第二六話 木村支隊西海岸へ

 軍司令部は第六十五旅団のバターン攻撃が遅滞しているのを受け、十五日第十六師団の木村直樹少将指揮の第二〇連隊を基幹とする木村支隊をオロンガボに急行させ、現地で右翼隊として攻撃中の第百二十二連隊を木村少将の指揮下に入れ、西側からの攻撃を強化させることにした。

 常道ならば奈良中将の指揮下に入れ、東海岸への増強を果すべきだったろうが、何故が西側からの攻撃部隊を増援させた。これが後に大きな損害をもたらす結果となった。


 軍の会議でも、東海岸に回すか、西海岸に回すか議論する所となった。東海岸に使用すれば一挙に戦況を好転させることが考えられたが、西海岸は地形が悪く交通路がない。しかしその分敵の虚をつくことができると。

 しかし、結局は奈良旅団長が独自の部隊で攻略作戦を遂行したいという思いに押されてしまったのが現状であった。

 いくら二〇連隊が福知山編成で山岳地帯には強いといっても、日本とフィリピンの山岳と森林様相は全く異なったものであり、作戦遂行自体が無理難題であった。


 オロンガボにあった第百二十二連隊は、十四日はオロンガボを出発南下したが、前進するに従い、一帯は大湿地帯が広がり、満潮時には腰まで没するほどの泥海となった。ナチブ山の山塊が海岸までせまり断崖となっており、道らしき道はなかったのである。行動可能な部隊は、歩兵と機関銃部隊位で、山砲や歩兵砲などは移動は困難と判断できた。


 この時の様子を当時第百二十二連隊大隊砲小隊長の中西泰夫中尉はその著書の中でこう記している。

『モロンまでの行程は、大隊砲のとうてい前進できる地形ではないので、私は作戦主任の三好中尉に、この命令は実施不可能であるから、変更していただきたい旨申し入れる。

 三好さんは松山のときから兄貴のような仲で、遠慮なく何でもいえるからありがたい。

「それでは貴様はどうするつもりか」

 といわれるので、

「私は筏をつくって、海上をモロンへ行きます」

 と申し上げると、

「それなら貴様のいうように連隊長に話をつけてやるから、少し待て」

 しばらくして、連隊長からお呼びがあり、

「お前のいうように許可するが、一発も撃たないうちに沈没しないように注意せよ」

 さっそく、筏づくりにとりかかる。幸い兵のなかに船大工がいて、この兵に設計、施工および作業指揮をとらせる。オロンガボ町内のボーリング場から床板をはずし、飛行場よりはドラム缶を徴発する。

 この床板の上の板と下の板のあいだに十六本のドラム缶をサンドイッチのように挟み、針金で縛ったボードでしめたり、一日がかりで約畳二十畳ぐらいの広さの筏二艘をつくる。

 さて、翌十五日昼すぎ、二艘の筏にそれぞれ一コ分隊ずつ乗船した。砲身は分解して真ん中におき、車輪の歯止めをしっかり固定し、神様に祈る気持で出航する。櫓と櫂と天幕を利用した帆がたよりの、もちろん発動機もなければ、舵もない代物で、原始的な簡単なものである』

 (中西泰夫著「奈良兵団バターン攻略戦の苦闘」

       太平洋戦争証言シリーズ『戦勝の日々』所収)


 この簡単なもので何とか二十数キロある行程を二日半かかって上陸地点に到着した。上陸地点といっても、砂浜海岸があり、敵砲弾の炸裂している付近が連隊所在地と目星をつけて、斥候すると案の定連隊本部があった。

 十七日、第百二十二連隊は第五中隊を第一線として、椰子樹林の敵陣地を攻略したが、第一小隊長の須賀少尉が戦死した。

 引き続き第六中隊を第一線部隊としてモロン北側地区に進出した。十八日、敵の砲撃下の隙間をついてモロンの町に突入した。敵部隊は後方に退却し、モロンの町に集中砲火を浴びせてきた。夜間壕を掘って待機したが、地下水が満ちてきて全身ずぶ濡れであった。夜間中敵の砲撃は絶え間なく続き、第六中隊第一小隊長の井出少尉が戦死した。


 敵陣地はジャグル内に巧みに防衛陣地が構築され、砲兵により掩護されていた。第六中隊は海岸線の遮蔽物が少ない場所に展開しており、敵砲兵の射撃を受けて身動きが取れなかった。

 敵砲兵陣地の場所が不明であり、大隊砲で威嚇射撃をすると、お返しの砲撃が何倍も返ってくる状況であった。

 十八日、木村支隊の第二十連隊第二大隊が悪路の中を、モロン東方に達していた。


 再び中西中尉の著述から引用する。

『真夜中、三好さんに呼び出される。

「じつは連隊本部と第六、第七両中隊の連絡が途絶えている。貴様、第七中隊と連絡をとり、状況を報告してくれ」

 本部将校や予備隊の将校もいるのに、大隊砲小隊長の私にやらせるのは、筋ちがいの気もした。しかし、本部の空気がなにやら微妙な感じを受けたので、承諾した。さっそく観測班長と兵一名で、夜のジャングルに入り、捜索をはじめる。

 三時間ほどして、溝(深さ二メートル、幅四メートル、水深は膝まで)のなかに一列横隊となって敵と対陣している第七中隊を見つける。昨日の夕方、約百メートル前方の陣地から、不意に集中射撃を受け、戦死傷者十名ばかりを出し、この溝に退避したという。

 敵はジャングルに遮蔽されて、その陣地内の様子はさっぱりわからないらしい。少しでも頭をあげると、すぐに狙撃されるので、困っているとのことであった。中隊長もだいぶ悄気こんでおられる。

 私は負傷者がかわいそうで、中隊長に負傷者の収容を引き受ける約束をした。前面の敵に対する攻撃の打ち合わせも行なった。すなわち今夜中に、私の大隊砲小隊と機関銃一コ小隊をこの線まで出させ、黎明攻撃に協力することを決める。

 本部へ帰り、三好さんにそのむねを報告し、担架隊を準備してもらう。軍医も同行してもらうことにする。

 こうして大隊砲小隊と機関銃一コ小隊が一緒に第七中隊のところへ来て、負傷者の収容を行うと同時に、黎明攻撃の準備に忙しく立ちまわる。

 翌二十一日の黎明を迎えると、大隊砲、機関銃、軽機関銃、擲弾筒、小銃にいたるまで全火力をもって一斉射撃を実施した。大隊砲の零距離射撃ははじめてのことである。

 中隊長の「突撃に進め、突っ込め」の号令で、日の丸の旗を先頭に、喊声をあげて突撃する。敵はこの勢いに呑まれたのか、大あわてで退却し、難なく占領に成功する。あとには戦死者数名と兵器等が散乱していた。大成功である。

 兵隊さんは現金なもので、昨夜の沈んだ気分はどこかへ吹き飛んだ様子である。稜線上に日の丸が翻った』

 

 第百二十二連隊はバヤンダイを攻略し、マウバンに向けての進撃である。占拠した稜線上からは前面の地形がよく見えた。敵陣の方は密林に覆われ敵の姿は見えない。が、鉄条網が張り巡らされているのがわかる。

 西方では第六中隊がいるはずだが、いまだに連絡はついていない。連隊長はマウバン地区の敵陣地の攻撃を第二大隊に命じていた。


『しばらくして大隊長がこられ、

「中西中尉、いま連隊長から前方稜線に敵を夜襲せよとの命令を受けたが、どうしようかのう」

 との相談である。充分に準備して待ち構えている敵陣地にたいし、こちらは鉄条網の処置もしておらず、しかも前の平地は足をとられそうな水びたしのところである。夜襲の成功はほとんど考えられない状況である。

 この命令は犠牲者を出すだけで、中止した方がよいと思うけれども、いやしくも敵前における命令であるから、おろそかにはできない。大隊長も成功の見込みのないことは、充分に承知しておられた。

 私は思い切って、自分の考えを申し上げることにした。これは連隊長を欺すことになるが、つまり夜襲は実施するが、突入はしないというものである。百メートルほど前進し、そこで蛸壺を掘ってこもり、一晩中敵の方を射撃する。

 こうして、夜襲をしたが失敗したことにして、夜の明けるまでに引き返す。夜間のことだから連隊長に悟られることもあるまい。夜が明けたら、私の小隊と機関銃一コ小隊で、この陣地から適宜射撃して、連隊がまだここに釘づけとなっているように見せかけ、主力は東方山地を迂回して、敵の背後より攻撃するという作戦である。

 大隊長は私の案にすぐに同意されたが、いま考えると、大隊長も、はじめからそのように考えておられたように思われる。

 秘匿を要するので、第七中隊の新穂中隊長だけ呼び、極秘にこの案を説明し、偽夜襲を実施させた。壕を掘ってなかに入っていると、案の定、底から地下水が出て、寒かったのには往生したとのことであった。

(中略)

二十二日の夜明け前、作戦どおり第七中隊は引き返し、明けてから主力と共に山手を迂回する。残留したわが小隊と機関銃小隊は十一時四十分、予定の通り通信線をたよりに引き返し、夕刻に大隊本部へ無事到着した』


 第七中隊はこの後、マウバン陣地を背後より夜襲する命令を受け、中西中尉は、大隊砲小隊と機関銃小隊を率いて夜間に移動するよう命じられた。第六中隊とは未だ連絡が取れず、第七中隊は休むまもなく作戦にかられることとなった。


『二十二日午後十時、命令どおり第七中隊を先頭に機関銃小隊、大隊砲小隊の順序に稜線を降り、谷底の細い道を一列縦隊となって前進する。敵の背後に迫っているのであるから、静粛に行進せねばならぬが、大隊砲の搬送は石ころの上を引っぱるので、ガラガラと音をたてる。

 ひやひやしながら後をついていくと、突然、

「カムイン、カムイン」

 と米兵の呼ばわる声を聞く。さては敵に察知されたか、と思う間もあらばこそ、右の稜線から一斉射撃をくらった。第七中隊も機関銃小隊も伏せたままじっとしていて、何の処置もしない。

 私は最後尾より中隊長のところへ飛んでいき、このまま夜を明かしたら、谷間で全滅するよりほかないこと、早くここを脱出して、海岸線の高い稜線に進出することを進言する。陣地を構築すれば、敵は必ず瓦解し、わが勝利の絶好のチャンスである。まずは早々に脱出することにして、全火力で右の方の稜線の敵を制圧するように指示する。

 戦場の心理として、自分が懸命に射撃しているときは、おのずと勇気が出るものである。わが集中砲火により、敵の射撃は沈黙してしまった。この機会にすばやく脱出して、敵背後の稜線に進出することができた。先ほど射撃してきた敵は、何としたことか音さたなしである。

 すでに退却したのであろう。わが部隊が稜線で蛸壺を掘り、煙草に火をつけて一服していると、擲弾銃の猛射を受けた。連絡のとれていない第六中隊と同士撃ちとなってはいけないので、突撃喇叭を吹かせると、一段と強い猛射となる。やはり敵の射撃であったのだ。

 このとき、当番の脇坂兵長といっしょに浅い蛸壺に入っていたが、脇坂はここにいたら危ないから後ろへ下がりましょう、と飛び出した。私はいま出たらやられるから待て、と止めたのだったが・・・。

 脇坂兵長は、私の目の前で擲弾銃の直撃にあい、全身に負傷をおって、二時間ばかり苦しんで息を引き取った。雨霰の猛射のなかで、手のほどこしようもなかった。

 (中略)

 二十三日、夜が明けると、敵は前方海岸線の砂浜を蜘蛛の子を散らすように逃走していく。稜線から機関銃で連射すると、おもしろいように命中する。九十二式重機は性能が非常にすぐれていた。三十数名は倒したであろうか。

 こちらは樹木におおわれているので、わが稜線にわれわれのいるのを知らずにのこのこと登ってくる敵兵のいるのには、こちらも唖然とさせられた。マウバンの陣地もあっけなく落ち、敵は午前中に全部敗退した。 

 第六中隊とも連絡がとれた』


 一方第十六師団から応援に駆けつけた第二十連隊の第二大隊は、二十一日にルヤンダット付近に進出、マウバン方面に向かうと共に、バガック西北方七キロ付近の道路を遮断し、米比軍の自動者部隊を攻撃し、その二十三両を撃破する戦果を掲げた。

 しかし其後、木村歩兵団長は、第二大隊に対し、西海岸の挺身隊として海上機動を以て敵背後に上陸して、米比軍を包囲殲滅するよう命令を授けた。部隊は歩兵第二十連隊第二大隊を基幹とする恒広部隊が編成され、同大隊長の恒広成良中佐が指揮することになった。この件は次章について記す。

 

 第百二十二連隊は、バガックに向けて前進していたが、敵の

砲撃は正確かつ猛撃であり、道路上の行軍は不可能であり、必然的にジャングルの中を前進していった。敵の砲撃は避けられるが、山の谷に降り、尾根に登り、蔓や荊を切り開きながらの遅々とした進撃となっていた。途中二十五日夜に、大隊長の志摩茂好少佐は敵砲弾が近くに破裂した際に弾片により腹部に重傷を受けた。志摩大隊長は後送されたが、病院でなくなってし待った。

 連隊の兵員は日々砲撃による死傷者でだんだんその戦力を消耗していった。米比軍は弾薬不足に悩み始めていたというが、日本軍の弾薬消費に比べれば雲泥の差がある。日本軍は有効的な砲撃が主体であるが、米軍の砲撃はその地域一帯に砲弾を雨霰の如く降り注いで、その戦力を奪いさるという考え方である。事実その通りの如く日本軍兵士の死傷者は砲撃によるものが多かった。だが、日本軍は圧倒的に少ない兵力で攻め続けたのも事実である。


『バガックの敵陣地は、バガック河左岸の台上にあって、西は海に迫り、東はジャングルにおおわれた。バターン西海岸のもっとも堅固な陣地である。

 二十六日、第六中隊にこの陣地の攻撃命令が下る。連隊は、モロンより連日の攻撃によってかなり兵力を消耗しているため、砲兵の支援射撃なくして攻撃することは、至難のわざである。敵の陣地は急勾配の上で、ジャングルに遮蔽され、陣前には鉄条網が配備されている。

 わが攻撃前進の位置は、敵より眼下に見降ろされている。攻撃するにはバガックの集落を通り、バガック河を渡ってから、急勾配を登って突入せねばならない。陣前は遮蔽物がなく、猫の子が通っても全滅させられるような火網の配備がなされている。

 命令を受けた浅野中隊長は、連隊長にこのままの突撃ではとうてい成功の見込みはないとして、砲や爆撃の支援射撃を要求した。が、現状では望むべくもなく、やむなく、不満を抱いたまま決死の覚悟で突入し、壮烈な戦死をとげられた。

 多くの犠牲者を出すに至ったのはいうまでもない。攻撃は不成功に終わり、頓挫したのである。

 第二線の第五中隊長も戦死し、同中隊の桜木小隊長も頭部に重傷を負うなど、第五、第六中隊の戦力は激減してしまった。敵陣地攻略の目途もたたず、バガックに四日間釘付けとなる。まことにムリな戦闘をしたものである。

 やむなく正面攻撃を断念し、夜間、敵の猛射のなかを東方のジャングルに迂回する。夜間に敵の背後より攻撃することに決したのである。

 三十一日午前二時より、バガック北方の三叉路から東に迂回し、翌二月一日午前八時、約四キロ離れた地点に到着する。ジャングル内は十メートルの視界もなく、敵情はまったく不明である。

 翌二日午前二時ごろ、新穂中隊長は至近距離により狙撃されて戦死し、同行していた連隊長も危ういところであった。

 この日、連隊砲小隊は部隊によく追及してきたが、大隊砲と同様に活躍できそうもなかった。弾薬、食糧の補給もつかなかった。逆に敵はその兵力を増強し、砲撃と狙撃はますます威力を発揮する。

 敵第一線陣地の後方は、機動力の発揮しやすいように、交通網を整備している模様である。連隊の兵の体力の消耗はいちじるしく、アメーバー赤痢が蔓延し、下痢をする者が多くなった。腐敗した溜まり水を飲料としたためと思われるが、この水しかないのだから致し方ない』

 

 連隊の弾薬はほとんどなく、食糧また充分でなく、特に飲料水の欠乏により、河の水や溜水を飲んでしまって下痢になり、赤痢を発症するケースが増えてきたのでる。もはや充分な戦闘などできる状態ではなくなってきた。後方の第三中隊を尖兵中隊として第一線に出したが、これも敵の反撃により包囲されて孤立してしまった。

 二月五日、連隊長は、右第一線に第七中隊、中央に第六中隊、左第一線に第五中隊を展開させ、機関銃中隊は中央に配置したが、午後四時半になって攻撃は中止となった。第二大隊の各中隊長は全員戦死しており、小隊長が代理指揮をとっていた。そしてその戦力は各中隊とも定員の三分の一以下となっていた。さらに、食糧不足、弾薬不足により疲労は極限に達していたといってよい。

 第三中隊は包囲されたまま、全滅を待つしかなかった。弾も食糧もなく、結局夜陰に紛れて脱出を図った。命からがら連隊までたどりついたのは、十数名に過ぎなかった。


 第百二十二連隊の攻撃は完全に頓挫したのであった。バカックの敵陣地は天然の要塞の如く堅固であった。

 軍司令部は新たな戦力の投入が必要であると感じていた。

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