第五話 モールメン攻略

 第五十五師団の諸隊はメソートから国境を越えてコーカレーに進出した。自動車道を造成しているために部隊装備は軽装である。火砲は僅かであり、その弾も最低限である。

 第三十三師団は一月十日バンコクに上陸し、列車輸送及び行軍によってビルマ国境へと向かっていた。

 一月二十三日、五十五師団がコーカレーを占領したことを受けて、軍司令部は次の命令を発した。

 

 軍は第三十三師団を「コーカレー」北側地区に進出せしめて軍爾後の攻撃を準備したる後第五十五師団を以て「モールメン」方向に又第三十三師団を以て「バアン」を経て「サトン」方向に攻撃して敵を捕捉するの企図を有す

 状況に依り第五十五師団独力を以て「モールメン」付近を攻略せしむる場合あるを予期す

 航空機の偵察情報などからも、敵はモールメンに向かって退却中である様相が報告され、軍は第五十五師団単独でのモールメン攻略に決して二十六日には次の命令を下した。


一、第五十五師団は速かに「モールメン」を攻略すべし

二、第三十三師団は「コーカレー」北方地区に進出し「サルウィン」河岸に向う

 前進を準備すべし


 軍司令部は二十七日に軍戦闘司令所を「ラーヘン」へ進めると共に、自動車道造成の完成目指すために督励した。

 完成目標は二月五日であり、独立工兵第四連隊が主として作業を行い、一部は歩兵部隊を援助した。


 第五十五師団は、右翼隊、左翼隊、中央隊の三縦隊で以て国境を越えてモールメンを目指した。

 右翼隊は宇野大佐の指揮する歩兵第百四十三連隊を基幹とする部隊、左翼隊は川島大佐指揮の騎兵第五十五連隊基幹、中央隊は小原澤大佐指揮の第百十二連隊の一コ大隊基幹であった。

 中央隊は国境から四キロの地点で約二百名の敵と遭遇した。

敵部隊は密林内に堅固な障害物を造成しており、頑強に抵抗した。樹上からの狙撃に奇襲を受ける形となり、戦死二十名、戦傷約五十名の大きな被害を受けた。だが、敵は時間と共に、陣地を放棄して退却した。

 第五十五師団は第三十三師団のコーカレー進出を待つことなく、モールメンへの前進を開始した。

 歩兵第百四十三連隊の第一大隊長松井中佐は右翼隊尖兵としてギャイン河北側に沿う道路を進み、川島大佐の騎兵第五十五連隊は左翼隊として南側を西進し、主力はモールメン道を前進した。

 

 竹内師団長は一月三十日モールメン攻撃への命令を下した。


    第五十五師団命令

一、「モールメン」付近を占領しある敵は約三千にして堅固に陣地を構築しあり

二、師団は明三十一日払暁を期し一挙に敵陣地を突破し「サルウィン」河に圧倒

 撃滅せんとす

三、右翼隊(宇野大佐指揮する歩兵第百四十三連隊のニケ大隊基幹)は三十日夕

 当面の敵警戒部隊を駆逐し該線に於て明払暁の攻撃を準備すべし

四、左翼隊(小原澤大佐指揮の歩兵第百十二連隊の二大隊基幹)は三十日当面の

 敵警戒部隊を駆逐し該線に於て明払暁の攻撃を準備すべし

五、騎兵隊(川島大佐指揮の騎兵第五十五連隊)は三十日夕「モールメン」東南

 方約二粁標高一八三高地を攻撃し明払暁と共に「モールメン」南側より敵陣地

 の右側背に向い攻撃すべし


 モールメン市は、人口約五万、サルウィン河の河口に位置しており、港は五、六千トン級の汽船が悠々と出入港できる。この地は、タイ領であったが、一七八〇年頃にビルマのオランバヤ王により征服されてより緬甸領となっていた。

 モールメン市中央部に小高い丘があり、そこにチャイシャンラン・パコダが聳え立っている。サルウィン河岸にはカドウ・コーナ寺院という名高い寺院も建立されており、チーク材で建造され、精巧な彫刻も施されている。


 一月二十二日、第八戦隊の司偵はミンガラドン飛行場を偵察した際、大型四、小型十二の在地機を認めた。小畑集団長はこの日の午後にはミンガラドン地区の敵航空機の撃滅を企図した。

 翌二十三日、河原第四飛行団長は、飛行第五十戦隊にミンガラドン飛行場の攻撃を命じた。

 第五十戦隊の牧野戦隊長は九七戦二十四機を率いてミンガラドン飛行場を攻撃した。敵機一〇機と交戦してP40三機(内不確実一)、バッファロー一機、スピットファイア二機(内不確実一)、機種不明中型機一撃墜の戦果を報告したが、戦隊も二機が未帰還となった。

  午後は、第三十一戦隊の軽爆十二機に、第七十七戦隊の九七戦二十五機を掩護につけて、ミンガラドン飛行場を攻撃した。しかし、空中集合が悪天候のためにできずに、各戦隊が攻撃に向かったため、軽爆隊は飛行場爆撃後、約三十機の敵機の襲撃を受けたため、全機が被弾する結果となり、一機が自爆、三機が大破、七機が中破してしまった。

 掩護の九七戦は飛行場への到着が十五程遅れてしまったために軽爆隊は大きな被害を蒙ったのであった。九七戦は敵戦闘機十数機と交戦し、P40戦闘機十二機撃墜(内不確実四)の戦果を報告して、全機が帰還した。

 二十四日、第十四戦隊は九七式重爆六機が第五十戦隊の九七戦二十機に護衛されて、ミンガラドン飛行場攻撃に向かったが、九七戦は重爆隊の速度に追いついていけず、重爆隊が先行する形となり、案の定敵戦闘機の攻撃を受けてしまい、本村中隊長機を含め五機の重爆を撃墜されてしまった。遅れて到着した戦闘機隊も三機の九七戦を失う結果となった。

 いかに、戦闘機の護衛が重要かを示す攻撃となってしまった。

 

 陸軍航空部隊は、二十六日からは少数の爆撃機による夜間攻撃と戦闘機隊による昼間攻撃に切り替えて、連日ミンガラドン飛行場を攻撃した。第五十戦隊と第七七戦隊の九七戦は連日出撃して敵戦闘機と交戦して、戦果を挙げたが、損害も少なからずで、やはり九七戦ではP40戦闘機との戦闘は有利に進めることは難しかった。一式戦を保有する六十四戦隊の応援が急務であった。


 師団の両翼隊と騎兵隊は、敵情地形不明のまま一月三十日にモールメン市街地東南側高地側面に進出を果たしたが、それぞれの地区で敵軍との激しい銃撃戦となった。日本軍は払暁総攻撃の準備に入った。騎兵隊は海岸道に進出して夜間にモールメン市街に突入した。だが騎兵隊は標高一八三高地の北方で敵と遭遇したため、突撃に移ったが敵は退却してしまった。

 川島大佐は全般の状況不明であったが、今が戦機と捉え、部隊に対してモールメン市街への突入を命じ、市街の一角を払暁時には占拠していた。

 夜明けと共に、市街の東南側高地のパゴダ寺院の高地上では、英軍は激しく銃撃を日本軍に浴びせていた。しかし、日が昇ると共に、英軍は高地上から撤収して、モールメン市街を抜け、サルウィン河を渡河して対岸のマルタバン地区に退却していった。日本軍はモールメンを包囲していた訳ではないので、英軍は横合いを入れられる事なく対岸に逃げのびた。

 右翼隊で進む宇野隊は、機関銃、迫撃砲を含む集中砲火を浴びて釘付けとなっていたが、三十一日明け方、宇野連隊長は敵陣への突入を命じたが、これは不成功に終わった。続けて、連隊は二回目、三回目の突撃を繰り返し、九時頃になってようやく敵は退却していった。

 三十一日、モールメン市街は日本軍が占領する事になり、二月一日竹内師団長が戦場を巡視して、捕虜と押収品に対して命令を下した。


 第五十五師団第百四十三連隊第三中隊長であった土井滋俊中尉の手記からそのモールメン攻撃を見てみよう。


『わが第三中隊は大隊へ嵐小隊を残して、私は二コ小隊を連れて軍旗中隊となった。

 一一二連隊は海岸線の本道沿いにモールメンを攻撃し、わが連隊は南方より攻撃することになった。

 宇野連隊長は私に

「二人で拝受した軍旗を、二人でモールメンに立てよう」

と言われた。

 一一二連隊とわが連隊の先陣争いである。

 連隊は夜に日を次いでの急進撃である。

(中略)

 朝がたようやくモールメンを望むところに着いた。

 四〇メートルほどの川がある。深くて渡渉できない。丸木舟は一艘である。連隊長は軍旗を奉じて渡った。次いで連隊本部が渡っている。中隊が渡るまでには相当の時間がかかる。私は当番に馬を持たして次の部落へ舟を捜しに行って一艘を見つけ、それに乗って帰り、中隊はこれを利用して渡ることを命じた。私は連隊長の後を追い、二キロほどのところで追いついた。

 迫撃砲が正確に飛んでくる。よく見ると白ペンキで塗った標識を立ててある。私はこれを抜いて捨てるとともに、標識より離れた。(中略)

 モールメンの敵陣は、ちょうど屋島台地に似ている。高さは一五〇メートルほどで東西に延びている。

 師団主力は西から、わが連隊は南から攻撃するのである。

 連隊主力は平地の第一線陣地を攻撃すべく準備している。迫撃砲は台上よりきわめて正確に射撃してくる。』


 この時土井中隊は予備隊に回されていたため、あくまで戦闘の見物をするだけであり、双眼鏡も壊れて廃棄していたため、退屈していたという。


『第二大隊の昼間攻撃は失敗し、敵の警戒陣地も取れなかった。薄暮攻撃も余り成功していないようである。引きつづいて夜襲を準備している。

 宇野大佐は何故連隊独自の攻撃を強行するのか。師団主力はまだ戦場に到着していない。そしていつ到着するかわからない。モールメンは師団の攻撃目標で、師団長は一四三、一一二の両連隊を並べて、師団の全力を集中して攻撃する命令を出している。しかるに宇野大佐は連隊独自の攻撃をなぜやるのか?功を焦りすぎる古い考え方である。

 夜襲は不成功である。業を煮やした連隊長は軍旗を奉じて本部を推進した。まったくの暗闇のなか、迫撃砲の炸裂光で友軍の状況がよくわかる。大隊本部は止むを得ず第一線へ出た。第一線の兵が多数逃げてくる。連隊副官渡辺少佐が軍刀を抜いて振り上げ、

「逃げてくるヤツは、たたっ斬るぞ」

 と叫んで追い返している。しかし次から次へと逃げてくる。副官殿は大車輪で奮闘している。督戦隊そのものである。

 私が連隊長のかたわらで伏せている。鉄帽はなく心細い限りである。迫撃砲が一〇メートルほど横の小屋に命中して火災をおこした。付近は明るく照らされた。

 全将兵が伏せているのに、連隊長は終始片膝をついて腰を上げて右手で軍刀をついている。この迫撃砲と銃弾のなかで、落ち着きはらっているではないか、実に頼もしい限りである。

(中略)

「連隊長、伏せて下さい」

 と言った。

「土井か、当りはせんよ」

 と答えて相変らずの姿勢である。私は終始伏せていた。零時ごろか?まだ敵の第一線は攻略できない。敵の迫撃砲は熾烈をきわめている。

「土井中尉」

 と連隊長が呼んだ。

「このままだと今夜中に台地は取れない。お前は一コ小隊を連れて敵陣に潜入して、後方攪乱をやれ。軍旗の護衛に一コ小隊を残せよ」

 と命ぜられた。

 私は鏡の第三小隊を残した。

(中略)

 台地までの距離は約一〇〇〇メートル、大地の右(東)には現在地より道路が通じている。これを北上すると市街に入りサルウィン川に出る。前方五〇〇メートルの小クリークには敵の第一線がある。この敵を攻撃突破するのが先決である。あとは臨機応変だ。

 決心はきまった。もはや実行あるのみ。

 私は細川分隊を呼んだ。

「隠密行動で、前のクリークを渡り、敵陣の間を抜けて、橋梁の敵の後ろへ回れ。後ろから突撃の喊声だけを上げろ。喊声と同時に、わしが前から突撃する。射ったらいかんぞ」と命じた。

 細川分隊は出ていった。橋梁の敵の軽機は相変らず射撃しているが、夜の弾は高い。一〇分、二〇分がたったが異常がない。三〇分ーまだ喊声はおこらない。四〇分たった。

 突然「ウワッー、ウワッー」の喊声がおこった。

 敵陣の射撃が急にやんだ。

 私は突撃を命じ、一ばんに飛び出し、敵の壕に飛び込んだ。

 敵は壕から逃げ出した。後から指揮班の兵がつづいてくる。

 私は「追撃」と号令し、一ばん先を突っ走った。

 後の状況はわからないが、指揮班の兵が、

「ワッショ、ワッショ」

 の掛け声を出して続行している。

 後の方から長谷川中尉が、

「中隊長、中隊長」

 と呼んでいるので、私は止まって彼を待った。

「そんなに無茶に進んだら、中隊は全滅する。これ以上進むべきでない」

 と言うのである。歴戦の勇士たる長谷川小隊の兵もそのような意見であるようだ。彼の小隊の三浦善八が長谷川中尉の意見を支持している。私はすぐに

「長谷川中尉は来なくてよろしい。われと思わん者は、中隊長についてこい」

 と叫んで、暗闇の道路上を突っ走った。

 指揮班の兵が威勢よく

「ようし!」

 と叫んで私について来ている。

 長谷川小隊の勇敢な兵が五人、十人と、小隊長を棄てて走ってくる。その数逐次ふえてくる。

 橋梁の敵は路外の闇を逃げ、われは道路を全速で走る。敵状も何もあったものでない。敵に射たれるまで走るんだ。アスファルトを踏む軍靴の音。ワッショ、ワッショの兵の力強い掛け声。体力的にも私より前に出る者はない。ゴールに突入するごとく全力突進である。

 台地の東側に達したとき、路上に敵あり、敵は私に話しかけて、顔をつきつけて見る。印度兵五、六名である。敵はわれを英軍第一線が後退して来たものと誤認しているのである。路外には一面の陣地が闇の中に見えまた感じられる。私は

「壕の中に飛び込め」と号令した。

 私はすぐ前の壕の中に飛び込んだ。敵は壕の隅から飛び出してゆく。軍刀は抜刀しているが同じ有色人種、なかなか切れるものではない。

 後から追及して兵も全部敵の壕に飛び込んだ。殆んどの兵が私についてきたようだが小隊長の声はないようである。

 道路の左右は一面の広場で、前面は小高い岡のようである。猛烈な敵の射撃がはじまった。敵火の曳光弾により、敵の陣地配備がわかる。大きな陣地である。敵の兵力は五〇〇以上と判断した。中隊は敵主陣地の真ん中に突入したのである。召集将校たる小隊長が恐れるのも無理もないことだ。』


 土井中尉は壕の中で煙草を吸い、心落ち着けてから、敵の弾の様子を伺い、弾道が高い所を過ぎていることを確かめると、道路横の側溝に移動することにした。全員が弾の来ない溝に集まった。


『私は指揮班の山田上等兵を呼んで、連隊長に報告を命じた。

「中隊は敵第一線を突破、敵主陣地を突破して敵の背後に潜入する」

 山田上等兵は報告後連隊本部とともに行動せよ、中隊に帰ることなしと命じた。彼は元気に復唱していった。

 敵の銃火は熾烈であるが、中隊は悠々と溝を這って前進した。五〇〇メートルも進んだか?ようやく銃声を後方に聞くようになった。敵陣を突破したのだ。

 鉄筋家屋の街に入った。大きな川に出た。道は左に直角に曲って、街の中央に走っている。

 夜が明けはじめた。一面の霧である。視界は四〇メートルほどである。私は取りあえず道路の直角に曲った河縁の鉄筋家屋に陣を敷いた。後ろは川である。これぞ本当の背水の陣である。

 勇気が湧いてきた。小隊長はいるのかどうか、意にもかけず、私は小隊長を兼ね、分隊を直接指揮した。長谷川小隊はほとんどが来ているようだ。

 窓の硝子を破って軽機三挺を準備した。小銃も全部窓から射つよう準備した。

 この建物は二階建てである。二階から四周を見ると上流五〇メートルほどのところに大きな倉庫群がある。行って見ると一番手前の倉庫と二番目の倉庫はガソリンの倉庫らしい。桟橋にドラム缶が多数ある。小銃で射だしたらガソリンが流れ出した。街の民家の一軒にも火をつけた。燃料倉庫はドラム缶が次々と爆発しその火勢物凄く焔と黒煙は天を覆った。

 敵に与える心理的効果は絶大であると確信した。友軍の台地攻撃は間断なくつづいているようで、彼我の銃声また盛んである。

 私の後方擾乱の任務は一応達成された。私はゆっくりと煙草に火を付けた。無意識に戦果の拡大をやらねばと思った。

 突然霧の中から私が進撃してきた道を敵兵を満載した貨車が突進してくる。まさに道を曲ろうとしている。軽機が一せいに火を吹いた。貨車は横転し、敵は車外に投げ出された。これに火力を集中全滅した。この敵約三〇である。血が土の上を流れている。

「敵は逃げて来るぞー、用心しろ」

 と命じた。

 国防色の乗用車が、倉庫方向より全速で突破した。射撃しても近すぎて命中せず、幸運な敵である。

 英人、印度人の混合部隊約一〇〇、歩いて敗走してくる。敵はわが存在に気付かず。私は

「射つな捕虜にする」 

 と指示した。

「ホールド アップ」

 と叫んで、五、六名の兵を連れて飛び出した。』

(土井滋俊著「突撃鬼中隊」『太平洋戦争ドキュメンタリー 第十八巻』所収 今日の話題社 一九七〇)


 こうして中隊は百名ほどを捕虜にした。土井中尉は捕虜を見張らせ、残りの兵を引き連れて前進すると、桟橋に逃れる船が見え、敵兵が乗っていた。射撃を命じて敵兵を幾らか倒したと考えたが、船は岸を離れていってしまった。英軍は有利な戦闘を果たしていたにも関わらず、ある程度の戦闘をすると、陣地を棄てて逃亡していき、モールメンは日本軍の占領する所となった。土井中尉らは敵の軍需品倉庫を接収していった。膨大な量であり、アサヒビールや洋酒が山積みになっていた。彼らは十分なほど酒を飲んだのである。


 二月七日大本営発表があった。

「一月三十一日モールメン市完全占領。戦果、鹵獲品、飛行機一機、戦車(装甲車含む)七両、大砲四門、機関銃七挺、自動車二百五十六両、鉄道車両二百五両、航空用燃料多量、俘虜百四十八、遺棄死体二百二十五」

 俘虜の殆んどは土井中隊の戦果であった。

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