第三六話 ブキテマ激戦
第二十五軍はブキテマ高地の奪取は時間の問題とみて、当初計画していた英軍司令部に対する投降勧告文の投下を行なった。当初ではブキテマ攻略後としていたが、紀元節の日であり、どうしてもシンガポールの陥落を遂行したかったのである。
投降勧告文
大日本軍司令官は、日本武士道精神に基き、ここの在馬来英軍司令官に対する降伏を勧告するの光栄を有す。
貴軍が英国の伝統的精神に基き、孤立克くシンガポールを守備し、勇戦以て英軍の名誉を高からしめつつあるに対して、予は衷心より敬意を表すものなり。
然れども、戦局は既に決せられ、シンガポールの陥落は目睫の間に迫れり。故に今後の抵抗は、徒らに多数の在シンガポール非戦闘員に、直接危害を加え、且つ戦禍に来しましむるに過ぎざるのみならず、この上更に英軍の名誉を増すものとは考えられざる所なり。
本職は、素より閣下が我が勧告に従い、今後の無意識なる抵抗を断念し、速かに全正面に亘り、その戦闘を停止し、左記の
如く速かに軍使を派遣するの処置を取らるべきを期待す。
若し、之に反し、依然として抵抗を継続するに於ては、軍は人道上忍び難しと雖、已むを得ず徹底的にシンガポールに向い攻撃を続行すべし。
本勧告を終るに方り、閣下に対し敬意を表す。
左 記
一、軍使の前進路はブキテマ道路とす
二、軍使は大白旗及英国旗を掲揚し、若干の護衛兵を随行することを得
昭和十七年二月十日
大日本軍司令官 山下奉文
英軍最高指揮官パーシバル中将閣下
第五師団はブキテマ東方地区まで進出していたが、英軍の防衛線につかまり激戦を展開し、戦線は膠着するかの様相であった。
原田連隊は早朝から一五八高地東北方の英軍部隊と交戦中で、安藤連隊は丸谷大隊が〇八三〇には競馬場南側の高地まで進出を果たしていたが、花輪大隊はブキテマ東南方高地で英軍と対戦中であった。
河村部隊は市川大隊が昨夜来から一三一高地及一一〇高地の英軍を攻撃中であったが、激戦の上占領を果たした。
一一〇高地には四百余の敵がいたが、その半数ほどが戦車八両を伴って反撃に出てきた。部隊は対戦車砲を準備して、一台を炎上させ、機関銃で一台を撃破し、もう一台も擱座させた。さすがに英軍部隊は反転しようとしたが、壕に身を潜めていた大江中尉は日本刀を閃かして脱兎の如く飛び出して戦車上に飛びつき、瞬間に乗員三名を袈裟懸けに斬り倒し、更に次の戦車に飛び移り二人の乗員を唐竹割りに切って落とした。残る三台の戦車は退却していった。これを見た中村一等兵は爆雷を抱えて敵戦車に向かって走った。逃げる戦車が早いか、中村一等兵の足が早いか、皆手に汗を握り見守った。中村一等兵の足が少し早いか、戦車に迫った中村一等兵は爆雷を投げつけた。敵戦車は爆音と共に吹き飛んだが、中村一等兵もその爆風を受けて散華してしまった。英軍は高地から撤退していき、市川大隊は高地を確保した。市川大隊の後方をむ進大本大隊はゴルフ場付近に陣取っている英軍部隊と交戦中であり、中でも一四〇高地は容易に攻略することができずにいた。
ここかしこで激戦が続いていた。
十二日〇九四〇松井中将は師団命令を発した。
「ブキテマ」西北一・五粁
第五師団命令
一、敵は逐次の抵抗に依り師団の突進を防止するものの如し
独立臼砲第十四大隊は自今予の指揮下を脱しめらる
二、師団は自今突進の重点を河村部隊に形成し敵の右翼を突破して「カラン」河
畔に進出せんとす
三、河村部隊【歩兵第四十一連隊(第二大隊欠)及第三戦車団の主力を属す】は
一四〇(水源地西側高地)高地方向より敵の右翼を突破し先づ七八高地北方地
区に向い進出すべし
四、杉浦部隊【歩兵第二十一連隊(第二大隊欠)及戦車第一連隊(中戦車一中隊
欠)欠】は其の重点を成るべく北方に保有しつつ当面の敵を突破し先づ七八高
地南北の線に進出すべし、歩兵第二十一連隊(第二大隊欠)を戦況の進展に伴
い先づ競馬場付近に躍進予の直轄たらしむべし、向田部隊(中戦車一中隊欠)
及独立臼砲大隊の主力は現在地に於て夫々第三戦車団長及第十八師団長の指揮
下に入らしむべし
(以下省略)
英軍は水源池を確保するために防御の重点をこの方面に置いており、杉浦部隊の前進路は当然猛烈な砲撃に晒された。
河村部隊の前進は杉浦部隊より容易ではあったが、進むに連れこちらも英軍の砲火に見舞われ始めていた。
第十一連隊第三中隊は十一日夜一三〇高地に陣をとり翌日の攻撃に備えた。
二二三〇時に伊東伍長以下三名を前方の敵情地形の偵察に派した。しばらく後、伍長らは帰還して前方一帯には敵多数が伏在しているとのことである。
〇一三〇頃から敵の砲撃が始まり激しさを増してきた。
「壕を掘れ!」
の中隊長に命により、壕を掘って砲弾を避けると共に応戦に準備に入った。
第三中隊の「戦闘詳報」によれば
『池野斥候方面に相当数の敵来襲し来れるを以て先づ第三小隊にて一旦之を撃退せしめしも、一三〇高地には自動火器を有する約二百の敵陣地を占領しある事を知り且つ該高地攻撃を命ぜられしを以て直に中隊主力展開攻撃を開始す。
天明以後敵砲弾熾烈なりしも約二時間後遂に該高地を占領し前方の敵情地形を捜索せしむ。
敵は中隊並第二中隊の一三〇及一二〇高地を占領するや「ゴルフ」場南側付近に陣地を占領しありたる砲兵は射撃を開始し敵の一部は一二〇高地方向よりする出撃を企図せるものの如く「ゴルフ」場西側地区「ジャングル」内より前進し来れり。
第二中隊は該敵に対し射撃を以て撃退す。
十時敵は砲兵の集中射撃に膚接し自動火器の掩護の下に戦車を先頭とし後方に歩兵を従え前方「ゴルフ」場一帯に散開し我に逆襲し来る。一同直に後方にある速射砲に連絡すると共に一斉に火蓋を切り猛射或は白兵を揮い奮戦す。小銃弾は対戦車射撃に効果なく迫り来れば擲弾筒を以て之を射撃するに至り遂に敵は後退し始む。急ぎ到着したる速射砲連隊砲は又戦車を狙い或いは敵重火器陣地を猛射す』
大本少佐からの大隊命令が届いた。
第一大隊命令
一、大隊当面には戦車を有する約七〇〇の敵あるものの如し
第二中隊及第三中隊は目下交戦中なり
二、大隊は此の敵を撃破せんとす
三、機関銃中隊主力は右側陣地を占領し敵重火器を求めて射撃すべし
四、連隊砲中隊は一三〇高地に陣地を占領し第二中隊及第三中隊の戦斗に協力す
べし
五、速射砲中隊は一三〇高地に陣地を占領し第二中隊及第三中隊の戦斗に協力す
べし
六、大隊砲小隊は現在地付近に陣地を占領し第二中隊及第三中隊正面道路上に出
撃する敵を求めて制圧すべし
七、予は依然現在地に在り
第一大隊長 大本少佐
この命令に基づき、機関銃中隊は第三中隊の右側に陣地を求め、連隊砲、速射砲の両中隊と連繫して敵陣に対し射撃を加えた。
『敵は我猛攻に依り動揺し一部は凹地に後退せるも第一線は依然反撃を断念せず砲兵の射撃は益々熾烈を極む』
第三中隊だけでも損害は多く、
『黎明よりの激戦に我が方も第三小隊長古本曹長以下九名の戦傷者と池野兵長以下四名の戦死者を出し損害大なり。而れども一同益々奮起し砲弾間断なく落下炸裂する間にありて動ぜず、益々士気旺盛高地の確保に任ず』
敵の一部が第四中隊の左側方を包囲するように戦車を伴って逆襲に転じてきたので、第一中隊の一部を以て左側に増派し、工兵中隊から一分隊を正面に移動して対戦車戦闘に備えたが、我が方からの重火器射撃により戦車は一四〇高地後方に退却して行った。中隊前面の敵は退却行動に移った。が、砲撃や退却を掩護する射撃は激しく続いていた。
午後になっても、午前中に比べ衰えていたが、たまに集中砲火となることもあり、第二小隊長高束少尉は砲弾破片により負傷した。此の頃になると弾薬が尽き果て弾薬の補充も必要であった。
砲撃は夕刻も続き、中隊長の松島中尉も負傷し、他に枡原上等兵も戦死、一等兵二名が負傷した。このように砲撃により死傷者は発生したのである。
薄暮頃には我が軍の砲兵隊の砲撃が敵陣地に向けられ、ようやく敵も退却を始めたようだった。
その後第三中隊の陣には第一中隊が増援され、第一中隊の富田中尉が第三中隊の指揮をとり陣地の守りについた。
今日の戦闘により、第三中隊は池野兵長はじめ五名が戦死し、負傷者は松島中尉、高束少尉ら十五名に上った。
ブキテマの激戦は、従軍する報道陣にも死傷者を出していた。昭和十七年六月河出書房発行の「大東亜戦記 マレー戦線」には、その報道陣らの悲運が綴られている。
『十一日夜から十二日朝にかけての敵の集中砲火を浴びて、本社連絡員岩崎俊一君並に同盟通信連絡員鯉江正樹君の二名は遂に名誉の戦死を遂げ、また本社連絡員熊谷武身君は肩部に擦過傷を負った。ブキテマ村西方一キロ、ブキテマ・ラインの一角に敵は大口径の砲を据え、天険を突破し進撃中の〇〇部隊に対し、十一日夜、俄然猛烈な集中砲火を浴せ来った。戦闘第一線部隊と共に進む我が報道陣も、この十字砲火の真只中を果敢に一歩も退却せず報道任務を遂行しつつ、部隊と共に占領高地死守を続けた。(中略)払暁近く突如我々の近くで「やられた」という声が聞え、やがてかすかながら「天皇陛下万歳」の声が響いてきた。記者(酒井)はそれが本社岩崎連絡員の声らしく思われ、早速血を吐くような声の方向を探索したが、暗夜のこととて同君の所在は不明におわった。やがて朝八時半、砲声止み、付近を捜索した結果、九時に至って、右胸部に迫撃砲弾を受けた同君の壮烈な死体を発見した。同じく前夜同盟通信社の鯉江連絡員も絶命した。直ちに各社記者団によって敵中の埋葬をはかり、墓標に花も供え、各部隊長より鄭重なる弔問を受けた』
報道取材員にとっては無念な死であったろうと思う。前線の姿を報道する姿勢と死をも覚悟の取材は、軍人以上に頭の下がるものがある。
二日後の十四日に各本社特派員が無電連絡したその時の赤裸々の詳細が記載されている。
『日高 暗渠の中から「おーい、早くこっちに来い。」と叫ぶ声が聞えて来た。一分間に何十発、何百発という激しい弾幕の中を如何にして突破しようか、三弾、五弾と来る只中に、生命の縮まる思いをした。息の止まる思いで「えーっ、どうせ一かばちかだ。」とバッと走り出し、橋の下から水中に躍り込んだ。もしあの瞬間が敵弾の飛来と一緒だったら、もうやられていたところだ。あの敵が集中射撃をやった橋の付近にあの暗渠があったということは、今から考えると天佑だったと思う。
駒田 暫く崖にしがみついていたが、砲声もやや衰えたので道路上に出て見たら五百メートル足らずの前方の三叉路にある家屋が盛んに黒煙を吐き、ゴムの大樹が何本となく吹飛んでいる。私は考えたのだ、どんなに素人考えの観測を下しても砲弾は左方から飛来している。これでは道路の左翼にいてはまるで撃ってくれといわぬばかりに身を曝しているようなものだ。その側斜面へ飛び下りようと思った時、橋本曹長も反対側で避けた方がよいという。途端に、左手の小川を隔てたゴム林でダアーンダアーンと二発炸裂した。爆風に押されてよろめきながら、私は無我夢中で左の斜面を転がり落ちた。
幸い恰好な壕が幾つも
皆はどうしているだろう。反対側の斜面の小さい壕に、やはり僕と同じようにちぢこまっているのだろうか。とても気になった。不安と焦燥と恐怖とに、自分で自分の顔色が土色に変ってゆくのがはっきり判るようだった。もう助からぬと思った。
僕はただ一人の老夫、妻子、弟等近親者や内地の友人の面影を次々と網膜に映じた。私の従軍後生れた子供の顔を想像しようとしたが、はっきりと映像が浮び上らない。もう十年も前に死んだが、僕を一番可愛がってくれたお祖父さんの顔が浮んだ。「お祖父さん、僕もお祖父さんの側へゆくよ」と思わず口に出た時、不覚にも涙が流れた。それから僕は遺書を書こうかと思って時計を見た。時は一時五分だった。しかしどう書いていいのか判らない。付近に着弾する度に胆がつぶれるような思いをしながらも、足に這い上る蟻を見た。蟻はこの恐怖を知らぬのか営々と労働している。砲声が小止みになった。何処かで
暫くして静かになったのでほっと蘇生の思いをし、砂まみれになったまま恐る恐る頭をあげ、「林君」「日高君」と大声叫んで見た。が何の答えもない。無数に大穴をあけられた赭土の丘や道が無残な姿を曝している。遠くで砲声が聞こえる。人っ子一人通らない。まるで白日夢とはこのことだろうと思った。隣の壕を二つ三つのぞいて見たが誰もいない。右側斜面には誰も来ていなかった。一つの壕に一人だけ入るのにさえ不安でたまらぬのに隣近所空家とは心細いことおびただしい。
グワングワンまた鳴りだした。あわてて壕へ転がり込んだ。
しかも隘路と来ている。こいつはたまらんと思った私は、それから文字通り瞬時も休みなく雨のように落下する砲弾と砂塵の中ですっかり観念の臍を固めようと努めたが、矢張り駄目だ。脂汗がタラタラと流れて今にも息が詰まりそうだ。
それから何時間程たったろう。再び砲声は衰えて道路上を車両や兵隊がドンドン走っているような物音がする。もう大丈夫なんだろうか。上ってみると、軍の○○班員が自転車を出発している。前進だ、前進だ、といいながらそのまま走って行った。皆はどうしたのか、左手の斜面を見たが誰もいない。「オーイ、○○班」われを忘れて大声を挙げると、橋の下から橋本曹長が「オーイ、ここにいるぞ。」と返事してくれた。
その嬉しさ。引続き「○さんが戦死したぞ。」と悲痛なこえでどなり返した。「エッ、○君が戦死?」僕は思わず声を呑んでその場に倒れそうになった。「まあここへ下りて来いよ。」という曹長の声に促されて河の中へ下りて見ると、曹長は○君の死体を抱くので上衣を真赤に染めていた。(中略)
佐藤 僕達(佐藤、毎熊、樋口)のいたブキ・テマ村の三叉路が、最目標になり危険地帯であることは○○部隊長の注意もあり僕達自身もよく知っていたが、あたりが写真の構図から見て面白い地点なので、何時までもそこで愚図愚図していたのがいけなかった。最初の一髪が前方十メートル程に落ちたのを手はじめにバンバンとまるで小銃弾か機関銃弾でも浴びるような前後左右の身近に落ちるんだからたまらない。三叉路の角の家の軒先に身を伏せたまま、弾煙の立籠める中に土砂や屋根に命中して吹飛んだ木片を浴びながら全く生きた心地もしなかった。その間幾度か移動しようと試みたが矢継早に弾着の間隙がなく、弾着地点がせいぜい二百メートル四方くらい、最も近いのは五、六メートル先に見えるので、顔を上げるのさえ危険なのだ。ただ弾幕の中心に天命を待っているより仕方がなかった。
こんな状態で三時間も、四時間も経ったと思われるのだが本当は一時間位のものだろう。いきなり前の道路から「家の下にいるものは危険だから、みんな前の溝へ入れ、溝へ入れ!」と兵隊さんが叫んでいる。そっと顔を上げて見ると成程先に溝がある。しかしその溝まで僅か三間程の距離なのに、出ようとするとバッと土砂を浴びてどうしても出られない。そのうち機を見て「今だ」と叫んでサッとみんなで駆け出して溝へ飛込むまでの気持。溝はせいぜい二、三尺だろうと思って飛び込んだら、何とそれは七、八尺もある深さだ。重い装具を身につけているので、ズシンとみんな尻餅をつくやら横倒れになるやら膝まである泥水の流れの中にびしょ濡れになってしまった。
溝へ入って見たが安全ではなく、弾は相変らず一秒一回或いは一秒に二、三発と、各五秒とおかずに頭上で炸裂する。水の中は弾幕で一ぱいになり、土砂、木片は前より激しく落下して危険この上もない。溝の中には壁側にピッタリ体をくっつけて二、三人づつ四、五メートルづつの間隔を置いて兵隊さんも沢山いる。そしてよくは判らないが、あちらでもこちらでも兵隊さんが砲弾に中って斃れる気配が感じられ、たまらない焦燥が感じられる。グワンと来たやつに僕が体をもたれんばかりにするつけていた兵隊さんが「あっ」と叫んで中腰になったと思ったら、そのままうつ伏せに泥水の流水に打倒された。僕はその飛沫でびしょ濡れになった。
泥水で目が開かぬので顔を拭きとって前の安田君を見ると、両手で顔を蔽って前のめりになっている。「あっ、やられた」と思った。「安田君、安田君」と叫んだが返事がない。
体を支えて「おい安田君、安田君」と四、五回も呼んだ時、ハッとようやく顔を上げた時は「まで生きている」と直感、目を蔽うている手を話して「見えます、見えます。」と叫んだ声を聞いた時は、本当にうれしく胸がいっぱいになって思わず安田君の手を固く握りしめた。その時の弾丸で、同名の知久君、本社の毎熊君も共に負傷したのだが、毎熊君は砲撃が止んでから自分お傷に気づき、びっくりしたような訳だった。
安田 物凄い敵砲撃の集中下にわれわれもどうしてあの高い溝の中へ飛込んだか、今になって考えても思い出せない。全く無我夢中だったのだ。十メートル余り身近に、まるで小銃弾のように落ちる敵砲弾の土煙や破片の中で地上に伏せていたが、ここも危険だと思った。その一瞬がーんと腹部と顔面に激しいショックを受けて泥水の中に倒れた。
耳がガーンと鳴る、どこからか僕を呼んでいると思いながらも全然判らない。横倒しになったまま熱くなった顔と左の眼のところへ手をあててみると血が出ている。これはやられたと思ってもう一度泥水で手を洗ってみると血はついていない。眼を開くと見える。「大丈夫だ、助かった!」と顔を泥水の中から上げてみると僕の直ぐ横にいた兵隊もやられているのを見た。後で考えると、僕の顔から血の出たのはその兵隊さんの地が泥水に流れ、その泥水をすくって見たからだと判った。
一時間余の亙る物凄い砲声が止んで、ふと背負い袋をみると砲弾の破片が背負い袋を貫き、カメラの間の鞄の金具を壊し、カメラのファインダーのガラスを打破ってボツンと三寸大の破片が残されてあった。丁度あの時その鞄は腹部にあてがっていたが、あの鞄がなかったら今ごろは腹部を射貫かれてどうなっていたか判らない。全くこのカメラは僕の命の恩人であった』
取材班にとって重要なカメラであるが、それが命を救ってくれたとは偶然とはいえ、幸運な人であった。それにしても激しい砲撃に見舞われたことがよく判る。これで勝利へ進むのであるから、戦争は勝っても負けて大変だという事が判るであろう。
一方、第十八師団の師団本部はブキテマの南南西一・五キロの一三〇高地の西北側高地にあり、近辺一帯は砲弾により掘り返された荒涼としたものになっていた。
牟田口師団長はブキテマ南方の二〇〇高地の英軍を撃破する決意で挑もうとしていた。
第百十四連隊(小久連隊)は十一日払暁一四五高地にあって、第一大隊は一二五高地から一〇五高地に展開して敵の退路を断つべく行動し、第二大隊は一四五高地から一五五高地に展開して敵の退路を断つ行動をとっていた。第三大隊は予備隊として一八六高地にあった。
一一〇〇小久連隊長は、新たなる連隊命令を下した。
歩兵第百四十四連隊命令
一、敗敵は「ブキテマ」付近に於て頑強に抵抗せるものの如し
二、右翼隊は新に佗美少将の指揮に入り左第一線となり当面の敵を捕捉殲滅せん
とす
歩兵第五十五連隊の一ケ大隊は右第一線となり攻撃す
三、第三大隊(第十二中隊欠配属部隊故の如し)は中第一線となり第一第二大隊
の中間地区に展開し敵の退路を遮断すべし
(以下省略)
一一三五時に第三大隊は攻撃態勢を整え前進を開始した。一八六高地東側の台地を南側より斜面を下りて一四五高地へと向かうと、東南側の台地に陣取っている敵より射撃を受けるとともに、西側の窪地に達するや、敵砲兵からの猛烈な集中砲火を浴びせられた。第十中隊と第三機関銃中隊は敵の砲撃を受けるとともに、敵の射撃も受けたため、亀本大隊長は予備隊の第九中隊と工兵第一中隊に対し、第十中隊の応援に赴かせた。
第十中隊の木村小隊は敵砲弾下を潜り、一二〇〇頃一二〇高地の東北側にある一二五高地を占領し、敵兵に対し狙撃を加えた。大隊主力は前進を企図するが、敵砲兵の猛烈なる射撃にて前進ままならず、数発が大隊本部付近に落下し、副官以下数名が散華してしまうほどであった。
各中隊も砲撃による死傷者が多く、一部を以て負傷者の収容にあたった。
亀本大隊長は一四五高地西側付近に兵力を結集しようとしたが、掌握できたのは第十一中隊のみであり、大隊長は中隊と付近にあった重機と兵の一部を指揮して、「ブキテマ」村に迂回すべく進撃すると、ブキテマ付近に陣していた友軍部隊が敵を撃退したのを確認し、大隊長はブキテマ北側の本道上に待機して部隊の集結を待った。
一五〇〇時大隊は連隊長よりの命令を受領し、ブキテマ陣地の敵は包囲殲滅されたことを確認した。
第三大隊の交戦した敵はおよそ七百と予想され、遺棄死体は百二を数えた。
大隊の損害は戦死将校一名、下士官兵九名に達し、負傷者は将校二名、下士官兵四十名の多きに達した。
佗美少将の指揮下に入り、第三大隊をして薄暮攻撃により二〇〇高地を攻略させるため準備をさせ、那須連隊は第二大隊を以て一二七高地と一〇五高地を占領させる予定で動いた。
小久連隊の第三大隊は二〇〇高地に対し一九〇〇頃より攻撃に移り、二百名ほどの敵兵を撃破して二一〇〇頃には同地を占領した。しかし此の後、敵砲兵の砲撃の猛射を受けて、その後五百から六百と見られる敵の逆襲があった。
二〇〇高地山頂では、敵味方の白兵戦や手榴弾戦が行われ、第十二中隊長と小隊長が戦死、第十中隊長と工兵小隊長が重傷を負うあり様で、戦死傷者多数に上り、戦況は危急な状態に見舞われた。小久連隊長は、その報告を受け、増援部隊を急遽派遣したが、英軍部隊も十三日夜半ごろから死体多数を残して退却を始めていた。第三大隊は二〇〇高地を守り通した。
那須連隊の第二大隊も激戦の末に一二七高地の占領に成功した。
十二日にはブキテマ一帯の高地は日本軍により占領掌握されたのであった。この頃から英国軍の敗残兵は各所に点在しており、抵抗する者、投稿する者が入り乱れ、シンガポール市内へと一目散に逃亡する者が多数あった。起伏が多い地形だけに、散発的な戦闘は起こり得るのである。
近衛師団はマンダイ山地区攻略後、水源池東北側地区進出へ向けて師団命令を下した。
近衛歩兵団、国司支隊、山本支隊を以て十一日夜に転進を開始した。
歩兵団は第五連隊の第二大隊を主力とした澤村突進隊としてニースン北方地区への進出を命じ、第三大隊に一八〇高地の確保させ師団の左側背を掩護させた。
澤村突進隊は、湿地帯、高地の複雑な進軍困難な地形を突破して、日没頃にやっと北部水源池の北側一三五高地付近に達した。
澤村隊からはセレター軍港やニースン方向からの銃砲声が絶え間なく続いており、相当な部隊の存在も予想された。
澤村大佐はこれらの状況から判断し、ニースン南方に進出して英軍の退路を断つべしと考えたが、山本支隊とも連絡が取れておらず、夜間に敵情不明、味方部隊の存在不明で前進しても同士討ちの可能性があるため、現在地で夜明けを待つと同時に付近の偵察と山本支隊との連絡に努めた。
国司支隊は、マンダイ山を十一日二〇〇〇頃に出発し、第三大隊(吉田大隊)を先遣隊として北水源池北側に進出した。
十二日昼前に一七八高地に達した時に、前面に敵が陣地を布いているのを知り、支隊長は、第二、第三大隊をもって攻撃する準備を整えた。英軍はニースン〜シンガポール道を背にして、その西側の二一〇、一八〇高地に陣地を構え、退却する英軍部隊を掩護するために陣を築いて必死に抵抗を続けていた。
二二〇〇頃にはニースン方面で弾薬集積所に放火したのか、火の手が盛んに上がっているのが見え、英軍部隊の退却車両がシンガポールへと向かっていた。
第二、第三大隊は夜襲を決行して、十三日未明には両高地を占領した。
その後歩兵団は進撃方向をミスした形になり南部水源池東南方に前進するように訂正された。
十三日の〇八〇〇には国司部隊はパヤレバーに進出するために前進を開始していた。
日本軍部隊はシンガポール市街地まで後少しの所まで進出を果たしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます