第十二話 香港陥落

 佐野師団長は総攻撃のために、布陣を次のように変更した。


右翼隊 

 長 第三十八歩兵旅団長 伊東少将

 第三十八歩兵団司令部

 歩兵第二百二十八連隊

 歩兵第二百三十連隊(第一大隊欠)

 独立速射砲第五大隊

 山砲兵第三十八連隊(第二大隊と一中隊欠)

 他

左翼隊

 長 歩兵第二百二十九連隊長 田中大佐

 歩兵第二百二十九連隊(第一大隊欠)

 独立速射砲第二大隊(一中隊欠)

 山砲兵第三十八連隊第二大隊

 他

赤柱半島攻略部隊

 長 歩兵第二百三十連隊第一大隊長 江頭少佐

 歩兵第二百二十九連隊第一大隊(二中隊欠)

 歩兵第二百三十連隊第一大隊

 独立騎兵中隊

 軽装甲車中隊

 他


 右翼隊右第一線の東海林部隊は、若松部隊が二十三日夜奪取した湾仔山峡東側高地で英軍と対峙していた。

 二十四日九時頃に砲兵第三十八連隊長神吉大佐、同第三大隊長菅野少佐と観測班長らが第二大隊本部(若松)を訪れて、細部に渡歩砲兵間の協定を協議し、十二時頃には砲兵第三大隊は陣地をその傍に敷いた。野戦病院も衛生隊も連隊本部付近に開設した。

 若松大佐は連隊命令により、現在地に陣地を構築して、前面の敵情地形の捜索を行なっていたが、対峙する英軍よりする砲射撃と、数次にわたる逆襲を受けたが、その都度之を撃退して陣地を死守していた。だが、主力の第六、第七中隊共に幹部の中隊長、小隊長はほとんど戦死傷していた。さらに、攻撃隊としても、倉庫山峡と歌賦山などの敵陣地の占領を命ぜられており、重責となっていたので、別にあった第八中隊に本隊への復帰を命じて、二十四日日没後本隊に復帰した。


 東海林連隊長は十三時、第三大隊に対し、礼屯山及摩里臣山付近の英軍部隊の殲滅を命じた。第三大隊は十九日の激戦で野口大隊長が重傷を被るなど手痛い被害を受けたが、西山大尉が代理大隊長として指揮して第一線に戻ってきた。

 望月少尉指揮の速射砲は、礼屯山管理所南側高地の煉瓦家屋に進み、堅固な家屋に拠る英軍を攻撃してこれを壊走させた。夜間には砲兵隊の支援射撃を受けた第十二中隊が礼屯山を占領して、第三大隊は同地付近を掃蕩した。

 第十一中隊は青木少佐率いる独立速射砲第五大隊の指揮下に入り、二一一五摩里臣山とその西方高地を占領したが、英軍は戦車、装甲車などで反撃に転じてきた。速射砲隊は奮闘して英軍の全車両を撃破炎上させて、陣地を守りきった。


 左第一線の土井部隊は、金馬倫山の南北に第一、第二大隊を並べて英軍と対峙していた。部隊は英軍砲兵隊を避ける形で斜面反対側に陣取って、敵の砲撃と反撃に対応していた。

 砲兵観測隊は、ビクトリアピークに対する砲兵観測を行って砲撃を実施し、英軍砲兵隊に対し甚大な効果を挙げた。


 一方、左翼隊長の田中大佐は二十三日夕刻麾下部隊に対し命令を下達した。


   左翼隊命令

● 第二大隊は明二十四日二四〇〇を期し「ベンネッツ」山敵陣地に突入し同高

 地を占領すべし

● 第三大隊は当面の敵を攻撃し赤柱街道三叉路に進出すべし

● 歩砲兵隊は一四三高地東北側に陣地を占領し 第二大隊の攻撃に協力すべし

● 爾余の諸隊は明二十四日早朝 左翼隊長と共に「ゴルフ」場西側に前進を準

 備すべし


 田中大佐は二十四日八時頃、ゴルフ場西側に進出して、宮澤第二大隊長と一四三高地に登って、敵情地形と、日本軍の第一線部隊の状況を視察した。

 宮澤第二大隊長は、金馬倫山南麓の陣地及ベンネッツ山への攻撃を命じた。この攻撃に関しては、独立山砲第二十大隊が掩護射撃を行うことになっていた。

 十二時頃には砲兵隊は敵英軍陣地に対して砲撃を開始した。第二大隊はこの砲撃を利用して高地中央の道路に沿い、地形を利用しつつ英軍陣地へ進軍していった。

 薄暮を待ち、一八二〇頃より独立山砲隊の支援砲撃の下に、第八中隊をもって英軍第一線陣地に突入敗走させ、大隊主力は香港仔南側に進出した。

 第七中隊は前進を続けて英軍との遭遇戦も行ったがこれを撃退して海岸道まで進出し、ついでベンネッツ山南東側陣地前まで進出した。

 第二大隊の各中隊は、肉迫攻撃班を編成して敵トーチカ陣地を爆破しながら、英軍陣地に突入して二十五日〇一〇〇頃にはベンネッツ山付近一帯を占領し、〇五〇〇には金馬倫山付近も占領していった。


 第九中隊はブリックヒル北麓にあって二十三日夕刻林小隊を掌握して同高地に進出し、第七中隊の任務を継承して前進し、半島南端の高射砲陣地の攻撃を開始した。英軍部隊は高射砲と機関銃で中隊の攻撃を阻止していた。中隊は日没を待って攻撃を仕掛け、敵陣地を蹂躙したあと、高射砲陣地を攻撃して二十五日〇九〇〇占領に成功し、二百名を捕虜とした。

 

 田中大佐はブルックヒルの英軍高射砲を利用することを考え、砲兵隊の将校を派遣して占領した高射砲陣地の高射砲と弾薬を調査させた。どうにか一門が利用可能とわかり、この高射砲をもって、激戦つづく赤柱半島南端の英軍兵舎及砲兵陣地に対し砲撃させた。

 

 二十五日、右翼隊長伊東少将は二十七日払暁迄に、歌賦山、奇力山までを攻略することは、敵の抵抗と部隊の損害を考えると困難であると判断し、佐野師団長に対し、まずは二十五日夜暗を利用して湾仔山峡高地を奪取したい旨を意見具申した。

 佐野師団長はこの意見を採択して、砲撃を同地に集中したのち二〇〇〇を期して同高地に突入すべく命令を下した。


 沼作命甲第五七号   十二月二十五日一一〇〇

             香港島北角

一 敵の抵抗は尚頑強なるも其の砲兵火力は稍々衰えたり

 香港市掃蕩隊は逐次市内を掃蕩しつつ東角山に進出せり

 其の当面には尚相当数の敵あり

 右翼隊は摩里臣山西側高地、金馬倫山の線に於て攻撃準備中

 左翼隊は本二十五日〇一〇〇「ベンネッツ」山の夜襲に成功せり

 赤柱半島攻略部隊は昨夜来勇戦奮闘克く赤柱半島中間一六八高地の北方七百米

 の閉鎖曲線の高地に進出せり

二 師団は沼作命甲第五二号別冊の攻撃要領に不拘 主力を以て本夜暗を利用し

 湾仔山峡西北側高地 一部を以て明払暁鴨巴甸の要衝を攻略し爾後の攻撃を容

 易ならしめんとす

 其の攻撃要領左記の如し

    左  記

 1 軍飛行隊に対し成るべく薄暮近く湾仔山峡西北側高地特に其の両側山峡に

  対し爆撃を要求す

 2 軍砲兵隊に対し本二十五日昼間湾仔山峡西北側高地特に其の両側の山峡に

  対する破壊射撃竝に自一九三〇至二〇〇〇三十分間該高地及両側山峡に対す

  る制圧射撃を要求す

 3 砲兵隊は自一九三〇至二〇〇〇三十分間湾仔山峡西北側高地特に両側山峡

  に対し鉄槌射撃す

 4 爾余の火力を右に準じ射撃を実施す

 5 右翼隊は我が火力の成果を利用し二〇〇〇目標に突入す

三 香港市掃蕩隊は市街地を掃蕩しつつ海軍工廠付近迄進出し得るの準備にある

 べし

四 右翼隊は本夜暗を利用し湾仔山峡西北側高地特に其の両側山峡を奪取すべし

五 左翼隊は明払暁鴨巴甸を奪取するの準備にあるべし

六 砲兵隊は主力を以て右翼隊一部を以て左翼隊に協力すべし


 第二十三軍は二十四日のクリスマスにあたり、降伏勧告の工作を行ってみた。

 軍は抑留中の英国籍要人マナーズとシィールズをヤング提督のもとに派遣して、降伏を勧告させた。

 二十五日朝、ヤング提督は防衛委員会を招集して、降伏についての諮問を行ったが、委員会は降伏勧告を無視すべきと決定した。ヤング提督の返事を持った二人は軍司令部に帰還し、

「抗戦を続行する」という意志を伝えた。

  

 午後、軍は飛行隊と砲兵隊に対し敵陣地に対する爆撃と砲撃を再開した。

 英軍は抗戦を続行するというものの、実態は抵抗する勢力はほとんど削がれていることを総司令官のマルトビイ少将は、ヤング提督に報告した。最後の防衛陣地が崩壊しつつあること、残弾も残り少ないことも報告された。

 日本軍の砲撃が再開された一方、総督府にはマルトビィ少将がヤング総督の元を訪ねていた。

「総督閣下、もう反撃する能力は残っていません。パリッシュ山は陥ち、最後の抵抗陣地は崩壊しつつあります。有力な火砲も少なく、弾丸も欠乏しています」

「防衛委員を集めよ」

 総督は緊急に首脳部を集めて、協議を行った。結論は停戦するしかなかった。

「全部隊に戦闘行為の中止を命じよ」

「誰か軍使として赴く者は?」

「私が参ります」

 とラム中佐が名乗り出た。

「自分も同行いたします」

 シュチュワート中佐が続いて名乗りでた。


 鈴川工兵隊長は歩兵二百二十九連隊の竹内中隊と同配属の機関銃一小隊、独立速射砲第二大隊の第一中隊、第九師団の第一、第二渡河材料中隊を率いて、香港市内の掃蕩をするために、準備作業をしていたが、夕刻には前方の敵陣地に白旗が掲げられているのに気がついた。


 その鈴川隊の正面に白旗を掲げた英軍軍使三名が現れたのである。鈴川大佐は、師団司令部に連絡をとり、阿部参謀を呼び出した。

「英軍使白旗を掲げ掃蕩隊の前面に来たり。目下歩哨線外に待機せしめあり」

 この連絡を受けた阿部参謀は英軍の降伏交渉と読み、親泊、細川両参謀と軍の下田参謀、そして通訳を伴い、セントポール病院に急行した。

 鈴川大佐は英軍軍使のラム中佐、スチュワート中佐、ベネット少佐の三名を鈴川大佐の部隊本部へと連行した。

 

 三軍使は室内に通されると姿勢を正して敬礼し交渉に臨んだ。日本語が少しできるベネット少佐が、

「英軍を代表して会談の希望をもって来た」

 と告げて、会談は始まった。時に一七五〇である。

 だが、両軍の会談はお互い意志が通じないまま進行していた。みかねた親泊参謀が身振りで降伏の意志でここに来たのかでなんとか英軍の意志を確認した。降伏に関する委任文書はあるかと尋ねると、持ってきていないと答えたので、阿部参謀長は総督と総司令官の連行を要求した。


 ラム中佐は一時間の時間猶予を請求し、一八三〇迄に再来することを約してラム中佐は総督府へと向かった。

 予定時刻内の一八二〇に中佐は、ヤング総督とマルトビィ少将とを伴って、部隊本部へと出頭してきた。

 総督らは腰掛けて降伏交渉は開始された。

 阿部参謀長は総督に対し

「降伏は無条件降伏か」

 と尋ねると総督は

「全然無条件降伏に同意する」

 と返事を返し、阿部参謀長が、

「全軍に即時、戦闘停止を命じるうるか」

との問いに

「すでに十六時に戦闘中止を命じている。但し、赤柱方面部隊には連絡のために軍使のうち一人が連絡に行く」

 と答えた。


 会談を終えると、遅れて到着した軍の多田参謀に伴なわれて九龍先端のペニンシュラホテル三階にある軍の戦闘司令所に到着した。時刻は一九〇〇。蝋燭の光のもとで酒井軍司令官とヤング総督との無条件降伏の調印は完了した。

 軍司令部は、一九三〇全軍に対して即時停戦の命令を下し、第三十八師団も即時敵対行動停止を命じた。

 大本営は二一四五に香港占領を発表した。

 但し、連絡の遅れた赤柱半島では守備隊長のワリス旅団長は、停戦命令を伝えに来たベネット少佐と細川参謀に対し、

「ヤング総督の筆記命令がなけれれ降伏に応じられぬ」

と譲らず、結局マルトビィ少将の降伏命令が渡され、ワリス旅団長は降伏に応じたのであった。


 英軍の死者は、確認した遺棄死体は一、五五五名。戦闘中に捕虜になった数は一、四五二名。戦闘終結後の捕虜は九、四九五名と報告されている。内訳は英国人五、〇七二名。カナダ人一、六八九名。インド人三、八二九名。中国人他三五七名であった。捕虜の内、一、七四六名は負傷者であり、入院措置をしている。


 第三十八師団の香港攻略戦における将兵の死傷者は次の通りである。


 第二百二十八連隊

   戦死者  将校      八名

        准下士官兵  七七名

   戦傷者  将校     十六名

        准下士官兵 二二四名

 第二百二十九連隊

   戦死者  将校     十三名

        准下士官兵 一四八名

   戦傷者  将校     二八名

        准下士官兵 三三六名

 第二百三十連隊

   戦死者  将校     十七名

        准下士官兵 二一五名

   戦傷者  将校     二二名

        准下士官兵 四一四名

 師団及配属部隊までの総数では、

   戦死者  将校     四五名

        准下士官兵 六一七名

   戦傷者  将校     七七名

       准下士官兵 一、二九八名

 であり、参加人員将校八八六名、准下士官兵二一、二三二名で損耗率将校一五・三%、准下士官兵八・一%に達しており、いかに将校の損害が大きかったか分かる。

 特に第二百三十連隊は第二大隊長の若松少佐、第三大隊長の野口少佐が負傷し、十二ケ中隊中七コ中隊の中隊長が戦死傷するほどの激戦であり、戦死傷者の数も圧倒的に多かったのであった。

 これ以外に北島砲兵隊は戦死准下士官兵一〇名、戦傷者将校四名、准下士官兵三四名であった。


 二十六日佐野師団長は訓示を行った。


    訓  示

御陵威の天下佑と神助とを得て香港島の攻略を完了せるに方り謹んで戦没将兵の英霊に対し敬弔の意を表すると共に勇戦奮闘克く任務を達成せる将兵一同の労を深く多とす

然りと雖も勝ちて武勲を誇らざるは皇国武士道の高風なり近く師団に負荷さるべき任務の重且大なるに鑑み一日の倫安あるを許さず宜しく勝って兜の緒を締め新作戦に対する準備の周到と訓練の精到とに邁進せざるべからず

又今日師団の一挙手一投足は悉く是世界注視の的たるべきを想い師団の名声は是皇軍全般の誉たるべきに鑑み本職の平素訓練する所を遵守し常に皇軍たるの襟度を持し軍紀厳正風紀粛正以て有終の美を済す所なかるべからず

諸子夫れ克く責務の重大なるを自覚し自奮自戒上は聖旨に副い奉り下は一億同胞の期待に応えんことを期せよ

右訓示す

  昭和十六年十二月二十六日 

        師団長     佐野忠義


 十二月晦日、第三十八師団は啓徳飛行場格納庫内において、師団慰霊祭を催し、戦死した英霊を弔った。


 一方香港作戦に協力した第二遣支艦隊は、英香港海軍部隊のうち、駆逐艦スレシアンを擱座させ、砲艦モス、シカラ、ターン、ロビンの四隻が沈没。敷設艦レッドスタート、バーライトは被爆座礁。給油艦エホノール、テーマー、コーンクラワーが被爆沈没。大型曳船一隻沈没。魚雷艇四隻沈没。四隻自爆。

他小型船舶約三十隻被爆沈没。

 香港、広東などで拿捕した商船等は、五〇〇トン以上が二十隻、中小型船が二十一隻、其他一六五隻に達した。

 日本海軍の損害は、軍属合わせて戦死五六名、戦傷者二〇名であった。

                       (香港攻略戦了)

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