第三話 ビクトリアポイントの占領とラングーン空襲

 第五十五師団の歩兵第百四十三連隊長宇野節大佐を長とする宇野支隊が編成され、宇野支隊は十一月十八日に香川県宅間港を出港し、同月二十七日インドシナ南岸サンジャック沖に到着した。


 宇野支隊の編成は次のようである。 

宇野支隊

 長 陸軍大佐  宇野 節

  歩兵第百四十三連隊

  山砲兵第五十五連隊第四中隊

  工兵第五十五連隊第三中隊(一小隊欠)

  師団無線四分隊

  第三十八固定無線隊

  師団衛生隊の一部

  第二野戦病院(半部欠)

  防疫給水部の一部

  独立自動車第二百三十六中隊の二分隊


 歩兵第百四十三連隊は四国徳島を本拠とする連隊である。

 宇野支隊はマレーに上陸する第二十五軍の船団の到着をサンジャック沖とフコク島泊地で待機し、主力輸送船団が到着合流してマレー半島へと向かった。

 七日G点で分離し、宇野支隊のうちナコンへ上陸する三池丸、善洋丸、工作船東宝丸は海防艦「占守」に先導され、チュンポン、バンドンに上陸する山浦丸、伏見丸、良洋丸は軽巡「香椎」に先導され上陸地点目指し、ブラチャップに上陸する浄宝縷丸は独航で向かっていた。


 ナコンの上陸部隊は歩兵第百四十三連隊の第一大隊を基幹とし第一大隊長の下村中佐が指揮をとった。

 部隊は八日〇〇三〇占守の先導によって泊地に進入し、悪天候の中泛水作業を行い、〇四〇〇発進し、〇七四〇灯台の北側で河口を発見し、遡航を始めた。遡航二時間余、一〇時頃にようやくナコン駅付近に上陸した。その際タイ国境警備隊の銃撃戦となったが、上陸してタイ国軍の武装を解除し、飛行場も占領した。

 バンドンへ向かった輸送船は、香椎に先導されて泊地に進入したが。風雨激しく視界も悪く入泊時間は予定時間より遅れてしまう。それでも風浪を犯して泛水作業を開始し、〇四一〇に舟艇は発進した。

 〇八〇〇頃夜明けとなり視界が明るくなったが、目標の河口はなかなか発見できず、四〇分捜索してようやく河口を発見し、遡航を開始し、十時頃にはバンドンに到着し上陸を開始した。こちらでも警備隊より銃撃を受けたが、其後その武装を解除し、バンドン飛行場も占領した。


 チュンボン方面は宇野支隊の主力部隊が上陸する予定で、八日〇三〇〇に泊地に進入し、上陸作業にかかったが、こちらも風雨が激しく、上陸作業は困難を極めた。まして、陸岸付近は泥地だったこともあり、舟艇から海中へ飛び込んだものの、泥に足を取られて陸岸にだとりつくまでに時間を労した。

 皆泥まみれになりながらようやく陸地に達したものの、今度は、タイ警備隊からの射撃を受けて交戦しなければならなかった。

 宇野支隊長は一小隊を率いてチュンボン部落に向かい前進を始めたが、部落からの射撃を受けて、小隊長は戦死した。

 他にも中隊長が戦死するなど、大きな被害を受けた上陸作戦となった。

 まもなく停戦となり、タイ警備隊の武装を解除したが、その兵力は三百名ほどいたのであった。


 宇野支隊長は整理後、クラ河に向かい、河口にあるビクトリアポイントを占領することであり、チェンボンから山脈を横断する自動車道を西に向かい、クラ河までいくことであった。

 十一日早朝、自動車で西に向かい、十四時頃にはクラ河河畔のクラブリに到着した。クラ河がタイ・ビルマの国境となっていた。

 宇野支隊長はここで部隊を二つに分け、自らは連隊本部と歩兵一中隊を以てクラブリから折畳舟で河を下りビクトリアポイントに向かうこととし、一つは第三大隊長指揮のもとにクラ河沿いに陸路を南下することとした。

 

 宇野支隊長は舟艇機動でクラ河を南下したものの、途中十四日〇六一〇にビルマ領マリウンに上陸して、現地で押収した自動車で南下を続け、二〇二〇にビクトリアポイントに達して何らの抵抗を受けることなく、同地を占領した。ビルマの警備隊は「日本軍来たる」の報せを受け逃亡していた。

 宇野支隊長は、北方に位置するボービアンを占領するために、歩兵一小隊を十九日〇六〇〇に舟艇機動によって北上させ、部隊は無事に上陸を果たし、同地付近にある飛行場も占領した。

 飛行場を無傷で占領するということは、今後のビルマ作戦を遂行する上で、重要な任務でもあった。


 同盟通信社が発行した「大東亜戦史 ビルマ作戦」にはビクトリアポイント占領のことも記載されているので、そちらを紹介しよう。


『タイ領マレー東岸のチュムポーンに上陸したヴィクトリア攻撃軍先遣部隊は、すでにタイ国に不法侵入していたイギリス軍にいどみ、これを追って九日にはクラ地峡高地のジャングル地帯を昼夜兼行で一気に突破していた。

 チュムボーン上陸は、胸までつかる泥沼の海岸との闘いであった。百メートルの前身になんと二時間を要し、兵はすべて前身ずぶ濡れ、足は水ぶくれの強行軍だった。

 なかんづく〇〇部隊の如きは首まで海水につかったので、満足な時計を持つものは一人もなく、部隊長はチュムボーンの村でやっと手に入れた大型の目醒まし時計を腰にぶらさげ、これを唯一の頼りに、前進命令を出していたという挿話さえあった。

 ジャングルをつらぬく嶮岨な山道を、野猿の啼き声を聞きながら六十キロ、露営三日、攻撃部隊の前に、タイ・ビルマ国境を分つクラ河の流れがあらわれた。

 椰子の葉陰に、床の高い熱帯住民の家屋が散在する国境の村クラブリー。そしてその彼方に将兵は対岸ビルマの敵兵ひそむジャングルを見たのだ。

 深い夜霧の中で渡河準備がなされ、一部はクラブリー対岸に、主力は雨霧を衝いてクラ河を下航、ヴィクトリア・ポイント直前に敵前上陸を決行した。

 意外、頑強な敵の抵抗を予期したにもかかわらず、イギリス軍からは一発の銃声さえ聞かれず、十四日未明には先遣部隊はヴィクトリア飛行場に突入し、主力も同夜岬の南端、ヴィクトリア・ポイントに殺到、アンダマン海沿岸の一角に日章旗は燦然と打ちたてられた。

 イギリス軍はわが軍のタイ国沿岸上陸の報を聞いていち早く舟艇によって、ラングーン方面に遁走した模様で、飛行場にはすでに一台の飛行機もなく、敵は町の入口数ケ所に地雷を埋め、鉄条網を張りめぐらし、石油タンクの爆破をおこなっていた。海からの攻撃を恐れてが、海岸には堅固なベトンのトーチカが造られてあったが、イギリス兵はこれらの防禦施設を弊履の如く捨てたのであった。

 幸いに、岬の頂に立つ無電台は破壊されていなかった。

 ビルマの南端、マレー半島の最狭隘部クラ地峡にあるこのヴィクトリア・ポイントは、人口約二千であるが、気候よく、入江を隔ててタイ国ラーノンと対し、タイからマレーに至る連絡隘路で、ビルマ・マレー間の空路および海路連絡をも確保する戦略的要点である。従ってその無血占領の意義は大きい。』

 こうして、ビルマ南部のビクトリア・ポイントは宇野支隊によって何ら抵抗を受けることなく占領を果たしたのである。


 陸軍航空隊の第三飛行集団長菅原道大中将は、主はマレー半島への強力であったが、十二月二十三日、二十五日の両日にあたり、第七飛行団と第十飛行団をもってラングーン付近に進攻させ、南部ビルマの敵空軍を制圧することを命じた。

 

 二十三日、第十飛行団は重爆十五機、軽爆二十七機、戦闘機三十機、司偵五機の七十七機、第七飛行団は重爆四十五機でもってラングーンを爆撃した。

 

 飛行第七十七戦隊の戦闘詳報によれば、二十二日一五〇〇作戦命令が伝えられた。


  十飛団作命甲第五六号要旨  十二月二十二日一五〇〇

                 ドンムアン

一、飛行団は第七飛行団と協同し全力を以て明二十三日一三〇〇「ミンガラド

 ン」を攻撃せんとす

二、飛行第七十七戦隊は主力を以て飛行第三十一戦隊と協同し「ミンガラドン」

 飛行場を攻撃し空地に敵機を索めて撃滅すべし

 又一部を以て「ドンムアン」飛行場の防空に任じ敵の尾撃を封止すべし

三、飛行第三十一戦隊及飛行第七十七戦隊の協同は一一四五高度四〇〇〇米を以

 て「ラヘン」直上を出発前進するを以て基準とす


 第七十七戦隊は一一四五時「ラヘン」飛行場から三十機(九七式戦闘機)の全戦闘機を発進させ第三十一戦隊の軽爆を護衛しラングーンに向かい、一二五〇頃ラングーン飛行場上空に達した。上空には英軍の「スピットファイア」と「バッファロー」が二十機ほど警戒して待ち構えていた。「スピットファイア」は「ハリケーン」の見誤りである。護衛の戦闘機隊は、敵戦闘機と交戦に入り、戦闘詳報によれば、「スピットファイア」七機、「バッファロー」二機を撃墜し、地上にあった中型機一機を撃破した。戦闘機隊は被弾機なく全機が帰還した。

 だが、護衛なしに爆撃を行った重爆隊は戦闘機の邀撃を受けて、手痛い被害を受けた。



 ラングーンにおける英空軍の司令官はスチーブンソン中将で、バッファロー戦闘機十六機、ハリケーン戦闘機三十機、ブレニム爆撃機二十四機他があり、応援として米義勇空軍フライング・タイガース部隊のP40ウオーホーク戦闘機二十一機があった。


第九十八戦隊は白井戦隊長が敵戦闘機の射撃により機上戦死した他、二機を失い、第六十二戦隊は五機を失った。初戦で七機を失うという大きな損失を蒙ることになり、戦闘機の掩護を痛感した攻撃となった。

 両隊の総合戦果は撃墜確実三十五、不確実六、地上撃破戦闘機三、大型機炎上三、同破壊一と報告された。


 二十五日、第二回目のラングーン爆撃が実施された。第七十七戦隊の九七戦は三十二機で、第三十一戦隊と第六十二戦隊の爆撃隊を護衛しならが、ラングーン上空に達し、上空にあった敵戦闘機約二十機と交戦し、バッファロー戦闘機撃墜八、不確実四機の戦果を報告したが、染谷大尉機、青木准尉機が未帰還となり、小野軍曹機は国境付近に不時着して、第十五飛行場大隊に収容された。

  撃墜三十二機、地上撃破八機の戦果を挙げたが、重爆三機、戦闘機五機を失った。

 ラングーン空襲は敵地上施設の破壊にあったが、一部は市街地に落下し、一般市民に多くの被害が出てしまった。


 二十八日、英軍当局の発表では、ウエーベル将軍がラングーンに居合わせており、この空襲で防空壕に逃げ込み難を脱れたとしている。

『去る二十三日おこなわれたる日本航空部隊の第一次ラングーン爆撃により、死傷者六百名を出し、二十五日の爆撃では被害は前回よりも僅少であったが、若干の兵員に死傷者を出した。日本航空部隊のラングーン爆撃の際、ウェーヴェル英インド軍司令官は、ラングーン飛行場に居合わせていたが、同飛行場の損害は僅少で死傷者はなかった。』

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