第六章 ビルマ攻略作戦

第一話 ビルマ攻略の作戦計画

 日本軍が進攻した四大作戦のうちの一つビルマ作戦は、必要のない地域のように判断されがちであるが、実際はぜひとも掌握下に置きたい戦略上の要地であった。

 それには三つの理由があった。一つは、米英支の連合軍が、日本軍を逆襲して南支那海に追い落とす陸上の根拠地であること。一つは、仏印ルートが遮断された後、重慶に対する米英の援助物資はビルマを通して自由に行われ、支那軍を近代化するための米軍将校の派遣や戦闘訓練もこの地を通って行われていた。参謀本部の分析では、ビルマルートからの物資の支援はその距離七百七十マイルにもかかわらず、月間一万トンが送られていると推定している。仏印ルートを遮断し、香港ルートを遮断し、残すはビルマルートだけとなっていた。


 このビルマルートは長い。港都ラングーンを起点とし、鉄道を北上してマンダレーに達し、そこから三つのルートが設けられた。


 ⑴ ラシオを経てビルマ支那国境を突破し、龍稜を通じて昆明に至る南方線

 ⑵ バモを経て騰越ー大理ー昆明へ達する中央線

 ⑶ ミッチナから保山経由昆明に至る北方線


 であった。蒋介石はこの道路建設の為に三万人に及ぶ労働者を動員して完成させたと言われている。

 もう一つは、インドに対する独立運動を働きかけ、英軍の戦力を減却させるには、隣国ビルマの占有が不可欠だったからだ。

 しかし、ビルマ作戦を遂行するには、兵力の余裕がなく、全面進攻には、マレー・シンガポールを進撃している第二十五軍からの応援なくしてはならなかった。当然ビルマ進攻はシンガポール攻略後と考えていた。しかし、マレー作戦の進撃はあまりにも順調であって、ビルマ進攻の作戦計画を前倒ししてもよいと考えるに至った。


 十一月六日、大陸命第五五五号で第十五軍の戦闘序列を下令した。

  第十五軍司令官  陸軍中将 飯田祥二郎

 第十五軍司令部

 第三十三師団

 第五十五師団

 第十五軍通信隊

   長 第十五軍通信隊長

     第十五軍通信隊本部

     電信第六、第七中隊

     独立有線第二十三中隊

     独立有線第八十七中隊

     第三十八、第四十三固定無線隊

 第十五軍直属兵站部隊

   第四十二兵站地区隊

   第七十三兵站地区隊

   独立自動車第百一大隊

   独立自動車第二百三十六、第二百三十七中隊

   独立輜重兵第五十一大隊

   独立輜重兵第五十三、第五十五中隊

   陸上勤務第九十三、第九十四中隊

   水上勤務第三十三、第三十五中隊

   建築勤務第百一中隊

   患者輸送第三十九、第四十小隊

   第百五兵站病院

 第十五軍司令部の主要職員は次のごとく配置された。

  第十五軍司令官  中将  飯田祥二郎

   同  参謀長  少将  諫山春樹

   同  参謀副長 大佐  守屋精爾

   同  参謀   大佐  寺倉小四郎

   同  参謀   中佐  八原博通

   同  参謀   中佐  今村一二

   同  参謀   中佐  小西健雄

   同  参謀   中佐  古木重之

   同  参謀   中佐  吉田元久

   同  参謀   少佐  高橋茂

   同  参謀   少佐  有沼源一郎

  第三十三師団

   第三十三師団長 中将  櫻井省三

    同  参謀長 大佐  村田孝生

  第五十五師団

   第五十五師団長 中将  竹内寛

    同  参謀長 大佐  加藤源之助


 飯田中将は明治二十一年八月熊本生まれ。陸士二十期卒、陸大二七期卒。昭和十四年八月、陸軍中将に昇進、九月近衛師団長、昭和十六年六月第二五軍司令官となる。

 飯田中将の第十五軍は、第五十五師団(竹内寛中将)と第三十三師団(桜井省三中将)の二個師団からなるもので、五五師団は十一月末に仏印海防に到着し、南仏印にてタイ国通過の日を待った。国交の関係から、日本軍のタイ国内の通過は開戦の一二月八日以外は不可能であった。

 一方第三十三師団は開戦の当時、支那徐州にあり、内一個連隊は漢口付近の掃討作戦の応援に出かけ留守であった。三十三師団は仙台編成の師団で、精強師団としても名を轟かしており、一個連隊不足のまま、桜井師団長は一月上旬タイに向った。


 十一月二十日、南方軍は南方部隊各軍に対して次の攻撃命令を下した。そのうち第十五軍に関するものを抜粋する。


   南方軍命令     十一月二十日

六 第十五軍司令官は左記に拠り泰国に進入して第二十五軍の作戦を容易ならし

 むると共に勉めて同国の安定を確保し且同方面よりする対支封鎖を実施し併せ

 て「ビルマ」に対する爾後の作戦を準備すべし

 ㋑開戦初頭陸路及海路より中部及南部泰に進入し「バンコック」付近及中、南

 部泰に於ける航空基地を確保す

  特に海路より泰国に進入する作戦に関しては緊密に第二十五軍の作戦に協同

 す

  開戦前に於ける部隊の移動は厳に企図の秘匿に留意す

 ㋺泰国進入作戦の実施に当りては勉めて友好関係を保持す

  泰国軍抵抗せば前項の要域を占領す

  第十五軍司令官は「カンボジャ」に於ける軍事鉄道輸送業務及作戦地域内泰

  国に於ける鉄道の整備及軍事鉄道業務を担任すべし

七 第十五軍司令官は進入作戦開始時迄南総作命甲第一号の一に依る前任務を続

 行すべし

  但し印度支那の安定確保及同方面よりする対支封鎖の任務は十二月一日零時

 を以て南方軍軍直部隊に又印度支那に関する軍事要求の現地交渉其の他に関する事項は進入開始時を以て総司令官の機関に夫々継承せしむ

             

 

 飯田軍司令官がバンコクに入ったのは一二月九日であったが、参謀長と副長との三人だけであった。それは、タイ国との協定に関することだった。坪上大使、そしてビブン首相を訪ね、夜には大使館にて関係首脳者の会食に列席した。

 八日の段階ではビブン首相はまだ協定に対する締結は未成立であったが、翌十日になって、軍事同盟の締結についての申し入れをおこなってきた。これはおそらく開戦二日間の日本側の戦果が報じられたからであろうと思われた。

 十一日には仮調印が行われ、二十一日宮殿内にて正式調印がとりおこなわれた。こうして「日泰同盟条約」が成立し、その前には「日泰協同作戦要綱」が締結された。

 これによって第十五軍は泰国内に進駐することが可能となったのである。ビルマ攻略への足掛かりは、泰国との和平交渉により大きな戦闘を交えることなく、その基盤を整えたのである。

 

 ビルマに関しての兵要地誌については、次のように把握していた。


一、地勢一般

 地勢を大観するに緬甸の西北方、北方及東方の三方面は概ね嶮峻なる山脈を以て国境とし西南方及南方は印度洋に面す 従って河川の大部は概ね南北に流れ中央部は盆地状を成形し南部はイラワヂ河シッタン河の三角州となり広大肥沃なる平野を形成す

 緬甸を地勢的に区分すれば山地方面(国境付近)高原丘阜地帯(シヤン州方面)平原地帯(マンダレー南北平地)及低原地帯(プローム以南主としてイラワヂ河のデルタ地域)の四とすることを得べし 地勢一般に斯くの如くなるを以て泰方面よりの前進路は何れも嶮峻なる山地を跋渉ばっしょうし且幾多の水流を渡渉せざるべからざるの状態をなせり

 従って地形上到る処局地戦を惹起するの公算大なり

 緬甸の広表は南北の延長約一、九〇〇粁、東西の幅員約九二五粁に及び其の総面積約六十七万平方粁なり

二、山地

 泰緬国境山地帯は嶮峻にして所々岩層露出し且樹木、竹林密生し昼間尚暗き状況を呈す

 北境印度及支那に接する部分には三、五〇〇米乃至六、〇〇〇米の高山近く接するも泰との国境地方に於ては二〇〇〇米を著しく越ゆる高山尠し

 シャン州高原の西端はシッタン河谷より急聳きゅうしょうし七〜八〇〇米の帯状地をなし其の以東の丘阜は平均高度一、〇〇〇米に達す

マンダレー、ラシオを経て滇緬公路に沿う山地は一般に路外は大部隊の行動不可能にして殊にロックテイク付近の山地は其の嶮峻最も甚だし

三、平地 

 緬甸の平地はイラワヂ河流域に拡延し緬甸の主要部を成形す 其の他海岸に沿う地区、諸河川下流地域は小範囲の平地なり

 耕地は大部分水田にして乾期に於ては到る処部隊の行動に支障なし

四、河川

 緬甸に於ける河川中著名なるもの左の如し

 イラワヂ河は其の本流は緬甸の北境山地に源を発しミイトキーナ、バーモ、マンダレー等を迂余曲折し支流チンドウィン河を合せ更に中部盆地を流れ下流に一大三角州を作り多くの分流に分れて海に注ぐ 蘭貢ラングーン迄は一万噸級船舶を通し又一、六〇〇粁の上流バーモ迄汽船を通す水運の便特に良好たり

 チンドウイン河は北部国境付近の山地に源を発し概ね西部国境東側に平行して流れマンダレーの下流に於てイラワヂ河に流入す 長さ約九〇〇粁にして合流点より五〇〇粁の地点迄小汽船の航行可能なり 

 サルウィン河は西蔵の東部に源を発し雲南省の西辺を流れ緬甸に下りてシャン高原を貫流しモールメンに於て海に注ぐ全体に峡谷をなし両側急峻、水流急にして混濁し下流の一小部分を除きては舟楫の便なし

 作戦上障碍をなせし外利益する所尠し

五、森林

 森林面積は国土の五四パーセントに相当し、泰、緬甸国境付近に於ては森林の密度大にして部隊の行動困難なり 特に此の方面に於ては竹林多し

 其の他トングー東西の地区の森林地帯も部隊の行動極めて困難なり シャン州方面に於てはモンキャイーケシマンサン道に沿う地区以外は山地一帯森林にして道路以外部隊の通過困難なり


 飯田軍司令官は十二月二十日、バンコクにて軍命令を発した。

  第十五軍命令

一 「ビルマ」に在る敵軍は総兵力約三万、飛行機数十機にして南部「ビルマ」

 には「モールメン」に五、六千 「タボイ」及「メルグイ」に各一千あり

二 軍は速かに南部「ビルマ」を攻略せんとす

三 第五十五師団は鉄道輸送に依り「ビサンローク」に下車して「ラーヘン」付

 近に集中し速かに「コーカレー」付近に進出して「モールメン」攻略を準備す

 べし

四 沖支隊は鉄道輸送に依り「バンボン」に下車し「カンチャナブリ」に集結し

 次で「ボンデー」を経て西進し先づ「タボイ」を攻略すべし


 沖支隊とは歩兵第百十二連隊第三大隊を基幹とする沖中佐指揮の支隊編成である。百十二連隊は四国丸亀に籍を置く部隊である。


 第五十五師団長竹内中将は軍命令に基づき、十二月二十二日次期作戦についての師団命令を下令した。


   第五十五師団命令

一 敵情( 史料不詳)

二 師団は「モールメン」攻略の目的を以て速かに「ラーヘン」「メソート」の

 地区に兵力を集結し爾後の攻撃を準備セントス

三 歩兵第百十二連隊は「バンコク」の警備を撤し鉄道輸送により「ビサンロー

 ク」に下車し「ビサンローク」ー「ラーヘン」ー「メソート」道を「メソー

 ト」に向い前進すべし

四 歩兵第百四十三連隊は「バンコク」に兵力を集結したる後前項道路を「メソ

 ート」に向い前進すべし

五 山砲兵第五十五連隊は「バンコク」に於て装備を改編したる後第三項の進路

 を「メソート」に向い前進すべし

                     (以降省略)


 だが、師団として国境付近の地図は配布されておらず、軍司令部にある地図を見て暗記するしかなかったが、二百五十万分の一の地図を入手したり、どうにか二十五万分の一の地図を支給された程度で作戦をたてなければならなかった。

 それにもまして、泰緬国境を越えるルートは、肝心のモールメンへと通じる道は自動車道なく、駄馬さえ通る道もなかった。前進するには、まず道路を造らなければ、歩兵は何とか通行できても、砲兵や糧秣が運べなければ作戦に支障ができること歴然である。しかし、道路造成は百二十キロに及ぶと思われ、山岳地帯を通るために最低五ヶ月はかかると思われたが、日本軍将兵とタイ国軍の協力もあって、約五〇日間で自動車が通れる道路を完成させた。

 この道路は今は整備されタイとビルマを結ぶ往還道路として使用されている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る