第三九話 コレヒドール陥落

 左翼隊には中山参謀が同行していたために、中山参謀はこの軍使に対し、

「日本軍としては、比島全米比軍が降伏する場合にのみ、これを受け入れる」

 と伝えた。軍使は一旦帰ったが、まもなくウェンライト中将が数名の幕僚とともに降伏を申し入れてきた。

 中山参謀は中将らとともにカブカーベンに行き、本間軍司令官との降伏交渉を行った。

 この席で本間軍司令官は全米比軍の降伏以外は受け入れないと力説した。ウェンライト中将はビサヤ、ミンダナオ方面の米比軍の指揮官は持っていないと答えたので、会談は決裂した。中将らは再びコ島に帰って行った。

 日本軍は降伏交渉が決裂したので、攻撃続行して砲撃を加え、第四師団主力は予定通り島に上陸した。

 米比軍は停戦していたためにコ島の占領は簡単であった。翌七日日本軍の参謀がコ島に上陸すると、米兵が海水浴を楽しんでいるのを見て驚いたほどである。

 和田参謀が米軍司令部に行くと、軍の羽場参謀とウェンライト中将が何やら話をしている。聞くと

「ビサヤ、ミンダナオ方面に対しては自分の指揮権がない」と言っているという。 

 和田参謀は中将に対して、

「今一度指揮権を回復したらどうか」

 と提案すると、中将はしばらく考えたのち、

「そうしよう」

 と言って、その件は解決したようであった。


さて、戦闘終結後、軍が米軍捕虜の尋問から戦闘の経過をまとめたものがある。それによれば、

『北岬及「ジェームスラビン」に於ける殆ど総ての海岸防禦施設は東部地区に於ける後方の防禦線及全通信線とともに強力なる砲撃により破壊せられたり』

 という状況であった。そして、日本軍の上陸が近いことを察知し、

『五日午後十一時三十分頃無線連絡及伝令を以て上陸作戦は開始せられたる模様なる旨を各部隊に伝達し主力予備隊に出動準備を命じ』

 日本軍の上陸に備たのである。そして、

『六日午前零時十五分頃日本軍は北岬の付近に上陸しつつありとの報を受け直ちに東地区指揮官にインファトリー岬水際給水塔、オーディナンス岬に亘る全線に防禦線を構成し日本軍の進撃を阻止すべき事を命じたり。「ガバメントラビン」に野営し居りたる予備隊主力に「マリンタ」煽動に進出し別命に依り直ちに反撃に出で得る如く準備すべき事を命じたり。

東地区指揮官ビーチヤ大佐は地区予備隊及東地区の南側に於て海岸防備に任じ居たるB中隊を以て命ぜられたる防禦線を構成せんとしたるも一帯高地は日本軍により既に確保せられたるを発見せり』


 米軍は防衛線を敷こうとしたが、日本軍の進撃が早くもう確保する防衛線は喪失していのだった。米軍は仕方なく五百ヤードほど西に防衛線を敷いた。しかしながら、

『日本軍の砲撃の為防禦線の構成及予備隊の移動に非常なる困難を感じたり又此の砲撃によりただいの死傷を出したり』

 と防衛に支障をきたしていた。一部では予備隊の反撃により一時的に日本軍の攻撃を阻止できたが、やはり日本軍の砲撃と爆撃機による制圧で米軍の死傷者は増加し反撃は停滞した。

 さらに日本軍は戦車を上陸させ進撃してきた。米軍に対戦車砲はなく、五〇ミリ砲を対戦車砲として使用した。

 中央地区と西地区より予備隊を援軍として送ったが、やはり砲撃と爆撃とにより思うように作戦は進まなかった。


『午前十時三十分に至り吾軍は正午に降伏し各部隊は各々の位置に於て白旗を掲げる様司令官より命令を受領せり』

 という有様にて停戦降伏していった。


 コレヒドール島の要塞砲はどれほどの被害を蒙っていたのであろうか。その概況もある。巨砲についてのみ見ると、

 スミス砲台 十二インチバーベット砲一門

          配備兵員により爆破破壊

 ハーン砲台 十二インチ砲一門

          爆弾により損傷破壊と自軍による破壊

 クロケット砲台 十二インチ隠顕砲二門

        一号砲  砲撃により損傷

        二号砲  自軍により破壊

 ホイラー砲台 十二インチ隠顕砲二門

        一号砲 爆撃により損傷

        二号砲 爆撃により損傷後破壊

 チェスター砲台 十二インチ隠顕砲二門

        一号砲 砲撃により損傷

        二号砲 同

 ゲアリー砲台  十二インチ榴弾砲一門

        砲撃により弾薬庫爆破共破壊

 ウエー砲台   十二インチ榴弾砲四門

        砲撃により全門損傷不能

 

 三十センチ級の砲座は爆撃か砲撃によりほとんど損傷を蒙る程の打撃を受けており、一部は損傷後砲員により爆破破壊されたものもあった。


 ウエンライト中将は降伏する前にルーズベルト大統領宛に最後のメッセージを送っていた。

「失意と悲しみに打ちひしがれて、しかし、恥辱にさいなまれてではなく、私は大統領閣下にマニラ湾に浮かぶこの要塞島明け渡しの条件を、今日取り決めなければならないことを報告いたします。人間の忍耐には限界があり、この限度はとうに過ぎました。救援の見込みもない以上、この無益な流血と人間の犠牲に終止符を打つことが祖国および渡しの勇敢な軍隊に対する私の義務と思います。

大統領閣下がもし、ご同意願えるなら、私の軍隊ならびに私が、人間に可能なすべてのことを成し遂げ、アメリカとアメリカ軍の最善の伝統を守り抜いた、という事をどうか国民にお伝えください。

神の御恵みが閣下の上にあらんことを。究極の勝利のために、大統領閣下およびアメリカ国民の上に神の御導きがありますように。

深き悲しみと私の勇敢な軍隊に対する誇りを持ち続けつつ、私は日本軍司令官との会見に向かいます。

さようなら。大統領閣下」

 (ジョン・トーランド著「大日本帝国の光芒②」早川書房)


 米比軍の全面降伏の件で一旦コレヒドールに戻ったウエンライト将軍は、覚悟を決めてコレヒドールにあった佐藤大佐の下に投降した。其後、首脳部はマニラに運ばれ、将軍はマイクをとって全軍降伏へのメーセージを読み上げたが、最後の方は息を詰まらせ、言葉を失っていた。ミンダナオでフィリピン南部の指揮官であるシャープ将軍に対してマイクをとった。

『貴下はこの書簡の全文とそれからトレーウィック大佐が貴下に伝えるその他の指示とを無電でマッカーサー将軍に復唱されたい。だが、これらの指示を無視する考えを起こしてはならないことを、特に強調する。全面的にかつ正直に指示を遂行しないようなことがあれば、その結果は最もむごいことになるだけである』云々。


 全フィリピン占領に対する大きな前進であった。

これまでの事を米軍の公刊戦史からみてみよう。


『五月六日一〇三〇、参謀長は「自由の声」のマイクを通じて降伏申出のメッセージを朗読したが、このときミンダナオのシャープ少将あてに、マニラ湾内四つの要塞島を除き、比島における全軍をシャープ少将の指揮にゆだねるとともに、マッカーサー大将に報告して即時命令を仰ぐべき指示を打電した。

 ウエーンライト中将の右処置は、できるだけ僅少な人員を降伏させようとする努力であった。したがって参謀長の読みあげたメッセージでは、マニラ湾の四島だけが降伏する趣旨のものであった。参謀長の朗読が終わると、それはすぐ日本語で放送されたが、日本軍の応答はえられなかった。さらに一一〇〇と一一四三に重ねて放送したが、依然として応答はなかった。ところが正午になると突如白旗が島の最高所に揚り、四島の軍隊は射撃を中止した。

 午前中に四五口径以上の全武器は破壊され、また、海兵隊員は命令を読み違えて小火器まで破壊し始め、さらに秘密書類、地図、紙幣などが処分された。

 日本軍が、正午、放送に答えるか、あるいは休戦の白旗に対して礼を尽くすのを怠っている際、ウエーンライト中将は、今や防御力を失った部隊が全面的に崩壊し去ろうとする恐るべき危険に直面した。一二三〇さらにラジオで日本軍司令官と連絡すべき最後の努力を試みたが、その結果は同様であった。

 そこで彼が本間将軍に連絡できる唯一の残された方法は、白旗の下に一将校を前方前線に送り、局地の日本軍指揮官と協議することだけになった。この任務は海兵隊の大尉(クラーク)に与えられた。大尉は一三〇〇やや前白旗の旗手、ラッパ手および通訳を伴って出発し、戦線を通過して一日本軍大佐の許に導かれた。彼は大佐に対して、ウエーンライト中将が休職を求めていることおよび降伏条件を本間将軍と討議することを望んでいる旨説明した。その日本将校はバタアンの上司と連絡した後、もしウエーンライト将軍が彼の本部に来るならば、彼は同人をバタアンに送るべく返答した。大尉は出発後一時間以内に、日本軍のメッセージを持ってマリンタトンネルに帰来した。そこでウエーンライト中将は港湾防御部隊司令官と副官を伴い。大尉を案内として敵戦に向かった。

 一行はデンバー高地で中山参謀に会った。以後若干の経緯はあったが、中山参謀の案内でカブカーベンにたどりつき、会合場所で待つこと約三〇分で、本間将軍が幕僚将校を従えて到着したのは一七〇〇であった。

 会談は何らの挨拶を交わすこともなく開始され、ウエーンライト将軍の差し出した正式降伏文書に対し、本間将軍は、島内全部の米比軍部隊を包括しなければ降伏は受けいれられぬと述べた。これに対しウエーンライト将軍は、港湾防御部隊だけ指揮し、ビサヤ、ミンダナオの部隊は、マッカーサー将軍の指揮下にあるシャープ将軍によって指揮されている旨答えた。

 会談はビサヤ、ミンダナオの指揮権に関する論争となり、本間将軍はついに席を立ち、ウエーンライト将軍を見おろして

「バタアンにおけるキング将軍の降伏の際には私は彼に会わなかった。もし貴官が一部隊の指揮官たるに過ぎないならば、やはり私は貴官に会う何らの理由もない・・・。私は自分の同格者とだけ交渉を欲する」

と言い放ち、今にも立ち去りそうに思われたので、ウエーンライト将軍は結局全部の比島守備隊の降伏に同意した。しかし本間将軍は、今や降伏の受けいれを拒否し

「貴官は貴官の権威を否定した。私は貴官がコレヒドールに帰り事態をよく考えることを勧告する。それでもし貴官が降伏を適当だと認めるならば、コレヒドールにいる師団の指揮官に降伏せよ。そうすれば彼は貴官をマニラの私の許へ連れて来るであろう」

 という言葉を残して会場を出ていった。

 本間将軍が立ち去った後、ウエーンライト中将は中山大佐に無条件降伏を申出で、また、シャープ少将の降伏を説得するため、将校一人を日軍機に乗せてミンダナオに派遣することに同意したが、中山大佐はこの提案の受理を断わり、本間将軍の訓令はコレヒドールの日本軍指揮官だけに降伏受理の権限を与えていることを説明して、一行を再びコレヒドールに送った。彼らが同地に到着したのは五月六日の晩遅くであった。

 (中略)

降伏文書署名後ウエーンライト将軍は、マリンタトンネルの自室に送られたが、五月七日午前突如として日本軍情報参謀羽場光中佐が来訪し、降伏の協定条件を充足するに必要な処置を討議した。そこで彼はシャープ少将に降伏を命令するため、作戦主任の大佐に書簡を持たせてミンダナヲに派遣することとした。

 前期書簡が完成すると、羽場中佐はさらにその後、降伏命令を放送するため、マニラに行くようになっていることを宣言した。ウエーンライト将軍はそれに激しく反対したが結局それに従い、同夜半やや前マニラに到着して、意気あがらぬしわがれた声で、シャープ将軍、ナカール大佐(北部ルソンで小支隊を指揮)らに対して降伏の条文を放送したのであった。」

   (戦史叢書「比島攻略作戦」朝雲新聞社より)


 コレヒドール島攻略戦の五日から七日での日本軍の戦死者は将校十一名、下士官兵三百七十四名。負傷者は将校十六名、下士官兵四百三名であった。


 周辺には三つの要塞島が存在していた。コレヒドールの南にあるカバロ島である。ここには米軍約八百が守っていた。六日一四〇〇歩兵第八連隊の内一コ大隊をもって、七日〇〇三〇に東岸に上陸、〇一一五米軍の抵抗はなく占領した。

 さらにその南にあるフライル島、カラバオ島に対しては、第十六師団の歩兵第三十三連隊の一コ中隊と工兵第十六連隊の一コ中隊を以て、七日正午すぎに上陸占領した。フライル島には米軍約二〇〇、カラバオ島には約四〇〇がいた。

 これでマニラ湾周辺一帯は占領確保したのであった。

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