第五話 メナド攻略

 メナドはセレベス島(現在はスラウェシ島と呼称)の北部に位置する。セレベス島は約十七万四千キロメートルの面積、ミンダナオ島の南、ボルネオ島の東に位置する。島は上空からみるとKの字のように見えるように、四つの半島を構成しているが、中央には山岳地帯が聳えているため、それぞれの交流は阻害されている地形の島でもある。


 メナドの攻略は東方攻略部隊により実施された。陸軍部隊は参加せず海軍単独の作戦となっていた。


第二護衛隊

  指揮官 第二水雷戦隊司令官 少将 田中頼三

 第二水雷戦隊

  旗艦 軽巡 神通

  第十五駆逐隊 駆逐艦 黒潮、親潮、早潮、夏潮

  第十六駆逐隊 駆逐艦 初風、雪風、天津風、時津風

 第二十一掃海隊 掃海艇五 

 第一駆潜隊 第一、第二、第三十四号哨戒艇

 輸送船十隻


 指揮官の田中頼三少将は、明治二十五年(一八九二)四月山口県山口市に生まれる。大正二年兵学校四一期卒。第一次大戦では第二特務艦隊の一員として地中海の護衛任務に従事。昭和十六年九月第二水雷戦隊司令官となる。田中の指揮官としての資質は日米で異なる評価を受けているが、これはのちに述べたいと思う。


 田中少将は一月五日第二護衛隊命令第一号を発令した。

 昭和十七年一月五日マララグ湾 旗艦神通

     第二護衛隊指揮官 田中頼三

   第二護衛隊命令

一、敵情

 機密蘭印部隊命令第三号通

二、友軍の情況

 ㋑「マカッサル」海峡方面には我部隊と併行して味方有力部隊の要地攻略作戦

  に従事するものあり

 ㋺第十一航空艦隊の有力なる航空兵力は東西両攻略部隊に呼応進出協力し敵兵

  力の掃蕩撃滅に任ず

三、作戦要領

 ㋑先づ大部を以て「メナド」を急襲攻略して飛行基地を確保整備し速に11AF

  飛行隊の進出を計り一部を以て陸軍部隊及呉一特部隊を輸送護衛し「メナ

  ド」集結「アンボン」作戦準備を行わしむ

 ㋺1Bg「ケンダリー」作戦の際は一部兵力を之が急襲攻略に参加せしめ大部の

  兵力を以て掩護に任ず

 ㋩爾後「アンボン」「クーパン」及「マカッサル」作戦実施の予定

 ㋥「メナド」攻略以降「モルッカ」海「バンダ」海方面作戦期間中は特に第二

  航空部隊と緊密なる連繫を保持し付近敵潜の掃蕩撃滅に努むると共に5Sの

  掩護下に敵水上兵力に備え「モルッカ」海「バンダ」海方面作戦線の啓開竝

  に最前線の掩護確保に任ず

四、軍隊区分 (前掲に準拠)

五、各部隊の任務竝に行動

㋑「メナド」攻略時の「ダバオ」出撃

 ⑴梯団区分

  第一梯団

   駆逐艦早潮、第十五駆逐隊第一小隊、第一駆潜隊

   彰化丸(四、四六七トン)

   興新丸(六、五三〇トン)

   長和丸(二、七六〇トン)

     (基準速力九節)

  第二梯団

   駆逐艦親潮、第二十一掃海隊、第一、第二号哨戒艇

   南海丸(八、五〇〇トン)

   畿内丸(八、五〇〇トン)

   北陸丸(八、五〇〇トン)

   天城山丸(七、六二〇トン)

   葛城丸(八、〇三三トン        

        (基準速力一二節) 

 (オハ丸(九九〇トン)、神功丸(五四五トン)は列外とす)

 ⑵梯団出撃日時

  第一梯団  一月九日〇一〇〇

  第二梯団  一月九日一〇〇〇

 ⑶輸送船団の予定航路 別図第三の通(省略)

  各梯団は一月十日一四〇〇第五変針点に到達する如く機関速力及航路を調節

  するものとす 第五変針点以後の各梯団の基準速力を九節とす

 ⑷本隊は一月九日〇六〇〇出港第二梯団の前路を掃蕩しつつ第一梯団に追及之

  が直接支援に任ず

㋺「メナド」進入

 ⑴上陸部隊輸送船及護衛艦艇の区分左の通定む

  第一案

   メナド方面 メナド市街南岸・北岸

    南海丸、畿内丸、彰化丸、興新丸、長和丸、天城山丸

    護衛艦艇 第十五駆逐隊、第二十一掃海隊掃海艇三 

         第一駆潜隊

   ケマ方面  ケマ正面

    北陸丸、葛城丸

    護衛艦艇 第十六駆逐隊第一小隊、

         第二十一掃海隊掃海艇二、

         第一、第二号哨戒艇

  第二案

   全部「ケマ」方面

 (註)

   ⑴一月十日一四〇〇以後右区分となり行動するものとす

    但し北陸丸、葛城丸の嚮導艦を時津風とす

   ⑵第二案に依る場合は一月十日一四〇〇迄に特令す

    此の場合の嚮導は従来通とす

 ⑵「メナド」方面「ケマ」方面共左の通予定す

   泊地進入    〇二〇〇

   舟艇発進    〇三〇〇

   着岸      〇四〇〇

 ⑶各嚮導艦嚮導(「ケマ」方面は時津風嚮導)第一漂泊点に至り第一次上陸部

  隊(但し第一梯団は大発を上陸部隊に提供す)を発進す

  第二梯団は第一次上陸部隊発進後第二漂泊点に進出 第二次上陸部隊を発進

  せしめ更に第三漂泊点に進出す

  第一梯団は日出後徐々に進出「メナド」攻略を待て浮標繋留(投錨)す

 ⑷「ケマ」泊地進入時の前路掃海に関しては第十六駆逐隊司令の所定に依る

 ⑸泊地付近警戒艦の配備に関しては「メナド」方面は第一支隊指揮官 

  「ケマ」方面は第十六駆逐隊司令の所定に依る

  本隊は概ね「メナド」泊地外方一〇乃至二〇粁付近に在りて警戒に任ず

 ⑹第十六駆逐隊司令は一月十一日二四〇〇頃「ケマ」方面揚陸作業一段落後同

  方面部隊(北陸丸を含む)を率い「メナド」に回航す

 ⑺本隊は情況に依り「アムーラン」湾方面に進出 強行偵察竝に敵兵力の牽制

  或は「メナド」方面への北上阻止に任ず

 ⑻掃海隊は一月十一日一〇〇〇頃より「バンガ」泊地の清掃を行い第一根拠地

  隊の防備作業に従事す

  右作業終了後各艦船を「バンガ」泊地に入泊せしむることあり

㋩「アンボン」攻略準備

 第二支隊は一月十九日迄に「バンガ」泊地に集合

 同二十一日迄に作戦準備を完成す

                         (以上)


 今回のメナド攻略には海軍陸戦隊の落下傘部隊を投入することになっていた。

 落下傘部隊の創設は少し遡る。


 兵士を飛行機から落下傘で降下させるという構想は第一次大戦時に登場しており、斥候を後方に降下させる程度のことはすでに実施されていた。世界最初の空挺部隊は、一九三五年にソ連で登場した。赤軍大演習で一個連隊が降下し、空を埋め尽くさんばかりに降下する落下傘を見て、各国参観者は度肝を抜かれた。

 これに刺激を受けたドイツは一九三九年に空挺部隊を編成し、第二次世界大戦で初めて実戦に投入した。一九四〇年四月にデンマーク及びノルウェーへ降下したのに続き、五月の西方戦役においてはベルギーのエバン・エマール要塞攻略、そしてオランダ本土侵攻においても投入された。その奇襲効果は絶大で、作戦進捗に大いに貢献した。

 いずれの空挺作戦においても成功をおさめたドイツ軍は一九四一年五月、エーゲ海に浮かぶクレタ島を空挺部隊だけで奪取しようとした。地上部隊の海上輸送が困難であるという事情もあったが、ギリシャからの敗残兵ばかりが集まっていたクレタ島攻略はエリートの空挺部隊だけで十分だと考えられた。しかし、それは誤算だった。空挺部隊はなんとかクレタ島を占領したものの、再起不能の大損害を受け、〝クレタ島は空挺部隊の墓場〟とまでいわれた。以後、ドイツ軍が大規模な空挺作戦を実施することはなかった。

 日本が空挺部隊を創設したのは、一九四〇年十二月のことである。世界で四番目に空挺部隊を創設した国家となった。特異なのは、陸海軍がそれぞれに空挺部隊を創設したということだ。海軍が空挺部隊を保有したのは日本しかない。

 空挺部隊創設のきっかけは陸海軍とも蘭印の油田確保だったが、海軍の構想はそれだけにとどまらなかった。陸軍が大陸で手一杯となっている以上、太平洋は海軍が独自で作戦を展開しなければならない可能性が高かった。海を隔てた敵基地へ進撃するためには、陸戦隊を渡洋推進させていかなければならないが、それでは防備態勢を固めるのに十分な時間を与えてしまう可能性が高い。そこで敵基地の迅速な制圧を図るため、空挺部隊による空からの進撃に期待したのである。

 対して、陸軍は空挺部隊を使用する目標を明確に定めていた。蘭印最大の石油生産地、スマトラ島東部のパレンバンである。パレンバンは海岸からムシ河から遡ること五〇海里上流にあり、海上からでは奇襲制圧が難しい。そこで空挺部隊によって迅速に精油所を確保することとしたのである。

 一九四〇年十一月、軍令部は横須賀海軍航空隊に対し、空挺用落下傘の開発および降下実験を命じた。日本はもともと落下傘に対する関心が薄かったため、空挺降下に適当な落下傘がなく、その研究開発から始めなければならなかった。

 横須賀航空隊は、同航空隊司令の上野敬三大佐を委員長とした委員会を設置した。角田求士少佐が実務担当実験研究主任、山辺雅男中尉がテストパラシュート指揮官となり、委員会には二六人の研究員が配属された。彼らは「一〇〇一号実験研究員」と命名され、機密裡に落下傘降下の実験を進めたが、開傘がうまくいかず難航した。一九四一年三月、一〇〇一号部隊は降下実験を終えたものとして、三月二十七日に軍令部総長永野修身大将立会いのもとで実験研究員による降下実験を実施した。が、研究員の一人である地丸三等水兵の落下傘が開かず、墜死してしまった。

 この事故後、総絹製の「一式落下傘」が開発された。さらに落下傘の自動曳索の先にとりつけられた「ナスカン」と呼ばれるフックを機内のパイプに引っ掛けて降下する方法も開発された。こうして飛び降りると曳索が自動的に落下傘を引っ張り出し、開傘率を高めたのである。

 ようやく空挺降下用落下傘のめどが立った一九四一年九月二十日、横須賀鎮守府に部隊編成が正式に発令された。

「落下員七五〇名ヲ基幹トスル落下傘部隊二個部隊ヲ急速編成訓練シ、昭和十六年十一月末マデニ諸般ノ準備ヲ完成シオクベシ」

 鎮守府は陸戦隊の中から「特別任務要員」の名目で隊員を募り、館山に最初の空挺部隊を創設した。部隊名は横須賀鎮守府第一特別陸戦隊。略称「横一特」である。

 降下の衝撃に耐えられるように降下員を鍛えるため、海軍に体力増強のためのデンマーク体操を取り入れた堀内豊秋中佐が部隊長に任命された。堀内中佐は四十一歳という高齢であったが、部隊の中でもっとも柔軟な体を持ち、しかも一〇〇メートル一二秒を切る俊足であった。堀内中佐が訓練の先頭に立ち、息子ほどの年齢の降下員がへろへろになってその後をついていく光景が連日基地内に展開したが、その猛訓練のおかげで降下員は次第に頑健に、そして柔軟な体に鍛え上げられていったのである。

 落下傘を装着しての初降下訓練は、早くも九月二十六日に開始された。ところが降下訓練で誤って海上に降下してしまったり、不開傘による墜死事故が連続し、一挙に二十名もの犠牲者が出た。横一特司令部は多数に犠牲者にショックを受け、一時降下訓練を見合わせて陸戦訓練に切り替えた。彼らは飛行機事故による殉職とされ、降下失敗による墜死であることは一切秘匿された。


 館山航空隊飛行隊長に任命された森富士雄氏の著述にその訓練の模様があるので紹介する。


「落下傘部隊の訓練中、最大のものは、なんといっても降下訓練である。飛行機も揃い、隊員のボデー・ビルもほぼ終ったころからは、くる日もくる日も、降下訓練である。

 降下場所が、飛行場なので、一機ずつしかやれないから、隊員の降下が、一回りするだけでも、大変である。朝は黎明から始まって、日没後一時間までつづけられたのである。

 飛行場の中程に椅子を持ち出し、日がな一日空を仰いで、降下隊員が降りてくるのを、一人一人見守っているのが、私のいわゆるのんびりした仕事だった。

 飛行場から黒い粒が飛び出す。しばらくしてパッと白い傘が開く。フワリ、フワリと降りてくる。予定地点付近に、ドンと接地すると、くるっともんどりうって、落下傘兵がさもうれしそうな顔をして、すっくと立ち上る。見ている私も、思わずニヤリとする。パッと開いた。フワリフワリ、トトンと降りたが、立ち上がれないらしい。私は看護兵をどなりたてて走らせる。

 パッと開いた。続いてまたパッと開いた。どうしたことだ。上の方の落下傘が、急に早く落ちて、前のにぶつかりそうになる。私の胸はドキドキと波打つ。またこんなこともあった。機上から飛び出した黒い粒がいつまでも落ちてくる。主傘が開かないらしい。黒い粒はもう人であることが判るくらい大きくなって、もがいている。目をふさぎたいが、目がいうことをきかない。はらはらしながら人影を追って、心臓が今にも止りそうになる。地上二十米ぐらいで、副傘がパッと開いた。私がホッとしたのと、飛行場内にいっせいに拍手がわいたのと、殆んど同時だった。よかった、よかった。

 この副傘は、訓練の初めには、主傘の開かない事故で、若干の犠牲者を出したため、司令菊池大佐の提案によってあわてて作られたもので、訓練には、主副両傘が使われた。副傘で救われた隊員も、相当あったように憶えている。(中略)

 開戦までの約三ヶ月間で、隊員一人平均三回の降下訓練を仕上げたのであるが、その間、海上に降下して溺死したり、開傘しないで殉職し、日本海軍デサント部隊の創設に、尊い犠牲となった隊員は十指に止まらなかった。しかし日本海軍最初の落下傘部隊は、いつでも実戦に使える準備が整ったのである」

  (森富士雄著 「メナド・クーパン降下作戦」  

    『雑誌丸エキストラ版第三十六号』 潮書房 昭和四九年) 

 

 十一月十六日、横一特は軍令部要員立会いのもとで初の降下演習を実施した。館山基地を飛び立って霞ヶ浦基地に降下、全員が無事に着地を果たした。十一月二十日、横一特は七五〇人ずつの部隊に二分された。新たに編成された降下部隊は横須賀鎮守府第三特別陸戦隊、略称「横三特」と命名され、福見幸一少佐が部隊長に任命された。


 蘭印攻略作戦は、マレー、フィリピン作戦が予想よりも順調に進み、一ヶ月も繰り上げて発動された。当然、第一目標は石油施設の確保であるが、広大な蘭印攻略を順調に進めるには、輸送船団の保全と連合国軍の航空撃滅が必要だった。それには、どうしても飛行場の無傷な確保が必要だった。そこで、海軍は落下傘部隊の投入を決めた。


 横一特の降下地点はメナドと決定された。メナドはセレベス島北部の東に大きく延びたミナハサ半島の端にあり、泊地は洋上挺身部隊の拠点に適しており、郊外には一〇〇〇メートル級滑走路を持ったランゴアン飛行場がある。またランゴアンのする近くにトンダノ湖という湖があり、そこに面したカカスの町には水上機基地が設営されていた。メナドには海軍の佐世保陸戦隊が上陸することになっていた。ランゴアン飛行場には空挺部隊を降下させ、同飛行場およびカカス水上機基地を一気に制圧しようとしたのである。

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