第三一話 マッカーサー脱出

 日本軍はマッカーサー将軍がバターンに引き籠って戦を継続する作戦の術中にはまり、陸軍としては開戦以来初めての苦戦に陥っていた。マニラの占領宣言は予想以上に早々に達成したが、バターンに撤退する部隊を見逃しても、そう長くは攻略にかかららにだろうと楽観視していた。

 一方、マッカーサー司令部は部隊の予想以上の善戦に計画の正しかったことを証明したが、バターンに籠った人数が予定よりも多く、それにもまして避難民が多数いたことが、予想外の出来事だった。弾薬と貯蔵糧食の不足が当初から考えられたことだからだ。米比軍の奮闘が長引けば長引くほど、その不足は目に見えてきており、割当量の間引きを実行しなければ、戦うことが継続できないと司令部は悩まされた。


 マッカーサー将軍と同じくコレヒドール島にあったフィリピンのケソン大統領には、アメリカではルーズベルト大統領、スティムソン陸軍長官、フィリピン弁務官との間で、ケソン大統領のアメリカへの逃避を協議していた。

 昭和十七年一月一日には、その提案がマッカーサーの元へ暗号電報で送られた。マッカーサーは参謀長らの協議をした結果、「大統領がコレヒドールに残留することが最善の道である」と結論したが、ケソン大統領の意志確認の必要もあった。大統領は比軍の閣僚たちの意見を求め相談した。その結果、マッカーサー司令部はワシントンに対し次のように返信した。

「ケソン大統領の避難はあまりにも危険が大きすぎる。バターンとコレヒドールは完全に敵に包囲されており、退出する手段は航空機か潜水艦しかない。しかし制空権と制海権は完全に敵側にある」


 ハル国務長官はルーズベルト大統領に対し、マーシャル参謀総長とキング長官の同意のもとに、ケソン大統領とその家族、そしてオスメーニャ副大統領が日本軍の手に落ちないよう留意すること。また状況の進展如何により、セイヤー、マッカーサー、ハートも同様の措置を講ずる可能性についての進言する書簡を送った。

 ルーズベルト大統領はこの書簡に対し、あくまでマッカーサーの意向を尊重すべき旨を伝え、セイヤーがこの点を最優先し慎重に行動することを求めた。マーシャルはケソン大統領らの脱出の件をマーカーサーに打電した。

 バターン半島では日本軍の本格的な攻撃が始まり、米比軍は善戦してはいても援軍がない現況では絶望的な戦いを継続しているだけであった。


 二月二日、マッカーサーはマーシャルに対し返信を送った。

それには、バターン半島が最終的に陥落した場合、またはコレヒドール島が包囲された場合、ケソン大統領とその家族、押すメーニャ副大統領、連邦政府閣僚の最終的な保護について問題が生じる恐れがあり、大統領一行の避難は、潜水艦を使用することを促し、具体的計画を質問した。

 マーシャルはこれに対してすぐ応え、避難グループの中にセイヤーとその家族、マッカーサー本人とその家族を加えるかという問題と、潜水艦による避難の日時については、情勢如何により避難作戦に影響を及ぼすであろうから、それについてはマッカーサーに一任するとした。


 九日、ルーズベルト大統領はスティムソン長官を介して、マッカーサーへ電報を送った。

「ケソン大統領と閣僚の避難が実施されれば、アメリカでは名誉とされ、大いに歓迎されるであろう。オーストラリア経由でこちらに来られるべきである。それはまた高等弁務官にも適用される。もし貴官が適切と考えるならば、セイヤー氏と貴官の家族にはこの機会を与えられるべきである。しかし貴官自身が状況によりその行動を決定しなければならない。このメッセージをセイヤー氏にも伝えてほしい」

 マッカーサー将軍は何日か協議に考えた挙句その結論を十一日にワシントンに宛てて返信した。


 マッカーサーは大統領からのメッセージをケソンとセイヤーに伝えたことを報告し、よき機会があるならば連邦政府の閣員と高等弁務官とその妻子を避難させたいと伝えたが、自分と家族は守備隊と運命を共にする決意であることを伝えたのである。

 ケソン大統領らの脱出は決定されたことを受け、ケソン大統領はコレヒドールの金庫室に残っている財貨のことをマッカーサーに告げ、マッカーサーは日本軍の手に渡らないためにもその処分を決め、その旨をルーズベルト大統領の承認を受けた上で、十七日に、

「金の延棒五本、銀の延棒一本、金塊など二六四個、一〇〇〇ペソごとの六三〇袋」を米海軍宛に発送したことの記録を報告したが、これがどうなったかは行方不明であるという。


 米軍は救出作戦を慎重に構え、当時フィリピン海域で哨戒任務についていた潜水艦ソードフィッシュ(サーゴ級潜水艦・艦長チェスター・C・シムス中佐)に脱出作戦の任務を与えた。開戦時マニラに在泊していたソードフィッシュは十二月九日に出港し、インドシナ半島方面に向い、十四日には陸軍輸送船香椎丸(八、四〇七トン)を撃破。十六日には陸軍輸送船熱田山丸(八、六六〇トン)を撃沈した。この撃沈は米軍が日本商船を沈めた初戦果であった。二十七日マニラに帰投したが、マニラ陥落が目前に迫っており、アジア艦隊潜水艦隊司令官ジョン・E・ウィルケス少将以下司令部スタッフを乗せてスラバヤに脱出した。一月十六日、二回目の哨戒任務につき、二十四日セレベス島マナド近海で特設砲艦妙見丸(四、一二四トン)を撃沈。二月二十日、マリべレス湾に進入し、日没後コレヒドール島にてケソン大統領一家等を乗艦させ、二十二日無事にパナイ島サンホセに到着した。ソードフィッシュは再びコレヒドール島に向い、今度はセイヤー一家三人を含む十一名を乗せ、オーストラリア西海岸フリーマントルに向かった。


 マッカーサーの「大戦回顧録」には脱出の順番が逆になっているが、事実はケソン大統領が先に脱出している。


 マッカーサー自身はあくまでコレヒドールに残る方針であったが、大統領やマーシャル参謀総長らはいかにしたらマッカーサーは脱出を許諾するか、知恵を絞った。残された時間は少なかった。早くしなければ脱出のチャンスを失ってしまう。


 ケソン大統領が脱出した翌日の二十一日、マーシャルは、ルーズベルト大統領がマッカーサーをミンダナオ島に移してフィリピン南部防衛のための新しい作戦基地を作ってもらうことを考慮しているとマッカーサーに知らせてきた。

 このこととは別に、オーストラリアのキャンベラで閣議が開かれ、マッカーサーをオーストラリアに移して新設の南西太平洋地域の司令官に任命するようワシントンに要請するという決定がなされた。この提案を受け取ったルーズベルト大統領は、マッカーサーに対しできるだけ早くミンダナオに向い、そこの防衛体制を安定させるとともに、オーストラリアに向かえという命じた親書を送ったのである。

 マッカーサー司令部の幕僚たちは、オーストラリアに兵員、武器が集められているのであれば、救援作戦を指揮しながらすぐにでもフィリピンに帰ってくることができると説得した。

 マッカーサーは脱出の決断をしなければならない時がきたことをひしひしと感じた。ただ、マッカーサーが悩んだのは、同行者の人選であった。

「家族以外に軍人十七人が同行することになったが、この軍人たちは将来のフィリピン解放に役に立つという点で選ばれたもので、その大部分はのちに南西太平洋地域司令部の幕僚となった。このグループの中には、いろいろな点で米国のために有用な将校ということで選ばれたロックウエル提督とレイ海軍大佐の二人に海軍将校もいた」

 その十七名とは、参謀長のサザーランド准将、参謀次長のマーシャル准将、技術工兵部長のケーシー准将、諜報部長のエーキン准将、砲兵部長のマーカット准将、航空部長のジョージ准将、人事部長のスティヴァース大佐、情報部長のウィロビー大佐、マッカーサー将軍副官のディラー中佐とハフ中佐、サザーランド参謀長の副官ウイルソン中佐、暗号解読部のシャー中佐、医務官のモアハウス少佐、フィリピン要人との連絡官マクミッキング大尉、サザーランド参謀長の秘書兼タイピストのロジャース軍曹、そしてロックウエル提督とレイ大佐であった。そして、マッカーサー自身とその家族三名、都合二十一名が脱出メンバーであった。


 問題は何を利用して脱出するかであった。考えられるのは、水上艦もしくは潜水艦を利用して脱出、途中で航空機を利用してオーストラリアに向かうという計画だが、問題はコレヒドールから脱出するには、潜水艦を利用した方が安全性は高いということだ。ケソン大統領の脱出も潜水艦であり成功している。隠密裏の作戦であればこそ、潜水艦が一番の最善策であった。とはいえ、日本軍の包囲網により米比軍の守備範囲は狭まりつつあった。まだ、この時は日本軍は第二次攻撃再開に向けて、戦力を補給増強中であり、戦闘も小康状態にあったわけだから、米軍にとって大いなるチャンスでもあった。

 米軍は脱出に向け潜水艦の手配を進めていた。しかし、マッカーサーは潜水艦でなくPTボートの使用を考えていた。PTボートとは Patrol Torpedo boat の略で、訳すれば哨戒魚雷艇、日本軍の艦種別でいけば魚雷艇にあたる。

 全長は約二十四メートル、排水量五十トン、二〇ミリ単装機銃一基、十二・七ミリ連装機銃二基、五三㎝魚雷発射管四基、爆雷投下台八基、最大速力四十一ノット、航続距離・最大速力で二四〇浬という、優れた性能を有しており、日本海軍はこの魚雷艇に関しては大いに遅れをとっていた。この当時四十ノットの速力を出すエンジンが製造できなかったのである。

 マッカーサーはフィリピン防衛にこのPTボートに大きな期待を寄せていたとも言われており、後のソロモン海域にて確約の場を広げていく。日本軍もその出没に悩まされる。特に有名な話が後の大統領となるケネディ中尉が指揮するボートが駆逐艦天霧と衝突して撃沈される話であるが、それは後に詳しく紹介したいと思う。

 

 なぜPTボートを選択したのかの理由について、副官のハウ中佐は、マッカーサーは閉所恐怖症であり、コレヒドールの地下トンネルで寝ることを忌み嫌っていたということから、潜水艦内の狭くるしいところに長時間滞在することは耐えられないと思ったからではと証言している。

 このPTボート使用が決定したことにより、海軍のロックウエル提督とレイ大佐が脱出組に加えられた。


 脱出方法が具体化し、脱出メンバーも決まれば、あとはその実行する脱出日を決定すること、脱出する航路の決定であった。PTボートが高速とはいえ、海上を何隻も移動していくのであるから、日本軍に発見される効率は当然高い。

 救援機の派遣は日時が決定されなければ、飛ばすこともできない。マッカーサーは米軍首脳部からの要請に対し、三月十五日頃に実施する可能性大と報告しているが、十八日と決定された。しかし、十八日は満月にも近く明かるすぎるために、逆に月明かりが少ない十一日に変更決定された。満月では高速で走るボートの航跡がわかりすぎるからである。

 航路も海岸から沖合五〇マイルほど離れて進むこと。沿岸から遠く離れれば、肉眼では発見できにくいこと。レーダーのない時代であれば視力に頼るしかないのだから、海岸から遠く離れることがベストなのだ。

 脱出計画の詳細は増田弘著「マッカーサー」(中公新書)に詳しく調査されているので、そちらをお読みいただきたい。 


 脱出に使用されるPTボートは四隻。PT四一号にはマッカーサーら八名。PT三四号にはロックウエル提督ら四名。PT三五号にはウイロビー大佐は四名。PT三二号にはエーキン准将ら五名が乗り込んだ。

 コレヒドール島は連日、日本の爆撃機の爆弾の雨と、重砲による射撃を浴びており、危険な状態が続いていた。マッカーサーの目には爆弾と砲弾により無惨な姿に変わり果てた大地を眺めていた。闇が周囲を包んでいた。微かな月明かりだけが頼りであった。

「午後八時三十分、四隻の魚雷艇は港の機雷敷設水域の入口に集り、四十五分後には爆音とともに飛出した。バルクリーの艇が先頭で、四隻目のロックウェル提督の艇がしんがりをつとめた。

 魚雷艇がミンドロ島へ向かって走りはじめると、海岸線に大きいたき火が転々と現れてきた。封鎖線を突破しようとするものがあることを知らせる信号だ。魚雷艇のエンジンの音を聞きつけたらしいが、PTボートの爆音は爆撃機の飛行音とまぎらわしいから、敵は明らかに勘違いしていたらしい。

 数時間は事もなく過ぎた。うねりが高まり、海が荒れてきた。激しい波が、小さい舟艇の薄っぺらな船体をたたき、視界はだんだん悪くなった」


 高速の魚雷艇はスピードを上げれば当然海面を滑るように進む。湾内から外洋に出れば、波のうねりを受けて飛び魚のように海面を跳ねるように進む。この種の船に乗り慣れていない、陸軍の将校は辛い気分を味わったかもしれない。

 途中で巡洋艦らしき敵艦を発見し、さては発見されたかと身構えたが、何事もなく過ぎた。針路を急遽変更し闇に紛れて通り抜けていった。


「波はますます荒くなり、私たちの小さい、古びた、まっくろな乗艇は大ゆれにゆれた。飛びちるしぶきはまるで猟銃の散弾のような激しさで、私たちの皮膚にたたきつけられた。

 私たちは波間に沈んでは、また山のような水の斜面をよじ上り、そしてまた反対側に落込んだ。魚雷艇はおもちゃのように翻弄され、一瞬中空に浮いて、いまにも横倒しに向をかえそうになったかと思うと、また動きはじめて前方へ突進した」

(ダグラス・マッカーサー著「マッカーサー大戦回顧録」

          津島一夫訳 中公文庫)

 四隻での航行隊形は崩れ、集合地点まで各艇がそれぞれ向かうことになった。

 苦労した航海の後、三月十三日午前七時ようやくミンダナオ島のカガヤンに到着した。到着した艇は二隻だけだった。

 マッカーサーの四一号艇と三四号艇であった。三二号艇は燃料不足のため、タガヤン島に残留。残る三五号艇は、かなり離れた場所をゆっくりと航行し、一行とはかなり遅れて午前十一時にカガヤンに到着した。脱出した二十一名が無事に到着したのである。


 マッカーサーは二隻の魚雷艇の全乗組員を集め訓示した。

「真に海軍にふさわしい航行ぶりだった。私は大きい喜びと名誉を感じながら、両艇の乗員に対し、きわめて不利な状況の中で勇気と不屈の精神を示したことにより銀星章を与える」 

 一行の乗る爆撃機四機が手配されていたものの、二機は到着せず、一機は湾内に墜落、一揆だけが到着したが、あまりにも古い飛行機で整備も悪く、地区司令官のシャープ准将はオーストラリアに引き返すよう命じたため、オーストラリアに行く飛行機便は一機もなかった。

 救援のボーイング二機が到着したのは、十六日の午後八時であった。マーシャルが依頼した最高の状態のボーイングであったが、実際は最悪に近いボーイングであったという。アメリカとてまだこの頃は機材が豊富でなかったのである。

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