第二七話 恒広部隊、木村部隊の全滅

 一月二十一日、木村支隊長は第二十連隊第二大隊の恒広中佐に対して編成した部隊を率いて「カイボーボー」岬上陸準備のために「マヤガオ」岬集結を命じた。二十三日部隊は集結した。


 竹作命甲第六十五号

   木村支隊命令       一月二十一日一六〇〇

                 於 バヤンダナ

一、「モウバン」付近の敵は完全に包囲せられ捕捉殲滅は近々あり

 左側支隊は敵を駆逐しつつ「ナチブ」山西麓「九九一」に達す、奈良兵団は

 「アブカイ」付近の敵陣地に対し一六〇〇攻撃を再興する筈なり

二、支隊は主力を以て当面の敵を捕捉殲滅し速に「バカック」付近の敵に対する

 攻撃を準備すると共に一部を以て「バカック」南方に奇襲上陸せしめんとす

三、歩兵第二十連隊第二大隊長恒広中佐は左記部隊を指揮し二十三日未明「カイ

 ボーボ」付近に上陸し「バガック」付近の敵の背後を攻撃し支隊主力の戦斗を

 容易ならしむべし

 特に一部を以て「マリべレス」付近より北上を予想する敵を阻止すべし

 糧食は四日分 携帯弾薬を成る可く多数携行すべし 

 爾今恒広部隊と称呼す

   左 記

 歩兵第二十連隊第二大隊(第七中隊、第六中隊(二小隊欠)

            (第五中隊(一小隊欠)

 歩兵第三十三連隊速射砲中隊(1/2 欠)

 歩兵第二十連隊無線一分隊

 工兵第十六連隊第二中隊の一小隊(二分隊欠)

 独立工兵第十連隊 坂上隊大小発各々四

 第一野戦病院の戦闘救護班一箇

四、歩兵第二十連隊長は無線一分隊を工兵第十六連隊長は工兵一小隊(二分隊

 欠)を第一野戦病院長は戦斗救護班一箇を二十一日二〇〇〇迄に現在地に於て

 恒広部隊長の指揮下に入らしむべし

五、独立工兵第十六連隊坂上小隊は「モロン」到着後恒広部隊長の指揮下に入る

 べし

 恒広部隊の上陸後は「モロン」に帰還し予の直轄となるべし

六、歩兵第二十連隊第六中隊の一小隊は「モロン」警戒隊となり「モロン」付近

 支隊補給基地の警戒に任ずべし

七、予は「バヤンダチ」に在り

      支隊長     木村直樹


 部隊の戦闘詳報も後日作成されたもので、その冒頭の文は悲壮である。

『「キナウワン」岬付近第二大隊主力の戦斗に於ては将校全員戦死し且戦場他と隔絶せし為「バタアン」半島全部の攻略成れる時期まで戦闘状況の詳細なりき』

 戦闘詳報は大隊の生存者及び米軍捕虜からの供述(ピヤールス准将、レイマカルティ中尉、ロバートケロバー大尉)、現地調査、戦場清掃によって得られたる情報をもとに作成された。


 恒広部隊が上陸する地点の地形は

『「キナウン」岬の海岸線は一般に約七、八十米の断崖迫り之を攀れば小起伏地なり、付近は「バタアン」半島特有の「ジャングル」地帯中特に甚だしき「ジャングル」地帯にして数米先を弁ぜず、且単独兵と雖も急速なる歩行は困難なり上陸点より約百米の地点を東西に急造自動車道路走る』


 恒広部隊はモロンを離れ南下したが、敵の小艦艇と陸上よりの照射砲撃で妨害を受けたが、二十三日三時には「カイボーボー」岬南方六キロの「キナウワン」岬に到着して、海岸から七、八十メートルの断崖を攀じ登って上陸、付近には敵陣地が存在したが、かろうじてこれを撃破して上陸には成功した。

 だが一方では一部の舟艇(第五中隊指揮班第二大隊砲及歩兵第三十三連隊速射砲中隊主力等)は暗夜の潮流と舟艇の故障により主力との連絡が途絶えた。一部は「ロンゴスカワヤン」岬に上陸せること明らかとなる)

 第六中隊は先づ頑強なる敵の抵抗を排除しつつ上陸して急造道路の線まで進出し、現在位置を確保し、第五中隊は上陸後第六中隊の右側に展開して、急造道路の線まで確保した。正午近くには急造道路より百メートルほど前進したが、米比軍の攻撃も激しさを増し、近距離に対陣した。


 翌二十四日一一二〇頃には米比軍は戦車五台を伴って攻勢をかけてきた。こちらには対戦車砲はない。犠牲者を出しながらもかろうじて一台を擱座させ、何とか敵を退却させた。夕刻になり、第六中隊を第五中隊に代わり右第一線配備とした。

 二十五日、敵は砲兵隊を進出させ、わが陣地付近に対し激しい砲撃を加えてきた。弾薬食糧が欠乏しており、一瀬少尉、高橋主計少尉らが補充弾薬糧秣を運んできたが、揚陸する独立工兵隊は敵の銃砲撃に妨害され、揚陸することが困難であった。

 この日までの死傷者は六十名に達していた。


 二十六日に至っても戦線には銃砲撃の音が鳴りやむことはなかったが、日本軍の弾薬は尽きかけていた。

 木村少将は恒広部隊に対して軍需品の補給と増援部隊の派遣を命じたが、思うように届けられない。

 二十七日、米比軍も日本軍部隊の規模がわからず、比軍第五十七連隊第一大隊の損害が大きく、新たに歩兵、砲兵が増強されたようであった。この間は敵の銃砲火も下火になったので、戦線の整理を行ったが、付近一帯を確認すると、敵の遺棄死体は三百を数え、戦車も十台を擱座させていた。しかし、この日までの死傷者の累計は八十四名となっていた。

 二十八日以降も戦線に変化はない。敵の攻勢があれば何とかこれを撃退し、また同じ事を繰り返す。米比軍は後方より新たなる部隊が加わるが、恒広部隊は増援もなく日に日にその人員は減少していくばかりだった。さらに食糧も乏しく、炊飯する事叶わず、僅かばかりの生米を口に入れてかじっているばかりである。月末まで同じ状況が続く。今はただ耐えるだけであった。


 二月になった。敵はまた新手を投入し攻撃をしてきた。二日には、こちらの速射砲の砲弾も弾尽き果てたが、三日には米軍のストリックラー少佐が戦死した。敵兵の屍も数多を数えたが、新手の敵の攻撃は限りなくように執拗に続いた。敵戦車も姿を表すが、我に対する砲もなく、肉薄攻撃する爆雷もなく、十字鍬と円匙ぐらいしか対する物もない有様であった。

 恒広部隊長は工兵隊に対し脱出して本隊に現況を報告すべく命じた。

 五日には、部隊には元気に戦える兵はほとんどなく、午前十時恒広部隊長は動けるもの全員に敵陣に斬り込む事を告げ、先頭に立って敵陣に斬り込んでいった。

 後にまとまられた恒広部隊の損害表はほぼ全滅を意味していた。

 参加人員は将校十五名、下士官兵四百十五名。戦死将校十五名。下士官兵三百八十七名である。


 一方、二十三日の上陸時に潮流に流され、さらに南部の「ロンゴスカワヤン」岬付近に上陸することになった。第五中隊等の一部は主隊とは逸れた形となったが、部隊は上陸を開始した。この事実が判明したのは後に米比軍が降伏したのちである。

 この地域は断崖絶壁であったために、よもや日本軍が上陸してくることはないだろうと配備部隊はなかった。

 上陸したのは以下の部隊である。

 歩兵第二十連隊

   第五中隊 横場中尉以下指揮班二十五名

   第二機関銃中隊 小隊長田中中尉指揮する一ケ分隊九名

   第二大隊砲小隊       以下全員三十八名

 配属部隊

   歩兵第三十三連隊速射砲中隊(第二小隊欠)三十一名

   独立工兵第十連隊の坂上隊(大発及小発各一艘)

   第一野戦病院の戦斗救護班


 第八舟艇(第一野戦病院の戦斗救護班)が機関故障で航行できなくなり、第五舟艇(第五中隊他)は第八舟艇の誘導に残り、第八舟艇が一時間後に応急修理を終え、両艇は主力を追ったが、暗夜と潮流とにより主力部隊と逸れる結果となり、黎明時にとりあえず陸岸に上がるべく決意し、第八舟艇は「ロンゴスカワヤン」岬に、第五舟艇は「ラピイアン」岬に上陸した。両部隊とも険しい断崖絶壁を攀じ登って岬突端付近を占拠した。この時点では、第五舟艇と第八舟艇との連絡は取れていなかった。

 第五中隊長の横場中尉は海岸沿いに北進し主力部隊に合するべく北進したが、途中敵の小部隊と交戦した。日没となったため、横場中尉は上陸地点に戻る可く反転した。


 翌二十四日、横場中尉らは一時頃に速射砲中隊の連絡兵とあい、中尉は兵力を合同させた方が良いと考え第八舟艇の上陸部隊がいる場所へ南下を始めた。

 一二〇〇中尉は機関銃小隊長の友金准尉に兵一名を連れて大隊本部へ連絡のために派遣した。

 二十五日〇六〇〇頃横場中尉率いる第五中隊は第八舟艇の上陸部隊と会合し、中尉が全般の指揮をとることになった。折から通報を受けた敵が攻撃を仕掛けてきたため、六百米ほど北方の高地に移動し応急陣地を造成し、敵部隊に射撃を加えた。敵部隊は前進を取りやめ、わが陣地前方の高地に陣地を構築しはじめた。

 二十六日からは一進一退の激戦と展開することとなったが、敵部隊はコレヒドール島からの砲撃と六一〇高地付近からの砲撃が集中した。敵は突撃はしてこないが、機関銃により猛烈な射弾を浴びせてきた。日本軍部隊は歩兵少なく、弾薬も乏しいため、夜間には敵兵の遺棄した自動小銃を鹵獲してきて、敵に反撃していた。

 二十九日には総兵力は三分の一にまで低下していた。

 三十日、弾薬もついに尽き果て、速射砲指揮官の日高大尉は最後の突撃を決意し、第五中隊長横場中尉以下は、突撃地点に集まり、機関銃の掩護射撃のもとに、一斉に突撃を敢行した。

 突撃といっても兵少なく、敵の反撃の前に兵士らは壮烈な最期を遂げた。将校四名、下士官兵九十四名全員が戦死した。

 こうして恒広部隊はほとんど潰滅したのであった。

 米陸軍公刊戦史によれば、

「米比軍の損害は、キナウアン岬方面において五百名、ロンゴスカワヤン岬方面において戦死二十二、負傷者六十六名であった」というから、日本軍の奮戦ぶりは目を見張るものがある。


 第十六師団は、急遽派遣した歩兵第二十連隊第一大隊を主力とする部隊を、恒広部隊の強化・掩護部隊として、同じように舟艇機動により進出させることにした。


 第一大隊は一月三十一日「バガック」北方三叉路付近に集結していたが一五〇〇時に師団命令を受領した。


   垣作命甲第一二〇号

    第十六師団命令    一月三十一日

                 オロンガボ

三、歩兵第二十連隊第一大隊(一中隊及機関銃一小隊欠、第七中隊の一小隊、師

 団無線一分隊、衛生隊六分の一、第一野戦病院の戦闘救護班一属す)は二月一

 日朝「マヤガオ」岬に於て乗艇し「カオス」岬南方海岸に上陸該地に在る第一

 中隊を併せ指揮し速に第二大隊主力に合すべし海上輸送のため独立工兵第十連

 隊第一中隊長の指揮する独立工兵隊を其指揮に属す

 師団情報所を第一大隊と共に同行せしむ

                (一部抜粋)


 二月一日一四三〇木村大隊は、小原中尉指揮の舟艇隊に乗船を開始し、一八二〇出発、護衛艦八重山と飛行機の掩護を受けて南下した。

 途中沿岸より探照灯の照射を受けて砲撃を受けるも被害なく二一四〇「カナス」岬沖の到着し湾内に突入するや三方向より銃砲撃を受けたため、確認すると上陸予定地点より二キロ南方であることが判明し、一旦引き返して六キロ沖合に集合し、装甲艇を以て上陸地点を偵察させた。

二三〇〇時ようやく第一中隊からの発光信号を発見し、それに向い舟艇を陸岸に進めたが、二三一〇頃満月下にあり敵機三機の襲撃を受けたが、これを回避した。が、進入に伴い敵より砲撃を受け始めた。さらには敵の水雷艇の攻撃をも受けたが、装甲艇がこれと交戦し、水雷艇は遁走していった。


 二日となり木村大隊は上陸を開始、第一中隊と連絡がついたのである。第一中隊は敵陣と対しており、上陸した第二中隊に機関銃一小隊を配属して、第一中隊の第一小隊と交代させた。

 第三中隊の一部と機関銃中隊の主力を第一中隊第二小隊が陣している第一岬陣地に向かわせ交代させ、交代した第一中隊の各小隊をアニヤサン川右岸高地にある第一中隊主力に合流させ。第七中隊の一小隊をアニヤサン川の川谷へ、第三中隊を予備隊として海岸付近に配置した。

 敵兵力は増加の傾向にあるようで、砲撃もますます激しさをましてきた。日本側に増援部隊が来たことにより、敵も警戒を増したのである。


 木村大隊長は、恒広部隊との合流を図るべく敵情地形の偵察をさせたが、米比軍の兵力は多く、第一中隊の正面には戦車三台を伴う敵部隊が攻撃をかけてきた。中隊は灌木を幸いに至近距離まで待った。身を挺して爆雷攻撃するしか方法はなかった。対戦車砲などないのだ。藤木軍曹以下は携帯地雷を抱いてその時を待った。迫る戦車に飛び出し携帯地雷(九三式戦車地雷)を履帯下に投げ入れた。爆発音とともに先頭の一台が擱座した。残る二台は退いていった。其後十時頃にも残る二台の戦車と歩兵が迫ったきたが、銃撃を加えると再び退却していった。

 木村大隊長は午後第二中隊の陣地を赴き、敵情地形をその目で確かめた上で、次の行動を決めていた。

 大隊長は、第一中隊と第三中隊で当面の敵と対陣させ、大隊主力は第二岬より「キナウワン」方向に突進して第二大隊に合流すべく企図した。大隊主力はその準備を進めたが、敵の攻撃は益々激化しており、第一中隊正面と北方よりの攻撃が熾烈であり、今夜は現態勢のまま徹することになった。

 四日早朝より第一中隊前面の敵部隊の動きが活発化し、敵は戦車十両を以て攻撃を加えてきたのである。対戦車地雷を用意し、手投げ火炎瓶を投擲して、この攻撃は防いだが、もはや第一中隊には地雷三個、火炎瓶数個しか残っていなかった。


 通信による師団とも第二大隊とも連絡は通じない。付近の戦況は全くわからない状況でもあった。やはり、恒広部隊との合流を早期に図らなければならず、その準備を進め、木村大隊長は大隊主力を率いて移動を始めた。

  米比軍はこの移動を発見し砲撃を大隊主力に浴びせてきた。大隊長は大隊砲を第二岬陣地に転進させて、敵火力を攻撃させた。


 五日になっても一中隊正面には必要に戦車が現出し、中隊の陣地前五、六十メートルから砲撃を加えてきた。死傷者が続出しはじめていた。敵部隊はさらにアニヤサン川谷に進入し、同右岸陣地にある部隊との連絡は遮断された。大隊主力も敵砲撃にさらされ動けぬ状況となっていた。

 六日も早朝より敵は攻撃を仕掛けてきた。砲撃の後に一中隊の前に敵戦車十両が現れ、三、四十メートルまで肉薄して砲撃を加えてきた。もはや一中隊に対戦車兵器なく、戦車の蹂躙に任せるしか無くなっていた。残った手榴弾を以て肉弾攻撃するしか方法はなく、敵戦車に飛び込んでいった。敵はわが肉薄攻撃に恐れをなしたか、退却をしていったが、敵歩兵部隊との距離は目と鼻の先にまで接近していた。


 大隊主力は恒広部隊との合流を図る可く敵戦線を突破しようとしたが、敵は数百の敵を以て攻撃をかけてきたのである。恒広部隊は五日には潰滅していたから、米比軍は今や木村大隊に攻撃を集中すれば良かったのである。

 大隊は死傷者が続出し、一時は包囲されそうになったが、夜間になり敵は日本軍の夜襲に恐れてか、攻撃は一時中断した模様だった。

 七日には恒広部隊方面よりの銃砲声は全く聞こえなくなり、恒広部隊は全滅したと判断せざるを得なかった。

 木村大隊長は決意を固めた。

「戦闘詳報」に曰く。

「大隊は拾数倍の敵に対し渾然一体突進し以て日本軍人の面目を発揮し敵中深く楔入以て任務たる敵の退路アリべレス山腹を遮断せん

即ち大隊主力を第三中隊の一部の占領せる第一岬高地に集結を命ず 朝来敵の砲撃益々甚しく敵戦車は第一中隊正面に執念深くも現出 之を撃退するも我死傷続出す

 同日日没を待ちて第三中隊陣地に転進すべく大隊主力(本部、第二中隊、機関銃一小隊、歩兵砲一小隊、師団通信)は第一岬を北上し前進をなすも「アニヤサン」川谷に侵入せる敵の為斜射側射せられ加うるに敵の砲撃の為行動意の如くならず 同夜は川谷付近にて対戦夜に入る」

「本日始めて通信(師団通信)通ずるも発信のみにして受信不能なり 左記打電し情況を報告す

 八時発信

 一、砲と戦車のため苦戦中

 二、第一大隊は玉砕せんとす

 拾時発信

 一、肉迫攻撃のみにては戦車攻撃は支え切れず遂に敵戦車我陣地を蹂躙す

 二、第二大隊は昨夜全滅せり

   本日迄の戦死傷約二百八拾名なり」


 第三中隊の位置に患者収容所を開設していたが、衛生隊は運びこまれる負傷者の激増に対し、薬も不足し、衛生兵も多く斃れ、治療することできずに死する者が出ていた。このため、衛生隊の木村少尉は三木大尉と相談して、動ける負傷者を後送することとし、富永軍医中尉以下十六名は、負傷者約四十名を鉄舟を修理して浮水させ、これに載せて海上に漕ぎ出して「バカック」方向に脱出した。このうち衛生兵たちは送り届けた後、前線に戻ってきたのである。


 八日、この日も終日に亘り、敵の銃砲火は衰えることなく続き、身動きさえとることができず、後方との連絡は全く不可能である。

 第三中隊と大隊本部との連絡は全く取れず、夜に入り第三中隊長はその一小隊を上陸地点海浜に転進させ、同地付近にある第七中隊の一小隊と連絡を取ることに成功した。

 九日、日出と共に、敵の銃砲火は飛び交った。昼間の移動は死傷者を増加させるだけなので、大隊本部は第三中隊の位置に集結すべく夜陰に乗じて敵陣を突破せんとしたが、敵火を避けて海辺より干潮を利用して海中を渡渉して第二岬において全部隊を掌握した。今後は北方方面に道を開く可く準備を進めた。

 第一中隊は集結したが、僅かに十数名にすぎず、将校は全員戦死し、中隊の指揮は畑中曹長が指揮していた。

 大隊砲部隊も肝心の砲は敵弾により命中破壊され、隊員は砲を分解埋没していた。

 大隊長は全員を第一岬台上に集合させ訓示を行なった。

「大隊は南方東方進出を断念し北方に強行突破し以て師団主力に合せんとす。各隊は至厳なる警戒裡に夜を徹す」


 十日、東北方への突進のために敵情地形を探索し、突撃も容易なように戦闘に必要な武器以外は整理して埋めるか毀却し、残った糧食は最期の食事と思い噛み締めた。

 日没後第三中隊、機関銃中隊が第一線部隊となり、第二中隊、第一中隊と続いて「シムイラ」川左岸敵陣地に対し突撃攻撃を行なった。

 敵兵力は益々増加の傾向にあり、約一コ師団の兵力があると考えられ、縦深陣地を造成し、砲兵と重火器とを以てわが突撃を阻止せんと猛烈に攻撃してきた。バタバタと敵弾にやられ倒れていく。もはや進むことも退くこともできず、その場でじっとしているしかなかった。


 二月十一日紀元節を迎えた。

「戦闘詳報」に曰く。

「本日の突撃奏功を念じ感慨無量なる祝日を迎う」

 そして

『未明大隊は第二中隊機関銃中隊第三中隊を第一線、第一中隊第二線とし第二回の突撃を敢行す、密林を縫い蔓を払い茨を切りて肉弾遂に「シムライ」川右岸陣地を突破す。

此の時大隊は紛戦状態に入り彼我の識別明ならず。

此の情況を見るや各中隊長は残存部下及付近にある他中隊の兵を合せ指揮し「受傷して歩行適わずば自決せよ 生きて恥を晒す勿れ 死而護国の鬼と化せん」各訓示し 率先先頭に立て敵陣に猛烈果敢なる突撃を反復 其の第二線陣地を奪取したるも第三中隊長は多数の部下と共に壮烈なる戦死を遂ぐ』


『此処に於て機関銃は之が最後ご銃身も熔けよと許り敵を制圧するも遂に弾丸尽くるに至る 依て機関銃中隊長公手中尉は「銃と生死を共にするは是れ吾等の本懐なり」と訓示す 而して大隊長は公手、西岡中尉以下数十名を指揮し猛烈果敢最後の突撃を決行し天晴れ皇軍の名を恥めず』


 公手中尉は第十八話にて上陸戦闘に於いて敵陣に突入した中隊長として登場している人物である。

 木村大隊長は副官の薮見中尉に命じて、水泳の達者の者と脱出してこの情況を本隊に伝えるべしとした。

 十六時、東方皇居遥拝し、天皇陛下万歳を三唱し最後の突撃を行い全員散華した。

 左第一線の第一中隊はまだ踏ん張っていた。中隊指揮官片岡曹長以下は、「シライム」川突入後大隊本部とは連絡が取れないまま、付近にあった各中隊の生き残りの計六十名ばかりを指揮して、ひたすら北方を目指したが、十六日には敵に包囲されこちらも全滅をする運命となった。

 木村大隊長の命を受けた副官藪見中尉は残存する兵と共に、折畳舟と筏を以て第一岬より脱出を試みたが、敵に発見され中尉以下大半が戦死した。

 バターン攻略後、調査の結果米比軍の損害は死傷者約七百と軍司令部は推定した。

 木村部隊は参加した人員は、将校二十二名、下士官兵六百六十七名。内、将校は衛生隊の二名を除いて全員戦死。下士官兵は負傷生還者は五十五名で、残りは戦死または生死不明であった。


 米軍の公刊戦史によると

「木村大隊長は、二月九日払暁、約二〇〇の兵力をもって逆襲を敢行し、戦線を突破し、主力と思われる約八〇名は北方に脱出したが、主抵抗線南方わずか一マイルのところで発見され、この掃討になお二日を要した。

 この方面における米比軍の犠牲は、戦死約七〇、負傷一〇〇名であった」と記録されている。


 木村大隊の戦闘詳報から見れば、この米公刊戦史も誤りがある。戦線を突破した主力と思われる部隊は、片岡曹長率いる第一中隊を主とする残存部隊であった。弾尽き食糧尽き戦うすべはもはや銃剣しかない日本軍を掃討するにまだ二日を費やすとは日本軍まさに恐るべしという戦いであった。

 バターン戦は一旦中止せざるを得なかった。

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