第十七話 リンガエン湾からマニラへ

 マッカーサー将軍は、新しい防衛計画をたて、第一軍団はリンガエン湾からバターン半島の入口までの広い平野で、防衛線を築きながら持久戦術をとる。第二軍団は、マニラの部隊も他の部隊もバターン半島に撤退させる。ここで日本軍に抵抗するという計画を立てた。


 「大戦回顧録」によれば


『きわめて優勢な敵に包囲される危険が刻々と迫っていたから、私は即座に動かねばならなかった。私はむずかしい問題をかかえていた。一連の素早い戦闘行動と阻止戦術を展開しながら、部隊を横すべりに西へ動かして、岩だらけのバターン半島とコレヒドール要塞に送り込むという仕事を、日本軍に北から退路を遮断される前にやってのけねばならなかったのだ。

 この問題で、いちばん大切な点は、戦術的隘路として有名になったカルムビットの橋を無事に渡ることだった。カルミビットは、サンフェルナンドのすぐ南にあり、そのサンフェルナンドは北ルソンからマニラに走る公道ともう一本別なバターンへと向う公道との接触点になっている』


 つまりは、日本軍が南下してくる北ルソンに向い、カルミビットの橋を渡り、サンフェルナンドで左折してバターン半島に向かうことだった。このサンフェルナンドという地名であるが、日本軍が上陸した地点付近もサンフェルナンドという場所であり、バターン半島との分岐する地名もサンフェルナンドという地名なので混同しやすい。時間との勝負もあり、米軍はバスやトラックなどのあらゆる輸送手段を使って物資と兵士を運んだ。

 十二月二十四日、マッカーサーはマニラにある司令部をコレヒドールに移すため撤退したのであった。日本軍がリンガエン湾に上陸したのが二十二日、ラモン湾に上陸したのが二十四日であるから、マッカーサーのマニラ撤退はいかに早く行われたかわかる。


 リンガエン湾に上陸した部隊は歩兵部隊は上陸後前進していたが、戦車部隊や砲兵部隊、糧秣などは荒天の影響もあって遅々として進まず、二十三日の日没になっても終わっていなかった。

 第四十八師団は機械化舞台でもあるので、自動車、戦車の準備が進まなければ、その機動力を発揮することができなかった。現地調達のバスやトラックを利用されたが、それはまた、友軍の爆撃機の誤認となり、事実左翼隊部隊は誤爆を受けて、約七十名の死傷者を出すことにもなった。

 軍司令部もバウアンに上陸したが、第四十八師団の資材遅延のために、今後の作戦指導をどうするかに議論が集まった。

 飛行機隊からの報告で、米比軍の車両部隊が北進中との情報が入っており、第四十八師団をこの米比軍に交戦させ対応するか、軍主力部隊の上陸を援護する方針か決断せねばならなかった。


 二十四日、中山高級参謀は第四十八師団司令部に赴き、師団の突進を控えるよう指導したが、土橋師団長は、戦線の状況を説明して心配御無用なることを述べて、アグノ河の線まで進出することを力説した。そして部隊を南進させ、田中支隊の先遣隊はビナロナン付近で砲兵を有する約三百の米比軍を撃破して同地を占領し、田中支隊主力はポソルビオ付近に宿営中の約一千名の米比軍を撃破して日没後ビナロナンに達し、さらに南進した。ビナロナンは北部ルソンの主要都市の一つである。


 二十五日、第四十八師団はアグノ河渡河点目指した。田中支隊と台湾歩兵第一連隊は、〇二〇〇にウルダネタ付近に陣を置く重砲を有する米比軍を攻撃し一二〇〇には同地の占領を果たし、田中支隊は日没後ブラシス付近のアグノ河畔に達した。捜索連隊も敵を撃破しつつ一九三〇にタユグ付近のアグノ河渡河点に達した。

 この日にようやくリンガエン湾の揚陸作業は終了を迎えた。


 第一輸送船隊で上陸した第四十七連隊は、二十二日午後アゴー北方海岸に上陸、付近に敵の姿はなく終結後二十三日未明南進を開始した。敵の集団による攻撃はないものの、散発的に狙撃を受け、戦死一、負傷一を出した。

 第三中隊の山内大尉は付近の掃蕩を決し、安間中尉は小隊を率いて村の東方地区、羽下少尉は小隊を率いて村の北方を掃蕩させた。

 一四〇〇安間小隊は村の東端にて竹藪内に十数名の比軍を認め攻撃してこれを殲滅したが、西山上等兵は手榴弾の破片により頭部に負傷した。一五二〇掃蕩終了後も両小隊は現地に留まり警戒にあたった。確認した遺棄死体は十六名で、捕虜にした負傷者は七名であった。

 一六二〇第三中隊は前進を開始し、二〇三〇「キャムプワン」に到着、ここで露営し、大隊主力の到着を待った。


 翌二十四日〇一〇〇第一大隊の集結は終わった。第一大隊長愛甲少佐は命令を下した。


   第一大隊命令   一二、二四 〇〇〇〇

              キャムプワン

1、敵状に就ては其の後新報を得ず、師団は「ボボナン」付近に集結する予定なり

2、大隊は先づ「ボボナン」に向い前進せんとす

3、第二中隊(一小隊)尖兵「ボボナン」に向い前進すべし

  出発の時期は別示す

4、各隊は左記行軍序列に依り尖兵の後方三〇〇米を前進すべし

        左記

 大隊本部 第二中隊 機関銃(ニケ小隊) 第一中隊

 第三中隊(以上自転車部隊)

 第二中隊 大隊本部(残部) 機関銃(二小隊)大隊砲小隊

 第一中隊 第三中隊(以上徒歩部隊)

 徒歩部隊は先任将校区署すべし

5、各中隊は自転車部隊徒歩部隊各其の半数を対空射撃部隊とす、対空監視を兼

 ねしむべし

6、警戒部隊は〇八〇〇撤収すべし

7、予は大隊本部の先頭を前進す

      第一大隊長    愛甲少佐


 第一大隊は一四〇〇時にキャムプワンを出発したが、途中「サンファビアン」攻撃を命ぜられ、一旦キャムプワンまで戻り準備を整えた上でマビラオを目指し、同地には二〇〇〇に到着。新たなる命令により愛甲少佐は命令を下した。


    第一大隊作命第一一号

      第一大隊命令     一二二四 二一〇〇

                   マビラオ

1、「マビラオ」西南方約三〇〇〇米付近に敵の兵舎並に砲台あり、其の守備兵

 力未だ明かならざるも少くも二、三百に過ぎざるが如し

2、大隊(第二中隊欠 第九中隊山砲第一中隊師団通信連隊通信各一ケ分隊属

 す)は明黎明該兵営竝に砲台を奇襲奪取せんとす

3、藤原少尉は部下五名を以て将校斥候となり兵営北側数軒屋付近の湿地竝に同

 地付近より兵営北端に至る進路の偵察に任ずべし

4、中尾少尉は部下五名を以て将校斥候となり鉄道線路と道路交叉点付近の敵状

 竝に同地西北の湿地の状況を捜索すべし

5、山砲中隊長は山砲及大隊砲を併せ指揮し鉄橋南側付近に陣地を準備し所要に

 応じ明天明以後の攻撃に協力し得る如く準備すべし

6、第九中隊(一小隊)(機関銃一ケ小隊)は以前現陣地を確保し明払暁の攻撃

 に方りては山砲中隊の援護に任ずべし

7、師団無線下茂分隊は山砲陣地付近に通信を開設し随時師団主力と連絡し得る

 如く準備すべし

8、攻撃のための服装は軽装とし糧食は甲乙一日分を少くも携行すべし、背嚢は

 「マビラオ」に残置し各隊より三名宛差出し之が監視に任ずべし、該監視兵の

 大隊本部小野軍曹の指揮を受くべし

9、諸隊は〇二三〇迄左記行軍序列を以て道路上に集合し得る如く準備すべし

     左  記

第四中隊、大隊本部、第九中隊(一小隊欠)、第三中隊、機関銃中隊、第一中隊

⒑ 本夜間の合言葉は「ワシ」「タカ」とす

⒒ 予は暫く現在地にあり

    第一大隊長     愛甲少佐


 中尾少尉は命令により、原軍曹、安部上等兵、鹿島上等兵等を率いて将校斥候として「マビラオ」鉄路道路交叉点付近の敵状とその西側の湿地の状況を偵察し、帰隊して湿地帯は通過した以外の通行は困難であること、兵舎と思われる場所には敵兵は存在しないことを報告し、前方方向で爆発音を聞いたことを報告した。


 二十五日大隊は夜襲すべく兵舎に向かって進撃した。敵兵はいないとの報告だが、万一に備え慎重に行動し兵舎東南角を占拠し、前面の敵状をさらに捜索した。海岸付近に構築してある陣地の敵兵は退却した模様で誰もいなかった。

 大隊は「サンファビアン」に向かうに当って将校斥候を派遣し、案の定凡そ二〇〇名の敵を発見したため、攻撃前進を開始するが、敵は交戦することなく姿を消した。大隊はサンファビアンを苦もなく占領し、新たな目的地に向けて出発した。


 二十六日、第一大隊は連隊に復帰すべく「ボゾルビオ」に向けて進撃した。連隊の進撃は前方の敵状偵察のために度々停止したのと、橋梁の爆破によりその修理までに待機しなければならないのも現状であった。敵との交戦は少数で、大規模な激突はなかった。

 敵とぶつかったのは二十九日から三十日にかけてであった。


二十九日カナバツアンに向かうがその北方二キロスパンパンガ川にかかる橋梁の対岸に敵陣地はあった。当然橋梁は破壊されていたため、渡河点を探すために中尾少尉は兵を率いて斥候に出た。中尾少尉は小田伍長に分隊を指揮して対岸の敵状の偵察を命じた。ところが、敵はこの偵察に気づいたのか、砲撃を浴びせてきた。それも段々と激しさを増してきた。この砲撃のために小田伍長は大腿部を負傷した。

 一九〇〇頃には後方にて準備が整った砲兵隊からの砲撃が敵の砲兵陣地に対して砲撃が開始され、両軍の砲撃炸裂音が一帯に響き渡った。


 三十日に日付が変わった頃には敵は退却を始めたらしく、その砲声は静かになっていた。前方の敵陣の方には火災によるものか赤くなっていた。

 第一大隊は兵力を集結して渡河点の橋梁を目指した。中尾少尉指揮する第二小隊が尖兵として自転車で次の目標地カルメンに向かった。

 中尾少尉は黎明にはカルメンに達し、その東南方約一キロにある敵陣地を攻撃するよう命じられ、その敵陣地を攻撃した。

 敵は日本軍を発見すると迫撃砲と機関銃で反撃してきた。敵は百名前後と思われ、中尾少尉は右側背部に回り敵陣に突入して敵を撃退した。小隊は佐原軍曹以下三名が負傷したが、戦死者はいなかった。

 また、カルメンの東方二キロの地点にも約五〇名ほどの敵が存在していることから、山口小隊は敵陣前に展開して軽機と擲弾筒を以て敵陣地を攻撃、敵の機関銃が止むに乗じて突撃しようとするが、別方向よりする敵銃撃のため困難となり、山口小隊長はこの敵をまず制圧するために、第一分隊と擲弾筒を率いてこの敵に迫りこの敵を制圧。その機に乗じて佐藤軍曹は部下と共に、敵陣に突撃を敢行し敵を撃退した。この戦闘により佐藤軍曹と藤沢軍曹は戦死をとげ、渡辺上等兵は負傷した。敵の遺棄死体は十五を数えた。

 大隊は渡河してサンタローサに入ったが、ここで連隊命令により第一大隊は予備隊となり、連隊主力の後方を前進することになった。


 一方、リンガエン湾上陸で一番兵の損失を蒙った上島支隊は、二十五日「ダモルテス」に向い前進を開始した。二十六日「ダモルテス」から「サンファビアン」に向い、二十七日には「ダクバン」に到着。その間敵の抵抗は全くなかった。二十八日は「ダクバン」に滞在し、警備や兵器、被服の整理にあたった。そして、部隊にも情報として「米極東軍司令部が二十四日にマニラを脱出してコレヒドール島に退避したこと、そしてマニラを放棄した」ことが伝えられた。


 マーカーサー司令官は二十六日マニラを非武装都市とすることを宣言した。


「マニラの都市区域が航空または地上の攻撃で荒されるのを避けるため、マニラは軍事目標としての性格をもたない非武装都市であることをここに宣言する。間違いを犯す口実を絶対に与ないため、米高等弁務官、フィリピン政府およびあらゆる軍の戦闘設備はできる限り速やかに同市付近から撤退する。マニラ市政府は通常の生命と財産の保護に当るため、警察車で強化された警察力を、引続き維持する。市民は適法に構成されている行政当局に従い、通常の業務を続けるよう要請する」

        (前掲「マッカーサー大戦回顧録」より)


 米比軍の情報も、第十一師団主力、第七十一師団及び戦車砲兵隊、第九十一師団はそれぞれ壊滅的打撃を受けたこと、イバ付近にある第三十一師団も後退中であることがもたらされた。


 上島支隊はカルメン方面にある四十八師団と交代し、同地の橋梁付近を確保するよう命じられ、二十九日午前三時ダクバンを出発しサントバルバラに向け前進、六時半には同地に到着した。三十日には同地を出発しカルメンに向かった。

 午後、支隊には悲報が伝わった。

「上島連隊長が十一時頃タルラックの北方約二キロ地点において敵砲弾によって戦死す」

 ということだった。連隊長の戦死は、マレー戦でもフィリピン戦でも初の戦死者となった。

 支隊はタルラックに入り、付近の捜索をするものの敵兵の姿はなかった。支隊はタルラックで新年を迎えることになる。

 マニラは目前に迫っていた。

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