第十話 上陸三日目、四日目の戦闘

 大本営からは

「香港攻略中の第三十八師団を、南方方面に転用することになったので、なるべくすみやかに香港をかたづけよ」

 と軍に督促もしてきていた。

 日本陸軍は英米蘭に宣戦布告したもののやはり東南アジア、南太平洋の戦域は広く、計画通りに作戦を遂行していかなければならなかったが、その通りに行かないのは、当然であることが許されない状況でもあった。


 二十一日一五〇〇頃、第三十八師団司令部はビクトリアピーク方面からと思われる重砲の集中砲火を浴びた。そして、司令部脇にあった揚陸した榴弾一八〇発に引火して爆発して次々と誘爆して、付近のものを吹き飛ばし、火災も発生した。米袋八十袋を消失、海底を結ぶ有線二条が切断した。この海底線が復旧するのは二十二日三時以降である。

 攻撃作戦は歩砲協同攻撃により逐一攻略へと改めなければならなかった。

 二十一日一七三〇に改て左記命令が発せられた。


沼作命甲第四十三号

   第三十八師団         香港島北角

一 敵の抵抗は頑強なるも我が戦闘は順調に進捗せり

  敵の配備既に配布せる敵配備図の如し 掃捍埔付近には戦車を有する敵自動

 車部隊時々進出するも其の都度電気会社南端を占領しある我が折田部隊の一中

 隊に撃退せられあり

  競馬場東側及西側高地並に北側市街には堅固なる陣地設備ありて尚有力なる

 敵存在しあり

 右翼隊の一中隊は加路連山付近にありて該敵と相対峙しあり

 右翼隊右第一線たる東海林部隊は其の主力を以て黄泥涌貯水池北方凹地にあり

 攻撃準備中にして其の一部は「ジャディネス」看視山西側特火点を掃蕩中なり

 全馬倫山には重機を有する約三百の敵堅固に陣地を占領しあり

 右翼隊左第一線たる土井部隊の一部は昨二十日二一時「ニコルソン」山を占

 領、二二時三〇分其の西方三七六高地三七九高地の□□を占拠、本朝来執拗な

 る敵の逆襲を撃退し之を確保しあり

 土井部隊主力は黄泥涌貯水池西北側不正五叉路付近にありて爾後の攻撃を準備

 中なり

 右翼隊長は黄泥涌貯水池北側にあり

 左翼隊の一部は昨二十日二四時「ブルックヒル」を占領し其の主力は紫羅蘭山

 西南約六百の高地突端にあり 尚其の一部は香港仔西側高地に進出しあるが如

 きも明かならず

 師団予備隊たりし折田部隊は本二十一日三時赤山に進出し赤柱半島の敵情を捜

 索中にして其の一部は大潭山峡を占領しあり

 赤柱半島掃蕩の任務を有する江頭部隊は赤柱半島南端よりする 敵の砲撃を冒

 しつつ赤柱半島に向い前進中

 師団砲兵は十五榴の一部を除き十八時香港島に到着 大坑側高地より黄泥涌貯

 水池付近に亙り陣地を占領し主として右翼隊の戦闘に協力しあり

 上陸作業隊は上陸点付近に落下する砲弾を潜り上陸作業に任じあり

二 師団は明後二十三日朝迄に摩里臣山、全馬倫山、香港仔西側高地、「ブリッ

 クヒル」の線に進出し爾後の攻撃を準備せんとす

三 右翼隊は明後二十三日朝迄に当面の敵を撃破し摩里臣山、全馬倫山の線に進

 出すべし

四 左翼隊は現に占領しある香港仔付近「ブリックヒル」を確保すべし

 尚一部を以て「ゴルフ」場西側一四三高地を占領せしむると共に紫羅蘭山、浅

 水湾(春炊湾の別名)東北側市街地及北側貯水池高地付近を掃蕩すべし

  (以下略)


 赤柱半島方面の英軍砲兵は強力であり、まだ活発に日本軍の後方連絡地点への妨害を有効に続けていた。どうにかしなければならなかった。

 

 師団は掃蕩した地区の安全確保のために、折田大隊主力に対し大潭山周辺の残敵掃蕩を命じた。折田大隊長は第一中隊を北角電気会社付近に残して、残りを率いて北角を出発した。

 師団は二十一日払暁渡航してきた歩兵第二百三十連隊第一大隊の江頭部隊をこの方面に派遣することに決し、主力を以て赤柱半島、一部で龍背半島を掃蕩することを命じ、同方面の道路の確保を命じた。


 二十一日天明、折田大隊は主力を以て赤山、第二中隊を以て橋山前面に進出し、九時頃同地を占領した。

 だが、英軍は戦車を先頭として砲兵の支援を受けた大部隊が逆襲に転じてきた。英軍戦車は中央道路を突破して貯水池南端十字路に進出し、背後から赤山、橋山両高地を攻撃してきた。

 彼我の手榴弾戦も始まり激戦となった。赤山の大隊主力は英軍部隊の撃退に成功するが、橋山の第二中隊は猛攻を受けて、肉弾戦となり中隊長代理山田中尉以下ほとんど全滅という状況に陥り、山頂を英軍に奪取された。

 この逆襲した英軍部隊はロイヤルライフル大隊と義勇軍二コ機関銃中隊などの勢力であった。が、英軍も手痛い損害を受けていたのか、日本軍の夜襲を恐れて後退していった。

 折田大隊に同行していた登坂参謀は、橋山の奪回を指導し、工兵隊に対し大潭篤貯水池給水装置の停止を命じた。

 登坂参謀の報告により、師団司令部は、乗馬中隊を折田大隊に増派し、補助憲兵に戦傷患者の収容を命じた。


 歩兵第二百二十八連隊第一大隊の早川少佐は、ニコルソン奪取に成功した後、敵中深くに楔を打ち込む形で陣地を確保していた。

 二十一日未明、英軍ローズ旅団長はウイニペグ・グラナダス中隊にニコルソン山前方陣地の奪回を命じたため、早川大隊を襲撃したきたのである。

 南西部山頂に布陣していた第三中隊の間瀬中隊は、この敵に対し射撃を浴びせて一旦は撃退した。しかし、英軍は払暁とともに砲兵支援と装甲車の支援を受けて攻撃してきたため、山頂付近は激戦となった。間瀬中隊は手榴弾戦となり、陣地を出ての白兵戦ともなった。支援する歩兵砲も装甲車二台を撃破するなど健闘し、何とか英軍部隊を撃退した。英軍は半数の戦死傷者を第sて後退したが、間瀬中隊も中隊長以下四十九名の死傷者を出していた。


 一方、十九日の戦闘で大きな損失を受けた東海林部隊は死傷者の収容整理に二日を要していた。

 競馬場付近にある第八中隊への連絡にあたる第六中隊は、杉山少尉率いる第一小隊を尖兵として出発したが、途中英軍部隊と遭遇戦となり、杉山少尉は戦死し、後続の中隊主力が前進に駆けつけ激戦となり、残りの全小隊長が負傷することとなった。

 彼我の兵力が入り乱れており、遭遇戦もいつ起こるかわからない混沌とした戦線となっていた。

 

 第二大隊長の若松少佐は配属工兵の和田少尉に対して、英軍の掩蔽部の爆破処理を命じ、和田中尉は爆破処理のために掩蔽部を監視する第九中隊の第一小隊長出島少尉の元に分隊長を伴い進出した。出島少尉と爆破作業の打ち合わせを行い、工兵隊は作業を開始した。

 そして、爆薬を準備して爆破作業を実施したが、前日の雨で爆薬が湿っていたのか不発に終わった。和田少尉は悔しく思いながら帰隊したが、一番手前の掩蔽部の扉は開いていることは確認し、内部もみて取れた。二回目を実施すべく準備を始めたが、若松大隊長から

「戦闘地域が隣連隊の地域になるようだから、爆破の準備だけして待っておいてくれ」

と知らされ、和田少尉は一瓩梱包爆薬をいくつか製造して命令を待っていた。

 戦線地域の割り振り上、攻撃対象でない場所を勝手に攻撃することは禁じられており、後々の問題を払拭するために若松大隊長は連隊長に申告していたのであろう。


 若松大隊長は和田少尉の元に帰ってきて、

「攻撃せよ」

と命じた。和田少尉は分隊を率いて前進を開始し、歩兵部隊も掩護の小隊を後続させた。

 掩蔽部に再びいくと、扉は閉められていた。和田少尉は掩蔽部の上部に登り部下を指揮した。掩蔽部からは監視孔から射撃を浴びせ、手榴弾も投擲してきた。和田少尉はその手榴弾を崖下に蹴落とした。

 松林兵長が爆薬を竹の先に結びつけて近づき、身体を死角にした状態で爆薬を爆発させた。兵長は手を爆風で負傷したが、鉄扉に穴を開けていた。そして兵長はすかさず手榴弾をその穴から中へ投げ入れた。

 続いて、隣の掩蔽部の処理も行い、こちらも成功した。東海林連隊長は一連の和田少尉の活躍を喜び、清酒一本を贈呈した。

 だが、掩蔽部はいくつもあり、この処理に対し、十名の決死隊を集め、一人一目標として爆破準備を進めた。

 その中の一人、鈴木孝一兵長は爆破作業を始めたが、その先の掩蔽部の扉の場所は、英軍の機関銃の的になる所であり、身を隠すことはできず、さらに友軍の援護射撃をしようにも死角になっていた地形であった。

 でも鈴木兵長は、爆薬を先端に結びつけ前進を続けた。敵の銃声が響く中、爆発音が鳴り響いた。のちに捜索すると、鈴木兵長は爆破に成功するものの、身体に七発の銃弾を受けて斃れていた。

 兵の損失を憂慮した和田小隊長は、安全な爆破方法を検討して、掩蔽部の上部にある換気孔を調べたが、厳重に塞がれており爆薬の投入は不可能であった。どうしたものかと和田少尉が考える中、暗闇に白旗が掲げられて降伏を申し出てきた。

 捕虜は少佐以下四名、下士官兵百七十二名にのぼり、掩蔽陣地の遺棄死体は八十を数えていた。

 

 若松大隊長はこの間に、第七中隊を以て前進を命じ、二一三〇頃に濾水床付近に進出すると、側面より英軍部隊から攻撃を受け遭遇戦となった。この英軍部隊は、先に第六中隊を交戦して後退する部隊であり、夜間での乱戦となった。大隊本部も戦闘に加入する形となり、若松大隊長自らも軍刀を揮っての戦いとなり、大隊長は腰部に被弾。副官田中中尉も戦死した。若松大隊長は怯まず後退することを拒み、戦線に止まり指揮を続け、英軍は敗退して、ニコルソン山北方道路交叉点付近まで進出した。若松大隊長は軍医の勧めも断り、担架に乗りながら指揮を続けた。


 一方左翼隊の監物第三大隊は、ペプリン高地にあって戦線が混沌とした状態の中にあった。

 英軍もマルトビイ総総司令官はワリス東旅団長に対し、

「集められる総ての兵員をもって、南から黄泥涌五叉路に向い突破せよ」

 と命じ、西旅団からも一四三高地奪回に向けて、ホテル守備隊と連繫するための逆襲を行なった。

 二十一日天明とともに、赤柱半島の英軍砲兵隊はペプリン高地一帯に対して砲兵を開始し、高射砲もこれに従った。日本軍には対抗できる重砲はない。砲撃が止むのをじっと我慢して待つしかない。悪いことに、英軍の残存する砲艦シカラ号が現れ、日本軍陣地に対して砲撃を加えてきた。

 午後、英軍部隊は赤柱街道から逆襲に転じて進出してきた。部隊は戦車を伴い、砲兵にも掩護されていたが、日本軍は歩兵砲を以て反撃して、機関銃も反撃を加え、敵部隊を撃退した。戦車一台はホテル玄関前で擱座した。

 一四三高地を確保する林小隊はこの逆襲部隊を迎撃し、第七中隊も機関銃を以て側方から銃撃を行い、英軍の逆襲は失敗に終わった。


 二十一日、師団司令部は前線に対して参謀を派遣して状況の把握に努めた結果、ようやくその第一線の状況が詳しくわかってきた。

 軍も、樋口参謀副長と作戦参謀の浅野大佐を佐野師団司令部に派遣し、戦況の把握に努めた結果、歩砲戦の協力による攻撃計画に効果が現れ出したことを確認した。


 右翼隊伊東少将の命令により、東海林連隊長は、二十二日十六時ニコルソン山東麓にて次の命令を下達した。


   歩兵第二百三十連隊命令

● 連隊は本二十二日薄暮を利用し競馬場東側高地より濾水西方高地の線を奪取

 し 主力を以て「ジャディネス」看視山西麓付近に進出し爾後の攻撃を準備せ

 んとす

● 第二大隊は第八中隊をして競馬場東側高地に推進せしむると共に 濾水床方

 高地を奪取し爾後の攻撃を準備すべし


 だが、昼間は英軍の金馬倫山とニコルソン山からの砲撃で、行動は困難であった。速射砲小隊は第二大隊に協力するために夕刻から全弾を以て敵陣地を砲撃した。

 第二大隊は薄暮とともに前進を開始したが、競馬場南部不正四叉路に留まり、壕を掘って病院付近の英軍と対峙する格好になった。第八中隊も競馬場東側高地にあって、こちらも英軍と対峙していたが、夜間になると銃声に音は静かになっていた。

 伊東右翼隊長は午後九時頃に電話口に東海林連隊長を呼び出し、

「土井連隊は既に前進せるに、東海林部隊は何故少数の英軍に拘泥して前進せざるや」

 と叱責した。東海林連隊長としては両大隊長が負傷し戦死傷者も多く、十分に戦力発揮できない状況があったが、弱音をいうことはできなかった。

 

 土井部隊は第一大隊を以て払暁攻撃を準備させており、第三中隊を右第一線、第四中隊を左第一線とし中央山峡に進出し、砲兵部隊の支援の元に、薄暮攻撃を準備していたが、土井部隊とて第三中隊は将校全員が死傷している有様であった。

 第四中隊は第二小隊の奥野少尉を先兵として工兵一分隊を配属して、ニコルソン山南麓中央を出発したが、英軍陣地の五十メートル手前から機関銃の掃射を受け、奥野少尉は負傷した。が、負傷にも屈せず、

「突っ込め!」

 と命じたが、英軍も逆襲で白兵戦となった。江口上等兵は「最後の一兵になるまで守るぞっ!」

 と励ました。


 一時間後、第四中隊の主力が前線に到着したが、こちらも英軍からの機関銃射撃を浴びて、岩井中隊長は戦死をとげた。機関銃小隊の安田中尉が中隊の指揮をとり、金馬倫山に拠る約四百名の英軍部隊の反撃を一手に引き受けていた。二三〇〇頃にようやく金馬倫山山頂を占領したが、第四中隊も将校全員が死傷するという損害を受けていた。


 監物大隊は第十二中隊の集合が遅れたため、予定の夜間攻撃を実施できず、結局第十二中隊に対し、払暁攻撃でホテル南西にある建物を攻撃奪取するよう命令した。

 第十二中隊長代理の増島中尉は、前日までの無念を晴らそうと、準備を整えて攻撃目標へと向い、中尉自ら偵察した結果、進撃する先には海岸道に降りる箇所がなく、さらに建物は崖下にあって、無理に降りても突入できない地形であることが判明した。他の方法を考慮すると、海岸道を進み、表門を破壊して進入するしかないことが分かったが、天明となったために、監物大隊長は攻撃を一旦中止した。


 左翼隊の田中大佐はホテル付近の攻略に手間取っていたが、ホテルへの砲撃は控えざるを得なかった。砲撃するのは簡単であったが、民間人が三百名以上宿泊しており、被害を考えると無闇に砲撃してホテルを破壊することは避けたかった。

 二十二日夕刻、第一線部隊は隠密裏に崖を降りてホテルに近づいていった。第十二中隊は海岸道に出て英軍の拠る建物へ突進し、表門を破壊して建物へ突入して十五名を捕虜とした。そして南西側玄関からホテル内に突入した。第十一中隊はホテル北東側から降りてホテル北側に出て、英軍部隊と手榴弾を交えて、横玄関を爆破することに成功して突入したため、英軍は白旗をあげ、三十数名を捕虜とした。

 

 この二日間も日本軍は英軍との交戦で苦戦に陥ったことは確かであった。特に英軍砲兵隊を制圧できなかったことは大きな問題であった。香港戦における航空支援のあり方が、比島は馬来戦とは大きな違いがあった。地上部隊と航空部隊との攻撃目標の指示伝達がなかったことが、地上部隊の苦戦を招いてしまったのである。


 砲兵部隊も対象陣地の連絡指示も不完全なものであり、やたら地面を掘り返しているだけでは、地上部隊の支援も何もあったものではない。歩兵部隊に付属する歩兵砲、速射砲等だけでは香港島の英軍の強力な砲兵陣地を制圧することなど不可能であった。

 軍砲兵隊が真価を発揮できるようになったのは、観測隊が前線に観測地点を確保して、有効な射弾を送れるようになってからであった。それが二十三日であった。それまでに多くの日本兵の血が香港島に流れ大地を染めたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る