第三話 九龍半島攻撃

 十二月二日午後二時、支那派遣軍総司令官は参謀総長発の軍機電報を受領した。


 参電第五三一号

 一 大陸命第五七二号発令アラセラル

 二 「ヒノデ」ハ「ヤマガタ」トス

 三 御稜威ノ下切ニ御成功ヲ祈ル


(註、「ヒノデ」はXデー、「ヤマガタ」は『八』を意味する隠語である。一は「ヒロシマ」、二は「フクオカ」、三は「ミヤザキ」、四は「ヨコハマ」、五は「コクラ」、六は「ムロラン」、七は「ナゴヤ」、九は「クルメ」、十は「トウキョウ」と決められていた)


 従って開戦日のXデーは八日と決まったのである。

 これを受けて第二十三軍は軍命令を発した。

   第二十三軍命令

一 帝国ハ米国、英国及蘭国ニ対シ開戦ヲ決意セリ

二 軍ハ香港ノ攻略ヲ開始セントス

三 佐野兵団、北島部隊及軍飛行隊ハ直チニ波集作命甲第一三四号ニ基キ香港ニ

 対スル攻撃ヲ開始スベシ


 第三十八師団は国境線に向い行動を開始した。

第二十三軍司令部は八日未明開戦を告げる電報の受信に神経を集中させていた。

 ついに開戦を告げる電報を受信した。


 参電第六八四号 十二月八日〇三四〇発

  「ハナサク」「ハナサク」   参謀総長


 続いて、


 参電第六八五号 十二月八日〇三四〇発

  「E」方面の本格的作戦開始せられたり 参謀総長


 この受信を受け、酒井軍司令官は命令を発した。


 波集参電五〇〇号

  鷹発令す 十二月八日四時   軍司令官


 この電報より少し前〇二〇〇頃、軍の下田参謀は国境突破の昼間攻撃たるべき公算大なりとの旨を第三十八師団の親泊参謀のもとへ通達してきたので、親泊参謀は月光の下を自動車を駆て佐野師団長の元にかけつけた。師団長は参謀長と共に沙湾の一陋塁いちろうるいの階上にあり、親泊参謀からの報告を受けたが、師団長は夜間攻撃の希みを捨てなかった。

 そこに細川参謀が駆けつけ、

「鷹発令されました」

 と報告した。

 佐野師団長はそれを聞くと、立ち上がり命令を下した。

「伊東大隊は直ちに国境を突破すべし」

 時間は〇四二〇であった。

 親泊参謀は再び車を飛ばして沙糖布の伊東支隊司令部に到着し、大声で登坂参謀を呼出し伝えた。

「鷹が発令された。伊東支隊は直ちに国境を突破すべしとの命が下された」と。

 伊東支隊は移動に伴う行軍により休養中であったが、緊急集合が発せられた。


 沙湾師団司令部では、命令受領者を庭に集め、届けられていた軍司令官の訓示を披露すると共に、佐野師団長の訓示が行われた。

 酒井軍司令官の訓示は七日に発せられたものであった。


   訓示

今次聖戦開始以来、終始帝国の行動を妨害し来れる暴戻英米に対し断固膺懲ようちょうの大命降り、茲に軍は彼が自衛上の要衝香港を攻略せんとす。

夫れ拡古の大業を完遂し、千載の青史に不朽の威勲を飾るは将にこの時に在り。将兵宜しく平素訓練の成果を傾注し勇戦奮闘、速に攻略の目的を達成し、以て皇軍の威武を中外に顕揚せんことを期すべし。

   昭和十六年十二月七日

      第二十三軍司令官   酒井 隆


惟うに皇国が支那大陸に聖戦の大旗を進めてより、四閲年重慶政権の窘躬きんきゅう漸く著しく、世界新秩序建設の偉業は著々其の緒に就きつつありと雖も、支那事変禍因の根本は未だ剔抉てっけつし得るに至らず、英、米、蘇、支連衡包囲団は逐日緊縮せられつつあり。

正に皇国は未曾有の非常時局に直面せりと謂うべく、又以て乾坤一擲けんこんいってき肇国以来の道義的使命を達成すべきの秋なり。

茲に師団は大命を拝し英米白魔数世紀に亘る東亜民族圧迫の淵巣ふちすを一挙に屠らんとす。

皇軍尖兵たるの栄誉を担う師団の任務は真に重且大にして、其の作戦の成否は直ちに以て皇軍の興廃に関するものと謂うべし。諸子は深く思う茲に致し益々皇軍たるの意識に透徹とうてつすると共に、愈々誠心を以て其の識分に熱中し事に当るや、随時随所に全精力を傾倒して其の職責を遂行するの心境に到着し、敵を恐れず、侮らず、火力装備と陣地施設とに依存し、物質万能を玉条とせる敵に対し伝統の肉弾白兵を以て勝敗を電撃的に決するの慨なかるべからず。

幸に師団は既に数次の作戦を経験し、克く赫赫たる武勲を樹立せるのみならず、昆明作戦を準備することを茲に半歳満を持して放たず、志気旺盛、軍紀厳正、訓練亦精到にして真に鉄石の団結を結成す。

今や矢は弦を放たれんとす。諸子夫れ克く決死以て皇国を万年の安泰に置く基礎をひらき上るは、聖慮を安んじ奉り下は一億同胞の熱望に応えんことを期せよ。

右訓示す。

     昭和十六年十二月八日

          師団長  佐野忠義


 先遣支隊長である伊東武夫少将は、部隊を国境に展開することを決し、命令を下達した。


伊支作命甲第七号        十二月八日〇五三〇

   伊東支隊命令        沙 糖 布

一 諸情報を綜合するに敵国境線陣地には大なる配兵なきものの如く其の後方新

 園、粉嶺、石湖墟、河上郷付近には一部の兵力駐屯しあるものの如し

 師団は先遣隊主力を以て敵の国境線陣地を突破し一挙大帽山、草山の線に進出

 せしめ主力を逐次深圳方面に推進す

 第二遣支艦隊は海正面より昆明攻略に協力す

 荒木支隊は一部を以て横岡墟、李朗、望天湖付近を確保し北面して支那軍の攻

 勢を防止す

 北島部隊は其の臼砲大隊を以て羅坊西側高地に 其の十五大隊を以て上布北側

 地区に陣地を占領し支隊の戦闘に協力したる後逐次陣地を前方に推進す

 軍飛行隊は主力を以て昆明付近敵航空勢力を撃滅し且同港内在泊敵艦隊の攻

 撃、「ストンカッター」島茲に昆明島東西の砲台の制圧に任ずると共に適時地

 上作戦に協力す

二 支隊は速に主力を以て黄貝嶺南端、羅坊北側高地、同東側地区に展開し重点

 を羅坊付近より新園西北側一六四高地に指向する如く当面の敵国境陣地を攻

 撃 敵を錦田、大埔以北の地区に捕捉撃滅したる後速かに白沙橋川、六五四高

 地、大帽山、草山、港口の線に進出せんとす

三 迂回隊は速に禍田付近に於て深圳川を渡河し一部を以て新田東北方二粁一三

 七高地同南側を通ずる道路付近を確保すると共に主力を以て速に錦田平地に進

 出し敵の退路を遮断すべし

 別に一部を以て屯門湾方面に通ずる環状自動車道を成るべく遠く確保し敵の道

 路破壊を防止するを要す

 工兵隊をして其の禍田付近の渡河に協力せしむ

四 右翼隊は左翼隊の進出に伴い黄貝嶺南端の線に展開し左翼隊の攻撃に連繋し

 老鼠嶺西側地区の敵陣地を攻撃して石湖墟南端同東側地区の線に進出し爾後の

 蕉村付近を経て錦田平地に向う攻撃を準備すべし

 攻撃前進開始と共に速に各一部を以て鉄道橋、同西南側高地を確保するを要す

五 左翼隊は速に羅坊西北側高地より竹園村東側高地に亘る線に展開し重点を老

 鼠嶺より新園西北側一六四高地に指向する如く当面の敵陣地を攻撃して新園東

 端の線に進出し爾後の大埔方向に向う攻撃を準備すべし

 其の有力なる一部を以て沙頭角付近に於て速に国境線を突破し沙頭角ー南石坑

 ー南坑道方向より速に大埔西北側地区に進出し敵の退路を遮断せしめ且大埔付

 近を通ずる海岸自動車道路を成る可く遠く確保し敵の破壊を防止せしむべし

   (以下省略)

 

 軍隊区分

  迂回隊

   長 江頭少佐

     歩兵第二百三十連隊第一大隊(二中隊欠)

     独立速射砲第二大隊の一中隊

     山砲兵第三十八連隊の一中隊

     工兵第三十八連隊の一小隊

     師団無線一分隊(三号機)

     第十七防疫給水部の一部

     衛生隊一救護班

  右翼隊

   長 東海林大佐

     歩兵第二百三十連隊(第一大隊欠)

     独立速射砲第二大隊(一中隊欠)

     装甲車中隊

     山砲兵第三十八連隊(第二大隊と一中隊欠)

     工兵第三十八連隊(一小隊欠)

     第十七防疫給水部の一部

     衛生隊三分の一(二救護班欠)

  左翼隊

   長 田中大佐

     歩兵第二百二十九連隊(一中隊欠)

     独立速射砲第五大隊(一中隊欠)

     独立山砲兵第二十大隊

     第十七防疫給水部の一部

     衛生隊一救護班

  砲兵隊

   長 澤本大佐

     独立山砲兵第十連隊  

  工兵隊

   長 鈴川大佐

     独立工兵第二十連隊

     第九師団第一、第二架橋材料中隊

  予備隊 

     歩兵第二百三十連隊第一大隊のニケ中隊

     独立速射砲第五大隊の一中隊

  直轄中隊

     野戦瓦斯第十八中隊

     師団無線二分隊

     第十七防疫給水部

     兵站自動車一小隊

                      以上


 右翼隊の東海林大佐は、支隊命令を受けるや第二、第三大隊に向東ー黄貝嶺の線に展開するよう前進準備を命じ、国境付近の分哨に当たっていた今井小隊は〇九〇〇深圳鉄道橋を早くも確保した。

 左翼隊田中大佐は国境から二十キロほど離れた横岡墟にあって、

「正午十二時を期して英支国境を突破、攻撃前進すべし」

 との連絡が入り、大佐は緊急集合を命じ、真っ先に集まった第七中隊を尖兵中隊として進撃を命じた。

 田中大佐は第二大隊長宮沢少佐に諸隊の引率を命じ、自らは指揮班を随伴させて尖兵中隊の後を追った。一一三〇ころ、羅坊北東二キロ付近に達し国境線が望見されたので、所定時刻に間に合ったと安堵した。尖兵中隊には攻撃隊形を取らせて主力部隊の到着を待った。

 工兵隊の鈴木大佐は準備作業が混乱を極めていたなか、

「直ちに前進開始」

の命令を受け取り、第一、第三中隊に渡河作業の準備を命じ、両中隊は車両で渡河点に急行して、架橋を開始した。

 第一中隊は一一〇〇頃には、禍田に軽渡橋二基、門橋一を完成させて、江頭迂回隊を渡河させた。第三中隊は一二〇〇頃に新園付近に軽渡橋二を完成させた。

 向東付近に展開していた第二中隊は一三三〇駄載式鉄舟橋を架設して、鈴木大佐自ら渡橋して安全を確認した。

 

 一一四五右翼隊は左翼隊の進出に伴い、直ちに前進を開始すべしとの支隊命令に接し、一二〇〇を期して前進を開始した。

 左翼隊も昼過ぎには連隊主力も到着し、尖兵中隊は国境である小川を越え、鉄条網を破壊して国境線を突破した。

 国境付近に英軍の姿はなく、部隊は国境をこえて進撃した。向東南側鉄舟橋では一時間半の間に、軽戦車・自動車約三百、場匹四百、人員一千人が渡った。

 軍砲兵隊の放つ砲声が激しい音を響かせていた。


一二三五時には

「〇八四〇啓徳飛行場を急襲し十四機中十二機を銃撃以て燃上せしめたり」

 との軍飛行隊からの報告を師団が受け、前線部隊に対し通報してきた。上空の制空権は早くも日本軍のものであった。


 右翼隊の将校斥候は前進路に敵影を認めず、付近住民の証言では英軍はすでに九龍に向けて退却したとのことだった。

 右翼隊は第三大隊を先遣隊として竹坑に向けて進撃させた。

 左翼隊は一四〇〇第一大隊が前線に到着、尖兵中隊は第一中隊にかえ、大埔に向けて進撃を開始した。

 一六〇〇頃尖兵中隊は大和市北西方鉄道ガード付近で兵力不明の英軍より機関銃の攻撃を受けた。中隊は散開してこれを攻撃し、到着した第一大隊も攻撃に加わったが、三〇分ほどで英軍は退却していった。

 前方では爆発音が度々聞かれたが、英軍が退却にあたって道路や橋梁を爆破する音であった。

 伊東支隊長は十八時に粉嶺に進出し、右翼隊は二十時に竹坑に、左翼隊は十八時に大和市に、迂回隊は二十一時に安岡に進出した。

 歩兵第二百三十連隊海野中尉の将校斥候は、荃湾付近に進出したが、約三十名の英軍部隊と遭遇し交戦、これを撃退している。伊東支隊は英軍の抵抗にはあまり合わず、順調に進撃をしていた。

 伊東支隊長は明日からの攻撃に備えて新たな攻撃を準備させていた。


 一方海軍の第二遣支艦隊の新見政一中将は、開戦に備えて待機もしくは海上哨戒にあった。艦隊司令部の要員は次のようになっていた。


  参謀長   少将   安場保雄

  機関長   機大佐  上野権太

  軍医長   医中佐  野田哲夫

  主計長   主中佐  松岡嘉一

  首席参謀  大佐   山澄忠三郎

  戦務参謀  中佐   鵜澤聡衛

  通信参謀  少佐   市来崎秀丸

  機関参謀  機中佐  小林儀作

  副官兼参謀 中佐   真田雄二


 艦隊司令部が把握している香港方面の敵情は次のようであった。

⑴ 防備状況

 香港全域を東西両水道方面、南方海方面、北方陸正面等十群に分ち要塞を構築し鯉魚門大龍頭、ブリックヒル、摩星嶺、ストンカッター島に四十糎乃至十五糎要塞砲約六十門を装備しあり

其の他ヴィクトリヤピーク、摩星嶺、西高山、アバーデン、ブリックヒル、大潭半島等に高射砲二、三十門在り

九竜北方の山地貯水池の線には「トーチカ」群を以て主防禦線を構築しあり

各水道は機雷を以て閉塞南了水道の一部及大欽門水道の一部には掃海水路あるものの如し

⑵ 海軍兵力

乙巡一(ダウントレス)駆逐艦三(スカウト型)河用砲艦四、魚雷艇約一〇、敷設艦三、給油船一、哨戒艇其他約三〇、其の他米砲艦一(ミンダナオ)在泊中

指揮官 コリンソン代将  人員約一四〇〇名

⑶ 陸軍兵力

英兵約二六八〇、印度兵約三二五〇、支那兵約七五〇、計六六八〇。この他最近(十月中旬)印度兵約三〇〇「シンガポール」より到着。義勇軍(英印支)約一七、〇〇〇あり

⑷ 空軍兵力

航空機  軍用  水陸各二機程度

     民間用 約十機

飛行場  啓徳飛行場

他に錦田飛行場あるも使用の形跡なし

      (「第二遣支艦隊司令部戦時日誌」より)


 開戦当日、甲監視部隊は香港東方を哨戒中、水雷艇鵲は〇六〇〇に横欄灯台の東方二三浬において英国商船「江蘇」を、一四〇〇には同じく英国商船「エルシーモラー」を発見拿捕し、碣石湾に回航。雁は一〇〇〇に馬尾洲灯台通信機関を破壊し望遠鏡三台を押収し、フランス商船を発見臨検して香港への入港を阻止した。

 海軍部隊は海上を封鎖した。

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