第二八話 バターン戦闘中止

 第六十五旅団の損害大きく、それにも増して、応援部隊である第十六師団第二十連隊の二個大隊が壊滅したことは、軍司令部に打撃を与えていた。大本営自体もその情況を重く見ていた。


 南方の各方面に於いて、日本軍は快進撃を続けており、第一段作戦はほぼ終了し、第二段の作戦へ入りつつあった。南東太平洋方面に於いても、海軍との共同に於いてラバウル、ニューギニア方面への戦線の拡大があった。

 各方面が順調に進むなか、比島方面だけはマニラ占領までは順調であったが、其後全く暗雲が垂れ込めたように、戦線が膠着するどころか、比島作戦終了そのものが全く予想のできない状況であった。


 一月二十二日、参謀総長が皇居へ拝謁の折、陛下からバターン半島の戦況についてのご下問があり、杉山参謀総長は次のように奉答した。


「バタアン半島が、ちょうど小田原、箱根のような地形であるため、作戦の進捗は遅れております。兵力を増加するも地形の関係上これを用うる余地がありません。兵力については砲兵兵力を拘置しておりますし、第十六師団は、現に一コ連隊をマニラその他に残置し掃討に当らせております。従ってこれ以上の兵力増加も左程必要ではありません。

 もっともバタアン、コレヒドールが残るとしても南方作戦全体の障碍とはならず、むしろ志気上の関係が重視せられます。いずれにしても無益の犠牲を払わぬようにすることが必要と存じます」  (戦史叢書「比島攻略作戦」朝雲新聞社)


 一月二十九日、第十四軍は大本営と南方軍に対し、バターン半島攻略に関しての意見具申を行なっている。


  敵情判断及作戦方針等の件報告

バタアン半島北半部を攻略せる機会に敵情判断竝爾後の作戦方針其他に関し一括報告す

一 「マニラ」を放棄したる後「バタアン」「コレヒドール」に於て真面目の抵

 抗をなすべきは米比軍既定の方針なるものの如く「コレヒドール」及「マリべ

 レス」付近に相当の施設をなしつつありしは事実にして「マッカーサー」は十

 二月二十二日既に該決心を執れること諸事情により明なり

  而して第一第二軍団(第二十一、第四十一、第五十一師団主力及第九十一師

 団残部其他よりなるものの如し)を「ナチブ」山東西の地区に南部「バタア

 ン」軍団(第三十一師団其他よりなるものと判断す)を「マリべレス」山東西

 の線以南の地区に配置せるものの如く後者は未だ我と交戦せざるのみならず前

 者の大部も亦南部「バタアン」に撤退せり従って南部「バタアン」には尚相当

 の兵力を保有しありて今日までに於ける交戦の状況に鑑み其第一線部隊の抗戦

 力は未だ俄に軽視するを得ず特に南部「バタアン」は要塞地帯にして相当の平

 時施設しあるを予想せらるると其大部は「コレヒドール」要塞砲の火制下にあ

 ることとは地形の錯雑険難と相俟ち靭強なる抵抗を予期せしめらる所なり

  諸情報を綜合するに「マッカーサー」外米比軍政首脳は依然「コレヒドー

 ル」にありて号令しあること殆んど疑なし

二 「マニラ」湾口の開放は軍の任務に鑑み努めて急速を要するは十分自覚しあ

 る所なるも軍の現有兵力を以て短兵急に強襲的攻撃を行うことは前記敵情判断

 に照し必ずしも攻略日程を短縮する所にあらずと思考しあり(「ナチブ」東西

 陣地攻撃に於ける損害二、〇〇〇を越え就中幹部の死傷多く既に将校全滅し下

 士官の指揮する中隊尠なからず)故に寧ろ十分なる準備を整え一歩一歩地歩を

 獲得しつつ攻撃前進するを確実且有利と認めあり

  乃ち軍は此の方針の下に南部「バタアン」半島を攻略するに決し目下部署を

 変更し第十六師団主力(歩七大)を「バタアン」半島中部以西より第六十五旅

 団(歩五大)を同東岸より進めんとしつつあり

  爾余の歩兵三大隊は夫々北部呂宋、南部呂宋及「ダバオ」の警備に任じ「マ

 ニラ」の警備は専ら戦車隊、捜索隊、砲兵隊をして之に当らしむ

三 南部「バタアン」半島の地形は標高一四二〇米の「マリべレス」火山を中心

 とし錯雑険峻且大密林多く砲兵の攻勢的用法及戦車の使用甚だ困難なり従て之

 が攻略日程は俄に之を断定し難しと雖も北部「バタアン」攻略の経験より推定

 し敵首脳にして抗戦を断念せざる限り今後尚少くも二乃至三週間を要するにあ

 らずやと判断せらる

四 「バタアン」半島を喪失したる後敵が「コレヒドール」要塞に立て籠りて最

 後の抵抗を試むるか若くは「ビサヤ」諸島又は濠州方面に逃避するや或は又降

 伏を申出づるや未だ確たる判断の根拠なきも目下のところ先づ第一の場合の公

 算多しと判断す

               (戦史叢書、前掲書)


 この第十四軍からの上申で大本営も事態の深刻さを考えねばならなかった。第十四軍の死傷者と戦病者は多くその戦力は半減しており、兵力の増強が必要であった。

 第十四軍でも今後の作戦推移について二月八日サンフェルナンドの軍戦闘司令所で作戦会議が開催された。


 当時軍参謀であった和田盛哉少佐の回想録には次の様に記している。

「議論は、依然攻撃を続行する甲案と、一時態勢を整理し、増援兵力の到着を待って後図を策する乙案の二つに分かれた。

 甲案については、中山高級参謀がもっとも強く主張し、佐藤参謀(作戦)がこれに同調した。乙案については、前田参謀長と牧参謀(当初作戦主任、現在軍政)がこれを主張し、他の参謀もこれに同調した。

 乙案については、現状の戦闘力では攻撃続行困難であり、補充要員の到着、増援兵団の二月末の到着を待って、後図を策するというものである。

 この後図の意味は、攻撃を再興するのか、他方面の作戦を進めるのか不明であるが、多分にバターン封鎖、ビサヤ(中部比島)・ミンダナオ方面の戡定作戦を行なうというものではなかったと思われる。

 本間軍司令官はこの夜、乙案採用の採決を下した」

      (丸別冊・太平洋戦争証言シリーズ⑧所収

            和田盛哉著「第十四軍と比島攻略作戦」)

 

 第十四軍司令部はこの決意に基づき、第十六師団に対しては、バガックーゴーゴー川北方台地の線を確保して米比軍の反攻に備るとともに、部隊整理を行い爾後の攻撃作戦に備るとし、歩兵第九連隊第三大隊を軍直轄とし、歩兵第百二十二連隊を第六十五旅団に復帰させる。

 第六十五旅団はチアウエル川ークリサイ川北方の線を確保し、部隊を整理することを命じた。

 歩兵第九連隊第三大隊(菅野大隊)には、バランガ付近に陣して警戒に任ずる。

 これとは別に二十九日以来吉岡部隊(歩兵第二十連隊第三大隊基幹)がバターンで米比軍と交戦と続けていたが、反転命令より重軽傷者を抱えながら、かろうじて脱出に成功し十五日に連隊旗を奉じて第九連隊本部の場所に帰還した。生存者は三百七十八名であった。もう少し遅ければ、恒広部隊、木村部隊と同じ運命を辿ったかもしれなかった。

 各隊は補充兵、補充の武器弾薬などを待つことになった。

 軍は戦線を整理して後図を期するに至った実情を、参謀長名で大本営と南方軍宛に報告した。


『「マリべレス」陣地帯の攻略に就きては既に渡集参甲第十八号により報告せる所なるが敵は「オリオン」付近より「サマット」山北麓を経て「バガック」付近に亘る線を第一線とし大密林地帯に於て多大の日数と労力とを費し縦深ある築城地帯を構成し各般の施設を完備しあり而して前線に比島国防軍六七ケ師団を其後方に米人部隊を配置し(推定兵力総計四乃至五万)其砲兵は約百門を算し(相当数の十五榴級加濃砲を含みあり)其豊富なる集積弾薬と優良なる観測設備とを利用し要所に対し的確なる標定の下に昼夜を分たぬ砲撃を実施し我第一線及後方共部隊の行動を著しく妨害しつつあり又「マリべレス」山頂を中心とし環状並に放線状に自動車道を整備しありて軽砲戦車及自動車等を自由に移動せしめ且地形の慣熟を利用し我方兵力の不足後方連絡の困難なるに乗じ元来兵力に於て多数を占むる上に戦力の集散離合に於て著しく其優勢を発揮しあり

 又「マニラ」湾口より「バタアン」半島西海岸に亘る海面の制海権は寧ろ敵側之を握りたる状況にして之が主因となり我西海岸海上機動部隊は甚だしき苦境に陥り遂に之が引上ぐるの止むなきに至れり軍は「ナチブ」山攻略の余勢に乗じ二〜三週間にて成功すべき見込を以て「マリべレス」山敵第一線陣地の攻略を開始せるも局部に於て若干の成功を収めたる外上述の理由特に補給の困難、戦力の低下等に依り意外の損害を蒙り全般的の成功を収むるに至らず

 現下の状況に於ては此の儘攻撃を続行するも成功の見込少く且更に重大なる犠牲を覚悟せざるべからず最悪の事態に於ては比島作戦全般に重大なる影響を齎す惧無しとせず而して全島の戡定国防資源取得等に関する軍の任務に鑑み之以上の犠牲を払いて迄「マリべレス」攻略を続行するの適否に就きては更に検討を要するものあり他方敵の持久力に就きても目下已に相当の食糧難に陥りあるものの如く更に海上封鎖を強化すること等に依り相当の効果を期待し得る状況に鑑み軍に於ては茲に血涙を呑みて現在の態勢を整理し暫く戦力増強を図り爾後の攻撃の再興の場合に備うると共に併せて情勢の推移に応ずる適当なる施策を講ずる様決せらるるに至りし次第なり』

 

 第十四軍はバターン半島攻撃企図の放棄を表明した。バターン・コレヒドールは砲爆撃によって無力化する方針である。

 大本営と南方軍はバターン戦闘の行方について揉めた。先に比島中南部を平定し、そのあとゆっくりとバターン・コレヒドールを攻略する。

 第十四軍司令部は二月二十日再び幕僚会議を開いた。ただ一人中山高級参謀だけが、攻撃続行案を主張した。前田参謀長は牧参謀の歯切れの良い口調の論理で説くことで他の参謀の同意を得て乙案採用に向けて採決した。

 本間軍司令官はただ一言。

「シンガポールはすでに陥落、各方面とも順調に進展しているなかで、ただひとり、わが軍は苦難の作戦をつづけており、まことに残念である」

 と述べた。


 軍司令部は乙案採用の件を南方軍に報告した。

 その翌日、突如として前田参謀長の罷免の電報が届いた。そして、牧作戦主任参謀は軍政部付に、稲垣後方主任参謀も転出となった。前田参謀長の後任は和知鷹二少将が辞令された。

 軍司令部は細部報告に前田参謀長を南方軍に派遣する予定であったが、この辞令のために佐藤参謀をサイゴンに派遣した。佐藤参謀は南方軍総司令部の首脳陣に乙案採用に件を説明した。その説明が終わるや、塚田総参謀長は佐藤参謀を招いて米比軍撃滅を説いた。


「敵野戦軍を撃滅すべきことは、軍の根本使命であり、いまや主敵たる米軍の極東根拠地を覆滅することは、喫緊の要事である。米軍がバターンに蟠踞しているのに、軍政に力を入れても住民は服しない。バターン攻撃のためには、徹底的に兵力を集中し、ビサヤ方面には一兵たりとも割いてはいけない。南方軍としては増援兵力、資材をどしどし送る。準備を周到にして、バターンの米比軍に鉄槌を加えるべきである」


 この決意に佐藤参謀も翻意しないわけにはいかなかった。佐藤参謀は二十五日サンフェルナンドに帰還し、本間軍司令官に一部始終を報告した。本間軍司令官のバターン攻撃を決意し、作戦に備て準備怠りなく任務を遂行することを表明した。

 本間軍司令官は二十九日、南方軍宛にバターン半島の敵軍に対し三月中旬行動を開始する旨連絡した。


 渡集参一電第四五四号

一 軍の作戦方針左の如く内定せらる

 軍は海軍と協同し其全力を以て速かに「バタアン」半島及「コレヒドール」要塞を攻略し同地に蟠踞する米軍を圧倒殲滅す

      (以下省略)


 大本営はバターン半島の戦況の結果を受け、二月四日には第四師団に対し、比島方面への転用に際しての研究準備をすすめるよう内示した。そして十日には第四師団の第十四軍戦闘序列編入を発令した。

 その編制は次の通りである。

 第四師団

   師団長  陸軍中将 北野憲造

  第四師団司令部

   参謀長    陸軍大佐  吉田茂登彦

   作戦参謀   陸軍中佐  大石廣海

   情報参謀   陸軍少佐  小沼 潔

   後方参謀   陸軍少佐  古橋正雄

  第四歩兵団司令部 長 陸軍少将 谷口呉郎

  歩兵第八連隊   長 陸軍大佐 森田春次

    (編成 大阪)

  歩兵第三十七連隊 長 陸軍大佐 小浦次郎 

    (編成 大阪)

  歩兵第六十一連隊 長 陸軍大佐 佐藤源八

    (編成 和歌山)

  騎兵第四連隊   長 陸軍大佐 今村 安

  野砲兵第四連隊  長 陸軍大佐 井上辰三

  工兵第四連隊   長 陸軍中佐 平松順一

  輜重兵第四連隊  長 陸軍中佐 矢野頼義

  第四師団通信隊

   同  兵器勤務隊

   同  衛生隊

   同  第一、第四野戦病院

   同  防疫給水部

   同  病馬廠

 

 第四師団は通称「淀部隊」である。創設は明治二十一年五月である。司令部は創設時大坂城本丸に置かれていたが、其後二の丸御殿(紀州御殿)に移り、昭和六年大坂城本丸南東角に新庁舎が建設され移転した。第四司令部があったこの庁舎は頑丈な造りであり、空襲による被害も少なく、現在も改修されて平成二十九年十月『ミライザ大阪城』としてオープンし往時の姿をとどめている。建造物としては九十年の歴史を持つ、貴重な存在財産でもある。『ミライザ大阪城』のコンセプトは「大阪城と、いい時間を」である。(Miraiza osaka-Joホームページより)


 本間中将はこの戦間の合間に筆記したものがある。本間中将の当時の思いである。

「   今迄の事

一、我苦境に在る時敵は夫れ以上苦しい時だと云われるが成程と思う二月初旬の

 末期軍の攻撃頓挫して甚だ苦しい時マッカーサー将軍は二月九日頃本国に対し

 真珠湾以来最暗黒な時が来たと報告し更に二月十日バタアン半島の戦局は極め

 て悲観すべき旨報告して居る。

 然のみならず米陸軍省も亦比島に於ける米軍は其の陣地を保持し得る望みは極

 めて稀薄なりと述べている戦況意の如く進展せざる場合は常に思い出すべき事

 柄である。

二、敵情判断は敵が我が軍に取って最も好ましからぬ方策に出することを基準に

 して之が対策を考案する様戦術書を教えて居るか実際に於ては動もすれば己が

 希望する所を濃厚に織り込んで判断することが多く其の為失望するバタアン半

 島の敵は第一、第二陣地に於て最後の一兵迄戦うこコレヒドール島に退いて戦

 うか濠州又はビサヤ、ミンダナオに逃避を試みるか若くはいい加減の所で手を

 挙げるかもとより判らぬが我に一番不利の場合を考え之に対する心構えをきめて

 置く方が好くマリべレス、ビサヤ初頭に於ける飛行場整備雨季に備えるガソリ

 ンの整備コレヒドール及セブに飛行機組立職工の募集等の諸情報から見て敵か

 今にも手を挙げる様に見縊みくびらぬことが肝要である。

三、第一次上海戦で我軍は蔡挺楷将軍の陣地で引っかかった本事変では第五師団

 が山西省析縣付近で第十師団は台兒荘で又第百六師団は九江西南方馬鞍山で

 夫々引っかかってしまった原因は何れも敵を侮って不準備の儘いきなり突っか

 かった点にある様である。

 軍も此の点に関し貴重なる犠牲を払って体験を得た敵を知り己を知らば百戦あや

 うからずと云う孫子の訓を忘れて居るわけではないが人間は勢に乗ると敵を侮

 り易い傾向を生ずる慎むべきである。

四、不完全な準備を以て二十万分の一地図で強襲的にナチブ山東西の敵縦深陣地

 を奪取した強引に敵を土俵外に吊り出した形で今から思うとよくやったと思

 う。

五、日露戦役南山攻撃に於ける死傷者は約三千名で日清戦争の全死傷者数に匹敵

 する然し一日で敵の陣地を奪取した損害を減少せんとして躊躇すると却って反

 対の結果を得る場合が多い大なる戦果に大なる犠牲を伴う止むを得ないと思う

    今後の事

一、旅順は八月の第一回総攻撃以来四ケ月有余で落ちた難攻不落と称した永久要

 塞に於て然り野戦陣地たるバタアン半島の攻撃が成功せぬ理由がない香港やシ

 ンガポール要塞攻略部隊の出来たことが軍に出来ぬ筈はない密林は危介千万だ

 が準備さえ十分にすれば人智は克く天然を克服し得る

二、敵の兵力を少くし多く見積って五万此の中コレギドール其の他の島々の守備

 兵、患者バタアン東西海岸の守兵、特科部隊などを除き歩兵を二万五千と計算

 し二十五粁の正面に全部竝べたとするも一米平均一人である糧食に欠乏せる兵

 力が一米に一人竝んで居るのを突破するのは而く恐るべきこととは思われな

 い。

三、敵の兵卒は我が青年訓練、下級将校は我が大学校に於ける軍事訓練の夫々卒

 業程度と思われるが堅固な陣地に拠る防禦戦闘には十分役に立つ又米国に傾到

 せる比島青年将校及上級将校は抗戦意識も強く又空腹も強いられては居らぬと

 思われる。

 敵の銃砲弾は未だ相当あるらしい乱射乱撃の傾向がある。

四、我が四兵団が併列せられ二十五粁の正面に軍旗が十本竝ぶ砲数も十分あり特

 殊火砲も有余る程に配属せられ補給の施設も完備し密林征服手段も講せられた

 之が攻撃が成功せぬ訳がない。

五、空の絶対的権力之が偉大なる我が利点である敵の砲弾は激しく飛んで来る時

 は熾烈なる爆撃下に在る敵を想像するといいと思う。

六、一九一八年三月二十一日独軍は英軍陣地を深く突破して遂にアミアン迄進出

 した此の際独軍攻撃部隊の特徴は偉大なる縦長区分に在った敵陣地の縦深が大

 なればなる程攻者の縦長区分は大なるを要する。

七、先般マッカーサー将軍はジャングル内に於ける新戦法に就き本国に報告して

 居る之は我を引入れて後方を遮断することか、ハミガキチューブを押す様に引

 っ込んだ反対側が膨れることか其れとも道路を利用して穿貫先頭に兵力を集め

 る意味であろうか。

八、俘虜の言に依れば敵側は電流鉄条網を有すると云うか果して如何か有効なる

 二千ボルト以上の電力を何処から導いて来るか何れにせよ支柱に碍子の有無に

 依り之は直ちに判断できることである。    

「(アジア歴史資料センター)Ref.C14020648100、附録/第4 バタン半島作戦間に於ける本間軍司令官の手記(防衛省防衛研究所)」

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