第二八話 マン会戦

 マンダレーは現ミャンマーにとって仏教とその信仰の中心都市であり、多くのパゴダが存在している。ヤンゴンに次ぐ大都市であり二〇一四の人口統計では二百十四万に上るとされる。マンダレー王宮は英軍による奪回作戦で爆撃により焼失したが、一九八〇年代に忠実に複製再現された。

 

 大正五年に南洋協会台湾支部から出版された「ビルマ事情(南洋叢書:第五巻」にマンダレーのことが詳しく記されているので、戦争時より四半世紀前にはなるが、参考になると思うので紹介する。


『マンダレーは緬甸独立王国当時即ち千八百六十年より英国の羈絆に帰したる千八百八十五年までの王都にして其位置緬甸州の略中央に在り。市街はイラワヂ河の左岸、海抜三百十五呎の高地傾斜面に東西三哩、南北六哩に拡在し新旧二市に分れ旧市戸数六千新市二万三千、総人口十八万六千、蘭貢に次ぐ緬甸第二の大都にしてマンダレー県庁、郡庁及市役所を有す。且此地緬甸中央平原地方の中心にして陸上河川交通上、四通八達の要衝に在り商業活発、市街亦段賑を極む。旧市とは即ち旧王都を有するダフリン城を称し、王朝時代の各官衙、官吏邸宅ありし所にて、今日殆んど旧態を革めざるも、其東南に位する新市街は王朝時代庶民の茅屋随所に点々せる一寒村なりしが今や人口十五万の一大商業市と化し、街衙整然として電車、電気其他の文明的百般施設備らざるなく、王朝時代と殆んど、隔世の威ありと云う。市の内外を問わず、傾斜面至る所、白亜又は金碧燦然たる大小寺塔の突兀として屹立し其数無慮七千と称せられ、其結構規模亦宏壮華麗にして、真に仏教国の旧王都たるを首肯せしむ。聞設く独立王朝当時は二三倍の堂塔伽藍ありしかと脆弱なる緬甸建築法の為め大部分荒廃頽壌せるものなりと云う。


□ダフリン城(旧王宮)

 新市の東北にある正方形の城郭にして高さ二十六フィートの赤煉瓦を畳み櫓を築きたる外郭を繞らし尚外郭の四周環らすに幅百ヤード、満々たる水を湛えたる塹壕を以てし敵襲に備えたり。濠を越え城内に達するに四条の木橋あり。夫々各辺の中央に架す。旧王朝時代濠中に華麗なる御座船を浮べ詩歌管弦、連日に互りしものなりしが今は冷風徒らに水面を払いて行人の涙を誘うのみ。外郭上んはチーク材にて造りたる宏荘なる見張塔あり、其数十三、廻廊を以て昇降するものなり。城内に通ずるに各辺三門、計十二箇の門あり。各門前には夫々、仏陀の番人たりしナットの像を置き傍に門の名を記したるチークの門札を掲ぐ。門を入れば正面中央に七重の大塔の屹然中空を衝くものあり之即ち旧王宮なり。

 王宮は曽って高さ二十呎のチーク材木柵にて囲まれ且六十呎の距離を置き更に高さ百呎の、厚さ十四呎の煉瓦壁を以て二重に防備されたるものなりしが、今は木柵煉瓦壁共に悉く撤去せ居れり。王宮に達するに曽っては四箇の大門要所にありて、大門は王及王族の通行する所とし一般庶民は大門傍の耳門より身を屈めて出入せるものなりしと、目下の正面たる東門を入れば、王朝時代の武器庫、印刷所、造幣局、番人詰所、王宮付属礼拝所、先王ミンドンミンの霊廟其他高官の邸宅ある広場に出ず。広場を過ぐれば別に亦広潤なる広場あり。其北端に於て国王御覧の各種競技等催されたる所とす。広場正面中央に国王の大謁見室あり、室は前口二百五十尺奥行四十五尺の長方形にして正面中央に「獅子座」と称する玉座ありしかとも目下カルカッタ博物館に所蔵せらる。王宮の西方に婦人謁見室ありて室内に百合座と称されるる玉座あり。大謁見室と婦人謁見室との間に介在する無数の小宮殿は王妃を初め王子、王女の住居せられし所とす、大謁見室の屋上には金色燦然たる七重の大塔矗立し其形客我国の塔建築法に酷似するものあり。婦人謁見室のなんぽうやや隔てて小殿あり。之緬甸末世王たるチバウの英軍にい降せし所にて当時使用せしと云う其鍮板所蔵せらる。前記小殿の近くに木造の高塔ありて其塔頂は王の日夕、マンダレー市を俯観願望せし所なりと。王宮の東方にありて内外共に精巧微細なる彫刻を施したる「ボンキ・キャウン」堂はチバウ王の剃髪僧侶生活を送られたる所なり。堂の東に先王ミンドンミン王の霊廟あり。七重の高塔を有する正方形の煉瓦造にして千八百七十八年ミンドンミン王の死体を埋葬せる所なり。 (以下略)』


 さて、英印軍側は、アレキサンダー大将は四月十八日に連合国軍がビルマから撤退しなければならないときどうするかという書面をウェーベル大将からうけとった。ウエーベル大将は、書面のなかで、中国軍と密接な連絡を保持すること、インドに通ずるタムーカレワ道を防護すること、将来ビルマへの再侵入を容易にするために、できるだけ現有戦力を維持して足がかりを残しておくことをしめしていた。

 アレキサンダー大将はビルマに赴任してまもなく、日本軍とビルマで決戦する意志はなく、それぞれの各軍は撤退する腹案をあらかじめ持っていた。ために、事態が悪化すれば、徹底できるように指揮官に言い含めており、徹底抗戦の指示は与えていなかった。


 四月二十三日、アレキサンダー大将は、ビルマ撤退に関する命令を下したのである。

 鉄道東方の中国軍部隊は、ひとまずスチルウエル中将の指揮下でタウンギー地区に向かう交通線を掩護し、次いで、ラシオを防護できるよう北方および東北方にさがること。鉄道以西で作戦中の英印軍部隊には、一度態勢を整理するよう命じた。それは、メイクテーラ地区から部隊が撤退してしまうと、タウンギー地区で作戦中であった中国軍の右翼に隙間が生じてしまうのを防止するためと、英印軍と中国軍の混合して作戦しているために、撤退に関して態勢を整理する必要があったからである。


 第十五軍の飯田中将は、あくまで決戦の地をマンダレーに求めていたが、それに反し連合国側は決戦を回避して撤退し部隊を温存する考えであったから、マンダレーの決戦は生起しないことになってしまった。日本軍としては目論見が外れてしまったわけである。


 飯田中将は第一八師団、第五十五師団に対し、四月十九日ピンマナの戦闘終了後、ピンマナ、キダウンガン地区に集結、爾後第一八師団が先遣となってヤメセン付近に前進するよう命じた。これにより、第一八師団は態勢を整理後、四月二十三日北上を開始した。

 第一八師団は、第百十四連隊主力を追撃隊としてヤメセンに向かわせ、師団司令部はそれに続行し、師団主力は三個の梯団に分かれてマンダレーに向け前進した。

 追撃隊は一コ大隊は装甲車、自動車部隊として前進し、途中若干の連合軍部隊と交戦撃破しながら、二十四日朝にはヤメセンに到着し、敵情を視察した。敵兵は約二千ほどと思われたが、堅固な陣地構築は見られなかった。そのため追撃隊は後続を待たずにヤメセンを攻撃した。英印軍はさしたる反撃も行うことなく退却した。追撃隊はついでピヨべの陣地にあたり、この陣地も偵察した結果、少々堅固であることがわかったが、翌日前夜に到着した戦車中隊も戦列にくわわり、攻撃を行ったが、やはりここでも英印軍は少し戦闘するだけで退却をはじめ、追撃隊は損害皆無でピヨべを占領した。


 ピヨベからの道路網は左折してメイクテーラを経由してマンダレーまで通じており、メイクテイラは第五十五師団の作戦地域であったから、第十八師団がそちらに前進することはできず、師団は本道より離れてサジ方面に向かうことになり、進撃路の偵察を行った結果、どうには自動車の通行できる道があったが、道路事情は悪かった。

 

 アレキサンダー大将は、キャクセにおいてスチルウエル中将とスリム軍団長と会談し、その結果イラワジ河からの撤退の時期と判断した。

 四月二十五日夜、撤退作戦は開始された。

 第二ビルマ旅団はバコックを経てミッサ河谷に転進すべし。第十七師団と中国第三十八師団はアバ地区まで撤退。第一ビルマ師団は、中国第三十八師団の撤退を掩護したのち、サメイコン渡河点を経て西方に撤退。第六十三旅団はメイクテーラで第七機甲旅団を合わせ指揮し後衛となるよう命じた。


 二十六日、午後三時半頃、サジ南方一〇粁地点で、前方に堅固な陣地を確認したため、追撃隊は右翼側から包囲して攻撃をかけた。連合軍は激しく抵抗したが、夕刻になると一斉に退却をはじめた。部隊の撤退を掩護する遅滞行動からくるもので、時間かせぎの戦闘であった。

 二十七日早朝、追撃隊は速射砲大隊の配属をうけて、サジより北上を開始した。

 ウンドインには英印軍の第七機甲旅団が配置されており、追撃隊の英印軍との間に激しい戦闘が行われたが、日本軍の進撃を一時的に食い止めた機甲旅団は夕刻には撤退行動に移っていた。


 四月二十七日、ウエーベル大将は本国チャーチルに対し、

「ビルマにおける事態の推移は迅速ではあるが、何とかアッサム州からの諸道を掩護し、中国軍との連携を保つため、北部ビルマで十分な地域を保持したいと考えている。しかし、これは、戦略的にも戦術的にも、また管理と政略上からも望ましいことではあるがかなり困難だ」と報告した。


 連合国側は撤退は自動車で迅速に行われたのに対し、日本軍はほとんど徒歩の強行軍であり、自動車の完全装備は、第五十五師団の一個大隊だけであり、第五十五師団長はその自動車部隊を先頭にたてて、第十八師団とともに突入させることを考え、部隊の態勢整理を行った。そのために空白の時間が生じ、連合国側は撤退の時間に余裕を与える結果となった。

 二十九日早朝、追撃の自動車一個大隊は、キャウセの陣地を守備する第四十八旅団があり、第七機甲旅団から戦車連隊の配属をうけていた。第五十五師団は第十八師団の到着を待つことんなく、単独で攻撃を開始したため、連合国軍から猛烈な反撃をくらい、部隊は大きな損害を受けた。遅れて到着した第十八師団は正面部隊と右迂回部隊とにより陣地に迫ったが、第四十八旅団は撤退を開始した。自動車で撤退する連合軍を徒歩部隊で追いかけることは無理であり、連合軍は渡橋したのち、橋を爆破した。

 イラワジ河にかかる長さ千五百メートルのアバ大橋も爆破され、そのために日本軍は渡河作業のために一日を費やしてしまった。そして五月一日、渡河してマンダレーに向かったが、市街にはいるともはや敵兵の姿はなかった。

 軍司令部が構想していたマン会戦は結局起こらなかった。

 

 再び竹下作戦参謀の前掲手記からみてみよう。

『ピンマナ付近の戦闘後、十八師団と五十五師団とは、鉄道線を境界として、その両側を並列して北進し、マンダレーを攻略すべき命令を受けた。しかし、実はマンダレーに至る間、自動車道はマンダレー街道一本だけである。しかもその道路は、両師団の戦闘地境たる鉄道線を左右に蛇行して横切っているので、両師団ともそれを自由に使用することができない。結局、十八師団が先行し、五十五師団はその後方を続行するよりほかない仕儀となってしまった。

 一方、敵方でも重慶軍はトングー、ピンマナでその精鋭二〇〇師、九十六師などが大打撃を受け、西方英印軍はすでにエナンジョンを失い、東方シャン州方面では、五十六師団の捕捉超越作戦により、五十五師、四十九師も潰走して、ラシオの保持も望み少なになっていた。

 十八師団は、キダウンガン地区の掃蕩を終ると、小久保大佐(一一四連隊第二大隊基幹)を長とする追撃隊をもって、二十三日早朝、イエジンを出発、マンダレー街道をヤメセンに向かって発進させた。主力はそれに続行した。

 追撃隊は自動貨車を配当されて、乗車部隊となり、途中、歩々抵抗する一部の敵を撃破しつつ、二十四日朝にはヤメセンの前方に進出した。ここで鉄条網を持った軽易な陣地と見られるヤメセンに対する攻撃をおこなったが、敵はほとんど無抵抗で退却し、ヤメセンはたやすくわが方の手中に落ちた。追撃隊はつづいてピヨペの陣地前に進出し、敵情を捜索した。その結果、当面の敵は約二千、陣地はヤメセンより堅固に見えるので、翌二十五日払暁より攻撃することとなった。

 しかるに、翌朝攻撃を開始すると、これまたさしたる抵抗もなく、二十五日午前十一時には、一名の損害もなく、ピヨペを占領した。追撃隊は正午すぎにピヨペを出発したが、本道は五十五師団の作戦区域にしかないので、道路捜索に時間を空費しつつ、二十六日午後、サジ全面に進出、直ちにこれを攻撃した。サジの敵は一応の抵抗を見せたが、これまた同日日没ごろ退却をはじめ、サジもまた我が手に帰した。

 四月二十七日未明、サジを出発した十八師団先遣隊は、正午ごろにウンドウィンに達し、同地の敵を撃退してこれを占領した。牟田口中将はこの地で追撃隊を交代させ、木庭大佐の率いる五十五連隊を新たに追撃隊とした。そして、道路の関係でやむなく十八師団の後方を続行している五十五師団の一部を、同師団と協定のうえ、追撃隊に加えて、キャウセに向かって追撃を開始させた。攻撃開始は四月二十九日からであった。キャウセの敵は一時はげしい抵抗を試みたが、同日夕には退却を開始した。追撃隊はこれを追って、ミンゲ河に達した。

 明けて五月一日、十八師団の諸隊はミンゲ河を渡河し、木庭追撃隊は本道上より、小久保連隊はその東側より、マンダレーに迫った。ミンゲ河からマンダレーまでは十数キロ、近づくにつれて、はるかかなたには金色のパゴダが、朝日を浴びてマンダレー丘上に照りはえていた。将兵は長い戦陣に軍服は破れ、全身は埃にまみれていたが、いまやマンダレーを指呼の間にして、意気揚々たるものがあった。

 このころ、マンダレーにはすでに敵影はなく、五月一日午後五時三十五分、部隊はマンダレー市街に突入し、同地を占領した。牟田口師団長は当時、デング熱におかされ、高熱のまま車中でマンダレー入りをした。』

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