第二一話 トングー攻撃

 第十五軍は第五十六師団と第十八師団が増強され、ビルマ全域の戡定作戦を展開しようとしていた。英印軍・ビルマ軍の残存兵力は約四万程度とみられ、蒋介石が増援した重慶軍は五〜六万程度と見ていた。日本軍としては現地が雨季に入る六月までにビルマ全域から敵を一掃したいと思っていた。

 そのために軍は第五十五師団と第十八師団をマンダレー街道沿いに北上させ、第三十三師団をイラワジ河沿いに、第五十六師団をシャン高原方面に詰めていく計画をもち、主戦場はマンダレー周辺地区と予想していた。

 第十五軍の作戦計画とマンダレー作戦兵站計画の概要は第一〇話にて掲載してあるのでそちらをご覧いただきたい。


 第十五軍の陣容は次のようになった。(四月一日現在)


第十五軍司令部

 第十五軍司令官    陸軍中将 飯田祥二郎

  参謀長       陸軍少将 諫山春樹

  参謀副長      陸軍大佐 守屋精爾

  参謀        陸軍大佐 那須義雄

  参謀        陸軍中佐 八原博通

  参謀        陸軍中佐 今村一二

  参謀        陸軍中佐 小西健雄

  参謀        陸軍中佐 古木重之  

  参謀        陸軍中佐 吉田元久

  参謀        陸軍少佐 竹下正彦

  参謀        陸軍少佐 高橋 茂

  参謀        陸軍少佐 有沼源一郎

  参謀        陸軍少佐 梶原重美

第十八師団

 第十八師団長     陸軍中将 牟田口廉也

    参謀長     陸軍少将 武田 壽

 歩兵第二十三旅団長  陸軍少佐 猪野 正

 歩兵第五十五連隊長  陸軍大佐 木庭 大

 歩兵第五十六連隊長  陸軍大佐 藤村益蔵

 歩兵第百十四連隊長  陸軍大佐 小久 久

 騎兵第二十二大隊長  陸軍中佐 長橋次六

 山砲兵第十八連隊長  陸軍中佐 高須勝利

 工兵第十二連隊長   陸軍大佐 藤井一枝

 輜重兵第十二連隊長  陸軍中佐 中尾正五郎

第三十三師団

 第三十三師団長    陸軍中将 櫻井省三

     参謀長    陸軍少将 村田孝生

 第三十三歩兵団長   陸軍少将 荒木正二

 歩兵第二百十三連隊長 陸軍大佐 宮脇幸助

 歩兵第二百十四連隊長 陸軍大佐 作間喬宜

 歩兵第二百十五連隊長 陸軍大佐 源田 棟 

 山砲兵第三十三連隊長 陸軍大佐 福家政男

 工兵第三十三連隊長  陸軍大佐 八木 茂

 輜重兵第三十三連隊長 陸軍大佐 陳田百三郎

第五十五師団

 第五十五師団長    陸軍中将 竹内 寛

     参謀長    陸軍大佐 久保宗治

 歩兵第百十二連隊長  陸軍大佐 棚橋真作

 歩兵第百四十三連隊長 陸軍大佐 宇野 節

 騎兵第五十五連隊長  陸軍大佐 川島吉蔵 

 山砲兵第五十五連隊長 陸軍大佐 宇賀 武

 工兵第五十五連隊長  陸軍中佐 外賀猶一

 輜重兵第五十五連隊長 陸軍大佐 清 治平

第五十六師団

 第五十六師団長    陸軍中将 渡邊正夫

     参謀長    陸軍大佐 藤原 武

 第五十六歩兵団長   陸軍少将 坂口静夫

 歩兵第百十三連隊長  陸軍大佐 松井秀治

 歩兵第百四十六連隊長 陸軍大佐 今岡宗四郎

 歩兵第百四十八連隊長 陸軍大佐 松本喜六

 捜索第五十六連隊長  陸軍大佐 平井卯輔

 野砲兵第五十六連隊長 陸軍大佐 東美宗次

 工兵第五十六連隊長  陸軍大佐 江島常雄

 輜重兵第五十六連隊長 陸軍大佐 池田耕一


 当時第十五軍の作戦参謀であった竹下正彦少佐の手記によれば、

『四月下旬、ロイコー、ヤメセン、エナンジョンの線を会戦発起線として総攻撃を開始し、五十六師団をもってラシオを占領して、重慶軍の主要退路を遮断する。軍主力は重点を右翼に保持し、十八師団、五十五師団、三十三師団の三個師団をもって、マンダレー周辺の地区に敵を包囲殲滅、その後、残敵を掃蕩して、五月末ごろまでに領内から一掃しようという雄渾、壮大なものであった。

 このマンダレー会戦の特色を見ると、敵は英印軍と重慶軍の連合軍であるということ、そして英印軍は敗残の部隊であるが、いままでわれを散々悩ました機甲部隊を中心として、プローム街道からイラワジ河に沿う地区に行動している。これに対し重慶軍は、ラングーンーマンダレー街道に沿う地区を重点に行動し、一部はシャン高原地帯にあったが、その近代化された、蒋介石の最精鋭と伝えられる重慶軍の戦力は、侮りがたいものがあった。

 戦場を地形的に見ると、南北の作戦路は西からイラワジ河に沿うもの、ビルマ領の幹線たるマン街道、そしてシャン州を縦走するものの三本である。その距離はいずれも長大で、ラングーンーマンダレーーミートキーナの直距離は千六百キロにも達する。だから、マン作戦構想のように、これを短期間に縦走して敵を殲滅しようとすると、部隊の機動や補給の面で大きな困難が生ずるわけである。そのうち、イラワジ河谷の沿う作戦は、同河による水運に頼ることができ、マン街道の沿うものは、坦々たる援蒋ルートと鉄道に依存できるが、問題はシャン州を縦貫する作戦である。しかも敵の退路を遮断するため、一挙に要衝ラシオを占領することを、本会戦成功の鍵としている。

したがって、それにともなう多数の車両とその燃料の補給こそが、重要な問題となった。これに関し大本営作戦課長服部卓四郎大佐は、三月中旬、ラングーンに来て、十五軍のマン会戦構想を聴取した。』

(竹下正彦著「第十五軍と初期ビルマ作戦」丸別冊 太平洋戦争証言シリーズ⑧『戦勝の日々」所収 潮書房)


 第十五軍司令部は三月十二日に第五十五師団にたいして「トングー」付近に進出前進し、飛行場確保の任務とラングーンートングー間の道路整備を命じた。マンダレーを確保するためにはトングーの飛行場確保が陸軍の第五飛行集団としても必要であった。


 師団長の竹内中将は十二日夜にペグーを自動車で発し、十三日払暁にはダイクに到着し、同地付近を占拠していた川島支隊(騎兵第五十五連隊基幹)を掌握して、以降到着する部隊の配置を決定し、十四日北上を開始した。

 川島支隊を右翼隊としてシッタン河東岸から北上させ、第百四十三連隊の宇野部隊を前衛としてダイクートングー道を北上させた。

 師団はダイクからトングーまでの約一六〇キロの間で、まず三月十七日チョクタガで砲数門を有する約千名の英印軍を撃破し、翌十八日午後にはクン河北岸の英印軍約六百名を撃退し、十九日にも敵兵を撃破した。二十日、宇野部隊はナンチドウ付近を守備する戦車を有する約五百名の敵を攻撃して翌日五時位までに敵は退却していった。

 この敵兵は重慶軍第二〇〇師団の兵であることが、遺棄死体から判明した。さらに重要なのは戦死した中国軍将校の持ち物のなかから、マンダレー以南の中国軍の配置を記入した地図が見つかり、重慶軍が南下して連合国の一員として配置についていることがわかり、日本軍としては英印軍より厄介な存在であった。


 三月二十一日、宇野部隊はチュウエヴエ付近で約三〇〇の重慶軍を撃破し、さらにスエルチャング付近で戦車三両をもつ約五〇〇の敵を撃破した。

 第百十二連隊は二十二日、トングー南方のオクトインを攻撃した。この陣地には迫撃砲を有する重慶軍約千名が堅固な陣地をつくり守備していた。連隊は過去の中国軍との戦闘から、一度攻撃を仕掛けると後退する傾向にあったから、攻撃をかけると、予想に反して激しく抵抗して、連隊の攻撃は行き詰まってしまった。

 この間、宇野部隊はオクトインの西側から北方に進出して重慶軍を撃破したので、重慶軍は主陣地から退却を始めた。宇野部隊の一部は二十四日十四時頃に、トングー西側から迂回して北方に進出して同地区にある飛行場を占領した。


 宇野部隊の攻撃は、以前掲載した土井中尉の手記が参考になるので、引用させていただく。


『オクトウインの町を警戒しながら突入したが、敵は道路上に簡単な障碍物を設置してあるだけでなんの抵抗もせず退却した。

  障碍物の除去には地雷に充分注意し、路外の通行にも地雷に注意して前進した。いままでの戦闘では、道路上に障碍物をおいていた例はぜんぜんなく、またなんの抵抗もしない敵の様子が、いままでとちょっと違うので薄気味悪く感じたのであった。

 敵の主陣地はすぐ近くにあるはずだ。それはどこか、警戒しながら進んだ。

 前方に椰子の林が夜空にうかんでいて、部落らしいものが見える。あの線が敵の主陣地と判断した。約一五〇〇まで接近し、地隙を利用して敵状を捜索することにした。

 夜明けとなり、霧のなかで敵は対戦車砲で射撃してきた。地上一メートルほどのところを「ブスー」と飛んでゆく。これにやられたら、おそらく体はこっぱみじんである。遺骨も内地へは帰れない。桑原桑原である。

 不思議な敵である。迫撃砲も砲も射たず対戦車砲で射ってくる。

 下村中佐がきた。宇野連隊長も馬を飛ばしてきた。対戦車砲が集中した。連隊長も大隊長もこれが対戦車砲とは知らないのである。

 私は

「これは対戦車砲です」

と説明した。

 下村大隊長が

「土井中尉どうする」

 と聞いたので、私は

「今までの敵とは様子が違います。敵の常套手段である迫撃砲も射ってこない。また今まで戦車砲が出現したことはぜんぜんない。これは敵の中部ビルマにおける本格的防禦陣地の一部であると判断されます。連隊はじゅうぶんな準備そして、本格的な攻撃をする必要があると思います」

 と申し上げた。

 連隊長は私の意見を採用されて、連隊全力で攻撃することを決定し命令を下達した。

 それは道路の右に一コ大隊、左に第一大隊を展開し、配属山砲の支援のもとに、本格的な攻撃をするのである。連隊が主力を展開して行う戦闘はモールメン以来であった。

 下村大隊長は、第一中隊を右第一線に、わが中隊を左第一線に展開した。大隊に協力してくれる山砲中隊長は四期上の先輩であり頼もしいかぎりである。

 中隊は嵐小隊を右第一線に、細川小隊を左第一線に、鏡小隊を予備隊に展開した。

 中隊の兵はもう二晩も寝ていないので、暇さえあれば眠っている。糞度胸というか、無関心というか、いずれにしてもよく眠れたものである。

 防疫給水部の兵が、水嚢を背負って水を配給して回っている。実に有難い次第である。わが中隊には重点的に配給しているようである。これもモールメンのウイスキーの返礼である。

 山砲中隊の五四期坂本少尉が

「土井さん、敵の第一線と機関銃位置はどこだろう」

 といってきたが、実は私にもはっきりわかっていないのである。これを確認して山砲隊に制圧してもらわなくては突撃成功はできない。

 敵との距離は一五〇〇である。

 私は

「佐藤分隊散開して前進」

 と命じた。

 佐藤分隊は地隙より散開して飛び出した。佐藤は下士官候補者のとき、私が教官として教えた伍長である。

 三−四〇メートル前進するや、敵陣は一せいに射撃を集中した。

 私と坂本少尉は、眼鏡で敵状を見ているが、敵陣のおおむねの位置はつかめたが、機関銃位置は確認できない。

「佐藤帰れ」

 と命じた。これ以上の確認は困難と判断したのである。』


 このあと、土井中隊は山砲隊の援護のもと前進を開始するが、敵前二〇〇メートルで援護射撃は止んだ。友軍への誤砲撃を避けるためである。今度は逆に敵陣よりの猛射で身動きができない。山砲隊との電話連絡も電話線が切断したのか不通であって、土井中尉は突撃を決意するしかなかった。土井中尉も突撃しようにもあまりに激しい銃弾に躊躇せざるを得ない。


『「突撃にー」

 と体を上げると、敵弾はさらに倍して集中し飛び出せない。

 弾がこわいのである。命が惜しいのである。私の頭はいまきわめて冷静である。冷静であればあるほど恐いのである。恐ければ恐いほど頭は冷静にさえてくる。山砲は敵の第二線を射撃している。私のこと頭では到底突撃できない。この頭を錯乱させなくてはと思った。

「わしは中隊長なんだ。わしが行かなくては。わしの責任だ」

 と心のなかで叫んで、頭を左右に全速で振って、わが頭を錯乱させた。

「突撃にー」

 で飛び出して、走りながら

「進め」

 と叫んだ。

 全力で走った。

 敵機関銃の音も聞こえず、何も考えず何も見ずただただ敵陣の一点を見つめて走った。

 敵の壕が目に入った。

「ワー、ワー、ワー」

 と全身の力をこめて叫んだ。

 いつの間に持ったか、左手には拳銃を持っていた。叫びながら二ー三発壕に射ち込んだ。同時に壕に飛び込んだ。

 その壕には敵がいなかった。

 後ろの状況を見た。橋本上等兵が一ばん、横谷兵長が二ばんである。鏡、細川の小隊も全員突撃してきている。そのときの状況は写真のごとくいまだに私の眼底に焼きついている。

 私のすぐ後ろを来た者が一ばんである。私はこの中隊長在職中は突撃の順位と戦闘行動だけで進級を評価し、他の一切を考慮しなかったのである。

 敵の第一線陣地は奪取した。全員が敵の壕に飛びこんだ。敵の第二線は二〇〇ほど後方である。壕から頭も出せない敵弾の集中である。

 連隊の状況を見ると、街道右の大隊もぜんぜん突撃をしていない。下村大隊も、突撃したのはわが二コ小隊だけである。連隊は攻撃準備位置からぜんぜん前進していないのである。

 壕から壕へ声で連絡し、損害を調査したが

「損害なし」

 の返事が帰ってきた。あの弾のなかの突撃で、損害皆無とは嘘のようである。弾はなかなか当るものでないと思った。』

 連隊の攻撃は再開される様子もないので、土井中尉は夜襲する決意をして兵をそれまで休ませたが、水が少々あるぐらいであった。夜となり中隊全員に防音を命じ、壕から這い出して集まった。

『銃の安全装置を点検し、夜襲隊形を示した。指揮班先頭、細川小隊右、鏡小隊左、各小隊四列縦隊である。

「迂回して敵の右翼に突入する」

 と命じた。

 午後八時半ごろと思った。敵は相変わらず盲射撃をしている。敵の前を左へ左へと匍匐前進した。

 雲間から月が出て明るく照らす。動かずじっとしている。月の雲に入るのを待ってまた這う。這っては止まり、這っては止まりの前進である。邪魔な月、幸運の雲である。

 這いながら大きく右に方向変換した。

「よーし、ここへ突入」

 と思って接近、敵との距離五〇。

 敵の機関銃が猛射してくるが、夜の弾は高い。静かに兵をおちつかせて後退する。夜襲とは言え、機関銃の正面へ突入する馬鹿なことをする必要はない。

 さらに左へ迂回して接近するや、また敵の猛射である。月は雲に入ったり出たりで行動意のごとくならない。敵は照明弾を打ち上げた。一人が立って走った。

「馬鹿野郎動くな」

 と叱る。

 中途半端な迂回でなく、今度こそ徹底的に迂回してやろうと思った。

(中略)

 今度は敵の真後ろに出たと思った。

 敵の射撃は一発もなく静かである。前に茅がある。これを押しわけて見ると街道である。誰かこちらに向けて来るようである。兵を隠して茅の間から近づいて来るのを見ると、敵兵二名が大声で話しながら銃を担いで退っている。驚いたことに支那軍である。

 支那軍である証拠を掴む必要がある。後ろの横谷兵長を呼んで

「突け」

 と命じた。

 彼は後ろから接近して、後ろの敵を思いきり突いた。そして力を入れて銃剣を抜いた。敵は悲鳴をあげた。前の敵が横谷を射った。横谷は力余って後ろに倒れた。前の兵は逃げた。横谷は

「思いきり尻餅ついたわ」

 と平常の彼のごとく冗談を言って帰ってきた。私の目前二ー三〇メートルの出来事である。

 敵は退却を開始したのだ。面白い戦闘ができるぞと張りきった。

 街道を渡って東側に出た。街道の東七〇メートルに鉄道線路が走っている。

 街道と線路のあいだに布陣した。小銃軽機は絶対射撃を禁じた。刺突だけである。機関銃一銃が迷ってきたので、この機関銃を街道のすぐ横に据えた。

 敵は必ず退却してくると思って待っていた。いつの間にか私は眠ってしまった。三日間ぜんぜん寝ていないのである。

「中隊長、中隊長」

 と兵の呼ぶ声に目をさました。彼の報告によると道路の横に陣地をとっていたが、いつの間にか眠ってしまった。目が覚めてみると、頭上の道路を敵の大部隊が砲を引いて退却して行くが、動けば敵に発見されるので動けず、敵が通過し終わったので急いで報告に来たのであった。

 敵の砲部隊は逃がした敵の歩兵部隊の退却はこれからだと思い、各兵を一人ずつ起こして回った。どの兵もみな連日の疲れでよく眠っている。それにしても、どれもこれも図々しく眠れたものである。大した度胸だと感心しておかしくなった。

 私は道路の機関銃陣地へ行った。

 敵の部隊が隊伍を組んで前進してくる。

 五〇、四〇、三〇メートル

「射て」

 と命じた。

 重機関銃は火を吹いた。三連は射った。敵は道路の左右に散った。私は前の位置に戻った。

 私の右前二〇メートルには細川小隊、左には鏡小隊が散開している。私の目の前には茅の株があり一メートルほどの茅が生えている。

 合言葉は「山」「川」である。山・・エイエイ、ヤーの掛声があちらからもこちらからも聞こえてくる。刺突している声である。

 敵は手榴弾を投げて来はじめた。無気味な炸裂が各所でおこる。

 彼我入り乱れての暗夜の血闘である。

 二名、三名、五名と手榴弾にやられた兵が下がってくる。私はそれらの負傷者を後方三〇メートルの一軒家に集めるよう命じた。

 各所に格闘と手榴弾戦が始まっている。中隊の第一線を抜けた支那兵が私の左横に伏せて話しかけてきた。

 私は

「ウン、ウン」

 と返事しながら右に伏せていた橋本上等兵に合図した。橋本は後ろに回って伏せている支那兵を突いた。敵兵の背中に足をかけて銃剣を抜いている。

 右前の橋本曹長が曹長刀で

「エイ」

 と掛声をかけて切ったが

「ポテ」

 と音がした。

 曹長刀は刃が余り付いて無いので殴りつけた格好であった。

(中略)

 私が坐っているとまた敵が来て話しかける。兵はみな伏せているが私は坐っているので敵は私を発見しやすく、そしてゆう軍と間違えるらしい。

 横谷兵長が横から突き刺して後ろに引きずって行った。

 戦闘開始以来三時間から経つのに次から次に逃げてくる敵で休む間もなく、相変わらずの混戦乱闘である。敵は退路を塞がれ、死にもの狂いで手榴弾を投げてくる。こちらの負傷者の数も逐次増えたが、どれも軽傷である。

 敵は「山川」と日本軍の合言葉を使い出したが、発音で直ぐ見分けられる。反対に自分の所在を知らしめているようなものだ。鉄道線路を敵指揮官らしいのが馬に乗ってくる。当番が馬の口を持っている。その後ろから一〇名あまりの兵がついている。

 これに射撃を命じた。敵将校は落馬した。後続兵も半分はやっつけた。

 敵の将校を最後にして、戦線は急に静かになった。長い長い死闘もようやく死闘もようやく終わったようである。

 東の空が明るくなりはじめた。私は戦線を見てまわった。どの兵もみな数人を突き殺している。

(中略)

 敵将校の図嚢より敵の配備要図を発見した。蒋介石はこのビルマのビルマ遠征軍の名のもとに五コ師団の兵力を派遣し、すでに配備を終わっていたのである。これからの敵は全部支那軍である。』


 重要な重慶軍の配備図を掌中にしたのは、第三中隊の土井中隊であった。この戦闘後土井中隊は連隊予備隊となり、トングー攻撃に向けて迂回して背後よりトングーへ目指した。宇野連隊はトングー北方の飛行場を攻撃し、南飛行場と北飛行場を占領した。

 だが、トングー市街の南方一帯は約三千名の重慶軍が数カ所の堅固な陣地を構築して守備していた。この攻撃に向かった宇野連隊は再び第一大隊に攻撃を命じ、再び土井中隊は尖兵中隊となった。土井中尉は敵陣も前にして単身斥候の任務についたが、狙撃されて腹部に被弾して重傷を負ってしまった。その後連隊歩兵と山砲隊の攻撃によったが戦線は膠着し、棚橋部隊も攻撃に加わったが、重慶軍は退却せずに止まっていたが、第五十六師団がラングーンより北上して攻撃に加わった。渡邊師団長は上陸するや自動車、自転車、鉄道をもってトングーへと急行した。機械化部隊は平井捜索連隊で、三月二十七日〇五〇〇捜索連隊は装甲車を含む自動車部隊でトングーへの舗装道路を北上し、二十八日正午ごろには五十五師団の師団司令部に到着し、平井大佐は戦況を把握するや、部隊を率いてシッタン河東岸に移った。捜索連隊は敵と交戦しながらトングー市内に突入し、五十五師団の攻撃とあいまって四日間にわたる激戦を制して、三十日ついにトングーを占領した。何故、五十五師団の攻撃に時間を要したかといえば、各連隊の戦意不足ともいえた。攻撃主力の第百十二連隊、第百四十三連隊とも連合国軍の銃砲撃が激しければ、攻撃前進する戦意が乏しく、手記にあるように土井連隊のなかで第一大隊などは第三中隊の土井中隊が戦意旺盛だったにすぎず、他の二コ中隊は大隊長が最前線から逃避する傾向にあり、第一線から離れて行動することで、戦闘主力は第三中隊が担い、安全になったところへそのあとを大隊主力が到着するよう指揮してようである。


 最強の日本軍部隊の存在はここには見受けられない。そんな日本軍に敗走を続けた連合国軍はそれ以上の指揮官失格の部隊であったのであろう。

 宇野連隊の第一大隊長下村中佐は、敵の攻撃によって前線から退却し、連隊本部の後方まで逃げたため、宇野連隊長もついに下村大隊長を罷免して、戦病者として入院させて内地送還となった。

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