第三五話 キング少将降伏す

 六日、七日と陸軍航空隊の爆撃機は爆弾を積んでは出撃を繰り返す波状攻撃で、敵陣地に対して爆弾の雨を降らせた。爆弾も十五粁から五百粁のものまで多彩に投下した。大型爆弾は地響きと共に、大地に穴を穿ち、土砂を巻き上げ、破片を周囲に飛び散らした。

 

 六日、第六十五旅団は一二三〇頃には、一部は三角標高一四二一高地を占領し、主力は夕刻以来逐次同高地に進出した。また、マリべレス山頂を占領する軍命令に基づき、部署された右翼隊の一部は一二〇〇頃パンチガン川右岸のY一八六一の線を出発南下し、また右側支隊は正午には一部の残置部隊を残して主力に追及を開始した。


 第四師団は左右両翼隊で、朝よりサマット山東南北野川の線で、米比軍の強い抵抗を排除して一九〇〇頃この川の要点を占領し、予備隊(歩兵第三十七連隊)で、一〇三〇サマット山北東麓付近からカポット台の米比軍に対し、おおむね東面して攻撃を開始し、さしたる抵抗を受けることなく一七〇〇頃には陣地を占領確保した。だが、砲撃により支援している戦車第七連隊の園田大佐が戦死してしまう。


 永野支隊は、カポット台付近に進出し、午後にはカポット台東方北野川右岸地区に向い、夕刻には占領を果たした。

七日、第六十五旅団は夕刻までに三角標高一四二一高地付近の掃討を完了すると共に、三角標高一五四二・九高地の米比軍に対して攻撃を準備し、夜に入り夜襲をかけ同地を占領した。


 歩兵第百二十二連隊第一大隊は、七日一三三〇和田少尉を将校斥候に派遣し、三号道と二五道の交差点付近を捜索させた。

 一五〇〇和田少尉は正面台上に敵陣地を発見した。と同時に機関銃の掃射を受けた。和田少尉は敵陣地の所在を大隊本部に報告すると共に、さらに敵情を捜索したが、射撃を受けて和田少尉以下二名が戦死し、三名が負傷した。第三中隊は直ちに展開しようとしたが、密林に阻まれ一小隊が展開できたに過ぎなかった。大隊長は第一機関銃中隊の半部と工兵小隊を、第三中隊を掩護すべく送ったが、敵陣地は密林に覆われてよくわからず、頑強に抵抗した。一六三〇になり迫撃砲が到着し射撃を開始した。第三中隊は迫撃砲、機関銃の支援を受けて道路左側より攻撃を続行。一七三〇頃になり敵は多数の兵器弾薬遺棄死体を残して南方に敗走した。


 独立山砲第三連隊の第一大隊は、薄暮以降射撃準備を整えていた所、〇四三〇第一中隊陣地の西南側方向に戦車らしき音が聞こえ、まもなく視界に戦車を先頭とする乗用車、自動貨車が七、八両の車両部隊が邁進してきた。山砲の照準を敵部隊に定めて直前に迫るまで待ち、五十米の距離で敵先頭戦車に対し、初弾を発射。見事戦車の司令塔に命中し戦車は炎上擱座した。第二弾は二番目の車両をも炎上させ、さらに続けて後続の車両に向けて弾を撃った。敵兵は狼狽し退却していった。遺された車両二台には死体九を数えた。


 第四師団も退却する米比軍を追撃して南下した。


 三日から七日までの第六十五旅団の戦死者は七十七名。負傷者は百五十二名。捕虜百十一名。第四師団の戦死者は百五十名、負傷者二五〇名。捕虜約一千名であった。


 米比軍の組織的な防御態勢は崩壊しつつあるように見えた。

軍は七日二三〇〇追撃命令を下した。

一、「パンチンガン」川以東の敵第一線陣地は軍主力の攻撃に依り崩壊し諸隊は

 引続き「リマイ」川の線に向い猛進中なり

 「バタアン」半島西半部の敵は尚陣地に在るが如し

二、軍は一部を以て「バタアン」半島西半部の敵に対せしめ主力を以て「マリべ

 レス」に向い敗敵を急追せんとす

三、第六十五旅団は「リマイ」山を占領確保すると共に軍の右側を掩護すべし

 密に生田支隊と連繫すべし

四、第四師団は「リマイ」川の線に進出せば引続き九号道に沿う地区を「リー

 ル」川の線に向い敵を急追すべし

五、永野支隊は「リマイ」南方に進出せば引続き「カブカーベン」に向い敵を急

 追すべし

六、第十六師団は東海岸道に沿う地区を先づ「リマイ」に向け前進す

 爾後引続き「マリべレス」方向に追撃するの準備に在るべし

( 以下省略 )


 八日、第六十五旅団は、一一〇〇三角標高一四九八・五高地を攻略、ついで一四〇〇にはリマイ山を攻略し、さらに追撃を行い夕刻にはリマイ山南方約二粁付近の地点まで進出した。

 第百二十二連隊第一大隊は、一五四二高地にある敵陣地を奪取すべく進撃し、左翼隊、右翼隊とあいまって、左側背より攻撃を準備し攻撃に向かうものの、敵は陣地を放棄して南方に敗走していた。もう敵に戦意は失われていると感じさせられた。


 第四師団はママラ川付近に陣していた米比軍を撃破し、夕刻にはリマイ川の線まで進出、永野支隊も海岸道方面から追撃して、夕刻にはリマイ南方三粁付近まで達し、二二〇〇にはラマオ付近まで進出した。

 陸軍航空隊は、飛行第十六戦隊が延七十三機出撃し、米比軍の退却部隊の車両群を攻撃して、自動貨車二十一両を破壊し、飛行第六十戦隊も延四十二機、飛行第六十二戦隊も延十八機を以て、米軍陣地を爆撃した。


 八日二二〇〇軍は敵に反抗する余裕を与えないように新しい命令を下した。

一、空中偵察に依れば東海岸に於ける敵の退却は「カブカーベン」及「リトルバ

 ギオ」に向い依然続行せられあり西海岸方面の敵も亦退却を開始せるものの如

 く「サイサイン」岬「マリべレス」北方地区を南走する自動車群あり「ラマ

 オ」「カブカーベン」間海岸道及「ラマオ」川「アモ」川間一〇〇〇呎曲線付

 近に敵防空火器配置せられあり

 「カブカーベン」沖「シシマン」湾及「マリべレス」湾には敵艦船多数碇泊し

 特に「シシマン」湾「コレヒドール」島間の往復は本八日午後以後漸く頻繁な

 り

 軍主力の追撃は極めて順調に進捗し本八日午後概ね「アランガン」川の線に進

 出し第六十五旅団は「リマイ」山を占領確保せり

二、軍は「マリべレス」に向う追撃を続行せんとす

三、第六十五旅団は前進を中止し主力を以て西海岸の敵に対する攻撃を準備すべ

 し 但し速かに一部を以て「マリべレス」山頂を占領確保すべし

四、第四師団は概ね十号道北側地区を「バニキアン」川右岸方向に向い敵を急追

 すべし

五、第十六師団長は永野支隊を併せ指揮し海岸道方面より概ね十号道南側地区を

 「バニキアン」川右岸高地に向い急追すべし

 歩兵第二十連隊を「マルヂカ」河畔にて軍直轄たらしむべし

     (以下省略)


 今回の命令ではバターン戦の中心だった第六十五旅団は、主力部隊は西海岸への移動を命じたことだった。米比軍の主力抵抗陣地は壊滅が近いことを意味していた。

 

 歩兵第百二十二連隊大隊砲小隊長の中西中尉の著述に興味深い著述があるので紹介する。

「六日朝、目がさめたあと、武装を解いたまま十メートルばかり下に下りて小便をすませ、また壕へ帰ろうとすると、すぐ隣の壕に、逃げおくれた敵兵が頭だけ出して、私の様子を見つめている。

 私もアラッと思ったが、手ぶらであるので、私の方へ来るように手まねきする。彼は小銃に包帯をなびかせて近づき、私の足もとに膝まずいて拝むようにする。これが本当の降参かと思った。

 必死の顔つきで、私にポケットから出した比島の金、ペソを渡そうとする。生命だけは助けてくれと哀願しているのであろう。あわれな気持になったが、捕虜として後送した。

 昨夜は、二メートルほど離れたところで私はぐっすり眠っていたが、彼は一晩じゅう心配で眠れなかったであろう。

 昼ごろになると、中隊のところへ、来るわ、来るわ、何とも手のつけようのないほど多数の捕虜が現れた。五、六百名ぐらいはいたであろうか。中隊の数の三倍ほで、しかもまだ戦闘の最中である。こんなに現われては、こちらが迷惑である。

 私は兵器を全部とりあげ、四列縦隊に折敷させて、手を頭の上にあげさせ、中隊の兵に着剣させて、勝手に動いたらすぐ銃殺する旨、片言の英語で伝える。こちらの方がかえって薄気味わるいくらいである」

(中西泰夫著「奈良兵団バターン攻略戦の苦闘」太平洋戦争証言シリーズ⑧所収 潮書房)


 九日、第四師団は〇七〇〇ラマオ川の線を出発し、一〇四〇バニキアン川右岸高地に向い追撃せよとの軍の命令により、同方面への追撃を実施し、随伴する戦車部隊は一三〇〇にマリべレスに突入した。主力は夕刻マリべレス東北バニキアン川右岸高地に進出した。

 第十六師団は永野支隊を吸収し、米比軍を追撃しながら二四〇〇にマリべレスに達した。


 九日〇六〇〇には永野支隊がカブカーベンに向けて進撃中、米軍の軍使が現れ、永野支隊長に対してバターン半島総指揮官キング少将が降伏する用意があることを伝えてきた。突然のことで永野支隊長は驚愕したが、軍使に対してキング少将自ら出頭して無条件降伏に応ずるよう伝えた。永野支隊長は軍司令部に対して幕僚の要請を派遣した。永野支隊は進撃を続けた。


 一一〇〇頃ラマオにて幕僚を伴ったキング少将が現れた。軍参謀の中山大佐が到着し、キング少将に対して「全米比軍の無条件降伏を要求した」が、少将はバターン半島以外の米比軍については権限外であるとしてこの要求は認めず、少将らは投降した。

 このキング少将の投降は、日本軍にとって予想外の出来事であった。まだまだマリべレス周辺の堅固な陣地が健在であり、コレヒドールと連繫して日本軍を悩ませるものとなるであろうと考えていたのだ。


 この日、コレヒドールのウエーンライト将軍は、

「バターン半島の日本軍の攻撃は、わが第二軍団の東部防衛線にまで達するほど成功している。第一軍団が救済のために攻撃したが、多くの兵力を失って失敗した。詳細な報告はもはや不可能である。おそらくこの状況はバターン防衛が終焉したことを示している」

 と報告した。


 日本軍は十日には各部隊に対して、キング少将が永野支隊に投降してきたことを報じるとともに、残敵の掃蕩に任ずるよう命令を下している。歩兵第百二十二連隊第一大隊が得た捕虜は六日には三名に過ぎなかったが、十、十一日の両日は約千四百名にのぼったのである。その投降した捕虜の数の多さに驚いたことであろう。第一大隊の総人員は十一日現在四百数名しか健常者はいない。三倍以上もいたのである。

 第六十一連隊の八日、九日の戦闘後の捕虜は、将校五十名、下士官兵七百七十九名である。

 戦闘後の連隊の人員が千四百十名程であるから、その捕虜の数はやはり多い。

 十日、十一日、十二日と第四師団、第十六師団、永野部隊はバターン半島の掃蕩作戦に移った。陣地より投降してくる米比軍は続々と予想上回る人数であった。見積りでは四万から四万五千の米比軍兵力がまだ残っていると思われてのだが、人数は七万を超えていた。さらに土民、一般市民もあった。


 後にまとめられた二月九日から四月十三日までの捕虜の数は七〇、三八〇名と記録されている。

 具合が悪いのはここバターン半島はマラリヤ病の巣窟みたいな場所であり、季節が四月となり不衛生も重なり、日本軍の中でもマラリア患者が発生しだしていたことだった。当然、食糧事情、衛生事情の悪い米比軍もマラリヤにやられ出した。

 日本軍医療部隊には特効薬のそれだけの人数分の確保はなかった。マラリヤの特効薬といえばキニーネだが、その数も限度があった。日本兵にもその塩梅であったから、なおさら捕虜に施す医薬品などあろうはずもなかった。さらにトラックなど機械化部隊がいなかったために、徒歩での歩兵部隊が主力である以上、輸送するためのトラックも不足していた。徒歩でしか輸送する方法はなかったのである。日本軍然り。米比軍然り。そこに追いうちをかけたのが、炎天下であった。日中が三十五度から三十七度ともなれば、栄養失調、水分補給なしでは、倒れる者続出があたり前となってしまった。その中にはマラリヤにやられた者もいた。米比軍、日本軍にとって、もはや悲惨しかない。サンフェルナンドまでおよそ六十キロ程の道のりだが、もうそれは地獄行きの道のりであった。監視する日本兵も限りがあるために、途中で脱走する捕虜もいたようであるが、日本兵もそんなことには構っておれない状況であった。


 三日から十二日までの第二次バターン戦における日本軍の兵士の損害は、戦死四百七名、戦傷者一、〇六六名にのぼった。


 大本営は四月十三日一六二〇発表した。

「比島方面帝国陸軍部隊は堅固なる要塞に拠れる米比軍主力を撃滅し、四月十一日バタアン半島を完全に攻略せり。総攻撃開始以来八日なり」

 軍は一ヶ月は攻略にかかるかもしれないと考えていたが、意外にも早く米比軍首脳部は白旗を掲げてしまったのであった。


 残るはコレヒドールの要塞島であった。

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