略し、爾後更に躍進して全く敵の退路を遮断せしため爾後の作戦は一瀉千里の感ありき。


二 敵連合軍の戦力に就て

 英印軍は、その装備特に機械化及砲兵装備に於て優勢なりと雖、その戦意に於ては見るべきものなかりき。終始を通じ積極的攻勢を実施せざりしに拘らず、築城を怠り、或は正面火力の発揚には巧なるも、ジャングル戦の訓練は十分ならざるが如き、或は指揮官の指揮能力十分ならず、部隊の連繫協同全からざるが如き、何れも我は劣勢なる兵力、十分ならざる装備を以て終始優勢なる敵を駆逐し、遂に之を撃滅し得たる原因たり。

 然りと雖、英軍は執拗にして、少くもその幹部は大英帝国の優越を信じ、戦争の最終の勝利を獲得し得るとの自負心を有するが如きを以て、吾人は将来益々訓練に精進し、装備の充実を勉むると共に、戦争遂行能力の充実向上を期する所なくば思わざる蹉跌に遭遇することあるを銘心するを要す。

 ビルマに進入しありし支那軍は、第五、第六軍を骨幹とするものにして、蒋介石直系の最精鋭部隊たる名に恥じずその抗戦力は見るべきものありき。

 トングー、ピンマナ付近に於ける主抵抗の後遂に敗退して壊滅に陥りたりと雖、初期に於ける戦闘振りは上海戦当時に於けるものに劣らざる靭強度を示せり。

 英支軍の連合作戦は必ずしも緊密と謂うを得ず。

 大東亜戦争開始後急遽利を以て相互に誘引し、遂に連合の挙に出ずるに至りたるものにして、連合作戦の欠陥を暴露せり。

 敵空軍は初期跳梁せしと雖、南方軍航空主力の転用に伴い遂に敗退せり。

 之を要するに、軍正面の敵の戦力は相当見るべきものありしと雖、我上下を挙げての熱戦敢闘により、遂に壊滅せしものにして、将来に於ける軍の必勝の信念は益々強固なるものあり。

     (以後省略)

                               この章完


(参考文献)

 この章を執筆するにあたり、以下の文献資料を参考とさせていただきました。


防衛庁防衛研修所戦史室  「戦史叢書 ビルマ攻略作戦」

             「戦史叢書 陸軍航空作戦」

     「戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦」

                       朝雲新聞社 

梅本弘著 オスプレイ軍用機シリーズ56

   「第二次大戦の隼のエース」 大日本絵画 二〇一〇

檜与平著 「つばさの血戦」 光人社 昭和四二年

黒江保彦著 「あゝ隼戦闘隊」  光人社 二〇一〇

粕谷俊夫著 「加藤隼戦闘隊の最後」 朝日ソノラマ 

                 昭和六一年

歴史群像太平洋戦史シリーズ③ 「勇進インド洋作戦」

                 学習研究社

歴史群像太平洋戦史シリーズ⑰ 「伊号潜水艦」

                 学習研究社

歴史群像No.53 佐藤俊之著『ビルマ電撃戦』

             学習研究社 二〇〇二

歴史群像No.168 大塚好古著『作戦ドキュメント 

    インド洋作戦』  学習研究社 二〇二一

丸別冊太平洋戦争証言シリーズ⑧『戦勝の日々』所収

    板津辰雄著 「真珠湾から印度洋へ」

    竹下正彦著 「第十五軍とビルマ初期作戦」 潮書房

[国会図書館デジタルコレクション]

 太平洋戦争ドキュメンタリー 第二巻所収

  安田義人著 「敵中不時着百三十粁突破」

           今日の話題社 昭和四十二年

 太平洋戦争ドキュメンタリー 第一八巻所収

  土井滋俊著 「突撃鬼中隊」 今日の話題社 昭和四五年

 田村吉雄編「秘録大東亜戦史 ビルマ篇」

                富士書苑 昭和二八年

 源田実著 「海軍航空隊仕末記 戦闘篇」

                文芸春秋新社 一九六二

 チャーチル著 「第二次世界大戦回顧録:抄」

                毎日新聞社 一九六五

 島田彌市・越村長次著 「南洋叢書第五巻 ビルマ事情」

             南洋協会台湾支部 大正九年

 同盟通信社編 「大東亜戦史 ビルマ作戦」

             同盟通信社 昭和一七年

 陸戦史研究普及会編 「ビルマ進攻作戦」

             原書房  昭和四三年

(アジア歴史資料センター)        

  「各航空母艦飛行戦隊行動調書」                

「緬甸作戦記録 第1期」」Ref.C14060379500、

                  (防衛省防衛研究所)

「u作戦船舶輸送処理要領 船舶現況報告(ラングーン上

  陸)」 昭和17年2月12日」Ref.C14060192800、

                  (防衛省防衛研究所)

「緬甸作戦経過の概要別冊」 昭和17年6月15日」

  Ref.C14060189600、(防衛省防衛研究所)

「緬甸作戦より得たる教訓」 昭和17年8月」

   Ref.C14060186300、(防衛省防衛研究所)

「南方軍各方面軍作戦計画等綴」 昭和16年12月~昭

  和17年5月」Ref.C14060101300、(防衛省防衛研究所)

「緬甸方面航空作戦の概要 自昭和17年1月 至昭和18

  年8月」Ref.C16120063700、(防衛省防衛研究所)

「南部ビルマ作戦協力並に第2次中部ビルマ航空撃滅戦 戦

  闘詳報 自昭和16年12月26日 至昭和17年1月1

  4日」」Ref.C16120055100、(防衛省防衛研究所)

「昭和17年4月1日~昭和18年8月31日 第7戦隊戦

  時日誌戦闘詳報(2)」Ref.C08030047300、

                 (防衛省防衛研究所)

「昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第1水雷

  戦隊戦時日誌(4)」Ref.C08030080500、

                  (防衛省防衛研究所)

「昭和16年12月1日~昭和19年5月31日 第9根

   拠地隊戦時日誌(2)」Ref.C08030254300、

                  (防衛省防衛研究所)

「昭和17年3月26日~昭和17年4月22日 軍艦飛

   龍戦闘詳報(1)」Ref.C08030581600、

                  (防衛省防衛研究所)

「第5航空戦隊戦闘詳報 第5号(第1段 第4期作戦

   に於けるC作戦 コロンボ空襲) 昭和17年4月」

     Ref.C13120039600、(防衛省防衛研究所)

  「印度洋作戦」Ref.C16120661500、機動部隊の作戦、

                (防衛省防衛研究所)

「第15軍中部緬甸地方作戦計画 昭和17年3月

   15日」Ref.C14060103700、防衛省防衛研究所)

「第33師団「マグエ」「エナンジョン」 攻略水路

   戦闘詳報」 昭和17年4月1日~17年4月27日」

     Ref.C14060266900、(防衛省防衛研究所)

  「第56師団「マン」作戦経過概要」昭和17年5月

   15日」Ref.C14060443200、(防衛省防衛研究所)

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