第十三話 スマトラ・アンダマン群島・クリスマス島攻略

 三月八日一六〇〇、小林支隊は輸送船四隻に分乗して、シンガポールを出航して、マラッカ海峡を北上した。

 船隊は水偵隊による索敵、対潜警戒を受けながら、十一日二三〇〇サバン島のバロアン湾とクタラジヤ泊地との分進し、十二日の〇〇一〇から〇〇一五の間に入泊して上陸を開始し、サバン島は〇二三五、クタラジヤは〇三三〇上陸に成功。


 サバン島に上陸したのは小林支隊のうち、多賀少佐率いる第二大隊基幹で、直ちに飛行場その他重要施設を占領した。クタラジヤに上陸した第三連隊主力は午後には市街地に進入し、十三日には逃走した敵部隊と交戦して第三中隊長山内中尉が戦死するなどの被害を受けたが、一四〇〇頃ジグリを占領した。第二大隊はタキゴンの敵に対し降伏勧告を行い、オランダ軍は無条件降伏に応じた。

 支隊は各地で掃蕩戦を行いながら、オランダ軍を圧迫し、二十七日になってようやく降伏に応じた。

 

 師団主力部隊は輸送船八隻に分乗して、ラブハンルクに向い、十二日〇七〇〇上陸を完了した。

 国司支隊はタルトン方向に進撃し、第五連隊はメダンに向かった。澤村連隊は一個中隊を先遣隊としてメダンに急進させ、先遣隊は十三日朝メダンを占領した。

 夕刻には師団長西村中将らはメダンに到着した。

 国司支隊は十三日朝、ベマタンシャンタルに進出、夜にはトバ湖畔に達し、約三〇〇からなる敵陣地そ攻撃撃破し、十五日未明には西海岸のシボルカを占領した。

 支隊は南下し残敵を掃蕩しながら、十七日〇三三〇には西海岸の要衝パダンに突入して、英軍並びに蘭軍を捕虜とした。

 捜索連隊は敵を急追して二十七日には敵部隊は相次いで投降に応じ、捕虜三千人ほどを数え、自動車も七百両をも鹵獲した。捕虜の中には司令官オブラック少将、ホーセンス大佐の姿もあった。


 アンダマン諸島は、北、中、南、小の四つに分かれ、大小二百四コの島からなる。その南北二二九マイル、東西三二マイル、総面積二千五百八平方マイルに及ぶ。その南側にはニコバル諸島が存在する。

 気候は海洋的であり、温暖ではあるが、大体六月から十一月中旬頃まで雨期、十一月中旬から六月まで乾期となっている。


 原住民はネグリート族であるが、文明人との接触により、その人口は減少し、戦前で四百数十人と推定されるに過ぎない。アンダマン諸島の総人口は一万八千弱と我、男性が一万二千強で、人口の大部分はインド人がしめ、他にビルマ人、支那人であった。そのインド人の大部は流刑者かその子孫であると言われる。いわゆる流刑植民地としての島であった。

 東インド会社は、アンダマンを難破船員の快適な避難所とすべく植民地化を計画し、一七八八年、海軍大佐アーチバルド・プレヤを派遣してアンダマン近海を測量させ、適当な錨地を求めて植民地とするよう命じた。大佐は沿岸一帯を調査した結果、南アンダマンの東側に格好の錨地を発見し、インド総督コーンウオリスの名をとって、ポート・コーンウオリスとなづけ、インドから二百名の移民を連行して、湾内の一小島を切り開いて、チヤタム島と読んだ。のちにここはポート・ブレヤと呼ばれる。

 その二年後、北アンダマンにある湾が、対ビルマ作戦の基地として最適であるとみなされたため、植民地の機関は一七九三年の十二月に移転し、この新しい地は新ポート・コーンウオリストなった。しかし、疫病の流行により、英国はこの植民地を放棄せざるを得なかった。其後半世紀にわたりアンダマンは放置された状態であったが、難破船の被害は増加してきたために、再びアンダマン諸島の植民地化が考えられた。時に一八五七年、インドでの反英暴動によって多数の政治犯が捕らえられたことにより、この政治犯をアンダマンに送り、この地を流刑植民地とすることに決し、その地点としてポート・ブレヤが選ばれたのであった。

 一八五八年三月四日、アンダマン総督アン大佐は、インド監獄局士官として令名をはせたウオーカー博士を帯同して、二百人の囚人、一人の原住民監視人、二人の医師、五十人の旧海兵隊員、一人のインド人海軍士官を引率してカルカッタを出発、ボート・ブレヤに到着するや、七十年前と同様に、湾内のチャタム島の清掃を開始したが、飲料水の確保に失敗し、新にロス島の開拓を始めた。開拓は思うように進まず、病人が続出し、なおかつ逃亡者もあいついだ。三ヶ月後までに七百七十三人もの囚人がインドから送られてきたが、六十四人は病院で死亡し、百四十人が逃亡して行方不明。八十七人は逃亡計画が露見して死刑となり、一名は自殺するなど、二百九十二名もの死者を出していた。ウオーカー博士の政策は冷酷であり、否応無しにインド人の首を切り落とした。原住民に対しても弾圧をもって臨んだので、原住民の反感は募り、英国側を襲撃したので、さすがの英国当局も宥和せざるをえなかった。

 英国が流刑植民地を廃止したのは一九二三年のことである。この悲惨な歴史からまだ百年しか経っていないのも事実である。


 さてアンダマン諸島には英軍の一中隊が守備に当たっていたが、ラングーン陥落後、その撤退を決意し、三月十二日以降に守備隊を撤退させた。

 アンダマン諸島の攻略にあたるのは、歩兵第五十六連隊第二大隊の林大尉を基幹とする部隊で、三月十七日宏川丸にてシンガポールを出港し、ペナンで待機していた海軍部隊と合流した。海軍護衛のもと、二十三日ポートブレア沖に達し、上陸を開始し、ポートブレアの港一帯を占領した。同地区にあった英国人幹部三名、インド兵三〇〇名は降伏した。

 其後、アンダマン諸島の警備は海軍の担当とされた。


 三月十八日、蘭印部隊指揮官高橋中将は、クリスマス島攻略作戦について命令を下達した。

 クリスマス島はジャカルタの南方約五百キロに位置する面積約百三十六平方キロの小さな島で、この島が発見されたのは一六八八年で無人島であることが確認された。其後一八八八年イギリスが領土としての編入を宣言した。この島にはリン鉱が存在したからだった。大戦が始まると、日本軍もこの島のリンに目をつけており、攻略することになった。

 作戦の参加兵力は、第十六戦隊を主隊とし、警戒部隊として第四水雷戦隊の旗艦「那珂」駆逐艦二、哨戒艇第三十四号、第三十六号、球磨川丸、君島丸、上陸陸戦部隊として第二十四特別根拠地隊の陸戦隊約四百五十名、第二十一特別根拠地隊の砲兵隊、第一〇二建設隊員の一部約二百名からなり、補給部隊として「あけぼの丸」があった。


 四水戦の「戦闘詳報」からクリスマス島攻略をみてみよう。


『作戦経過の概要

 三月十九日一七〇〇「夏雲」「峯雲」出撃「バンタム」湾外「ニコラス」岬間の対潜掃蕩を実施す 那珂p34球磨川丸は同日一九〇〇「バンタム」湾「パンジャン」島東水道出撃二〇一一「バビ」灯台西方に於て君島丸(p 36護衛の下に「マカッサル」より回航湾外にてp 36と分離p 36は燃料補給のため湾内に入る)を合同「ニコラス」岬北方にて1d|9dg復帰警戒航行隊形制形三十日〇三二五「スンダ」海峡「クラカト」島東方に於てp 36追及列に入り爾後予定通南下途中敵を見ず 

三十一日早朝「クリスマス」島北方に達す 三十一日〇七〇八那珂は舷48°距離約12kに敵浮上潜水艦を発見直に之に向首し〇七一〇照射砲撃(二発)を行い敵は約一分にして急速戦没す

那珂の敵浮上潜水艦発見と同時に1d|9dgにも之が攻撃を下令し那珂は増速之が攻撃に向い途中飛行機を発艦[敵潜攻撃協力「フライングフィッシュカーブ」偵察威圧(敵砲台攻撃)]し〇七二六爆雷投射(四個)を為す(「スミスポイント」の一八度八分)効果不明泊地に近く敵潜水艦在り且「クリスマス」島の敵情未だ明かならざるを以て〇七四〇p 34p 36護衛の下に輸送船を一時西方に避退せしむ

1d|9dgを現場付近に残し探信捕捉極力之が撃滅に当らしめ那珂は単独威嚇射撃の位置に向う

16s(名取長良)及び那珂は孰れも〇七二〇前後飛行機を発艦「クリスマス」島上空に在りて威圧飛行竝に偵察を実施しありしが、〇七四七先づ「フライングフィッシュカーブ」東端の家屋付近を数回爆撃次いで「スミスポイント」の敵砲台(中口径砲一門)を連続爆撃す 〇七五四那珂は「スミスポイント」の敵砲台に対し距離9kにて砲撃(三発)を行えり 〇八〇〇頃敵は各所に白旗を掲げしを以て那珂の砲撃を止むると同時に全飛行機の爆撃中止を令し輸送船に入泊上陸開始を下令せり

〇九一〇輸送船入泊を了す 〇九二〇那珂機より透視の結果湾内機雷無き報あり 〇九三〇陸戦隊上陸開始〇九四五予定地点(第三桟橋西側砂浜)に第一次上陸成功何等抵抗なし

那珂は陸戦隊の上陸を支援しつつ針路概ね東にて行動中第一次上陸成功を確認取舵に反転せんとする時〇九四九舷五〇度距離約1000mの至近距離に潜望鏡を発見其の儘舵角一杯にて向首せんとす 敵は魚雷三本を発射せしも辛うじて之を回避し得たり

魚雷は前方二〇m〜三〇mを通過し其の儘海岸に向け直進一本は泊地東側約一五〇〇m付近の海岸にて爆発 他の二本は中途にて沈没せり

那珂は其の儘敵の直上を乗切り概ね理想的爆雷投射(六個)を行えり 爆雷爆発時多量の気泡噴出し爾後1d|9dg及p34を以て探信せしも反響音無く又付近海面一面に油浮流しあり

効果確実撃沈せしものと認む

地点「スミスポイント」の一三度7k

一三三二那珂機発艦「クリスマス」島周辺の偵察並に対潜警戒に任ぜしも敵を見ず

天津風はH部隊主隊より派遣され二〇三〇来着せしを以てp 34p 36を指揮して船団付近距岸6k以内の対潜掃蕩並に警戒に当らしむ

那珂1d|9dgは計画通泊地北方距岸5分東西20分の間を移動哨戒しありしが二二〇九より翌日〇六一〇迄「クリスマス」島を左廻りに一周警戒を行い敵を見ず

第二桟橋は破壊され各桟橋横付用繋留浮標は撤去されあり 輸送船の揚塔作業は極めて不便なり

四月一日〇八四五那珂機発艦「クリスマス」島南東海面を偵察すると共に泊地付近対潜警戒に当らしめたるも敵を見ず

那珂は1d|9dgを直衛とし昨日同様泊地北方を移動哨戒しありしが一三〇二より一七三〇迄「クリスマス」島を右廻りに一周し敵を見ず 那珂1d|9dgは同隊形にて再び泊地北方を警戒原速力にて之字運動(時刻法)を行いつつ東方に向け哨戒中一八〇四(変針直後)那珂は右舷七〇度距離約七〇〇m(右側直衛駆逐艦との中間)より敵潜水艦の雷撃(一本)を受け急速転舵せしも間に合わず魚雷は右舷中部第一缶室に命中(第一、二缶室第五兵員室下方重油庫に浸水)せり 地点「スミスポイント」の二八度6・3分

那珂は急速敵潜を回避すべく其の儘陸岸に向け航行を続けると同時に爆雷一個を投射せり

那珂は直に浸水遮防機関応急処置を施し浸水は急速増加の傾向無かりしも暫時にして機関運転不能となれり』


 軽巡「那珂」に魚雷を命中させたのは米潜水艦「シーウルフ」(S S−197)で、同潜水艦は七本の魚雷を発射したが命中せず、残り二本を発射し、そのうち一本が「那珂」に命中したのであった。「シーウルフ」は日本軍による爆雷攻撃を執拗に受けたが、無事にフリーマントルに帰投している。

 クリスマス島内にあった英国人十四名、米国人一名、オーストラリア人六名が捕虜となった。

 「那珂」は第十六戦隊旗艦の「名取」によって曳航を開始し、バンタム湾に向かった。「那珂」は其後応急修理によって微速での自力航行が可能になり、四月三日一三三〇「バンタム」湾に帰りついた。「那珂」は其後シンガポールから横須賀へ帰り、舞鶴海軍工廠で修理に入り、その際大規模な改修も行われたため、その完成は昭和十八年三月末日となった。

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