第二六話 エナンジョン占領

 英軍のスリム軍団長は、エナンジョンの油田地帯を防衛することが重要課題であった。英印第十七師団がプローム地区から撤退し、アランミョウ地区に防衛陣地を布いた。でも広大な地域に兵力は不足していた。アレキサンダー大将が、蒋総統に会見して、一個師団の兵力増強を約束したが、その後、総統は約束した部隊の派遣はできなくなった旨を通知してきた。防衛計画は見直す必要があった。


 スリム軍団長は、第二ビルマ旅団に対し、イラワジ河西岸のミンラを防衛させ、第一ビルマ、第一三、および第四八旅団と第七機甲師団からなる第一ビルマ師団は、軍団の中心的打撃部隊として、第一ビルマ旅団をミギャンニに、第一三旅団はチチャガウクに、第四八旅団はコッコウに、第七機甲師団はその東側に布陣させた。これで、ミギャンエからコッコウに至る交通線を保持する計画であった。また、陣前二五キロの線に歩哨警戒線が置かれた。


 四月九日日没後、第二一五連隊は前進を開始し、アランミョウをたち、エガイトに進出してそこから輜重兵の車両を使用して、十日朝にはレテット付近に展開した。

 第二一五連隊長原田大佐は、トングウィン方面には戦車約三十両からなる英印軍部隊があり、その西方地区にも英印軍部隊が点在していると把握していた。それは連隊にたいし右側背部にたいする脅威でもあった。十一日日没イワザ付近まで前進し、第一大隊をココダワ、第二大隊をサドダンに対し攻撃を仕掛けた。

 十二日未明の急襲で本道の遮断に成功したものの、夜明けとともに英印軍は歩戦共同で反撃に転じて逆に日本軍は包囲されてしまった。

 原田大佐は両大隊を南方二キロ地点まで後退させて防御線を敷いたが、英印軍部隊はその後積極的な攻撃は示さず、戦場から後退して行った様子であった。


 英印軍部隊の行動は裏目に出ていた。第一ビルマ師団長スコット少将は、日本軍部隊の斥候隊との動きにより、日本軍はアレボとヤギドウの中間地区から味方配備の中間を突破してくるものと判断し一〇日の夜間に、ミギャンエにあった第一ビルマ旅団に対し、チチャガウクにいる第一三旅団正面に接近中の日本軍を攻撃するために東に移動するよう命じた。

 

 第二一四連隊佐久間部隊は、自動車でレテット西方地区を経由して前進して、一〇日夜にはチチャゴーク南側地区に集結して、英印軍の隙間を縫って突破する機会を狙っていた。

 第一ビルマ旅団は、スコット少将の命令にしたがい、十一日夜にアレボを攻撃したが、そこには日本軍の姿はもいなかった。攻撃目標であった第二一四連隊は移動した後だった。これとは別にスコット少将は、ミギャンエに日本軍が進入してきたとの報告だった。少将は後悔した。同地には一個中隊しか存在しておらず、このままでは軍団の右翼が総崩れになることは明白だった。少将はすぐさま第一ビルマ旅団に反転してミギャンエに向かうよう命じた。しかし、もはや遅きに失した。ミギャエには日章旗が翻っていた。


 第一旅団は東北方に位置するサインギヤに向かった。

 十三日午後、スリム軍団長はマグエの地でスコット少将とあい、戦況の様子を聞いて危機的状況を聞いた。スリム軍団長は、イラワジ河東岸に沿う北進の脅威が増したことを悟った。軍団長は第二ビルマ旅団の二個大隊を河を渡ってマグエに派遣し、スコット少将に第一三旅団の一個大隊をマグエに急派し、第一ビルマ旅団の撤退のために第一三旅団を使用するよう命じた。

 第一ビルマ師団には、マグエ飛行場の破壊実施と、エナンジョン油田の破壊準備が下された。


 第三十三師団の第二一三連隊荒木部隊には自動車の保有がほとんどなく、運搬は牛車を使用している状況で、行軍速度は遅かったが、十四日朝、イン河南岸ミンガンの第二キングスオウンヨークシャー軽歩兵隊が守備する陣地を攻撃撃破し、イン河北岸の陣地にたいする攻撃を準備した。この地区には戦車十数両、砲十数門を有する英印軍部隊約一千名ほどがいると思われた。部隊は第一ビルマ旅団が右翼、第十二旅団が左翼、第七機甲旅団予備隊が布陣していたが、兵力的には消耗した部隊となっていた。

 十五日夜、第二一三連隊荒木部隊は英印軍陣地の側背部に進出し、十六日夜明けとともに総攻撃をかけた。英印軍部隊はたまらず後退せざるをえなかった。突破した荒木部隊はマグエに突進し、十七日〇五〇〇頃にはマグエを占領した。


 一方第二一四連隊佐久間部隊はエナンジョンに迫っていた。連隊は四月十二日イン河を渡り、インマドウ、タンビンズ付近を経て北に進んだ。この間の地形は起伏が激しい砂漠地帯であり、乾季の為河らしき跡はあっても水がなく、気温も夜になっても四〇度もあり、水欠乏のまま三日間進んだ。そして十六日、エナンジョンの東方約五キロの地点に達していた。

 この二一四連隊の動きを英軍はまったく把握できていなかった。制空権はほぼ日本軍にあり、そこまで近くまで日本軍が来ているとは英軍司令部はまったく知らなかった。


 第二一四連隊長は、エナンジョンの町に通じる本道を、南北二点で遮断しようと決心し、第三大隊高橋部隊をピン河北方ケミン付近に向かわせ、連隊長は主力を率いてエナンジョン東北角の三叉路に突進した。

 南方から撤退中の第一ビルマ師団の輜重部隊と護衛部隊は日本軍が付近にいることも知らず、燃え続けている町を通過してピン河を越えた。十七日一時三十分頃、その縦隊の先頭がケミン付近の予定休憩地点にさしかかったときに、不意に日本軍の襲撃をうけて、前衛部隊と輜重部隊が分断された。さらに日本軍は隊の後方を押させて遮断をはかった。

 二一四連隊の主力はエナンジョン守備隊の第一グルセスターシャイアー連隊を町の南へと追い詰めた。

 連隊長は英印軍主力が南下してくると予想し、これに対してエナンジョン東北角道路交差点の連隊主力を配置し、南方の中央三叉路には山砲第三大隊を配置した。


 十七日の午後にようやく、スコット少将のもとに第一ビルマ師団のエナンジョンにおける状況が報告され、少将は重大なる事態であることを知った。

 スコット少将は警報を発し、自動車にて司令部要員と工兵部隊を率いてエナンジョン南のニャンラに向かい、エナンジョンの守備隊長に会って戦況を確認し、守備隊の第一グルセスターシャイヤー連隊に対し、工兵の協力を得て、ニャンラの北方に防御陣地を造成するよう命じた。

 退路を塞がれた第一ビルマ師団の撤退は、妨害こそ受けなかったが、十七日の夜中には終わらず、やはり飲料水の欠乏により、河の付近に集結する必要があり、マグ部隊はニャンラの南のサダインに、第一三旅団はニャンラの南側に、第一ビルマ旅団は三五八道標付近に集結した。


 第一ビルマ師団の分断されていた輜重部隊と護衛部隊が脱出にせいこうして十七日午後グエギョーに着いた。

 そしてこのころようやく、重慶軍の予備隊である第三八師団がエナンジョンに迫っていた。スリム軍団長は第一ビルマ師団の危機を救うために重慶軍の二個連隊と機甲部隊ともって後方に脱出させようと動いた。


 第二一四連隊と英印軍部隊は、エナンジョンでの雌雄を決すべく部隊を展開させていた。

 スコット少将は、マグ部隊に対し、ニャンラ東北方の稜線を奪取して北方に戦果を拡大するように命じ、第一三旅団にはニャンラ道に沿って攻撃して五一〇地点を占領した後五〇一地点およびツイゴンに向け前進し、さらに町の北方の道路障害物を除去してピン河方面に戦果を拡大するよう命じた。第一ビルマ旅団には後衛となるよう命じ、マグ部隊は第五山砲中隊が、第一三旅団および第三三山砲中隊を支援して、迂回路の障害物が除去されたら、ツイゴンに向けて強行突破する計画であった。


 第一ビルマ師団の強行突破は十八日九時から開始された。当初は順調に第一目標地点に達したが、その行動は日本軍に阻止され、それ以上の移動は困難を極めた。支援する砲兵隊の弾薬が不足しており、有効な支援ができなかったのだ。

 第一三旅団は五一〇地点をとり、ツイゴンに向けて前進したが、右翼を担当する第一パンジャブ連隊第五大隊は、五一〇高地を占領する第二一四連隊主力とぶつかり、一時は稜線上に拠点を確保したが、その後日本軍に奪取された。

 左翼を進む第一ロイヤルイニスキリングヒュージリア隊は、ツイゴン突入に失敗した。何と二個中隊は迂回してピン河に達したとき、日本軍部隊と中国軍部隊とを見誤り、日本軍の捕虜となった。第一八ロイヤルガーワル連隊第一大隊は、右翼隊として進撃したが、鉄条網にひっかかり大損害を受けた。


 十八日、英印軍の反撃を食い止めた日本軍は、日没とともに十九日の攻撃にそなえ戦線を整理し、連隊主力部隊をツイゴンの南東地区に配備した。それを英印軍はあらたな日本軍部隊の攻撃ではないかと心配した。


 十九日、第一ビルマ師団は脱出にむけての行動を開始し、第一三旅団は渡河点にむかって攻撃したが成功せず、各部隊も渡河点を確保することができなかった。頼みの重慶第三八師団の攻撃も始まる気配がなく、スコット少将は待ちきれずに、東方を迂回してピン河にむけ行動するよう命じ、日本軍の攻撃を排除しながら、夜までには第一ビルマ師団は渡河点の東北方約八キロの地点に集結することに成功し、エナンジョン脱出に成功した。

 英印軍部隊は、エナンジョンをめぐる戦闘で、歩兵四コ大隊、戦車一コ大隊、砲兵二コ大隊に壊滅的打撃を与えたと師団司令部は判断した。


 前掲の竹下参謀の手記には次のように記されている。


『このころ、制空権はわが方にあるが、敵偵察等の活動はあるので、全師団の機動は相変らず夜間である。

 原田部隊は、四月十二日の未明からサドダン付近の敵を急襲したが、この地にあった有力な敵は歩、砲、戦車協同のもとに、夜明けとともに反撃に転じ、かえってわれを包囲し、われは苦戦におちいってしまった。

 そのため、原田大佐は夜に入るのを待って二キロほど後退し、陣地を占領して防勢に立つに至った。しかし、敵は積極的行動を示さず、逐次戦場から姿を消してしまった。

 師団長は原田部隊の当面の任務は完了したと認めて、転進を命じた。原田部隊は西進して十六日、ミギャンダウエに達し、水上機動による前進を準備した。

 荒木部隊は九日日没後、前進を開始し、途中、敵を撃破しつつ十三日、ミギャングウェを占領した。そして、十四日朝からイン河畔の敵を攻撃、十七日朝にはマグエをその東北方から攻撃して、これを占領した。

 当面の敵は有力な機甲部隊であったが、もともと歩々の抵抗による遅滞行動であったようで、行動のおそい荒木部隊を尻目にゆうゆうと後退していった。しかし、このころ、この敵の退路の要衝エナンジョンは、すでに作間部隊によって占領されていたいのであった。

 作間部隊は九日日没後に行動を開始し、はじめは自動車輸送によったが、途中で車をすて、徒歩行軍により十一日夜、一部の敵を撃破した。十二日、サドダン、ミギャンダウエ道を通過して、北進をつづけた。

 ちょうどこのころは、サドダンで原田部隊が激戦を交えていたときであった。それに牽制された敵は、ついに作間部隊の隠密挺身行動に気がつかなかった。作間部隊は十二日、イン河をわたり、鋭意前進をつづけることを三日四夜、十六日夜半には、めざすエナンジョンの東方五キロの地点に進出した。

 この間の進路は砂漠地帯であったが、夜間ですら三十度をこす暑さが続き、将兵はこの暑気のなかを重装備で汗と埃にまみれ、シャボテンの林を縫いながら、黙々と強行軍をつづけていった。その間、もっとも苦しんだのは水の欠乏であった。

 この隠密挺身行動間、山之口参謀は上空から作間部隊の行動を監視しようとしたが、ついに発見できなかったと後に語っている。部隊がいかに隠密挺身に苦心したかがうかがわれる。

 作間大佐は十七日未明、エナンジョンの東北角に突進し、奇襲に成功した。それとともに、南方から退却中の敵部隊の主力は、まだエナンジョンを通過していないことを確認し、敵主力の突破作戦に備え、二重三重に配備して敵を待った。

 明けて十八日朝、予期したとおり、マグエ方面から陸続として退却してきた敵は、わが陣地に衝突し、激戦が始まった。敵はピン河北方からも、作間部隊にたいし攻撃してきて、十八、十九の両日、作間部隊は腹背に敵をうけて苦戦を続けた。

 師団長は、作間部隊の退路遮断作戦が成功したことを知ると、全戦力を戦場に集中して敵を撃滅すべく、原田部隊をイラワジ水上機動により、エナンジョンに急進させた。また、荒木部隊の前進を督励した。

 これらはあいついで二十日ごろ、エナンジョンに到着した。そして、そこで見たのは、力戦の末、ついに作間部隊の堅塁を抜けなかった敵が、十九日日没ごろには戦意を失って、兵器や車両を捨てて北方に敗走する姿であった。それは時間の経過とともにその数を増し、やがて総崩れとなって敗走した。

 かくてエナンジョンの戦闘は、三十三師団のみごとな勝利をもって終った。

 このシュエダン戦に重なる再度の対機甲戦闘で、三十三師団は英印軍に壊滅的打撃を与えるとともに、宿敵を捕捉し、会戦の勝利に大きな寄与をなしとげたのであった。』

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