第五話 若松大隊の奮戦と九龍半島占領

西山大隊の奮戦により戦線の展開に大きな変化をもたらし、第三十八師団は攻撃の整理変更を策した。

 即ち「師団は一挙に九龍北方高地線に進出する目的」を以て攻撃計画を立てた。

 師団命令は次のようであった。


三 右攻囲部隊は自今右翼隊となり本十日夜暗を利用し荃湾東北方より波羅峠に

 通ずる道路の東南側特火点群を奪取したる後重点を左に保持する如く荃湾、二

 五五高地の線に爾後の攻撃を準備すべし

 青衣島攻略部隊は将来其の指揮に入らしむ

四 左攻囲部隊は自今左翼隊となり重点を右に保持する如く二五五高地、城門貯

 水池東側の線に爾後の攻撃を準備すべし

 十二月十日早川部隊を現在地に於て予の直轄たらしむるの準備にあるべし

五 左側支隊は本十日夜大埔付近より沙田海を越えて馬鞍山付近に上陸したる後

 速かに敵主陣地に近迫し攻撃を準備すべし

 本十日独立工兵第十四連隊第二中隊(大発二〇、小発二〇)を現在地に於て其

 の指揮下に入らしむ

         (一部抜粋)

 軍砲兵隊も主陣地砲撃のために陣地変換もしなければならず、本格的砲撃には二、三日要することになった。

 左側支隊(伊東少将指揮)は、十日夜沙田海を渡海し、英軍主陣地に迫り攻撃

 準備を行うことを命ぜられことを受け、渡海場所そして進入路の偵察を行い、

 十日〇九〇〇渡海計画を立てた。探索の結果渡海地点の状況が判明した。

 ⑴ 上陸地点付近には陣地はないが、その西南方砲樓山には英軍陣地が認めら

  れ、かつ渡海地域は沙田方向から砲撃を受ける公算がある。

 ⑵ 乗船場はきわめて狭隘で混雑するため、部隊はまず赤泥平東南地区に集合

  して逐次に乗船場に到る要がある。

 ⑶ 渡海掩護陣地は大水坑西南高地から南方にわたる線を適当とする。


 この情況を考え、伊東支隊長は日没と共に渡海を開始することとし、作業隊は十五時大埔頭発、歩兵は十九時集結をして渡海に備えた。

 砲兵隊は渡海部隊を掩護するために、掩護射撃も行った。渡海は敵の反撃はなく上陸に成功した。渡海にあたり強風と波浪が激しく、逆に天候の影響により作業事態は遅れたが、部隊の不眠不休による作業で事にあたった。

 十一日未明からは、敵の砲撃を受けながらの作業となった。


 右攻囲部隊の東海林俊成大佐は、土井部隊と同じように前線に将校斥候を放って英軍の配備を捜索させ、英軍陣地の脆弱な地点を把握し、夜襲の実施を師団司令部に打診したが、認められなかった。逆に土井部隊の敵陣地突入の報を聞き、東海林大佐は自分たちの夜襲が認められなかった事に憤慨した。土井連隊長は師団司令部の命令を無視していたのだから、東海林大佐が憤慨しても仕方なかったのだが。


 東海林部隊は出動準備を急ぎ、前方の敵情を確認しながら前進となった。

 東海林大佐は十日夕刻待望の主陣地攻撃命を麾下部隊に下達した。

 東海林部隊は前線に準備を完了し、掩護砲撃する独立速射砲第五大隊は、第二中隊、第三中隊をそれぞれ東海林部隊の第二大隊、第三大隊に配属し、第一線に配置した。


 十一日〇〇三〇右翼隊の両大隊は前進を開始し、三時には攻撃開始地点に達した。第二大隊の若松少佐は前面の山腹にあるトーチカ陣地に対し特火点攻撃隊を差向けたが、トーチカの英軍部隊は撤退して空であり、逆に陣地前面の地雷原に入ったために死傷者を出してしまった。

 連隊本部から敵陣へ将校斥候として派遣された田原少尉斥候隊は、金山南西二キロ付近まで進入して英軍部隊の不在を確認して、若松少佐のもとに帰隊した。

 若松大隊長は斥候隊の報告を受けるや、一中隊を同地に案内するよう命じた。部隊の独断突進は禁止されてはいたが、若松大隊長は、好機到来この機を逃してはと、田原少尉は山本中尉い率いる第五中隊を案内して金山南西一キロの山麓まで達し、田原少尉は連隊本部に帰還し、山本中尉は付近で壕の構築を命じると共に、自らは付近の探索にあたった。


 若松大隊長は連隊長東海林大佐に対し

「直ちに金山を奪取するを要す」

 と意見具申を行い、師団司令部から軍司令部に達せられたが、軍司令部は許可しなかった。

 しかし、ここでも若松大隊長は攻撃する意欲満々であり、独断で攻撃する意志を固めた。第七中隊を尖兵隊として、大隊を前進させた。


 第七中隊長の大澤中尉は二五六高地の英軍陣地を攻撃した。この高地の反斜面にはロイヤルスコット部隊の一中隊が陣地に配置についたばかりで密集隊形であった。後方七百米には山砲四門が支援していた。

 大澤中尉は第三小隊望月少尉率いる一コ小隊を以て二五六高地山頂を目指した。

 この様子を見た英軍山砲は砲撃を浴びせてきた。また、支援要請を受けたストンカッター島の六インチ(十五糎)カノン砲をはじめ、香港島西砲台の九・二インチ(二四糎)カノン砲が砲撃を浴びせてきた。

 この砲撃により第二大隊の後続部隊は前進を阻害された。が、第七中隊は敵陣に突入し、白兵戦を演じた。英軍部隊は二人の中隊長が戦死し、部隊は後退していった。大澤中尉は二五六高地を確保し、其後第二大隊は付近を占領した。


 第五中隊の山本中尉は三六六高地付近に進出し、未明頃に単身切り立った山嶮に偵察に出かけ、それを見た芹澤上等兵が後を追った。高地の反対斜面には、前夜後退して陣地に配備についていたロイヤルスコット一中隊が守っていた。

 山本中尉は奇襲攻撃とばかり単身突入したが、射撃を受けて戦死してしまった。芹澤上等兵は駆けつけた指揮班の助けを借りて、中隊長の遺体を収容した。

 第五中隊は敵の猛撃により身動きが取れなかった。


 第三大隊に配属されていた独立速射砲第五大隊の第三中隊長の多田中尉は、野口大隊長の命令により三四一高地を確保する若林中尉の所に連絡に出向いていた。三四一高地からは三六六高地の敵陣地はよく見えた。

 多田中尉は約一キロほど先で味方の苦戦を目撃する。多田中尉はすぐさま速射砲一門を砲撃可能な位置まで急送させた。

 十時頃準備が整った多田中尉は第一弾を敵陣地に向け発射した。直接照準で初弾から陣地中央に命中し、次々と弾を射ち続けた。これに乗じて第五中隊は突撃して敵陣地山頂一帯を占領した。

 この若松大隊の攻撃による金山付近の占領は英軍の香港島のマルトビィ司令官をして、九龍半島からの部隊撤退を決断させた。

 一一三〇司令官はヤング総督に九龍撤退を報告した。撤退命令は一二三〇に布告されたが、一斉に撤退することは不可能である。

 デビル半島を横断するマロウトン陣地をラジプット大隊が占領して掩護する。パンジャップ大隊がこの陣地を飛び越えて南東方に交代し鯉魚門をへて香港島に撤退する。


 西部地区ではロイヤルスコット大隊と砲兵部隊が九龍市西側で乗船して撤退することとした。だが、撤退するにしても日本軍の進撃を阻止するために多くの破壊活動もしなければならなかった。

 給油施設を爆破破壊し、造船所、ストンカッター島の海岸砲も爆破され、港に碇泊している商船も沈められた。


 撤退に際しては海軍の助力も必要であったが、中国人乗組員はほとんどが逃亡してしまい、英軍の水兵だけでやりとげなければならなかった。運ぶのは人員だけでなく、火砲や自動車、装甲車も含まれていた。

 それでも十一日二〇時頃からロイヤルスコット大隊が乗船を開始し、カナダ兵部隊が続き、パンジャップ大隊は日没後に乗船を開始し、十二日朝には対岸に到着した。ラジプット大隊もその後に続いて撤退を完了した。人員は撤退を完了したが、多くの弾薬武器駄馬も放棄されたのも事実であった。それはのちの香港戦において大きな影響を与えた。


 若松大隊の奮戦は、西山大隊と同じように師団司令部を困惑させた。再び状況判断の変更を図らねばならなかった。この報告を受けた時、師団司令部には軍司令部の参謀副長らが作戦打ち合わせのために丁度来ていたのだった。結局、軍司令部もゆったりとしている必要はないと、九龍半島を席捲すべく酒井軍司令官に進言し、軍も一斉攻撃に踏み切った。


 第二十三軍命令

「軍は速かに九龍北方地区に進出し香港島に対する爾後の攻撃を準備せんとす」

 

 と命じたのである。

 軍司令部の命令に基づき、師団は新しく攻撃命令を下した。

沼作命令甲第二五号

   第三十八師団命令     十二月十一日一七〇〇

                 大 埔

一 敵抵抗力は著しく衰退せり

二 師団は本夜暗を利用し九龍北方高地の線に進出す

三 青衣島攻略部隊は本十一日夜暗を利用し青衣島に上陸し該島を攻略すべし

四 右翼隊は本十一日夜暗を利用し当面の敵陣地を攻撃し一四九高地、鷹巣山の

 線に進出したる後、特に選抜せる一大隊を以て九龍市内の掃蕩を行い治安粛正

 竝に掠奪防止に任ずべし

五 左翼隊は本十一日夜暗を利用し重点を右に保持し当面の敵陣地を攻撃し燕檀山、獅子嶺の線に進出したる後、特に選抜せる一大隊を以て鉄道線路以東啓徳飛

 行場に至る間の掃蕩を行い治安粛正竝に略奪防止に任ずべし

 早川部隊(第一大隊)は依然其の指揮下にあらしむ

六 左側支隊は成るべく速かに当面の敵を攻撃し教会山及石塚の線に進出すべし

      (以後省略)


 この命令により右翼隊第一線の第三大隊の野口少佐は、速射砲中隊の多田中尉の助言を受けて十一日一五〇〇を期して金山向かい、同地区を無血占領した。

 右翼隊の東海林大佐は同命令により一八三〇第一線部隊に対し、

「一四九高地ー鷹巣山東西の線に進出し爾後の攻撃の準備すべし」

との命令を出し、第一線の左右両大隊は二〇〇〇ころ前進を開始した。香港島からは英軍撤退の援護射撃が加えられていたが、日本軍部隊は英軍が撤退行動に移り乗船を開始していようとは思ってもいなかった。


 右翼隊は十二日〇二三〇鷹巣山東西に線に達し、左翼隊は〇四三〇に〇三〇八高地と燕檀山の線に達していた。


 左翼隊である西山大隊は若林中隊によるトーチカ奪取以後、前進行動を厳禁されていたため、部隊は右翼隊の野口大隊の後方を続行するだけであったという。

 十二日払暁、東海林大佐は野口少佐に混成の挺身隊を編成するよう命じ、その部隊を以て九龍市内に突入することを命じた。野口少佐は挺身部隊を率いて〇七三〇九龍市内へと突入し、南端まで進出、渡船場付近で少数の英軍部隊と交戦して殲滅し、〇九〇〇には同市街を占領した。


 野口部隊が市街地の占領を果たすと、数万に及ぶ市民が一斉に戸外に飛び出し、飲料水、食糧を求めて暴徒と化して市内を荒らし回った。野口少佐はこの鎮圧に努めようとしたが、暴徒の数が多くどうにもならなかった。

 遅れて到着した多田速射砲中隊は、この暴徒の数を見て機転をきかせて交差点道路に速射砲を設置し、信管を付けずに発射して轟音を轟かせた。これにより暴徒は鎮静化したという。

 西山大隊は鉄道線路東側の警備についた。

 第二百三十連隊は軍旗を先頭に九龍市内へと進んだ。

 同じ第二百三十連隊の第一大隊江頭少佐は、二コ中隊は戦列に復帰し、青衣島攻略を命ぜられ、十一日夜陰に乗じて渡海し、二十四時上陸を完了した。島には英軍の姿は見えず、十二日一六〇〇に上陸してきた海軍陸戦隊と交代した。


 歩兵第二百二十九連隊の田中連隊長は、右第一線の第一中隊長竹内正雄中尉の下に行き情況を聞き、第一大隊長の折田少佐が到着したので、大隊を砲楼山高地に、第二大隊の宮澤少佐を梅子林に向かわせた。田中連隊長は第二、第三大隊を水牛山に向かわせた。

 伊東支隊長、田中連隊長、山砲兵第十連隊長と細川参謀らが水牛山に登り敵情視察を行っており、攻撃に備て気も若干緩んでいた所に、突然砲弾が飛来してきた。海上から英軍艦が日本兵の姿を望見して砲撃を加えてきたのである。

 其後、細川参謀には

「敵は昨夜、本防禦線から撤退を開始せるものの如し 

 支隊は速かに攻撃前進すべし」

 との命令が伝えられ。集合していた部隊は攻撃準備を進めた。


 第二大隊は道路を避け、起伏激しい地形を慎重に進んで、十二日〇一三〇頃に石塚陣地前方四〇〇米の林縁に達した。住民の情報で地雷原のない場所を進んだ。残る英軍のトーチカ陣地に迫り、鉄条網を破壊し、トーチカ陣地を爆破するのを成功した。インド兵六名を捕虜とした。

 第二大隊は中央山を掃蕩して九龍山に進出し、第三大隊は金剛山に向かい、連隊本部と合同したが、連隊の各部隊には香港島からの砲撃に悩まされながらの前進となった。しかし、英軍部隊はほとんど退却しており、残敵を掃蕩しながらの前進であったが、発見するものは見捨てられた馬と遺棄された器材、兵器の数々であった。

 十三日、第三十八師団は九龍半島の攻略占領を完了した。

 日本軍の人的損害は、戦死二十二名、負傷者百二十一名であった。英軍部隊の遺棄死体は百六十五、捕虜は四十九名であったが、正確な戦死者の数は不明である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る