第四話 淵田総飛行隊長と雷撃訓練
再び話は遡るが、八月淵田美津雄少佐が空母赤城の飛行隊長として着任以来、九州鹿児島基地を中心として連日猛訓練に明け暮れていた。
総指揮官の人選は、源田参謀が次の条件を元に選出した。それは、
一、優れた統率者であると同時に、十分な戦術眼をもっていること
二、できる限り偵察者であること
三、できる限り筆者と兵学校の同期であること
であって、同級の人物を選定して中央当局に申入れし、これに当局は答えたかたちで、淵田少佐が任命されて赴任してきたのである。
淵田は明治三十五年十二月奈良県北葛城郡葛城村で生まれ、大正十三年海軍兵学校五二期を卒業した。
一方、雷撃の神様と称された村田重治は、明治四十二年四月長崎県に生まれ、海軍兵学校五八期を卒業した。
淵田少佐は第三航空戦隊の航空参謀として岩国基地にいた。八月二十五日岩国基地に異動命令が届く。淵田少佐宛であり、異動先は一年前まで在籍していた空母赤城の飛行隊長だった。早速電報を手にして角田司令官の元へ向かった。
「司令官、私は赤城飛行隊長に転勤です」
「何だと?」
角田司令官はソファーから立ち上がり、私が差し出した電報を見た。
「うむ、なるほど。赤城飛行隊長か。・・しかし、淵田君これは赤城飛行長の間違いじゃないかね。君は今度中佐に進級することが決まっているんだ。中佐の飛行隊長とは前代未聞のことだよ。もう一度調べるように電信室に言ってみたまえ」
電信室に電話をして確認してもらうと、略語電報なので、飛行長の間違いかも知れないという回答である。飛行長であれば、こちらとしても願ったりのことだが、赴任するまで飛行長の間違いであれと思っていた。
赤城は横須賀に入渠整備中なので、横須賀に着くと、飛行長の増田中佐が待っていた。これでやはり飛行隊長だとわかった。しかし、増田中佐は
「実はね、あんたがくると聞いたので、てっきり飛行長だと合点しまして、荷物をまとめて転勤準備をしていたら、実際はあんたが飛行隊長で、私は居残りとわかり、腐っているところです」
「やはり、私は飛行隊長でしたか、これは楽じゃないですな」
すると航海長の三浦少佐が姿を見せ、
「源田参謀の話では、来年度の航空母艦の集団使用の演習を実施するとかで、
飛行機群の統一指揮のために、中佐級の飛行隊長が要るとか言っていたよ」
なるほどと、淵田は思った。それなら元々やり遂げたと思っていた仕事だった。ならば、光栄に尽きるというものだった。
空母赤城の艦載機は赤城が工廠に入っているため、鹿児島で基地訓練をやっていたので、淵田少佐は鹿児島に飛んだ。
鹿児島基地では見慣れた顔ぶれが出迎えた。
‘オヤジが帰ってきた’
と皆の歓迎を受けた。
「ブツさん、また来たよ。えらいことをいってきたよ」
私は村田大尉に電報を見せた。
「二度目のつとめとは楽じゃないですな。・・陸軍ならば少将級の飛行団長というところですな。どうも、中佐の飛行隊長なんておかしいと思っていましたよ。これからは、皆に総隊長と呼ばせることにします」
と村田大尉が笑って出迎えた。
村田大尉はひょうきんさと人柄の良さから〝ブツ〟さんとあだ名されていた。
九月下旬のある日、淵田のもとへ源田参謀が突然訪ねてきた。
「総隊長、源田参謀が見えました」
「何だと」
私は椅子から立ち上がって、源田参謀を出迎えた。
「よう」
「おう」
と挨拶して、私は彼を指揮所に招き入れた。すると彼は私に耳打ちして、
「実はな、フチ、内密の話があるんだ」
と言う。そこで私は彼を、私の私室へと案内した。私室での密談は、次の通りであった。
「実はな、今度貴様は真珠湾奇襲の空中攻撃隊の総指揮官に擬せられているんだ」
と言う。しかしこれは私にとって、寝耳に水だから、
「真珠湾空襲って、なんだ」
と聞き直した。すると源田参謀は、
「
これを聞いて私は奮い立った。面白くなって来たと思ったのである。そしてこのたび再度の赤城飛行隊長を拝命した裏には、源田のスカウトがあったなと睨んだ。しかし、恨みつらみではなく、これはまことに光栄であった。そして持つべきものは、友だと思った。するとまた源田参謀は私に言った。
「しかしね、具体的にはまだいろいろと問題があるんだ。それでね、いまから赤城に一緒に戻って貰いたいんだ。旗艦の参謀長室には、オアフ島の模型も来ているし、真珠湾の情報資料も全部揃えてある。それで長官や参謀長にも立ち会って貰って、真珠湾の空襲計画と、其の裏付けとなる飛行隊のこれからの訓練について打合せたいと思うんだ」
「よし行こう」
と、私は大乗気でいそいそとした。
そこで二人は、私の愛用機で、鹿児島基地から笠野原基地に飛び、あと車で志布志湾に出て、迎えのボートで、有明湾に入泊していた旗艦赤城に戻った。
赤城の参謀長室である。中央には八畳敷ほどのオアフ島の模型が置かれてあって、精巧なもので、空中から眺めると、そっくりの景観であった。
舷窓から外を眺めてると、有明湾の海面は、午後の日差しを受けてギラギラと輝き、枇榔島の熱帯植物が黒々と繁茂していた。艦載内火艇が白い波をけたてて走り去ったあとは、四囲の風物は眠りを誘うほどの平和さであった。
けれども、この平和さの中に、参謀長室内では、乾坤一擲の真珠湾空襲という物騒な論議が、取り進められていた。
参謀長室には、第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将と、参謀長草鹿龍乃介少将と、その参謀たちで、私は源田参謀の説明で、大体の筋が呑み込めたのであるが、真珠湾の海図を見ながら、源田参謀に
「山本長官は、真珠湾在泊中の太平洋艦隊を雷撃で仕止めろと言っていらっしゃるけれど、この海図で見る真珠湾の水深は十二米しかない。これでは浅過ぎる。とても雷撃などの利くところではない。だが雷撃でやりたい」
「雷撃?・・浅すぎる。それに狭い」
淵田は答えた。
「真ん中に繫留柱があるだろう。そいつに航空母艦か戦艦が並列にかかるらしい。反対側の岸から目標までの海面距離は五百米そこそこしかない。それにその岸壁はすぐ海軍工廠地帯だ。クレーンだの煙突だの相当高い障碍物がある。雷撃は無理かね」
源田参謀は再度淵田に雷撃でやれないか言った。淵田は苦笑するしかなかった。
当時、日本海軍の雷撃法は、発射高度百米、目標までの照準距離一千米で、魚雷を発射していた。そこで投下された魚雷は、海面に落達すると、六十米ほど水中にもぐる。これを沈度と呼んでいたが、魚雷はこの沈度で、機械が発動し、スクリューが回りだして、上舵が利いてくるから、魚雷は上がって来て、あと定深度六米を保って。目標に向かって走る。そして吃水七米の目標の艦底から一米のところで激突爆破して、これを撃沈するのである。そして、われらの予想戦場であった太平洋は、世界でも一番深い海だから、魚雷の沈度など問題にならなかったが、いまこの雷撃法は、水深十二米という真珠湾では適用出来ない。沈度六十米もある雷撃法を用いれば、真珠湾に魚雷の杭打ちをするようなものである。
「うーむ」
淵田が考え込んでいると、源田は
「爆撃だけでとなるとやは効果が悪く、予定された爆撃機だけでは戦果が十分に挙げれない。魚雷の利くところで魚雷を打っていたのでは、敵も防衛策を講じ、ネットなど張るであろうから戦果は揚らない。魚雷の利かないところで、こちらが魚雷を利かせたら戦果は百パーセントだ。どうだね、フチ、なんとか工夫はないものかね」
私は、源田参謀の強引は発言に、シャッポを脱いだ。全くその通りなのである。源田は従来から「キチガイ源」との異名であった。その着想の鋭さには、みんなキチガイだと思ったからである。しかし、私はこの「キチガイ源」の着想に基いて、水深十二米の真珠湾に、何とかして魚雷をぶち込んでやろうと決心した。こうして、私も相当のキチガイであった。
私は源田参謀に断言した。
「ヨシ、必ず雷撃を成功させて見せるよ。しかし、太平洋艦隊は、そこの写真にあるように、フォード島周辺の繫留柱に二隻ずつダブルでかかっているから、内側に奴には魚雷は利かないから、水平爆撃も併用しなければなるまいね」
「その通りだ。だから目下横須賀航空廠の兵器部で、長門の十六吋砲弾を削って、八百瓩徹甲爆弾を作って貰っているんだ」
「降下爆撃機だけでは駄目か」
南雲長官が
「はい。降下爆撃だけでは、戦艦の厚い装甲はとても抜けません。せいぜい甲板上の装備を破壊するぐらいのところです。戦艦に致命的な打撃を与えるには、水平爆撃を併用せねばなりますまい」
「そうか、しかし空母になら良いだろう」
「確かにそうです。空母は脆弱ですから、降下爆撃でも大丈夫です。降下爆撃は空母攻撃に使用するのが良いと思います」
源田参謀が言った。
「水平爆撃を併用するとして、その振り分けを決めねばなりません」
私は了承した。すると、草鹿参謀長は、一言私に念を押した。
「淵田隊長は、万一に備えるこの空襲計画にそうよう訓練を進めて貰いたい。しかし、これは軍機中の軍機であって、まだ一般飛行隊員には知らせる時機ではない。それで淵田隊長は、これを胸にたたんで、それとなく訓練に移して貰いたいのだ。しかし、時機は切迫しているので、隊長の苦衷は察するが、この応急のケース・システムの訓練は、即刻実施に移して貰いたい」
私は参謀長に進言した。
「畏まりました。しかし、この訓練は雷撃が主体となりますので、赤城の雷撃隊長村田大尉にだけは、この特殊訓練目的を明かして、浅海面雷撃に取組ませて戴きたいのですが」
すると参謀長は、
「村田か、よかろう」
とうなずいて、そしてつけ加えた。
「いずれそのうち、早い時機に、飛行隊長級を集めて、目的を明かすつもりでいる。そうでないと、やはり急速練度向上の含みが違ってくるだろうからね。とに角、時日はあまりないと思うから、淵田隊長、しっかりたのむよ」
早速鹿児島基地に戻ると、新たに訓練を開始した。
淵田は搭乗員を集合させ訓示した。
「昨日までで、大体洋上における艦隊戦闘の基本訓練は終わった。本日から、応用訓練として、雷撃隊は碇泊艦襲撃に応じ得られるように、浅海面雷撃訓練を実施する。本日はまだ訓練用魚雷の整備が十分でないので、実射はしない。擬襲だけでその要領を実施する」
淵田はしばらく間を置き搭乗員を見渡したのち話を続けた。
「まず、離陸集合したら、中隊長が誘導して高度二千に上げ、桜島の東端で突撃開始、ついで桜島の中腹を這うようにして翔け下り、甲突川の峡谷に進入する。この間に列機は距離を五百米に開く。爾後高度五十米で峡谷の中をうねりながら岩峡谷から鹿児島上空に出る。この時の高度四十。山形屋デパートを左に見てすぎると、海岸にガスタンクがある。これをかわしたとたんに更に高度を落として二十米。すぐ発射する」
聞いていた搭乗員はまるで曲芸のような訓練内容に驚きの表情を見せ、その一つ間違えれば一命もない訓練内容にあきれた。
「目標は五百米ほどの先の海面にブイがあるから、それを碇泊船だと想定する。発射時の姿勢は、機種角度零度、発射機速度六十ノット。この発射時の状態が大切だ。うったらすぐ上昇右へ旋回して敵艦から離脱する。これで一回の訓練が終わって帰投する。以上」
淵田飛行隊長は再び搭乗員を見廻して言った。
「皆、どうだ、できるか?」
「はい、できます」
大きな返事が返ってきた。
「しかし難しい訓練だ。大胆に、しかしあくまで慎重にやれ。最初、村田隊長が模範を示す。訓練開始」
村田隊長が配置につけを命じると、各搭乗員はそれぞれの愛機に走って行った。各飛行機では発動機が始動され、プロペラが回り始めていた。
雷撃隊は新しい雷撃訓練が盛り込まれた。停泊艦を目標とし、陸岸から五百㍍、水深十二㍍という当時の常識を覆す攻撃方法であった。普通、航空雷撃の攻撃想定は、洋上を高速で回避運動する大型艦を目標とし、発射高度は五十から百五十㍍、発射距離は約一千㍍で、物理上発射された魚雷は、自重と速度で海中に入ると五、六十㍍の深度まで沈み、その後浮き上がり、あらかじめセットした調定深度を維持して馳走する。距離五百、ましてや水深十二㍍など、魚雷が海底の泥に埋まってしまうと考えられたが、訓練は繰り返し発射攻撃が可能になるまで行われた。
真珠湾の地形に近い場所として鹿児島湾内が選ばれ、村田重治飛行隊長以下、雷撃訓練に入った。桜島の東から山腹を這うようにしながら高度を下げ、各機の距離を五百㍍に開き、鹿児島市北方の台地に入ったら左旋回して甲突川の峡谷に進入する。峡谷をうねり岩崎谷から市街上空に出る頃、高度は五十㍍、市街の中央山形屋デパート付近で左に旋回すると、海岸にガスタンクがあるので、これをかわして高度を更に下げる。高度二十㍍で港内の海岸から五百㍍に設置されたブイが目標である。したがって海上にでたらすぐ魚雷発射となる。操縦技術と沈着冷静さが要求される。発射を終えると、右旋回しながら上昇し海上を南下する。市街南部谷山の南方にある高さ百㍍余の小山の崖に向かって海上より突っ込み、崖の直前で右へ急旋回して海岸と崖の間を高度五十㍍で南から市街へ進入し、山形屋付近で右旋回し、海岸へ出て再び発射する、という連続二回の発射訓練が日課である。
飛行訓練のポイントは魚雷発射時の飛行機の姿勢であった。飛行機の姿勢が傾いていたり、横に滑っていると魚雷の雷道に影響を及ぼす。右に左に旋回し急激な運動をしてなおかつ直線距離か短い。速力百六十ノット、機首角度〇度、高度二〇㍍を厳密に要求された。
この要求を満たさないと、投下された魚雷の海中への射入状態が変わり、沈度が深くなって浅い海底につきささる。特に注意を要するのは、高度二十㍍を保つ飛行である。高度計では到底飛行が無理なので、海上で空母の舷側を飛行甲板の高さスレスレの高度で飛んで、海面との距離の具合を会得した。空母赤城、加賀の飛行甲板の高さは喫水線上十九㍍である。
空母「蒼龍」の搭乗員だった森拾三二飛曹は「奇蹟の雷撃隊」の中でその時の模様をこう記している。
「雷撃訓練は、鹿児島湾内で行われた。いままで訓練を受けた雷撃法は、高度五十メートル、距離は目標艦から一千メートルのところで魚雷を投下することになっていたが、こんどは浅深度発射法といって、高度五メートル、距離二百メートルで投下する方法である。
じつは海軍機は、低空飛行するのを飛行軍規で禁じられていたのだが、今回は天下晴れて低空飛行が許されたので、私は大喜びであった。だれに見つかっても大丈夫なのである。ただ距離二百メートルは、どこか地形の目標がないとおぼえにくい。たまたま鹿児島港の桟橋から防波堤まで三百メートルなので、ちょうどよい訓練場所が見つかった。
それから毎日、出水基地から、雷撃機九機編隊で飛び立った。霧島山上、高度四千五百メートル上空で編隊を解散、単機となって高度をどんどんさげ、後続機と一千メートルはなれて目標の港めがけて突っ込んでいく。高度計の針が逆にぐるぐるまわって、高度がさがるのを教えてくれる。
鹿児島駅の上空で、高度三十メートルになる。はじめて飛行機が、街の上空を、しかも低空で港に向かって飛んでいくのだから、市民もびっくりしたのだろう。みんな上空をあおいでわれわれを見送っている。駅から港まで百メートルくらいなので、機敏にエンジンを絞りながら高度をさげていく。
低空になるにしたがって、電柱がひどくじゃまになってきた。それでもまっしぐらに港に突入、高度五メートル、速力百三十ノットの水平直線飛行に移る。桟橋から防波堤まで三百メートルのはずだから、上空から見て三等分し、ここが目標から二百メートルのところと推定して、魚雷発射の合図を、後席の偵察員加藤兵曹にする。
つぎにそのままの高度で、湾内の漁船めがけて、くりかえし訓練する。精密な高度計がついているが、十メートル単位なので、五メートルという正確な数字はでてこない。それで、飛行場で、休憩時間に五メートルのところへのぼって海面を見たときの感じを覚えこんでおき、この記憶をたよりに低空飛行をする」
訓練開始から約一ヶ月経った十一月初旬に実施された連合艦隊の総合演習において雷撃隊の成績はことのほか思わしくなく、あと二週間で出撃しなければならない状況に余裕がなくなっていた。
一航戦の雷撃隊の幹部が集まって善後策を練ったが、為す術もない。
赤城の根岸大尉が、思い出したように村田少佐に言った。
「どうです、隊長。発射時の機速をうんと下げて一〇〇ノット、高度も六メートルにし、機種角度を上五・四度ということにしてやって見たら。この方法でやって、良く走った経験があります」
「そうか、敵前で一〇〇ノットはどうかと思うが、この際、そんなことはいっておれんなあ」
「そうです。この際のるかそるかです。これでやらしてください」
「よし、それでやってみよう」
先の蒼龍でも森二飛曹の回想録にもあるようにこの超低空の発射訓練をしていたのである。
淵田総隊長は高度二十メートルと言っていたが、訓練ではさらに低く十メートル、五メートルの海面スレスレの高度で発射訓練をしていたのである。操縦ミスは許されない、緊張の連続の訓練であった。
飛行訓練は猛訓練が続けられたが、水深が浅いという事実は、魚雷がどうしても海底に突き刺さることを意味する。それをなくすために、技術部の方では魚雷の改造を試みていた。搭乗員の腕前は上限でもあった。あとは、魚雷の技術的な改善で、海底に突き刺さることなく、魚雷がスムーズに駛走するかである。
魚雷は投下されると空中を落下しながら長軸のまわりを回転しつつ海中に突入する。一旦は惰力によってある程度沈下するが、その後は深度機の作用によって自動的に操舵して多少の波状運動を反覆した後、予め調定した一定の深度を保って安定航走に移る。一般に定深距離は沈度に比例して増減すると考えられている。しかし、同条件の飛行で投下しても、魚雷の沈度に差が生じることもわかった。試験の結果、魚雷の発射後空中で二回転ほどして突入することが判明した。九十度転動して突入すれば、魚雷の横舵と縦舵はその作用が入れ変わることになり、初期の水中雷道は全く予期に反するものとなって、たとえ射入状態は良好でも沈度は不軌となる。この転動を防止するためにつけられたのが安定装置で、魚雷が機体を離れると同時にジャイロを応用した安定機が発動し、魚雷の両側に取り付けられた安定舵を操作して転動を防ぐ。安定舵は海面突入と同時に木製部分が飛散し、残った鋼製部分が水中雷道を安定させる。この魚雷の発注は長崎の三菱兵器製作所に依頼され、昼夜兼行で作業を実施し、出港ギリギリの十一月十七日に加賀に四〇本分を納品した。
この魚雷は九一式魚雷改二と呼称されるもので、その要目は次のとおりである。
炸薬量 二〇四キロ
速力 四二ノット
駛走距離 二〇〇〇メートル
直径 四五センチ
全長 五四七・七センチ
全重量 八三八キロ
機関 星型八気筒
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