第二二話 シュエダン・プローム攻撃

 櫻井中将の第三十三師団はラングーン攻略後、後続の部隊である歩兵団司令部、歩兵第二百十三連隊、輜重兵第三十三連隊の到着の頃に、ブローム街道の北上を開始した。

 歩兵第二百十五連隊を基幹とする原田部隊は、三月二十四日の夜イラワジ河の西岸に移動し、ヘンサダ付近に兵力を集結した。歩兵団長荒木少将指揮する歩兵第二百十四連隊は「ナタリン」方面へと向かった。

 歩兵第二百十三連隊は水戸の編成、歩兵第二百十四連隊は宇都宮編成、歩兵第二百十五連隊は高崎の編成部隊である。

 この戦闘の経緯は竹下作戦参謀の前掲手記に詳しい。


『三十三師団はラングーン攻略後、同地周辺の掃蕩ならびに治安維持に任じながら、北進の準備をしていた。その間、中支に残してきた師団の後続部隊は、バンコクを経て陸路、ラングーンに向かって逐次、追及してきた。その主たる部隊は、歩兵団長荒木正二少将の指揮する二一三連隊(連隊長宮脇幸助大佐)、山砲兵三十三連隊主力(連隊長福家政男大佐)、

三十三輜重兵連隊主力(連隊長陳田百三郎大佐)などであった。

 かくして、師団の全力の集結も終ろうとしているので、軍は三月十六日、三十三師団にたいし、

「師団は北進準備完了せば前進を開始し、イラワジ河谷方面をエナンジョン北側地区に前進し、爾後の作戦を準備すべし」

 旨の命令を下した。とくにこの間、当面の敵に対しては、これを捕捉撃滅するに勉むべし、という注文をつけていた。当面の敵とは、ラングーン攻略にさいしてとり逃がした敵の機甲部隊であることは、いうまでもない。

 桜井師団長はラングーン滞留間、苦い目にあわされた対機甲戦の対策については、深く思慮をめぐらせてきたと伝えられるが、その成果は、後述のシュエダウンおよびエナンジョンの戦闘に遺憾なく発揮されたのである。

 師団長は北進にあたり、将来の戦闘を考慮して、有力な部隊をイラワジ河西岸に派遣するとともに、師団主力はプローム街道に沿い前進することとし、原田部隊をヘンサダ付近に集結させた。そして、荒木少将に作間部隊を指揮させて、プローム街道を北進させ、爾余の主力はその後方に続行し、三月二十六日夜から前進を開始した。そのさい、配属されている十センチカノン砲を縦隊の先頭付近に位置させて、対機甲戦の備えたりしている。

 ヘンサダに集結した原田部隊は、二十五日に同地を出発したあと、消息を断っていた。しかし、二十八日夜、タロクモウでイラワジを渡河し、一部を左側支隊として、依然西岸地区を前進させたとの報を得た。そして、その後ふたたび消息は途絶えた。

 この間、原田大佐は佐藤操少佐の第二大隊主力を前衛とし、シュエダウンに急進させている。同大隊は、敵情の不明に介意することなく目的地に突進し、二十九日九時、敵の虚をついてシュエダウンを占領してしまった。

 このとき、すでにシュエダウンが占領されていることを知らないで、プローム街道を歩々、日本軍に対する遅滞戦闘を行いながら後退してきた戦車、自動貨車からなる敵の大縦隊は、シュエダウンでわが佐藤大隊の阻止されて反転した。この敵は、戦車三十両、火砲二十門、自動車少なくとも二百両からなる機械化部隊であった。彼らは佐藤大隊に阻止されると、退路を鉄道沿線に求めて、二十九日、タジコンに出た。そこへちょうど同時ごろ、同地付近に進出してきた荒木部隊と不意に遭遇し、ここに激しい戦闘がおこった。

 当初、不意をつかれた荒木部隊は、一時受身に立たされて苦しい戦闘を交えたが、そのうち逐次、態勢を立て直して応戦し、敵の突破を食い止めた。

 タジコンの戦闘は日没まで続いたが、敵はついにあきらめ、夜に入ってふたたびシュエダウン方面に退却した。師団長はタジコンの不期遭遇戦の惹起を知ると、有延大隊に重砲をつけて同地に派遣した。そして敵の退却にともない、これに追尾させた。荒木部隊には追撃を中止させて、ジゴン北方で爾後の戦闘を準備させた。

 一方、原田部隊は佐藤大隊の機先を制した活躍により、いったんは敵を撃退したものの、ふたたびこの敵が退路を求めて再反転してくることも考えられた。そこで原田大佐は、佐藤大隊をもってシュエダウンの守備をかためさせるとともに、部隊主力のマヤマン集結を急がせて、敵の再来に備えていた。

 翌三十日早朝、予期したように、佐藤大隊は戦車を先頭にふたたび突破を企図する敵の猛攻を受け、シュエダウンは激しい戦闘の渦中に入った。プローム街道の両側は耕作地、集落、森林などが交錯し、自動車部隊の路外通過は困難であった。そればかりでなく、シュエダウン付近は、イラワジ河とその東側山陵とにはさまれた隘路であり、本道を突破しない限り、退却できない地形であった。しかもこのあたりの本街道は、高さ三メートルほどの凸道で、肉迫攻撃には最適の場所であった。 

 敵の戦車とわが速射砲および肉迫攻撃部隊との間に、壮烈な攻防戦が展開された。原田大佐は、逐次到着する部隊をシュエダウン南方の道路西側に展開して、敵の左側を攻撃させ、さらに一部を東側に迂回させて、その右側背を攻撃させた。

 こうして激戦が十時間もつづいた。シュエダウンの入口を押えて奮戦していた速射砲分隊は全滅し、最後にその火砲も敵の戦車に蹂躙された。三名一組の肉迫攻撃班が、つぎつぎに敵戦車に突進していった。やがて、南方から急進中の有延大隊と坂井重砲兵隊が戦場に到着し、背後からの攻撃を始めた。腹背から挟撃された敵はついに力尽き、兵器、車両を捨てて東北方に敗走した。かくして、さいも激烈をきわめたシュエダウン付近の殲滅戦も、三月三十日の日没までに終りを告げた。

 この時の戦果は戦車二十二両、装甲車三十両、自動貨車百六十三両、火砲二十門、機関銃五十三挺、遺棄死体五百、捕虜百十三名であった。しかし翌日、この捕獲品を目標に来襲した敵航空部隊のため、大損害をこうむったのは残念なことであった。それでも、これにより、師団の軽装甲車中隊が戦車部隊とかわり、輜重兵連隊も六輪起動の大型トラック多数を取り入れたため、爾後の砂漠作戦で活躍し、その威力を発揮したのであった。

 三十三師団は勢いに乗じ、ひきつづきプローム南側高地に拠る敵を撃破し、四月二日、要衝プロームを占領した。このシュエダウンの戦闘は、隠密にイラワジ河西岸に有力部隊を派遣し、敵の退路を先制遮断して機甲部隊を捕捉した、好個の戦例であった。』


 又、軍参謀部が作成した「緬甸作戦経過の概要」の中をみると、「各兵団の行動」には第三十三師団の項目は次のようになっている。

『第三十三師団は三月下旬行動を開始し四月中旬迄に「プローム」及「エナンジョン」付近の敵を撃破して「エナンジョン」北側地区に進出爾後の会戦を準備す 「プローム」及び「エナンジョン」付近に於いては敵を捕捉撃滅するに努む』

 とあり、戦闘内容については


『歩兵団長荒木少将の指揮する歩兵第二百十四連隊を基幹とする部隊は二十八日「ナタリン」付近に於て約三百の敵を急襲撃破し二十九日「パウンデ」付近に於て戦車十数両砲四、五門を有する約二千の敵を撃破す

歩兵第二百十五連隊は「イラワヂ」河北岸を北上し二十八日夜「キャンギン」北方に於て左岸に移り二十九日朝「シュエダウン」を占領、戦車・装甲車五、六十を有する数千の敵の退路を遮断し之を南方に撃退す 三十日南北両方面より戦車五、六十、自動貨車数百台火砲数十門を有する約五、六千の敵の攻撃を受け接戦格闘壮烈なる肉薄攻撃を反復し折から「パウンデ」方向より追撃せる坂井砲兵隊(独立混成第二十一旅団砲兵隊歩兵一大隊)協力の下に激闘十数時間多大の戦果を挙げて敵を北方に潰乱せしむ

同隊の一部(歩兵一大隊基幹)は「イラワヂ」河右岸を北上し「プローム」対岸「シンデ」北方基地に於て約五百の敵を撃破す

同師団は四月一日夜「プローム」付近の敵を撃破し二日〇三三〇「プローム」を占領引続き敵を追撃し七日〇二〇〇「アランミヤウ」を占領す

荒木部隊は四月一日夕「プローム」東方五粁付近に於て約三、四百の敵を撃破し二日「タヤゴーク」付近に於て戦車八を有する敵を撃退四日「レトバダン」付近に於て約百の騎兵を撃破す

歩兵第二百十五連隊は四月一日夕「ブローム」南側陣地に拠る約一千の敵を撃破す

坂井部隊は二日朝「マウザ」北方五粁付近に於て戦車十数両砲数門を有する約四百の敵を撃破す』


 軍として三月末日における敵情は次のように把握していた。


【重慶軍】

一、三月二十日「ピユ」北方十五粁「ナンチドウ」付近に於て支那軍始めて第一

 線に現出し爾後「オクトウイン」及「トングー」付近に於て我が第五十五師団

 と交戦せるは支那軍を主体とし一部の英印緬軍を交えあり 而して支那軍の兵

 団番号は第二百師を主体とし第九十六師の一部を交え三月二十八日以降新編第

 二十二師も亦第一線に加入せるものの如し

二、第二百師第九十六師及新編第二十二師は第五軍に属し鹵獲書類に依れば軍司

 令部は「メイクテイラ」東方二十粁「サジ」に位置しあるものの如し

三、鹵獲書類に依れば第六軍司令部は「タウンジー」同軍に属する第五十五師は

 「ロイカワ」付近第四十九師は「マウクワイ」付近第九十三師は「ケンタン」

 付近に進出せるものの如し

 特情に依れば第五十五師は「メイクテイラ」東南方三十粁「ピヤウブエ」方面

 に移動しつつあるものの如し

 以上の総兵力約六、七万なるべし

四、重慶軍司令官には米人「ジョセフ・スチルウエル」中将任命されたるものの

 如く土民の言に依れば最高司令部は「メイミョウ」に在りと

五、重慶軍は英印緬軍と協同し努めて中印公路の防衛を企図しあること明瞭なる

 も日本軍に対し必勝の信念なく先制主導権放棄せる支那軍として旺盛なる攻勢

 意志を以て決戦を企図するがことなかるべく従って一大会戦の発生は予想し得

 られず又防禦に於ても特定の主陣地を設定して決戦を行うが如きことなかるべ

 し 専ら我が攻勢方面に応ずる彌縫的兵力運用と彼の得意とするする陣地作業

 を交通線上の要点に施設すると相俟って逐次防禦を行い局部的逆襲を為すに止

 まらん

【英印緬軍】

一、兵力

 英軍機械化二ケ連隊歩兵四大隊印度軍約九大隊緬甸軍約十六大隊(兵員約二

 万)を二ケ師団に編成し英軍及印度軍を主体とする第十七師団は「プローム」

 方面「イラワヂ」河流域に行動しあり 緬甸軍及印度軍を主体とせる第一師団

 は「ニユーアンレビン」「ピユ」方面に在りしが三月十九日を最後として第一

 線を支那軍と交代し北方に移動せるものの如し

二、英印緬軍司令官「ハットン」中将は三月上旬敗戦の責を負いて罷免せられ後

 任は「ハロルドアレキサンダー」中将にしてその司令部は「メイクテイラ」に

 在るものの如し

三、英印緬軍は支那軍と協力し油田地帯の確保に勉め且つ緬甸の要域を成るべく

 長く保持することに依りて印度防衛を容易ならしむることを企図しあるものの

 如く其戦法は従来の実績に鑑みるに開轄地に於ける火力の発揚竝戦車の活動及

 空軍の「ゲリラ」戦に於て長じあるも相次ぐ敗戦に依りて戦意喪失し畢竟逐次

 防禦の範囲を出でざるべし


 英印緬支那軍は日本軍に比べ、兵力で多く、機械化部隊とくに戦車装甲車の保有も多く有利な状況ではあったが、戦意の高さや戦法などに欠けており、日本軍は弱冠航空兵力に優位性を持っていた程度であるので、これほど簡単に緬甸から排除されるとは連合国軍司令部としても思ってみなかったであろう。日本軍の手記を見ても、連合国側の砲撃銃撃の猛烈さは物凄いものであったことは窺われるが、日本軍はそれに耐え、ある程度の反撃で退却してしまうことが、英印軍の戦闘であった。死守して戦い抜く精神までなかった。国民性の違いなのであろう。

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