第四話 海軍航空隊

 台湾に展開している海軍航空隊の陸攻隊と戦闘機隊は、連日訓練に明け暮れていた。

 というのも、戦闘機隊ー零式艦上戦闘機(零戦)ーのパイロットは熟練者のほとんどは、南雲機動艦隊の空母部隊に回されたため、陸上基地に残るのは指揮官、中隊長クラスは熟練者、小隊長以下は熟練者のA級が若干で、B級がほとんどであった。このために離着陸、編隊飛行、射撃、戦闘訓練など連日訓練に明け暮れることになった。


 特に当初の作戦計画では、台湾南部から比島のクラークフィールドまで約四五〇海里、マニラまでだと五〇〇海里の距離があり、過去中国大陸で経験している漢口ー重慶間よりも遠いことになり、航続距離のある零戦を以てしても無理であるとのことから、空母を以てその航続距離を縮めようという考えであった。しかし、大型空母は真珠湾作戦のためになく、使用できる空母は、中型の龍驤、小型の祥鳳、春日丸の三隻しか充当できず、この三隻の合計の作戦遂行能力は約四〇機から五〇機程度に過ぎないと考えられた。


 それでもと空母を利用しての離発着訓練が開始された。といっても空母への着艦する前に、陸上基地での定着訓練である。接地点への誘導の仕方、姿勢、スピード、エンジンの絞りのタイミング、接地の状況などを詳細にチェックしながら訓練を行い、合格ラインに達すれば、いよいよ実際の空母への着艦である。

 着艦訓練も艦へのアプローチから着艦せずに上昇する擬似着艦訓練、甲板上に接っしてすぐ上昇する(タッチアンドゴー)訓練、そしてフックを降ろして着艦する訓練と入念に訓練が実施された。この訓練の時には、フィリピン攻撃に向けてのものとは誰も知らされていない。

 空母へのアプローチ、そして着艦は本当にベテランでないとできない技でもある。上空三千とか四千とかから見える空母は海に浮かぶケシ粒を見つけるに等しい。ウエーキがあるから存在がわかる程度だ。高度を下げて着艦へのアプローチも空母は航行しており、風も吹いている。特に風はその日の天候に左右される。大型空母なら二百五十メートルある甲板は、小型空母では百八十メートルほどしかない。その一部にチョンと着艦するにコツを掴むには、回数の経験を積むしかないのである。着艦する手前の姿勢を確認するには、甲板上で指導員は赤旗を振って危険を知らせたりする。米空母の着艦の際に、旗で知らせている映像が流れているのがそれである。日本海軍では、着艦を誘導する赤と緑の誘導灯が装備されており、その組み合わせの見え方で、適正な角度かどうかパイロットにわかる仕組みを採用しており、米空母もこの方式は大戦中には装備されていない日本独特のアイデアであった。それだけ、空母に着艦するのは困難な動作であり、着艦フックに引っ掛けて機にブレーキをかけるためにも決められた場所へ着かねばならない。オーバーした時に備てのバリケートも装備してある。

 さらに困難なのは天候である。地上でも悪天候は飛行困難だが、海上は波の具合、風の具合も加味されるから厄介である。


 このことを考えると、地上から発進できる方が作戦としては当然立案しやすいのだ。

 さらに司令部としては護衛に付与できる戦闘機が予定の半分以下とあっては、攻撃部隊に甚大な損害を蒙る恐れがあるためやはり、無理をしてでも陸上基地から出撃を行いたかった。

 零戦の燃料は機体内に五二五リットル、落下式増槽には三三〇リットル、合計で八五五リットルの燃料が積載できる。

 離陸前の運転や離陸時の消費を考えると、使用できる燃料は約八〇〇リットルである。

 長時間飛行の訓練も行われた。以下に燃費を抑えて長時間飛行できるかが、台湾からの出撃可能となる判断となる。それも単機ではなく、編隊飛行を以て可能とならねばならない。


 坂井三郎氏が発行してベストセラーとなった「大空のサムライ」にもこの訓練の模様が記述されている。

「われわれに要求されることは、いかにして燃料を節約して、台湾から直接作戦にうつるかということである。一滴たりともむだな消費が惜しいのである。そこで大編隊消費試験が行われた。

 編隊が多くなればなるほど、隊形をととのえるのに少数機のときより余分の燃料がいるからである。これは空中戦闘の訓練以上に真剣に、繰りかえして行なわれた。

 高度四千メートル、巡航気速(計器速度)一一五ノットの制限(一式陸攻の巡航速度と同等)の下に、発動機の回転数を毎分一七〇〇〜一八五〇として、気化器のAMC(自動混合気調整装置)をほとんど爆発不調の寸前まできかして飛行するのだが、この試験の結果、われわれは次のようなみごとな成績をうるまでに漕ぎつけたのである。

 すなわち私のつくった毎時六十七リットルという記録が、全飛行機隊中もっともすぐれていた。最高は九十リットル、平均で八十〜八十五リットルと計算されたのである」

        (坂井三郎著「大空のサムライ」光人社)


 この点についても零戦での長距離飛行に自信を持っていた第三航空隊飛行隊長だった横山保中佐はこう語る。

 「われわれの訓練目標は、航続距離をいかにのばすかということであり、また、その航法訓練であった。つまり、片道五〇〇浬以上を飛行して、目的地の上空で三十分間の空中戦闘を実施して、また帰ってくるということで、このような通常の空中戦闘を実施した場合の燃料消費は、巡航時の約三倍を必要とするのがふつうであった。

 そこでわれわれは、この難関を突破するために、いかにして往復の巡航時に最小限の燃料消費量におさえて、航続距離をのばすか。また同時に、なにも目標のない海上を長時間にわたって飛び続けて、果して帰ってこられるか、という難問に対して猛訓練をかさねたのである。そして、その成果は期待以上にあげることができた。十時間以上の飛行にも成功したし、燃料消費量を毎時六十七リットルに押さえる自信も生まれてきたのである。しかし、この成功は、もっと大切な意義を持っていた。それは長躯渡洋攻撃を必要とする関係で、はじめは航空母艦の使用も計画されていたのだったが、もし航空母艦を使用することになると、次のような不利な点が出てくるのであった。

 その一つは、われわれの隊員の中には母艦の経験のないものが相当数いた。したがって、発着艦の訓練が必要となってくるが、この発着艦の訓練には相当数の訓練期間が必要である。またこの訓練によって、ほかの戦闘訓練が犠牲になる心配もでてくる。 その第二は、第一撃にフィリピンへ飛び立つ零戦の機数が、母艦の収容能力からいって制限されることである。当時、計画されていた空母は、龍驤、瑞鳳、春日丸という三隻の小型空母で、搭載機数は全部合わせても、五十機そこそこというありさまだった。

 結果的にみて、この三隻が不要になったおかげで、これらの空母を他の作戦に転用でき、われわれにとっても苦労のしがいもあり、大きな意義があったと思う」

 

 この過酷ともいうべき訓練の成果をもって、今までどこの国も為しえなかった、戦爆連合の長距離渡洋攻撃が可能となったのである。

 一方、陸攻隊の方も訓練に明け暮れた。航続距離については申し分ないが、一式陸攻は配備されてからそう月数も経過しておらず、習熟飛行、高高度編隊飛行、長距離洋上飛行、編隊爆撃訓練、雷撃訓練などや、黎明時、薄暮時の発着や攻撃訓練も実施され、戦闘機隊との編隊飛行訓練も行われ、開戦の日に備えていた。

 

 海軍航空部隊は、塚原二四三中将麾下の第一一航空艦隊で、第二一航空戦隊(司令官多田武雄少将)の鹿屋航空隊(一式陸攻)、第一航空隊(九六陸攻)、東港航空隊(九七式大艇)、と第二三航空戦隊(司令官竹中龍造少将)の高雄航空隊(一式陸攻)、台南航空隊(司令斎藤正久大佐、飛行長小園安名少佐)、第三航空隊(司令亀井凱夫大佐、飛行長柴田武雄中佐)からなり、戦闘機百二十三、偵察機十五、陸攻百四十六、飛行艇二十四の合計三百八機であった。


 十二月に入るや戦雲は急に怪しくなってきた。

 十二月二日台南空から松田中尉がルソン海峡の偵察に出発した。四日には工藤三飛曹がルソン海峡、ダリピリ島の飛行場を偵察した。五日、古川飛曹長がイバ飛行場とクラークフィールド飛行場を偵察、これによりイバ飛行場にも戦闘機が展開していたことが判明する。六日には三機の偵察機がルソン海峡の偵察に出発し、西堂二飛曹機が貨物船らしき一隻を発見している。

 三空も十二月一日、木崎一飛曹機がルソン島の偵察に向かったが、クラークフィールドは雲に覆われ断念、タルラクなどの飛行場を偵察して帰還。同日、前原一飛曹機は、台湾・ルソン間に点在するカラヤン島を偵察し、不時着地として適地であるか写真偵察を行い帰還。二日には田中二飛曹機がルソン島東部方面を偵察。同日、佐藤中尉機がルソン海峡、バシー海峡を偵察。乙須飛曹長機は前日に引き続いて、カラヤン島付近を偵察。四日には前原一飛曹機がカラヤン島周辺を偵察して帰還。五日には、下田一飛曹機がオロンガポ港、デル、カルメン飛行場を偵察、港内に中小艦艇、飛行艇を認め、飛行場に小型機二十五機、上空に九機を認め帰還。同日、乙須飛曹長機がマニラ上空を偵察し、キャビテ軍港内を写真撮影して帰還。


 前掲書「大空のサムライ」によると十二月三日、台南空の搭乗員全員が集められ、飛行長小園少佐の訓示があった。

「日本はいま、建国以来の国難に遭遇している。米英を先頭とするA・B・C・D包囲陣によって、わが国は、四方八方から圧迫をうけ、このままでは経済封鎖による物資の欠乏でジリ貧になってゆくことは目に見えており、とくに石油の不足は死活の問題である。石油は世界にありあまるほどあるのだが、日本には一滴も売ってくれなかった。売ってくれなければ、力づくでいただきにいくよりほかに、生きていく道はないのだ。それもアラビアやアメリカのような遠いところにいくのではない。ここ台湾から一飛びのところに湧きでているのだ。俺たち搭乗員が一番槍となって、この油田地帯に乗り込むのだ」

 そして六日には小隊長以上に、ガリ版刷りの印刷物が配布された。

『大日本帝国は、○月○日○○○○を期して米英蘭と開戦に決す』とあった。○は追って通知すと書いてあった。

 この印刷物を見て皆は緊張したという。


 そして十二月七日の夕陽が落ちて、

「全搭乗員、司令室に集合!」

 が伝達され、零戦搭乗員は全員司令室に集まった。斎藤司令が御真影を全員に奉拝させたのち訓示を行なった。

「いよいよ、明早朝、わが戦闘機隊は、マニラ周辺の敵空軍撃滅に向かって出撃することになった。いままでの猛訓練できたえ上げた腕前で勇戦してもらいたい。今夜ここに集まった四十五人の全部が、明晩、もう一度そろうことはまずないだろう。このうちの何人かは永久に帰ってこないことになるかもしれない。みんな、よくよくお互いの顔を見合わせておくように」


 司令の言葉に皆お互いの緊張した顔を見合わせていた。その夜は全員に赤飯が配られ、少量の酒も出陣祝いで振る舞われたのち、就寝するために宿舎へ帰っていった。宿舎に帰ってからは、航空図の整理確認と、拳銃の手入れ、小便袋などを用意して、私物を整えて最期となるかもしれない故郷への便りを認めて寝床についたのであった。

 

 飛行場では陸攻への燃料、爆弾搭載、弾薬搭載、零戦への燃料搭載、増槽タンクの装備、弾薬搭載と各装置の確認に徹夜作業で準備が行われていた。

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