第二四話 米軍のバターン防衛

 バターン半島は、南北の距離が約五〇キロ、東西の幅が約三〇キロの半島で日本でいうと、伊豆半島の伊豆長岡から東海岸の伊東にかけての線の南側と同じ位の面積である。ただ、半島全体は密林に覆われ、北側にはナチブ山(標高一、二五三メートル)、南半分にはマリべレス山(一、三八八メートル)・サマット山(五四四メートル)が聳え、普段なら入るのを拒むような天然の要害である。

 米比軍の約八万がこの地域に立て籠り、できるだけの武器少量を運び入れ、防御陣地を構築して日本軍を待ち受けたのである。ただし、米軍の見込み違いもある。計画では三万前後の予定は二倍以上にも膨れ上がり、一般市民も雪崩込んでいたのであるから、食糧の不足はすぐ起きた。ルソン中央部には四年分の備蓄量があったのだが、それはほとんど運びきれないでいた。砲弾も日本軍に比べれば多くあったが、豊富ではなかったのである。


 「戦史叢書」に引用されている「米軍公刊戦史」のバターンにおける防御については次のようである。


「バタアンの防御は、正式にいえば一月七日から始まったのである。この日ウエーンライト少将は、バタアン防衛軍の西部地区における指揮を引受けて第一軍団長となり、東部地区部隊は第二軍団と改称され、今まで全バタアン防衛軍の指揮官であったパーカー代将が軍団長となった。

 またマリべレス山以南の半島南端部は勤務部隊地区に指定され、その防衛の責任はマックブライド代将に課せられた。そして両軍団とも、在コレヒドールのマッカーサー大将の指揮下におかれ、マッカーサー大将はマーシャル少将のバタアン司令部を通じて、作戦を密に監督指導した。

 バタアンの防御は、縦深にわたる防御として構想され、その配備は「付図第七」(省略)のとおりであった。すなわち、西地区のウエーンライト軍団は、第一、第三十一、第九十一の三コ師団に、第七十一師団の戦闘部隊、第二十六騎兵連隊ならびに野戦砲兵と七五ミリ砲の各種混成部隊が配属されて、総員約二二、五〇〇であった。

 主戦闘陣地の後方八マイルを隔て、ピラールーバガック道に平行して後方陣地が設けられたが、これは戦前の計画では、バタアン防御の主陣地であった。一月七日この線は、まだ完全に編成を終わっていなかったが、これに配置の部隊は、米極東軍予備のフィリピン師団(第五十七歩兵連隊欠)、戦車団および七五ミリ砲の一群であった。

 その他軍団および極東軍直轄砲兵は、前線を掩護し、かつ海岸防御に当りうるよう全地区に陣地を占領した。

 マックブライド代将の勤務部隊地区は、各種の部隊から成り、一月七日に編成され、警察部隊を内容とする二師団、師団司令部を含む第七十一師団の残余の部隊、航空部隊から編成した臨時歩兵部隊および海軍兵と海兵隊とで編成されていた。

 主戦闘陣地は、一月七日に占領されたが、第一、第二軍団間には両者を分離しほとんど通過不能のナチブ火山群があり、両軍団相互の有効な支援を不可能にした。かかる制約があるのにナチブ山陣地を選定したのは、後方戦闘陣地を構築する時間の余裕をえ、かつ、ピラールーバガック道による横方向の連絡を極力永く保持するため、ここで抵抗しなければならない戦略的必要性があったからである。

 一方バタアンにおける補給の状態は、最初から心配されたが、作戦の進むにしたがいますます悪化の一途をたどった。元来のオレンジ計画では、四三、〇〇〇人に対する六ヶ月分の補給物資が、開戦とともに半島に移されることになっていた。ところが、海岸決戦に関するマッカーサー将軍の命令で、この計画はゆがめられ、補給物資のバタアンに対する全面的輸送が開始されたのは、十二月二十三日に撤退の決心がなされてからであった。またその時までに給養人員は、四三、〇〇〇から八〇、〇〇〇に増加し、さらに避難民二六、〇〇〇が加わった。

 一八〇日の長きにわたる戦闘間、これだけの多人数を維持するに足りる食糧や補給物資を、戦争と退却の混乱のさ中の約一週間でバタアンに移すことは、不可能なのが当然であった。しかし輸送にはあらゆる努力が払われ、陸路と海路が併用されたが、結局一番不足したのは食糧であった。これがため一月五日には、早くも食糧を半定量とする処置がとられた」


 米比軍はバターン半島に立て籠って長期にわたり徹底抗戦を行うことが作戦の主要であったが、予定の人数の二倍以上の人員を収容することになり、食糧の備蓄量が一番の問題であった。砲弾などの武器はそれなり備蓄されていた。それが第六十五旅団に対する猛烈な砲撃を浴びせることができたのである。


 マッカーサーには有能な側近が集まっていたと言っていいだろう。


 参謀長としては、リチャード・サザーランド少将。サザーランドは、一八九三年十一月メリーランド州に生まれた。マッカーサーより十三歳年下である。イエール大学に進学後、州兵として徴兵され、一九一六年に予備役から陸軍少尉に任官。翌年大尉に昇進し、フランス戦線にて戦う。戦後、エリートコースに進み、陸軍大学を卒業後、陸軍省の作戦訓練幕僚を経て、一九三七年に第十五歩兵大隊長となり、翌年中佐に昇進。四十一年末にフィリピンの参謀長として大佐から少将に昇進した。「計画能力と実施能力とのコンビネーションをもった理想的な参謀長だった」との評価もあった。


 参謀次長はリチャード・マーシャル准将である。

 マーシャルは一八九五年六月ヴァージニア州に生まれた。サザーランドとは第一次世界大戦時、同じ第一師団配属で親しくなった。兵站部門の専門家でもある。

 ヒュー・ケーシー准将は、一八九八年七月ニューヨーク市ブルックリンで生まれた。成績優秀で十六歳でウエストポイント陸軍士官学校に入学。卒業後は技術部隊に配属されて技術を学び、港湾や河川の専門家となった。フィリピンでは水力発電や治水事業を手がけ完成させ、マッカーサーやケソン大統領から高く評価された。ケーシー麾下の工兵隊は、米比軍がバターンへ移動する際に、ダイナマイトを用いて主要な道路や橋梁爆破を担当し、バターン戦では爆薬で日本軍の戦車部隊を苦戦に陥し入れている。


 スペンサー・エーキン准将は、一八八九年二月ヴァージニア州で生まれた。ヴァージニアの陸軍学校を卒業後、歩兵将校として第一次大戦に参加。其後陸軍学校などを卒業後、通信部門に配属となったが、エーキンは暗号解読を担当していたため、詳しい経歴は未詳である。戦時中に日本軍の暗号解読に成功しており、その後の勝利に大いに貢献した。

 彼等以外にも十数人の主要メンバーが存在し、マッカーサーを支え、それは終戦まで続くのである。 


 一月十七日、マッカーサーは、ワシントンに宛てて情勢を訴えた。

「バターン・コレヒドール地域の食糧事情は深刻になってきた。ここしばらく私は口糧の半分で過ごしており、この事態はやがて兵士たちの体力の衰えを招くことが予想される。私のにぎっている限られた地域では、食糧は全く入手できない。私は、自分の指揮下にない海の補給線に頼りきっている状態にある。当司令部に必要な食糧の補給量は、それに要する船舶の量からいえば、きわめて小さいものだ。中型ないし小型船舶多数に食糧を積んで、各ルートを航行させるべきだと思う。フィリピンに接近して設けられている封鎖線はきわめて薄い。

 敵爆撃隊はすでにこの地域にはなく、南方へ移った。船舶が通り抜けられることは疑いの余地がないが、これまでのところ、この面での試みが全くなされていない。これは私には理解し難いことであり、この点についてフィリピン人をなだめることは、次第にむずかしくなっている。フィリピン人は何かを持込もうという努力が一向に行われていないことを、理解するのに苦しんでいる。この問題に対する当地の心理的な反応がいかに重大な意味を持つかは、いくら強調しても尽きない。この面で何らかの手を打たなければ、米国に対する反感が現れることも予想される。

フィリピン人は、失敗は理解できるが、補給物資の輸送という救済手段がとられていないことは理解できない、としている。彼らはこの地域に対する努力が欠けていることを大西洋ではるかに強力な封鎖線を突破して大がかりな補給の努力が行われ、しかも成功している事実と比較しているのだ。

 こういった現地民衆の反応は、やがて、兵士の間にも現れるかも知れない。空腹の兵士を操作することはむずかしい。現状を切抜けられるだけの少量の食糧を送り込むという努力を、オランダ領東インド諸島と米国から同時に行うことを私は進言する。

 日本軍の補給線は非常にのび過ぎている。日本軍のこれまでの成功は、日本軍の力を示すものではなく、抵抗が弱かったことを示すものだ。いま日本軍に攻撃のおどしをしかければ、ある程度成功することはまず疑いない。

 敵が封鎖線と称しているものは、容易に突破できると私は確信する。この封鎖線が真に効力を発揮できるのは、われわれが受身の態度で、それを事実として受取る場合だけである。次第に悪化している現状を処理するため、何らかの手を打たなければ、惨憺たる結果が起こることを、私は重ねて指摘する。これは単なる陸軍や海軍の戦略方式で計ったり片づけたりする問題ではなく、東洋全域に関係をもつ問題である」

    (津島一夫訳「マッカーサー大戦回顧録」中公文庫)


 米比軍はバターン戦当初、その陣地地形と巧みな砲撃によって日本の第六十五旅団を圧倒した。戦線は広かったが、集中砲撃により日本軍を釘付けにし、ジャングルの地形は日本軍の得意な突撃を自由にさせなかった。日本軍にとっては視界が効かず、気がつけば米軍陣地が目前にあった。そこで激しい銃撃と砲撃を受け、日本軍は手痛い打撃を受けた。

 マッカーサーの作戦は成功したのである。たた、不安だったのは食糧不足、水不足、砲弾不足であり、それがいつなくなるのかであった。

 ルーズベルト大統領からは、

「貴下と貴下の将兵のみごとな健闘ぶりに祝意を表する。私たちは誇りと理解とをもって貴下を見守り、貴下のことを考えている」

 と電報をマッカーサー将軍に送った。

 スチムソン陸軍長官は

「私たちはみんな、貴官に思いをはせており、貴下将兵の英雄的で巧みな戦いぶりに、将来さらに努力を傾けるよう元気づけられている」

 しかし、これらの粘り強い奮闘を称賛する声は送っても、米国首脳部は、英国と共にドイツを倒すのが先決であり、太平洋戦線は後回しにする思いから、できればマッカーサーにはできるだけ粘り強く長期間戦ってもらいたかった。

 かといって補給は皆無に近かかったから、いつまで持ち堪えれるかは全くわからなかった。


 エミリオ・アギナルド初代大統領は日本軍がマニラ占領後に日本軍への協力を決め、マッカーサーに対し降伏を求める書簡を送っている。


「私はあなたの忠実な友として衷心を披瀝し、私の同胞が危機に直面しているこの時に当り次のことをあなたに訴えたいと思う。フィリピンを戦火から救い、私の同胞たちが引続き平和と繁栄を楽しめるようにすることは、過去現在を通じての私の心からの願いなのです。日米間に現在の戦争が起り、その結果フィリピンが戦場となったことを私は非常に残念に思います。生命財産の損害は大きく、おびただしい数の家族が自分の家を追われ、飢え、災難その他あらゆる苦難を味わっています。橋、道路、鉄道、造船所、ドック、波止場、飛行場など高価な公共施設が破壊されました。

 個人の家でさえ灰になった例が幾つかあります。市民と現役の軍人とを問わず何百何千というフィリピン人が生命の喪失という高価な犠牲を払いました。私の同胞はフィリピンが米国旗の下にあったというだけの理由で、日本軍に対して武器をとらねばならなかったのです。

 いまや事情は変りました。フィリピンの大部分がすでに日本軍に占領されている現在、フィリピンの運命ははっきりしています。日本軍に対して戦闘を継続することは無駄であるばかりでなく、いま以上にフィリピン人の無益な犠牲をもたらすことになります。それはあなたの指揮下にある米兵たちに絶望的な戦いの継続を強いることにもなります。私の親愛なる将軍、あなたはフィリピン人の福祉を増進したいということをしばしばいわれ、私の同胞への愛情をしばしば表明されました。あなたは罪のない市民たちの生命と財産が不必要に失われることを防ぐため、マニラが非武装都市であることを宣言されました。私はあなたのフィリピンに対する愛情とすべての人に対する人道的態度を深く信じております。フィリピンのほとんどが日本軍に占領されているいま、なぜ抵抗を続けるのか私には理解できません。このような抵抗は米国人に何らの成果をもたらさないで、フィリピン人にさらに犠牲を強いるものであります。

 もしあなたが指揮下の米国人とフィリピン人の兵士たちに対して、私が信じているようにほんとうの愛情を感じておられるなら、人道的考慮に立って日本軍に対するこの無駄な戦いをやめ、フィリピン人ならびに米国人の生命財産をいたずらに失うことを避けるよう、あなたの古い友人の一人として心からお願いします。

 私はあなたの誠意ある友として、日本軍に対するこの無益な抵抗をやめることを、あなたに衷心よりお願いします。

 香港、ウエーキ島、グアムの防衛部隊が英雄的な抵抗ののち降伏したように、名誉とともに降伏して下さい。あなたの輝かしい軍の経歴には影響はありません。それどころか、人道主義は軍人としての勇敢さと相反するものではなく、あなたの人道的な気持は傑出したものとなり、深く感謝されるでしょう。

 日本は私たちに名誉ある早期独立を約束しています。日本の首相は一九四二年一月二十一日の議会で、日本は〝フィリピンが協力して日本の大東亜共栄圏建設計画を認めるなら、よろこんでフィリピンに独立を与える〟と宣言しています。

 われわれフィリピン人は独立を望んでいます。この戦争で破壊された平和をとりもどすことは、われわれの強い希望であります。私には、私の同胞およびフィリピンに住む他の人々の福祉以外には、何の動機もないことを理解していただけると思います。

 これは一人の軍人からもう一人の軍人への率直な訴えであり、私の真情を述べたものであります。あなたが心の奥底では、私同様に私の同胞とあなたの指揮下の勇敢な兵士たちの福祉について深く憂慮されているものと信じます。

 あなたの誠実な友、そして戦友からの、心からのあいさつとともに」


 マッカーサーはこの手紙の内容をワシントンに送り、マーシャル陸軍参謀総長は次のように示した。


「もしアギナルドが誠意をもってそのようなことをいっているのであれば、それは不誠意で何の価値もない約束にだまされているだけだということを示すことにある。われわれはフィリピン人の忠誠と英雄的行為をほめたたえることに宣伝の重点を置く」

(筆者註・東條英機総理大臣は昭和十七年一月二十一日の帝国議会冒頭演説の中にて「比島ニ関シマシテハ、将来同島ノ民衆ニシテ帝国ノ真意ヲ了解シ、大東亜共栄圏建設ノ一翼トシテ協力シ来ル場合ニ於キマシテハ、帝国ハ欣然トシテ彼等ニ独立ノ栄誉ヲ与ヘムトスルモノデアリマス」と述べている)

「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A07050037100、第79回帝国議会・貴族院議事録・昭和16.12.26~昭和17.3.25(国立公文書館)」

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