第十九話 米軍の防衛作戦と日本軍マニラ占領

 マッカーサー将軍は防衛計画を見直して、第一軍団に対してリンガエン湾からバターン半島の付け根までの広い中部平野で、次々と新しい防衛線へと後退しながらの持久戦術を取らせることにした。主な防衛ラインは五つの防衛ラインから造成され、第一はリンガエンの南方西はアギラルからサンカルロスを経てウルダネタのライン、第二はアグノ河に沿ってのライン。

 だがここでの防衛はアグノ河の橋梁部の破壊によって日本軍の機械化部隊の前進を遅滞させる程度のものしかない。問題は中部ルソンの第三と第四の防衛ラインであった。ここでどれだけ日本軍を食い止められるかが、米比軍主力部隊のバターン移動が無難に進かどうかの別れ道でもあった。

 米比軍が橋梁を爆破して遅滞行動に出ても日本軍の進撃は予想以上に早く、米比軍の防衛陣地は奮闘してはいるものの、耐え得る能力が低かったのも事実である。


 ウエンライト少将は第四線の確保強化を考え、第五線の防衛兵力を第四線へ振り向けて、第四線での防衛をギリギリまで確保するという方針だった。第四線を放棄撤退させれば、バターンへの入口となるサンフェルナンドまですぐそこであるからだった。部隊の移動の目処がつくまでできるだけ防衛線を確保することがポイントであった。その目処がたった十二月三十日に第四線の兵力は撤退行動に移った。

 マニラの極東軍司令部は二十四日午後コレヒドール島に移動し、アジア艦隊のハート司令長官も二十六日潜水艦にてマニラを脱出。他この艦艇もほとんどが南方に去った。潜水艦も月末までにマニラから脱出した。 

 米比軍の兵力の損害は明らかでない。「戦史叢書」にも捕虜の数は掲載されているが、戦死者は掲載されていない。

 

 ルーズベルト大統領は年末、フィリピンに対し次のような演説をおくっている。

『侵略者の日本人に対して、皆さんが勇敢に戦っているニュースは、すべての米国人に深い称賛の念を呼起している。米国大統領として、私はこの厳粛な機会に全米国民の気持を代表して皆さんにお話しする。

 日本の戦争指導者たちを徹底的に、かつ完全にうちのめすため、米、英、オランダ領東インド諸島、それに中国の人々はその能力と資源をささげている。この太平洋での偉大な戦いに当り、忠誠なフィリピンの人々は、重大な役割を果たすことを求められている。

 フィリピンの人々は、その役割をきわめて勇敢に果してきた。今夜もそれを果している。大統領として私は、フィリピンの人々がいまやっている戦いに、心からの称賛を表明したい。米国民はフィリピンの人々がいまやっており、これからもやり続けようとしていることを、永久に忘れないでしょう。

 私はフィリピンの人々に、フィリピンの自由を取返し、フィリピンの独立を達成して、それを守ることを厳粛に誓う。米国のありとあらゆる人的、物的資源が、この誓いを支えている。われわれは偉大な共通の目的に従事している。私はフィリピンの男も女も子どもも、一人残らず、それぞれの任務を果すことを頼りにしたい。われわれも、われわれの任務を果すでしょう。』

    (前掲、「マッカーサー大戦回顧録」より)


 第十四軍司令部は、「マニラ」の非武装都市の宣言があった二十七日夕刻、一挙にマニラを攻略すべく各部隊に対し命令を下した。

 軍が其後の情報収集によって二十九日朝までに得られた情報は次のようであった。


一、二十六日カルメンの戦闘で捕獲した第二十一連隊第一大隊長らの尋問の結 

 果、米比軍はタルラックーカバナツアンの線ウを重視している。(これにより

 米比軍がこの線を保持している間はマニラを保持するが、この線が破れればバ

 タアンに撤退するのではないかと判断された)

 (註・この防衛線が米比軍の第四線で最重要防衛線であった)

二、マニラ市は、二十七日非武装都市として宣言された。

三、第三軍管区の全軍需品をバタアン州のカブカーベンとマリベレスに集結中。

四、イバおよびサンマルセリノにあった第三十一師団はマリベレスに向かい移動

 した。

五、第三軍管区司令官の全指揮下部隊は、在マリベレス第三十一師団長の下に派

 遣された。

六、マリべレス西方六キロの地点に、兵営設置が着手された。

七、比島軍司令部はマリべレスに移動しているようである。

八、米比軍の有力部隊がバタアン半島に逃げ込む形勢はいよいよ顕著である。 

 (飛行機偵察)


 航空主任参謀である秋山紋次郎中佐は、カルビット橋梁を西進する輸送部隊の情報を知り、軍主力でこの米比軍を捕捉攻撃すべきと力説した。しかし、他の参謀らは、軍に与えられた任務からして適当ではないと主張していた。あくまでマニラ占領が優先すると。だが、とりあえず、

  マニラ攻略に全力を傾注する。

   と、

  一部部隊をバタアン半島方面に対する攻撃準備に着手する。

案が提案された。上島支隊にバタアン半島方面の探索を命じる案であったが、結局はマニラ占領に関しての兵力削減は、米比軍の防衛ラインの奮闘で、更なる部隊の存在も懸念され、全軍挙げてのマニラ占領と決定した。

 陸軍部隊だけでなく、陸軍飛行集団による攻撃も考えられたが、こちらも第十四軍のマニラ攻撃の支援に協力することに決めていた。


 三十日、第四十八師団の安部部隊は、その一部を以て未明のカバナツアン北方からパンパンガ河を渡河して〇七〇〇にカバナツアンを占領、さらに南進して夕刻までにはガバンに進出していた。その他の主力は、タルベラからデルカルメンに向い迂回し、午前中に数百からなる米比軍を撃破して、一二〇〇にサンタローザ付近のパンパンガ河右岸に進出して、渡河の準備を進めた。


 菅野支隊は、〇一〇〇タルベラ発タルラックにムカいい、ザラゴサ付近で米比軍を撃破し、夕刻にはラパズ東方に進出したが、橋梁が爆破されていたため、修理完成まで足止めされた。


 上島支隊は、三十日タルラックに向い、同地付近で戦車と砲を有する数百と思われる米比軍と交戦し昼過ぎにはこれを敗走させたが、支隊長の上島大佐が戦死した。このことは前にも記した通りである。

 この日になり、軍司令部は米比軍のマニラ方面からの撤退に気付き、部隊の一部を以てバタアン半島の頸部に向けて攻撃の準備を命じた。命令は遅きに失した。


一、飛行集団は、明三十一日、タルラックおよびマニラ方面からバタアン半島に

 向かい退却中の敵を攻撃するとともに、ルバオ以西の地区において橋梁を破壊

 し、敵の退路を遮断するに努める。

二、第四十八師団は、有力な砲兵を有する少くも歩兵一コ連隊を基幹とする部隊

 を、すみやかにサンフェルナンドを経てグアグア付近に進出し、攻撃の目的を

 もって当面の敵情地形を捜索する。

三、上島支隊は、エンゼルス付近を経てポーラック南側地区に進出し、攻撃の目

 的をもって当面の敵情地形を捜索する。


 昭和十七年となった元旦、第四十八師団はマニラ包囲の態勢を取るため前進を開始し、マニラ市街に入る準備をしたが、マニラ市内から立ち上る黒煙が何箇所も見えた。米比軍の姿はほとんどなく、当然反撃も皆無だった。

 師団長は捜索隊を市街地に向けた。市内は無秩序状態で略奪放火により被害を蒙っており、すぐさま市内へ入り治安回復する必要があると思われた。師団長は軍に対し電報を発した。


『軍の「マニラ」市を完全に保護せんとする切る希望は火災の発生により既に失われ兵団は要すればこの火災より「マニラ」を救出するの必要を認め主力を以て「マニラ」市に進入し「バシグ」川南側地区に兵力集結の企図を有す、右御指示を乞う、一月一日一〇四〇「バリウアグ」北方八粁に於て』


 軍司令部は前田参謀長以下参謀らにより幕僚会議を開き、速やかにマニラに進入させるか、師団は市街地外に留め、市へは軍使を以て開城させるか、議論された。それは非武装都市といっても、万一米比軍が存在していたならば、交戦に及ぶ必要が生ずるからであるが、議論の末、速やかにマニラ市内に部隊を進入させ、治安の回復に努めることとなった。

 第四十八師団はこの軍命令により、市内への進入を安部歩兵団長指揮の歩兵三コ大隊に制限し、二日一七四五にパシグ川を渡り市内へと進入した。

 田中部隊と菅野部隊はサンフェルナンドに向かっていた。上島支隊はマバラカットに進出した。


 南部にあった第十六師団は二日一八〇〇マニラ市内へと進入を開始し、市内の警備治安任務に就いた。


 米比軍のバターン半島への撤退を見逃したことは、後々の戦闘のことを考えれば、誠に悔いの残る汚点であった。大本営の作戦を受け、第十四軍の目標もマニラ占領であったから、後からああしておけばと言っても遅いのだ。

「戦史叢書」にその考察があるが、次のように分析している。


一 作戦計画の基礎となった一般的状況判断の誤りについて

 わが作戦計画では、ルソン島における日本上陸軍と米比軍との攻防会戦を、マニラ市を中心とする南北地区に予想し、その重点をマニラ市の攻略戦においていた。したがって、マニラの陥落は、わがルソン島における作戦の勝利と終結を意味した。

 右の判断は、従来、日本軍の戦争指導上、都市を政戦略上の要地として重視する観念と密に関連していた。例えば、支那事変において、われは中国の首都たる南京の占領をもって事変を終結させることができると信じた。しかるに事実は、彼が辺境の地重慶に拠って数年にわたり一向屈服せず、わが予想を全くくつがえすに至った。すべてこれらのこと、すなわち、敵を屈服させるためには、その野戦軍の撃滅を絶対条件とし、要地攻略などは必ずしも重大問題でないことは、比島の作戦でも十分省みられることである。


二 マニラ湾要塞に対する認識の不足について

 いわゆる「マニラ湾要塞」に対するわれわれの平時における認識は、すこぶる漫然たるものであった。われわれは、右要塞がいかなるもので、かつ、いかなる価値をもち、また、いかに防備されているかなどに関し正確な知識をもっていなかった。したがってわが作戦計画においても、マニラ会戦に勝利を収めた後は、マニラ湾一帯の地区を、手に唾きして取れるものと安易に考えていた。右要塞の核心であったコレヒドール島については、当初は余りにも小島であるのと、防備状況の詳細を知っていなかったため、不覚にも看過されていた。これを要するに「マニラ湾要塞」とは漫然と、同湾を取かこむ一帯の地域と考えられ、その中核は、むしろ、城塞としてのマニラ市街にありとされていた。

 マニラ湾口要塞の真の価値は、バタアン半島にいける幾多の悪戦苦闘を経て始めて了解された。もっとも、コレヒドール島一個についていえば、わが作戦計画の研究が進むにしたがい漸次認識を新たにされたが、他の三島については、開戦後においても認識すこぶる不十分で、例えば、フライレ島(軍艦島)については、作戦間わが航空偵察者から「米の一戦艦マニラ湾に進入しあり」との報告があったほどである。

 このような状態であったので、「マニラ湾要塞」の一環をなすバタアン半島の価値もすこぶる軽視されていた。参謀本部編さんの膨大な比島兵要地誌にも、同半島の価値については一言半句の記述なく、また二十万分の一兵要地誌図でもその兵要価値はもとよりのこと、一般的地勢についてもはなはだはっきりしなかった。


三 作戦開始時における状況判断の誤りについて

 第一線兵団からの報告によれば、米比軍の第十一師団、第七十一師団および第九十一師団の大部は、上陸後の諸戦闘により壊滅させられたはずであった。第四十一師団、第五十一師団もまた大部は潰乱し、その少数が辛うじてバタアン半島に退避したものと報告された。したがって、同半島にあって比較的損傷を被っていない兵団は、開戦直前ザンバレス州にあった第三十一師団、リンガエン湾にあって逐次後退した第二十一師団および米軍師団の計三コ師団と推定され、軍の情報参謀が万全を顧慮して判断したその総兵力は四万ないし四万五千に過ぎなかった。

 しかしながら、希望的観測に陥りやすい戦場の常として、われわれは、この第一線からの報告を鵜呑みにしこれに厳格な審査を加えるという責務を怠っていた。

 マッカーサー将軍のバタアン半島への撤収作戦はあざやかであった。

 このようにして、米比軍の大部がバタアン半島に向かいつつあることが明らかとなった時期においても、われわれは、同半島における作戦は、結局、残敵掃討戦の域を出ないであろうと軽易に考えていた。

 十二月二十五日から三十一日にわたる一週間は、実に比島作戦の運命を決する重要期間であった。遺憾ながらわが方は、非武装都市マニラへの進撃速度を誇ったのみで、米比軍撃滅の好機を逸してしまった。

 マニラ市の占領は、唯に空撃であったのみでなく、後述するように、わが勢力の分裂を招き、かえって思わぬ不利をもたらした。


四 米軍の戦闘遂行意志に関する認識の欠如について

 開戦時におけるわれわれの、米軍否米国人一般に対する認識ははなはだ不十分なものであった。われわれが、もし、米国の歴史、伝統および国民性などについて真剣な研究をしていたならば、作戦計画の立案にあたって、このような軽率な状況判断はなしえなかったであろう。すなわち、われわれは、米軍が比島で最後まで戦闘を続けることは疑問であるとし、抵抗の面目さえたてば、適当の時機に降伏するであろうと予想していた。そして、マニラ市のもつ政戦略上の意義は、この占領により、米比軍の降伏の期を迅速にさせることができるであろうと判断した。

 しかるに、米比軍のねばりづよい戦闘ぶりは、われわれの予想をはなはだしく裏切った。


 マレー作戦では事前に現地探索による調査が行われたが、フィリピン作戦では全くなかった。マニラ占領は予定より十日以上も早く完了したが、その結果フィリピンの完全占領は大幅に狂ってしまったのである。

 第十四軍と第四十八師団のズレがあったこともある。土橋師団長の回想によると、二日朝、軍の前田参謀長が土橋師団長の元を訪れた際に、前田参謀長に対しバタアンへ米比軍を逃したことを非難し、

『軍はなぜ私にバタアンに行けと命令しないのか」と詰め寄った。参謀長は、「いや、軍司令官もそのことを望んでおられる。師団の任務はマニラ占領であり、またジャワ作戦の準備もしなければならないので、土橋に要求しても承知しないだろうと言っておられた」との返事である。逆に土橋師団長は驚いて言った。

「何という遠慮だ。いやしくも戦場ではないか。必要とあらばそんなくだらぬことを言っている場合ではなかろう。よろしい、私はすぐ命令を下してバタアンに行く。ただし、あらかじめ承知しておいてもらいたいことは、ジャワ作戦のための整備はどうしても完全にせねばならぬ。したがって長くは無理である。一週間と予定して押せる線まで押そう。一週間、長くて最大限十日だよ』


 前田参謀長は命令を作り直し、バタアンへの進出を第四十八師団に対し命令したのである。マニラ占領が予定より十日ほど早まったのだから、第四十八師団も十日ほどであれば、動くことができたのである。だが、長蛇は逸したのである。


 当時参謀本部作戦課にいた瀬島龍三少佐は、その回想録「幾山河」の中でこう記している。

『比島作戦を展開中の第十四軍隷下の第四十八師団は比島作戦終了後、蘭印作戦に転用する計画であった。しかし、予想に反し、敵側主力(約八万)はマニラを放棄してバターン半島に後退し、そこに陣地を構えようとする状況であった。第十四軍の主任務は「マニラ占領」であったが、「バターン半島攻略」も大きな問題となり、大本営、総軍、現地軍の間で調整を要する事態になった。結局、第四十八師団は既定方針通り蘭印作戦に転用し、バターン半島攻略のため新たに第四師団などが増派された。

 こに問題をめぐり、作戦途中で第十四軍幕僚部の人事異動が行われ、本間雅晴中将は責任をとらされた。蘭印作戦、第四十八師団の抽出転用、バターン半島攻略の問題をめぐり、大本営と第十四軍が意思の疎通を欠いた結果でもあった。

 作戦要領を書く際、「特定地点の攻略」と「敵の撃滅」のどちらに主眼を置くかは、常に問題となる。比島攻略の場合、「マニラ占領か在比米軍の撃滅か」という問題であった。私は「マニラ占領」が政略的に重要であると判断し、「マニラ占領」に主眼を置いた作戦要領を書いた』

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