第七話 東海林部隊の激戦

第三十八師団参謀部の瀧利郎軍曹の回想によると

『敵前渡海は、でき得るかぎり企図を秘匿しようと、第一回のみは折畳舟と鉄舟による手漕ぎで行われ、二回以降は大、小発動艇で決然実施された。そして、これら上陸用舟艇の行動を遮蔽したり掩護したりするため、民間から徴発した大小約二百隻の汽船やジャンク等を、渡海する航路上にばらまいて置くなどの処置もとられた。

 これらは、独工部隊の上陸作業隊長独工第二十連隊長鈴川清大佐が指揮をとった。時に十二月十八日午後八時五十分ないし九時三十分であった。

 なお、乗船地は、大湾、大湾全、ヤユトンワンの三ケ所で、達着上陸時間の斉一を期したため、出発時間に多少の差があった。

 師団の攻略命令では

「香港島に上陸したら、まず大坑東側高地、ジャティネス看視山、紫羅蘭山の線を確保云々」

とある。しかし、ジャティネス看視山といっても、どんな形の山で、どんな地形か、見た人は一人もいないのである。

 渡海に関しては、第一波は無難に成功したが、敵もさるものであった。第二波以降は、連日のわが砲撃でほとんど破壊し尽くされたと思った特火点の生き残りが、猛然と撃ってきたり、英魚雷艇二隻が出現し、三十ノットの猛スピートでわた渡海を撹乱したりした。もっとも、この魚雷艇は一隻は撃沈、一隻は航行不能にして捕獲した。

 右翼隊右第一線の歩二三〇連隊・野口第三大隊は十八日午後九時二十分、大湾から乗船し、北角に午後九時四十五分、奇襲上陸に成功した。

 上陸するや、各中隊はそれぞれに兵員を掌握する間ももどかしく、がむしゃらに急坂を登りはじめた。大隊はこうして北角貯水池の西側高地に集結を終り、山腹の一本道をたどって前進を開始した』

 (瀧利郎著『第三十八師団「香港」を攻略す』 丸別冊

         太平洋戦争証言シリーズ⑧戦勝の日々 潮書房)


 右翼隊右第一線部隊は二一四五に、左第一線部隊は二一五〇に上陸成功。左翼隊は二一五八上陸成功の赤吊弾を上げた。

 この上陸成功の合図を確認して軍司令部は祝杯を挙げたが、予想以上の反撃を受けた。軍砲兵隊の激しい砲撃にも拘わらず、敵の拠点は残っていたのだった。

 一部では、英軍の守備隊印度兵二コ中隊と英兵二コ中隊は第一波の上陸とともに配置について射弾を浴びせてきた。第一線部隊は三十数名の犠牲者を出していた。

 英軍の砲兵部隊も日本軍の上陸部隊の乗船地点に向けて反撃の砲撃を集中し始めた。流石に日本軍も第二乗船場、第三乗船場を放棄せざるを得ず、第一乗船場から乗船して香港島に向かったほどだった。


 十九日払暁には英軍の魚雷艇二隻が現れ、上陸船を襲撃してきた。敵の射撃で折畳舟三隻が銃撃され、鈴木中尉以下四名が戦死し、負傷者十名を出した。この魚雷艇に対し、陸軍部隊の機関銃、速射砲などが射撃を加え、一隻を撃沈、一隻を航行不能にして乗員五名を捕虜とした。

 上陸作業隊はこの上陸作戦の功績により、戦闘後軍司令官より感状を授与された。


 師団司令部は上陸成功は幸先よしと判断したものの、その後の状況は断片的に入る電報から推測するしかなく、的確な情報は得られておらず、九龍側から望見しても、予定進出予定の線にはまだ英軍部隊が望見されており、不安ばかりが覆っていた。ようやく十五時になって細川参謀が放った伝書鳩による報告により戦況が判明した。


大潭貯水池北側畢拿山  細川参謀より参謀長へ

 土井部隊にて押収せる地図によれば敵は址旗山、歌賦山、奇力山を複廓的に確保し抵抗を持続せんとしあるものの如し

師団は本日夕迄に金馬倫山の線に進出し本夜或は明夜夜襲により敵の最後の陣地を夜襲するを可とせん

 赤柱方面に相当兵力存するものの如く左翼隊を以て之を攻撃せしむるの要ありと信ず 小官より連絡不能に就き無線にて指揮せられ度

 押収地図による火力配置の中枢左の如し

 金馬倫山東端、湾仔山峡、倉庫山峡、ビクトリヤ山峡、

 西高山東側鞍部、奇力山南側森林、北角付近


また東海林部隊長、田中部隊長よりの報せも入った。


東海林部隊長より師団長へ(伝書鳩により)


 連隊は本十九日〇七三〇より「ジャディネス」看視山西方約千米、不正五叉路付近に於て戦車及重火器を有する約千五百の敵と交戦し、敵砲火の為戦闘意の如く進捗せず目下尚戦闘中(「ニコルソン」山東側に在り)

 右第一線は本夜間攻撃に依り前面の敵を撃滅せんとす

 左第一線及左翼隊とは連絡取れざるも南方遠く銃声を聞く

 目下戦死傷野口少佐(負傷)以下約百五十なり


田中部隊長より参謀長へ(電報により)


(イ)目下判明せる彼我損害左の如し

 左翼隊主力方面に於ける戦果は目撃せる遺棄死体約二〇、捕虜約八〇

 我が損害 戦死将校二、下士官兵二六、戦傷下士官兵六九

(ロ)宮澤部隊当面の戦傷者は、深水渉兵舎に収容しあり

 其の他は百家山東方及西方付近に所要人員を残置しあり

 収容方配慮せられ度

(ハ)部隊は所命の地点に向い前進中 志気旺盛なり


 右翼隊右第一線の第一波として渡航する歩兵第二百三十連隊第三大隊長の野口少佐は、指揮下隊長を集めて、対岸の目標を指し示しながら命令を下達した。

  東野作命甲第二六号  十二月十八日十二時

一 敵は香港島固守の為其の海岸に重火器特火点を配置し我が上陸妨害を企図し

 あるも其の大部は我が砲撃に依り殆ど撲滅せられたり

 連隊は右翼隊右第一線となりX日Y時大湾出発 北角ー同地東方千米の間に上

 陸し大坑東側高地を確保したる後海軍工廠ー址旗山の線に進出す

二 大隊[第十中隊(第三小隊欠)、独立速射砲第五大隊第三中隊、工兵一小

 属]は東戦作命甲第三九別紙の上陸計画に依り北角及同東側地区に上陸し先づ

 大坑東側高地を確保し爾後海軍工廠ー址旗山の線に向い前進を準備すると共に

 成可く速に一部を以て倉庫山峡東側高地を占領せんとす

三 第九中隊(機関銃一小属)は別に指示する乗船区分に基き北角付近に上陸し

 一部を以て同地付近を掃蕩したる後速かに貯水池西方四〇〇閉鎖曲線高地を確

 保し爾後の前進を準備すべし

四 第十二中隊(機関銃一小属)は貯水池北方岸壁付近に上陸したる後一部を以

 て同地付近を掃蕩し貯水池西側に集結し倉庫山峡東側高地の占領を準備すべし

 工兵小隊を配属する予定

五 工兵小隊は別紙上陸区分に基き両第一線中隊と共に上陸し其の付近の障碍物

 及地雷を持出し両中隊の協力したる後貯水池西側に集結し第十二中隊と行動を

 共にする如く準備すべし

六 吉田小隊(第十中隊第三小隊)(速射砲一を付す)は連隊上陸計画に基き北

 角付近に上陸し銅羅湾東側地区を占領し連隊の上陸を掩護爾後東角山に亙る間

 を掃蕩すべし

   (以後省略)

 

 野口大隊は二〇三〇乗船を開始。折畳舟三十五隻に分乗して二一四五何ら抵抗を受けることなく上陸に成功し、赤吊星弾を打ち上げた。部隊は斜面を登りがら集結し、山腹の小径を二列縦隊となって前進を開始した。

 一方別働として右側掩護を命じられていた吉田小隊は上陸後海岸道を西進していた。二二時過ぎには北角北端に達し、吉田少尉は左側高地上に陣地を構え、付帯された速射砲一門は海岸道路上に陣地を構築して警戒態勢についた。

 十分ほどすると、戦車五両を先頭とする機械化部隊が海岸道を、歩兵部隊が吉田小隊の前面に現れた。仲西少尉指揮の速射砲は先制攻撃を戦車隊に浴びせ、戦闘の三両を撃破擱座させた。吉田小隊も英軍に対して射撃を浴びせた。

 一旦引いた英軍は一時間後再び戦車を先頭に襲撃してきた。先頭の戦車は速射砲が擱座させたが、随伴の歩兵との間に手榴弾戦が始まった。


 翌十九日〇二〇〇にはさらに十数両の戦車が応援に加わり、速射砲隊も敵兵からの激しい機関銃の射撃を受けた。吉田小隊も軽機で応戦していたものの、英軍も踏ん張り続け、吉田少尉はついに戦死してしまった。

 吉田小隊も援軍がなければ全滅である。数から言えば、圧倒的に日本軍に不利であった。英軍が突撃をすれば吉田小隊は蹂躙されるところであったが、日本軍の勢力不明の為に、これ以上の無理な攻撃はしなかった。


 第二大隊の第六中隊の田原小隊は、沿岸で抵抗する三階建に立て籠る英軍の攻撃を命じられた。

 田原小隊長は、一分隊を率いて建物を占拠し、三階に上がったところ、一階と二階に英軍部隊が押入ってきた。田原小隊は三階から下の窓に手榴弾を投げ入れたが、うまく行かない。

 上陸した連隊の歩兵砲がその家屋に対し、機関銃そして速射砲を以て建物の二階と三階を制圧した。英軍指揮官は自決した。

 歩兵砲の望月少尉率いる速射砲小隊は、西進を続けて苦戦中であった仲西少尉の速射砲陣地に到着して交代し、望月小隊は海岸道を進んできた英軍の装甲車一、車両四を撃破した。

 ようやく北角方面の戦闘は下火になってきた。

 十九日払暁になって歩兵第二百二十九連隊の第一大隊の折田大隊が派遣されてきて戦線は膠着の状態になった。


 野口大隊の主力は、尖兵中隊である海野中尉率いる第十二中隊は機関銃座を突破して山上目指していた。十九日〇二三〇頃、尖兵中隊は看視山北端付近に達したが、突然英軍機甲部隊と遭遇し、海野中尉は戦死し激戦となった。野口大隊長は危急を知り前線へと駆けつけたが、英軍部隊は退却したあとだった。野口大隊長は尖兵中隊を第九中隊とし、連隊長の別命を待つことなく前進を開始した。野口大隊に随伴していた連隊情報係の中条大尉はこの件を連隊に引き返して東海林連隊長に報告した。

 野口大隊は前進を続け、道路曲部に速射砲を一門ずつ配置しながら、尖兵中隊の第九中隊を先頭に大隊本部、第十二中隊と続いた。


 東海林連隊長は、第二大隊に対し野口大隊を後続するよう命令し、第三中隊、第四中隊を率いて続行した。

 進む小径は左は山腹の急崖がそそりたち、右は深い峡谷となっていた。夜間なので慎重を期して進むより仕方がない。


 十九日七時となり辺りは明るくなり、尖兵中隊は黄泥涌山峡の入口付近に達したと判断し、周囲を警戒しながら部隊は停止して、周囲の探索を行ったが、辺り一面霧に覆われ視界は悪かった。

 野口大隊長は先頭に立って五叉路の中央にたった。

 山峡入口付近に陣地を敷いた速射砲は、ビクトリア市街方面から驀進してくる車両群を発見し、距離百メートルで先頭車両を撃破し、続いて後続車両に対しても射弾を送った。英軍部隊は退却し、車両二十両余が残されていた。

 霧が晴れ周囲がはっきりわかるようになったとき、尖兵中隊は前方及び看視山中腹特火点、ニコルソン山中腹の三箇所から機関銃の猛射を浴びせられた。

 第九中隊は直ちに前方の機関銃座を奪取した。野口大隊長はニコルソン山中腹の銃座を指さして、第九中隊に対し、

「早くあの敵を追い払え!」

と命じた。


 第九中隊の岡田中尉は、第二小隊の松川少尉と第三小隊の手塚少尉に攻撃を命じ、両小隊はニコルソン山腹を目指すと共に、岡田中隊長は残部を率いて速射砲隊の掩護を受けながら他の機関銃座の攻撃に前進していった。

 後続の第十二中隊は五叉路付近に到着し、同地南側に配備についたが、建物に陣取る銃座から射撃を受けて、中隊長代理の山崎中尉は重傷を負った。

 五叉路は激戦の地となっていた。

 また、競馬場方面から戦車二両を含む自動車部隊と、ニコルソン山南側空は装甲車を含む部隊が進出してきたのである。

 多田速射砲中隊は、伊藤軍曹指揮の一門と山中伍長指揮の一門しかなく、その二部隊に対し、それぞれ射撃を浴びせた。前者に対しての射撃で戦車二両、自動車数両を撃破し、後者に対しては装甲車一、自動貨車三を撃破して退却させた。

 

 野口大隊長は五叉路南側谷地に大隊本部を設置し指揮に当たったが、後続の第二大隊の若松大隊に対し、ジャディネス看視山を攻撃するよう連隊長に意見具申を行った。

 若松大隊は看視山南麓の敵高射砲陣地、砲兵陣地などを掃蕩して連隊に合流した。

 軍旗中隊の第四中隊は最後尾にあったが、看視山山腹の貴銃座攻撃を命じられ、石間軍曹指揮の攻撃隊は、五、六十メートルの断崖をよじ登り、攻撃に成功し〇九三〇に銃座を占領した。

 五叉路南部にあった連隊本部と第三、第四中隊には、ニコルソン山からの敵砲兵隊による砲撃を受けて死傷者も続出し、砲弾を避けるために北側の凹地に退避したが、今度はその前方には英軍旅団司令部のトーチカ群が存在し、今度はそちらからの狙撃を砲弾を見舞われ、部隊は釘付け状態となった。


 ニコルソン山中腹の攻撃に向かった第九中隊の二コ小隊から何も連絡がなく、岡田中隊長は稜線に英兵の姿を見て、石井見習士官に対し、

「兵を連れて様子も見に行け」

と命令を出し、石井見習士官は現地に探索に行ったところ、見たのは二コ小隊、松川少尉と手塚少尉の小隊の全滅した姿であった。中隊長は石井見習士官に同地の奪取確保を命じ、数名の兵を率いて前進を始めると、野口大隊長は自ら第十一中隊を率いて後を追った。


 先陣となった野口大隊長は敵陣に迫ると、抜刀して突撃を命じた。反対斜面にあった英軍の機関銃の射撃により大隊長は頸部に弾を受けて斜面を転がっていった。

 夜になり、第十一中隊は決死隊と編成して野口大隊長を収容することに成功した。

 東海林部隊は丸一日の激戦で死傷者六百名を生じていた。


 英軍の公刊戦史によると、この五叉路の戦闘はその後の戦闘を左右する重要なものであったという。

 英軍の西旅団司令部は、五叉路路傍の掩蔽部に設けられていたが、旅団長ローソン准将は、予備として手元にある部隊はウイニペグ一中隊百三十名と三・七インチ高射砲二門(人員六〇名)だけで、日本軍上陸と共に、応援を依頼した。ジャディネス看視山にはラジプット一中隊が配備されていた。

 十九日三時にローソン准将は、南部海岸のウイニペグ・グラナダス中隊にジャディネス看視山への進出を命じた。同中隊は払暁前五叉路を経由して東進した。

 マルトビイ総司令官は、西旅団司令部を増強するために工兵隊百四十名、パンジャブ一中隊、アバーデン海軍本部の二〇〇名を派遣した。八時には五叉路の奪回のために、ロイヤルスコット一中隊を車両で送った。

 この部隊は、日本軍の速射砲の餌食になって大損害を受けて将校は全員戦死してしまった。他の増援部隊も大損害を受けて後退せざるを得なかった。

 司令部にあったローソン准将は、

「自分は戦うために外へ出る」

 と要塞司令部に電話して別れを告げ、准将は戦い見事なる最期を遂げた。

 要塞司令部はローソン准将の戦死を知らないまま。は逆襲を決心して部隊を配置した。

 マルトビィ総司令官は、改めて逆襲を計画し、パンジャブ二中隊、ウイニペグ・グラナダ混成中隊・ロイヤルスコット隊に出撃を命じた。野砲八門を以て支援にあたらせた。

 反撃は一五三〇に開始されたが、日本軍の激しい抵抗にあっていずれも成功せず、逆に大損害を蒙り退却の止むなきに至った。

 後に東海林連隊長は、この地に戦死を遂げたローソン准将を鄭重に葬りその勇敢なる戦闘ぶりを讃えた。

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