第七話 サルウィン河からシッタン河へ

 モールメンに拠点を構築した第十五軍は、ラングーン攻略に向けて本格的に作戦計画を練った。飯田軍司令官がモールメンに司令所を進めたのが二月十五日のことであった。目指すラングーンに進撃するには、大河であるサルウィン河、シッタン河を渡河しなければならず、歩兵部隊だけの攻撃は危険すぎる懸念があり、戦車や火砲、そして弾薬燃料の補給物資の輸送が問題であり、ましてや泰緬国境の自動車道路の造成完成が急務であった。かといってここで進撃を停滞していれば、英軍の増援補給は印度から続々と強化されることは明らかであった。


 十七日次の軍命令を下した。

   第十五軍命令

一 軍は「ラングーン」攻略の目的を以て先づ「シッタン」河畔に向い前進せん

 とす

二 第三十三、第五十五両師団は二月二十日「ビリン」河の線を通過し当面の敵

 を撃滅しつつ「シッタン」河畔に進出し爾後の前進を準備すべし

三 両師団の作戦地境左の如し

 「ドンクミ」河、「ディンゼイク」「ワイヤウ」「カマサイン」「フニベル」

 「キャウエドウィン」「ヌガミン」「クチャウン」「タウンガル」「タウガ

 ン」を連ぬる線とし線上は左兵団に属す


 宇野大佐率いる歩兵第百四十三連隊は、同夜民間船により、一部はカドから、主力はモールメンから夜間水上機動により、モービ付近に上陸し、午前十時敵陣地の背後レドバンに進出した。

 小原沢大佐指揮の第百十二連隊は、マルタバン正面に上陸、宇野連隊に呼応して攻撃した。敵は包囲される脅威により退却を開始してマルタバンは占領した。

 第三十三師団の歩兵第二一五連隊主力と、山砲第三大隊よりなる先遣隊は、メスドへ前進したが、先遣隊長原田大佐は、まず二組の将校斥候を長躯敵中に挺進させた。

 片山、篠原両少尉を長とするえりぬきの兵各五名は、僧衣の下に拳銃をしのばせ、勇気りんりん敵中突破に向った。目標は一〇〇キロかなたのパーン、なぞにつつまれたビルマの奥深く、まさに決死の偵察行であった。


 一月三十日、盾兵団はモールメンに対する攻撃の火蓋をきった。同日、わが師団は、パーン渡河点を占領すべしとの軍命令をうけた。先遣隊は、勇躍前進を開始し、一月二日ドーランにおいてギャイン川を渡河した。その直後、篠原斥候、ついで片山斥候が無事帰り、「パーンには警戒兵だけ陣地はなく、対岸のクゼイクには、約二〇〇〇名の敵が占領中である」と報告した。

 彼らは野に付し、森に寝ること一週間あまり、パーンよりシュエギンにわたる地区を踏破し、サルウィン河を遊泳して、水深河幅にいたるまで、偵知してきたのである。その勇敢なる行動によって、部隊の士気はいやがうえにも高まった。

 第二大隊は、二月三日の朝にいたるや、ついパーンに進入し、先遣隊は渡河準備に着手した。このころには師団主力も工兵だけ残して、しだいに西進しはじめたが、もっとも緊急を要する渡河材料や、これを輸送するためのトラックは、ロープで山に引き揚げ、引き下ろし苦心さんたんして山脈を横断しつつあった。


 サルウィン河は、河幅約千メートル、コンロン山系に源を発する、ビルマ第二の大河である。渡河は丸木舟か、竹イカダにたよるほかなく、敵の妨害があれば、とうてい成功は望めない。丸木舟は、両側に竹をつかねて安定性をつけ、七、八名がせいいっぱいである。二〇〇〇名がわたるには三〇艘で最小限五時間、その間、敵に発見されぬことが最大の要件であった。

 原田大佐は、はじめパーン北方にて八日の夜、渡河する計画をたてたが、連隊本部情報班の池田兵長の偵察によって、パーン南方六キロのパガット付近は、敵の警戒がほとんどなく、住民もきわめて親日的なことを知った。そのため渡河点を南方に変更し、十日夜、決行することに計画をあらため、師団長の承認をえた。

 パーン北方においていちど渡河準備をしたことは、作間連隊が、同方面においおい到着したことと相まって、偶然にも陽動の効果を完全に発揮する結果となった。火器ぜんぶをパーン周辺に集結装置して敵を牽制し、主力は十日に入るとともに、南方に移動した。

 十時ごろ、月は落ちて暗夜となる。滔々たる流れの手前半分だけがにぶく鉛色に光り、彼岸は闇にとざされていた。

 ぶきみな静寂のなかを、戦闘になれた部隊は、粛々と準備を進めていた。そのとき対岸に、灯火が二つ点滅し、一瞬、不安になったが、それは池田兵長の工作による、対岸からの合図であった。第一回の渡河は、ぶじ成功し、第二回を実施中、とつじょ銃声が起こった。敵斥候の威嚇射撃である。わが方は最後の一瞬まで、沈黙しつづけた。敵斥候は、わが企図を発見できなかったようである。天佑ではなく、敵の失策である。夜が明けるまでに、渡河を終った攻撃隊は、ジャングルにもぐって昼寝の夢を結んでいた。

 クゼイクの敵は、わが企図を知るや知らずや、べつに動く気配もなく、紀元節のよき日は暮れた。カゲの如く、クゼイクに忍び寄る三個の縦隊、第一、第二両大隊は並列して、西南方より敵陣地を攻撃、連隊長は、本部と予備隊を率いて西北方に迂回し、敵を包囲殲滅しようとしたのである。

 攻撃開始は、午前三時、夜が明けるまでは、射撃を厳禁し、音無しの戦法で敵陣内に潜入する方針をとった。夜襲は、まったく演習のように実施された。急襲された敵は、乱射乱撃、右往左往するのみで、みずから壊滅していった。

 夜が明けるまでに勝敗は決し、九時ごろには、完全に掃討され、第一七インド師団第四五旅団のバルチ連隊第七大隊の約一〇〇〇名は、せん滅的打撃をこうむった。木内少尉の指揮する左側隊が、タトン方面から前進する敵部隊を邀撃し、寡兵よく数倍の敵に奇攻をおさめたのも、この戦闘であった。

 遺棄死体二五〇、俘虜三八〇、迫撃砲九、そのた戦利品多数と記されている。


 サルウィン河の渡河を終った師団は、作間連隊を右縦隊、原田連隊を左縦隊として、まずビリン川にむかい突進を開始したが、十五日とつじょ軍は師団に、前進停止を命じてきた。これは盾兵団の前進がおくれたため、弓兵団のみを突進させることの危険を憂慮したからであったが、モールメン方面の敵に退却をゆるし、ビリン川に置ける敵の防衛に、時間のよゆうをあたえ、ひいてはわれに、あたえずもがなの損害をおこさせる原因となった。

 一日の前進停止がなければとくやんだが、後の祭りであった。敵にしてみれば、ビリンをいちはやく突破されては、シッタン川に圧迫、殲滅されるおそれがある。なかんずく、キングス・ヨークシャー連隊第二大隊は、英人部隊の面目にかけても頑強に戦い、我が軍の突進をこばみ、その装甲車隊をもって、しばしば逆襲に転じたので、戦況は降着してしまった。

 とくにパヤ西側高地の争奪戦は激烈をきわめ、作間連隊の佐藤小隊は、数倍の敵の反復逆襲にたえ、敵退却の端緒をひらいた。地の利をしめる敵に対し、師団は態勢を整理し、原田部隊をパヤ北方に迂回せしめた。一九日の夜、原田部隊が敵の左翼に進出せんとするころ、すでに敵は退却中であった。師団はただちに追撃に移り、シッタン河に殺到した。

 作間部隊第三大隊は、左追撃となり、本道にそった敵の抵抗をけちらし、阿修羅のごとく猛進した。

 尖兵中隊長若林中尉の武者ぶりは、もっともめざましく、逃げる敵を追いうち、追い越し、敵にたちなおるスキをあたえぬ奮戦をつづけたが、おしくもシッタンの東方五キロ、インカボーの露と消えた。三十数発の敵弾をあび、壮烈きわまる最期であったという。


 左追撃隊が一手に敵を引受けつつある間、右追撃隊である原田連隊第一大隊は、たくみに山間を迂回して、二十二日午前十時、シッタン鉄橋を俯瞰する要衝、一三五高地を急襲占領してしまった。

 びっくりした敵は、窮鼠猫をかむたとえの如く、死にもの狂いの逆襲を繰り返し、数十門の砲火を集中し、この奪回をはかった。砲弾のため、山容あらたまるの形容も誇張ではなく、木内少尉以下、多数の死傷者を出したが、第一大隊は、三十六時間にわたって、よくその猛攻にたえ、本戦闘最大の殊勲をたてた。やがて正面から、師団主力の圧迫がくわわり、さらに、盾の一部もやっと追いつき、包囲圏を圧縮した。


 二十三日早朝、敵は多数の兵員を東岸に残したまま、唯一の退路である鉄橋を爆破した。取り残された敵兵は、あるいは戦場で銃撃され、あるいは河に飛び込んで、その多くは溺死し、第一七インド師団の壊滅をもって、シッタン河の戦闘は終了した。

 二十四日の朝ともなれば、戦場は昨日にかわる静けさであったが、大砲、装甲車、自動車の累々たる残骸から、燃え残りの白煙が立ち上り、つわものどもが夢の跡には、まだなまなましい鬼気がただよっていた。遺棄死体一六〇〇、装甲自動車および各種自動車三〇〇台、火砲八〇門、機関銃一五〇、小銃二七〇〇挺という莫大な戦果であり、このとき鹵獲した自動車は、とうじ輸送力皆無の師団にとって、旱天の慈雨であった。日本製トラックより、はるかに馬力も強く、とくにジープと四輪起動貨車は優秀であったから、後に師団輜重隊は、ほとんど鹵獲品で装備を改編したほどである。

 

 話を宇野連隊の土井中隊に戻そう。土井中隊は戦果の褒賞として休暇を与えられたが、そう悠長に過ごすこともできず、土井中尉は前線へ急いだ。中尉は山根軍曹を乗せ前線に到着し、さらに第一線を飛び出し、「チャイト」という町に着いたが、敵はもぬけの殻で、装甲車も放置されていた。その装甲車に乗ってと思ったが、バッテリー不足か動かず、他の乗用車を探し、ガソリンを他の車から補充して後退し、連隊長に「チャイト」の敵は退却した旨を報告し、其後サルウィン河を渡河してきた中隊を掌握し、中尉は乗車車で指揮し、兵は自転車、後方を走るトラック二台には修理班と背嚢と食料を積んで、アスファルト道を北上していった。


『昼食後、私は新居軍曹と兵一名を連れて先行することにした。

 昨日来たチャイトの町を過ぎた。午後三時ごろである。行く手の道路上に砲弾が落下している。友軍部隊は付近にいない。連隊は左すなわち道路西側を通って前進したと判断した。

 私は車を路傍に放棄し、兵を残し、中隊が追及すればここで待期するよう命じて、新居軍曹を連れて徒歩で西方に進んだ。部隊が通った様子はない。

 本道に平行した鉄道線路に出たので線路上を北上した。線路には爆薬が仕掛けてある。少々おかしいと思ったが、別に異常はないようである。

 敵は相変らず道路上を砲撃している。その砲は迫撃砲なので敵が近いことを示している。戦線はこの砲撃の外一発の銃声も聞こえない。実に静かな戦線である。

 五〇メートルほどの鉄橋にきた。これは真中で爆破されている。鉄橋の袂には敵の壕があり、そこに友軍の鉄帽と背嚢が二つ放置してある。友軍がここを通ったと判断した。

 川向うの部落は実に静かで人一人いないようである。破壊された鉄橋の両側の鉄骨は水面より出ているので、これを通れば対岸へ行くことができる。私は之を通って前進しようと思って

「新居軍曹、援護せよ」

 と命じて鉄骨の上に上って、一〇メートルほど進んだ。上は三〇センチほどの幅である。周囲がよく見える。

「しまった」

 と思ったが後の祭りである。敵の姿は見えないが川向うの部落は一連の敵の陣地であるはずだ。背嚢を残した二人の兵は敵の捕虜となっているか、またはここで射たれて逃げたかのどちらかだ。部落までは約一〇〇メートル、退いても射たれ、行けば捕虜である。止まっても射たれる。私はとっさに小便をすることにした。

 下流を向いておもむろに小便ボタンをはずした。できるだけ時間を稼がねばならない。

「新居軍曹、前は敵だ。知らん顔して動くな」

 と伝えた。

 敵は少なくとも五〇か多ければ一〇〇だ。その銃口が私と新居の二人を狙っている。

 小便の落ちるところを見た。下は砂地で高さは相当ある。少し前に行くと鉄橋の橋脚がある。うまくゆけば助かるぞ。私は新居軍曹に合図して、私が飛び下りると同時に、袂の壕に飛び込むように伝えた。おもむろに小便ボタンをかけ、軍刀を腰からはずして左手に持ち、鉄帽を肩からはずして頭にのせた。そして静かに前進した。

 突然川原に飛びおりた。

 足も腰も大丈夫だ。

 橋脚に隠れた。河原は相当低いので、敵からはぜんぜん見えない。新居軍曹の壕まで約二〇メートル一気に飛び込んだ。

 敵陣より一斉射撃である。軽機、自動小銃、つづいて迫撃砲の射撃である。たかが二名に対して、どれかで射てば気がすむのか。曲射砲弾は四〜五メートルの至近距離に落ちるが、壕に命中することはまずないので安心である。

 日没まではまだ二時間はじゅうぶんある。敵が出現したら駄目であるが、射撃しているあいだは大丈夫である。

 二人の兵器は小銃一とその弾六〇発、私の拳銃二〇発である。敵の鉄橋よりの出撃を予防するため、射撃が止むと、こちらから壕から手を出して間断的に射撃をする。敵はまた集中射撃をしてくる。これを繰り返して時間を稼いだ。ちょうど子供の戦争ごっこである。太陽を睨みながら射撃をする。私の人生でこれほど時間の長かったことはなかった。』

             (土井滋俊著 前掲書より)


 土井中尉は日没となり、敵の射撃も下火となったので壕から這い出して、後方に下がっていった。そこには自転車部隊となっている中隊が待っていた。

 翌朝、土井中隊は南方を進んでいる連隊の後を追った。中尉は途中乗用車を工兵隊に渡して自転車に乗り換え連隊本部に昼ごろに到着した。そして先遣隊のなって敵状偵察のために突進し、下村大隊を抜き去り、午後三時ごろには鉄橋を望む二キロの地点まで到着した。


『前方一五〇〇、モバリンの町には敵兵多数がいる。またシッタン河畔の部落には印度兵多数がいて、印度人将校が立って指揮している。

 私は河岸に出て、シッタン河と鉄橋の状況を偵察すべく、河岸の部落に接近した。敵も射撃せず、われもまた射たず、両者の距離二〇〇となった。銃を棄てて投降するよう伝えてみたが、敵は

「ノー」

 と答えるので、止むなく射撃して追っ払った。

 河岸に出て鉄橋を見ると、まだ破壊されずに健在である。その上を敵は盛んに退却している。

 シッタン河の川幅は約一五〇〇である。濁流が渦を巻いて流ている。あの鉄橋を敵の破壊前に奪取する必要がある。

 敵の主力は本夜退却するだろう。そして明朝は爆破するだろう。爆薬は中央に装置してあるはずだが、導火線は対岸より引いてある。この導火線を切ればいいんだ。夜陰に乗じて渡り、この導火線を切る。これは面白いぞと思った。

 兵を連れて一キロ後方にさがり、本部の到着を待った。夕方大隊本部、連隊本部が到着したので敵状を報告して

「中隊は本夜鉄橋を渡りこれを確保します」

 と意見を具申した。宇野連隊長は

「第一大隊は本夜鉄橋の敵を攻撃し、シッタン鉄橋を確保せよ。第三中隊は大隊に復帰すべし」

 と命令した。

 下村大隊長は大隊命令を下達した。

「土井中隊は尖兵中隊となり、鉄橋の敵を攻撃し、爾後鉄橋を渡り、対岸を確保せよ。尖兵敵に突入したる場合は、大隊主力は右又は左より攻撃す」

 私は薄暮を利用し、本道を避けて鉄道線路横を自転車に乗って一挙に突進した。

 暗闇より敵の集中射撃を受けた。直ちに線路左に飛び下りて散開した。

 線路上の突破はあきらめて敵の左翼を突破してやろうと田のなかを匍匐前進した。弾は実に低い。低いはずである平地だ。

 敵前五〜六メートルまで接近したが、敵の軽機、自動小銃の数がものすごく多くて、まるで火力の壁である。

 幸い今のところ損害はない。しばらく辛抱すれば大隊主力が右より攻撃するだろう。そうなれば敵の火力も半減されるか、または退却するだろう。突撃の機会はその時である。

 今か今かと大隊主力の攻撃開始を待ち、部下を激励して耐え忍んだ。

 すでに二時間経つが、大隊主力方向には異常なく、攻撃の気配はさらにない。下村中佐自身が出した命令を彼自身が破るなど到底考えられないが、一応確める必要がある。

 私は

「中隊長は大隊主力の攻撃を督促してくるから辛抱しとれ、鏡、頼むぞ」

 と言って匍匐して後退し鉄道線路まで来た。

「第一大隊はおるか」と叫ぶと、第二中隊長吉田中尉が、

「土井さん、こっちだ」

 と線路の向うから返事した。

 盛り上げた線路の土手には曳光弾が雨の如くあたっている。ころを見て線路を越えた。吉田中尉が心配して飛んできた。

 大隊主力の状況を聞くと、私の中隊が戦闘開始するや、下村中佐は退却を命じ、一ばん先に逃げて行き、今どこまで逃げていったかわからない。わが嵐中尉も一しょに逃げて行ったそうである。吉田中尉は一コ小隊を連れて、私の中隊を心配して残っていてくれたのである。他隊の中隊長が残っているのに、嵐中尉が逃げるとは怪しからんと愚痴を言うと、彼は

「土井さん早く嵐を追い出せ」

 と言った。

 私は吉田中隊の擲弾筒分隊を借りて中隊の後方へ散開さして、「私が射撃を命じたら、各筒五発、距離二百で射撃せよ」

 と命じて、中隊の位置へ戻った。

 生田上等兵腹部盲貫の重傷である。天幕に乗せて引っぱる準備をした。

 擲弾筒の射撃を命じた。初発射弾低下し中隊の目前で炸裂したが、後の弾はうまく敵陣内で炸裂した。

 敵の火力が止んだ瞬時を利用して一挙に後退した。生田上等兵は間もなく戦死した。安全地帯に兵を集め休息せしめた。』


 このあと、土井中尉と吉田中尉とで下村大隊長の居場所を求めて探し歩いた。二キロほど退ったところにいた。土井中尉は下村中佐に対して、前線から逃避したことを詰問し、部下を連れて大隊を離れると公言した。翌朝には大隊長は部隊を連れてさらに離れた場所に移動していった。

 土井中尉は連隊長に対し、昨日の件を説明して、連隊直轄としてほしい旨を願い出て、宇野連隊長はこれを了承した。

 連隊は攻撃準備にかかっていたが、敵の大部隊は白旗を挙げて降伏してきた。前方に見えるシッタン河を渡れば、ラングーンは目の先であった。


 飯田軍司令官は戦後の回想録の中で、当時の両師団の進撃と軍の作戦指導との間がチグハグであったことに次のように記している。


「この作戦は結果から見ると、両師団が至るところで敵を撃破し、特にシッタン河畔では敵に多大の損害を与え、見事な戦果を収めたので、事情を知らないものには、いかにも軍の統帥が立派に行なわれたように見えるかも知れないが、実はさにあらず、軍は第一線師団の前進を控えようと努力したがそれができないで、ついにシッタン河まで引きづられて行ったような始末であった。

 当時、私は両師団の戦闘能力につき非常な不安を抱いていた。というのは、駄馬の通過にも非常な困難を伴うような泰緬国境の山地を通過するのであるから、両師団とも編制装備を極度に制限した編成の微弱な師団であったので、どこまで迅速に作戦することができるか、常に非常な疑問をもっており、無理な作戦開始を急いで途中で動けなくなり、捉え得る敵もみすみす逃すようなことがおきはせぬかと心配していた。

 これらの配慮から、多少の不便は忍ぶとしても。迅速果敢に行動し、所望の距離を一挙に躍進して敵を捕捉するため、最小限の用意を整えたうえで作戦を始めたいものだと考え、第一線両師団には前進の準備は命じたが、前進開始の時期は別命することとし、鋭意準備の促進を図ったのである。

 第一線両師団は、こういう軍司令官の配慮を知っていたかどうかは知らぬが、ぐんぐん敵を攻撃し、これを追ってついにシッタン河まで行ってしまったのであった」

(竹下正彦著「第十五軍と初期ビルマ作戦」丸別冊

    太平洋戦争証言シリーズ⑧『戦勝の日々』所収 潮書房)

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