第六話 航空撃滅戦

 イバ飛行場攻撃隊は、高雄空の須田中佐率いる二十七機、鹿屋空の入佐中佐率いる二十六機、制空と護衛を担当するのが三空の五十一機、イバ飛行場攻撃は、敵の通信傍受により敵機が配置されていることはが判明し、急遽変更したものだ。クラークフィールド攻撃は、高雄空が野中少佐率いる二十七機、一空が尾崎少佐率いる二十六機、台南空が三十四機である。


 南下する台南空の零戦隊は、最南端のガンラビー岬を過ぎた頃、前方に双発爆撃機の編隊を発見した。当然敵であろうと考えた。坂井三郎氏は「大空のサムライ」にこの時の事を次のように記している。


「はるか前方の海上に、われわれは双発爆撃機の大編隊を発見した。さては、予想していた通り敵はやってきたな!しかし、幸い味方の基地は全機発進ずみのお留守である。せっかくの御入来にお気の毒千万と皮肉な冷笑も浮かんだが、はじめてみる敵機の姿に、猛然たる闘志が湧き上がってきた。

 しかし、新郷隊長は、まったくこれを無視して、わき目も降らずにきょうの目的地へ急いでいる。これは出発前に打ち合わせてあったことだが、万一途中で敵機に遭遇するようなことがあっても、全機がこのために道草を食うようなヘマはやらず、あらかじめ手はずを決められていた九機だけが攻撃することになっていたのである。

 私のその九機の中の一機として接敵を開始した。この間数十秒、敵機は刻々と接近している。

 いよいよ攻撃開始点に近づいた。ところが、まさに一撃というところまできて、私はびっくりした。翼に日の丸の陸軍機である。ほっとすると同時に妙な腹立たしさをおぼえた」


 この陸軍機はフィリピン爆撃を終えて帰途している重爆隊であった。ここで陸軍航空隊の比島攻撃に触れておこう。

 陸軍の第五飛行集団のうち第四飛行団は台湾南部に展開し、屏東、佳冬、潮州の各飛行場から出撃したものであった。当日朝、この地区は台南、高雄のような濃霧に覆われておらず、離発着は可能であった。

 小畑集団長は第八戦隊の九七司偵を飛ばしてツケガラオ付近の偵察を命じた。偵察機はツゲガラオに進入したが、敵機には遭遇せずに帰還したために、爆撃隊のみの攻撃でも可能であると判断し、第十八戦隊の双軽二十五機、第十四戦隊の重爆一八機を出撃させ、〇九三〇頃双軽隊はツゲガラオ飛行場を爆撃し、重爆隊はバギオ兵営、通信所を爆撃して、一二〇〇頃基地に帰還した。台南空はこのうち帰還する重爆隊に出会ったのである。このことは陸軍が海軍に出撃の報告していなかったのが問題であった。


 さて、陸軍の爆撃隊を敵機と誤認して本隊から離れた零戦隊は前方はるかに機影を見つけてゆっくり追いかけた。燃料を無駄に使用できないからあくまでゆっくりである。ただ、石井静夫三飛曹機ははぐれてしまい、結局台南基地に帰投した。


 陸攻隊と零戦隊は順調に飛行を続けた。島川一飛の手記によれば、


『長距離飛行の編隊は、途中のつかれを少しでもやわらげるために、開距離がふつうである。一時間半ほど経過すると、もう後にも先にも陸地は見えない。キラキラと照りつける太陽のためか、それとも昨夜の寝不足のためか、猛烈な睡魔がおそってくる。ポケットから熱糧食をとり出して口にいれてみるが、眠気はいっこうに去らない。

 あと一時間後には、生死がどうなるかわからないというのに、この始末である。そのう地、ふと気がつくと、小隊長機にぶつかりそうになっている。小隊長はうしろをふり向き、こぶしをあげて私をにらみつけている。やっと眠気から解放される。(中略)

 じっと前方に目をやると、遠くがかすんで見える。なおもよく見ていると、なんとそれは陸地ではないか。「いよいよ敵地だ」と、緊張感は極度に高まり、とたんに尿意をもよおした。

 用意しておいた座席横のチャート入れから小便袋をとり出して、シャーシャーと袋のなかに流し込んだ。終わると同時に風防を開け、機体にあたらぬように注意しながら機外に投げ捨てた。その物体は、霧状のものを噴射しつつ、視界外に消え去って行った。

 みるみる陸地が近づいてくる。ついに敵地ルソン島の北端にさしかかったのだ』


 台南空の制空任務の中隊は、徐々に高度を上げながら、陸攻隊の距離を縮め、九六式陸攻の前方に出る。敵地上空であり、上下、左右、前後を見渡しながら高度を上げていく。酸素吸入器の点検をして酸素マスクを装着する。かけたとたん、首の動きが不自由になるが仕方がない。しないと、視力の低下、思考能力の低下を及ぼすからだ。高度は六千メートルに達している。


 零戦隊はクラークフィールド上空に達していた。だが、上空に敵機の姿は見当たらない。よく周囲を見渡すが、全くいないのだった。

 それは、偶然でもあった。比島の米軍司令部は日本軍の真珠湾奇襲攻撃を知らされ、比島も日本軍機の襲来があると警戒態勢に入り、爆撃機は退避し、戦闘機は邀撃態勢で上空に上がった。事実、陸軍機が比島を空襲していた。これには邀撃が間に合わなかったが、新手が来ると踏んでいた。しかし、新手はなかなか襲来しない。濃霧のために出撃できないことを知らないことは致命的なものとなった。

 燃料補給のため一旦警報は解除され、戦闘機は飛行場に帰還していた。その隙をついた形で日本軍機は殺到したのだった。


 「大空のサムライ」の記述からすると、飛行場には大型、小型の数十機が並んでいた。あと五分で爆撃隊が飛行場爆撃に姿を見せる頃、飛行場から飛び立った小型機を発見したのだった。


「ひょいと左下に視線を転じた瞬間、やっぱりいた!敵はこっちに反航してくる。

 濃い緑いろの迷彩をほどこした小型機である。一、二、三、四、・・五機だ。それが一群となってやってくる。高度差は約二千メートル!

 連続バンクで味方機へ敵発見を知らせながら、何はともあれ増槽を落とさなくてはと、敵機から目をはなさず、左手の手さぐりで落下用の引手を力いっぱいグッと引く。ゴツンと手応えがあって、愛機は急に機速を増した。僚機母らもいっせいに増槽が落下した。(中略)

 しかし、この五機を攻撃するにしても、高度差が二千メートルでは、余りにも隔たり過ぎている。これでは戦闘にならない」

 

 坂井機は敵戦闘機に動きを注視しつつ、爆撃隊の到着爆撃を待った。

 台南空の掩護中隊の零戦に守られた陸攻隊が高度六千メートルで飛行場上空に進入してきた。


 「大空のサムライ」では一三四五時になっているが、行動調書によれば、一空が一三三五時、高雄空が一三三六時に爆撃したことになっている。

 さすがに練度の高い陸攻隊の爆撃は見事に敵機を火網に包んだ。クラーク飛行場は黒煙に覆われ、黒煙は四千五百メートルの上空にまで立ち上った。行動調書には、一空の爆撃成果は、六〇キロ爆弾三百十二発を投下し、大型中型機十六機、小型機六機の二十二機爆破、格納庫三棟炎上を確認し、その内一棟は弾薬庫らしく大爆発を起こしたとしている。高雄空は六〇キロ爆弾三百二十四発を投下し、四〇機を爆破したと判定した。


 爆撃を見届けた台南空の零戦は飛行場の機体を求めて降下して銃撃態勢に入っていった。


「飛行場一面をおおった大火災の黒煙に視界をさえぎられ、敵機はもちろんのこと、おたがいの顔も見えかくれしているような状態での銃撃である。だが、このころになってようやく、飛行場周囲の敵の機銃陣地が射ちだしてきた。

 こんなヒョロヒョロ弾丸にあたるかとばかり、私はかまわず高度を三百メートルに下げて、西から東に向かって飛行場の上空にはいった。

 いいかやるぞ!と列機に合図を送ると、私は、射ちもらされたB-17に向かって、真っすぐに突っ込んでいった。

 高度計がぐんぐん下がる。二百五十、二百、百五十・・・。

照準器から、B-17の巨大な機体が大きくはみだしている。そいつをぐっとにらんで、まだだ、まだだ、と私は自分を制した。(中略)

 敵との距離はすでに百メートル!頃はよしとばかり、私は思いきり発射把柄を押した。二十ミリの発射音が快くとどろき、発射の衝撃が愛機に伝わってくる。

 ダダダッ・・!と発射把柄を押しっ放しで、私はぐんぐん敵に近づいてゆく。高度三十、二十、十メートルで、私は敵機の頭上すれすれに駆けぬけて、左にひねりながら急上昇にうつる。振りかえって地上を見ると、私の射った二十ミリを存分に吸いこんだB-17は、翼根ふきんから、ぼーッと火を発している。

 つづいて二番機横川二飛曹も、私と同じ要領でB-17一機を炎上させたが、三番機本田三飛曹のねらったB-17は、命中弾をうけても燃え上がらない。(中略)

 私はふたたび高度を三百メートルまで下げた。さっきの容量で第二撃目にはいろうとしたが、念のためにもう一度ふりかえって後方を警戒した。

 と、太陽を背にして数個の黒点が見える。敵もさるもの、味方の全機が地上掃射にはいるのを待って射ちとらんとする計略である。

 まさに味方の危急!私は銃撃中止を列機に知らせ、大きく左に旋回して、スロットル・レバーを全開にし、速力を増しつつ反撃の機をうかがった。

 ところがその間に、敵は高度の優位をたのんで、いきなり反航戦をいどんできた。敵地上空での、相討ちはごめんである。底高度であったが、いままでに保った速力と、零戦の軽快な旋回性を利用して、私は左急旋回で敵の左翼下、つまりうちふところの死角へとびこんでいった。

 敵はさっきのP-40が五機である。(中略)

 うちふところへとびこまれて、気味わるく感じたのか、パッといっせいに右へ大きくひらいて、青白い腹を見せつつ急旋回にはいり、四機は天に沖する黒煙の中に姿を消してしまった。

 だが、そのとき逃げおくれた一機に対して、私はすでに右後下方にもぐりこんでいて、確実に、敵が右旋回してくる出鼻をおさえた。敵はあわてて反対に左へ急旋回した。

 これが彼の運命を決定した。彼も僚機と同じに右旋回で黒煙の中へ飛びこめば、あるいは逃げられたのかも知れないのだ。

 じつのところ、私も、敵機との相討ちを避けるために、むりな左旋回をしていたので、これ以上の操作は限界に近づいていたのである。

 ところが、そんなことを御存じない敵は、ひらりと大きく左バンクして垂直旋回で逃がれようとした。そのために敵機の腹が、私の目の前にさらしだされた。これでは射ち堕として下さいといわんばかりである。

 私は、敵が腹を見せた瞬間を的確にとらえて、左前方へ、操縦桿と左フットバーを極度に利かして、機首をぐいっとねじこんだ。

 このため敵機とのあいだに、約二百メートルの高度差がついてしまった。

 敵と同方向旋回、しかも敵の後下方、これはもう私の絶対優位である。敵は尻に食いついている私を確認するために、なおも左急旋回をつづけている。これが大変むりな操作である。その証拠には、翼が左右にビクビクと交互に急激に傾いて、まったく自転の寸前である。

 絶好のチャンス!私は機首を下げて、増大した気速にものをいわせて、一挙に高度差二百メートルを左旋回で回復すると、まったく絶対優位の追尾の態勢となった。

 零戦の軽快で柔軟な旋回性能は、難なくPー40を追いつめ、すでに距離四十メートル。敵機は照準器から大きくはみだしている。まったくの直接照準で、私は敵のわきの下に槍を突っ込むような気合いで、両翼の二十ミリと座席の七・七ミリを、この一撃とばかりに射ちこんだ。

 一瞬にして敵機の風防がふっとび、機体は大きく左へ一転、急速な錐もみ状態となって、煙も見せずに断雲をつらぬいて墜ちていった」


 坂井一飛曹の開戦初日の撃墜シーンである。


 同じ台南空の島川一飛の空戦シーンは、


「高度千五百メートルで一番機、つづいて二番機が残存のB17に向かって銃撃態勢に入った。私もあとに続くべく左に切り返そうとして、ふと前方に目を向けた。ドス黒い敵カーチスP40が、わが機を背にして上昇しているのが目にとまった。

 とっさに増槽の落下把柄を引き(実際には落ちていなかった)、銃撃を中止して、敵機に向首した。OPL照準器に敵機を捕らえる。

 射撃を開始しようとしたとき、ふと練習生時代に教員から教わったことを思い出した。敵機を射撃せんとするときは、必ず後方を見てからにせよ。でないと、敵があとにくっついているかも知れないからというのだ。

 私はとっさに後方に目をやり、敵機が追尾していないことを確認した。そして、思いきり発射把柄を握りしめた。ほんの瞬間である。曳光弾が小気味よく敵機に吸い込まれていく。

 訓練中の吹流しとは異なり、標的は大きい。曳光弾により弾着を修正しつつ、なおも撃ちつづけた。そのうち、敵機は左翼つけ根部分から白煙が吹き出し、それがみるみる黒煙をなって、機は大きく左に傾きながら地上に激突した」

    (島川正明著 前掲「戦勝の日々」内所収より)


 島川一飛は撃墜後、小隊長機、二番機を見失うが、定められたピナツボ山上空の集合点に向い、そこで二機を発見して合流し、無事台南基地に帰還した。


 台南空の戦果は、撃墜確実八、撃墜不確実四、衝突一、地上銃撃により炎上二〇、撃破五、燃料車一台炎上、ドラム缶二〇〇炎上と記録されている。損害は自爆一、未帰還行方不明機四機で中溝良一飛曹長、河野安治郎二飛曹、青木吉男三飛曹、佐藤康久一飛曹、広瀬良雄三飛曹が戦死した。被弾機は八機で内に小池義男一飛曹は、右眼失明の重傷を負いながら基地に帰還した。

 台南空の発射した弾丸は、二〇ミリが一九九〇発、七・七ミリが八六五三発であった。(帰還した機のみの集計)


 高雄空は一三三六時に二十七機で六〇キロ爆弾三二四発にてクラーク飛行場を爆撃し、地上撃破炎上四〇機の戦果を挙げた。一機が右発動機片舷飛行となったが、無事に帰還した。

 一空は一三三五時に二十六機にて六〇キロ爆弾三一二発を投下して、二十二機爆破炎上、格納庫三棟爆破の戦果を挙げた。


 三空の零戦隊は、一三三五時にイバ飛行場上空に達し、爆撃終了後、空中にある米軍機と交戦し、もしくは地上銃撃を行い帰途についたが、敵戦闘機と交戦して七機を撃墜、撃墜不確実三機、地上銃撃により、炎上十三、撃破九を挙げた。対空砲火は熾烈で、伊藤文雄三飛曹と吉井三郎三飛曹が未帰還行方不明となり、八機が被弾した。

 三空の発射した弾丸は、二〇ミリが二一四三発、七・七ミリが六五〇一発であった。


 陸攻隊は高雄空が一三四四時にイバ飛行場を爆撃。六〇キロ爆弾三百二十四発を投下して、数カ所の炎上を確認し、飛行機約三十機を爆破した。鹿屋空の二十六機は二五〇キロ爆弾二六発、六〇キロ爆弾一五六発を投下し。地上撃破六機、格納庫倉庫の大火災を認めた。一機が帰途したが、高雄付近で不時着大破して戦死三、重傷者四名を生じた。

 後になってしまったが、三空の第一大隊指揮官である黒澤丈夫大尉はのちの昭和六十年に日本航空のジャンボが御巣鷹に墜落した時の上野村の村長であった人物である。


 海軍航空隊は、初日の戦果は、約百二十五機を撃墜及び地上にて撃破炎上させたと判断した。これは米軍兵力のおよそ半分に損害を与えたと判断した。それに比べれば、陸攻二機、零戦七機の損害は予想外に少なかった。


 九日、攻撃二日目である。

 一空の金子大尉の率いる九六陸攻九機が、八日の二二四五時に台南を発進した。途中一機が故障のために引き返し、結局七機がニコルス飛行場爆撃に向かい、〇四三〇時に高度五五〇〇メートルから六〇キロ爆弾九六発を投下し、格納庫二棟を炎上、他に一ヶ所の火災を認めた。陸攻隊は帰投についたが、台南付近はやはり濃霧が発生したため、一機は恒春に向い、五機は高雄に着陸した。一機は台南に着陸を試みるが失敗して墜落し機体は大破炎上し、搭乗員七名は全員戦死した。

 早朝出発の予定は、昨日にも増して濃霧が激しく、両飛行場ともに天候回復が見込めず、攻撃発進は断念した。

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