キャンパスライフを永遠に

メモ帳

キャンパスライフを永遠に

   ☆


 ノリのパリッときいたスーツに身を包む。体にぴったりと張り付く感覚がどうにも心地よくて、思わず顔がにやけてしまう。そんなにやけ顔を振り払おうと頭を思いっきり振ってみる。結果はただ長く伸びた髪が爆発しただけで、相変わらず口角が上がってしまっていた。

 部屋の片隅で積み重ねられていた段ボールからネクタイを引っ張り出す。数日前から引っ越しやら入学手続きで忙しく、休む暇などなかった。体に程よくたまった疲労感がこれまた心地よくて、再びにやけてしまう。

「これで三度目」

 心の中でとどめておくつもりだった言葉は、殺風景な室内を意気揚々と漂った。

昨晩スマホで調べた「ネクタイの結び方」を思い出しながら、洗面台へと向かう。鏡台の前に立ち、髭剃りと石鹸を買わないといけないと心にそっとメモを残した。十中八九、帰りには忘れているだろうが。

 戸惑いながら三度目の正直で成功させたネクタイの結び目を誇らしげに見つめる。実際大したことではない。それでも、センター試験で自己最高点をたたき出した時と同じような達成感があった。

 スーツを着たのはこれまでの人生で二度目。一度目はこのスーツの試着の時で、父が隣で「似合うじゃないか」と優しい声をかけてくれた。あれだこれだ言いあって、母と父が選んでくれた紺色のネクタイは、やっぱり地味で、新しいネクタイをバイトでもやって買おうと決めた。

 ついでに洗った手を拭くために、タオルを段ボールから取り出す。手に残った水分が段ボールに小さな黒いシミを作っていた。

 手を拭きながら見た時計の短針は、家を出ようと決めていた時刻と大きくずれていた。とっさに緑のカーテンをあけ放つとまだ太陽の顔すら見えない。

 遠足が楽しみで眠れない小学生かよという突っ込みはさて置いて、これからの時間つぶしはどうしようかと部屋を見渡す。食いかけのように開かれたいくつかの段ボールからは、タオルやネクタイが顔を出していた。

 中学、高校と集めた漫画コレクションの一部を詰め込んだ段ボールはどれだっただろうか。暇つぶしにはぴったりだろう。最初に林檎の書かれた箱を開いてみると、フライパンなどの料理関連が詰め込まれていた。

 ピンポーン。

 何の音だろうと一瞬考えてしまった。

 この家に来てまだ一日も経過していない。初めてのお客さんというわけだ。

「……いや、誰だよ。こんな朝から」

 もしや、あれか。噂のエヌ何たらケーか。はたまた両親か。抜き足差し足扉に近づき、覗き穴から外を見た。

 そこには俺の予想外の人物が立っていた。

 黙って俺は扉を開ける。

「おぉ、よかったぁ。間違ってたらどうしようかと思ってたんだよ」

 幼なじみである坂本杏里の見慣れた顔がそこにはあった。

何故ここを知っている? 何故ここに立っている?

「ん? 聞きたいことがあるって顔だねぇ」

 手櫛で長い黒髪を整えながら、心底うれしそうに笑った。陽のはいっていないアパートの廊下は薄暗い。そんな中でも彼女の白い肌ははっきりと見えた。

「ふふふ、弘毅の親に頼まれたんだよ」

 一人でも余裕という俺の言葉を両親は信用していなかったらしい。だからといって、この幼馴染をよこさなくても良かっただろうに。

「はぁ、確かに大学も一緒だけどさ」

 小中高と同じ学校に通っていて、まさか大学まで一緒になるとは思っていなかった。学部は文学部と工学部で違うが、この際大した問題ではない。俺の隣にはいつもこいつ、坂本杏里がいた気がする。それは当分続きそうだ。

「そういや、お前家どこだ」

「ん」と彼女は左腕をピンと伸ばし、力強く左を指した。思わず廊下に身を乗り出し、右を見る。誰も人はおらず、端にほこりのたまった薄暗い廊下が続いているだけだった。

「なぁ、それじゃ分からんのだが」

 方角だけ指されても困る。適当にあしらわれている感と、家は絶対教えたくありませんよ感がして居心地が悪くなる。

「ニーマルサン」

「ここは二〇五だぞ」

 彼女の変に間延びした言葉を理解するのに、さほど時間はかからなかった。部屋を決めたときから頭の中をぐるぐると回っていた数字の正体は、俺の住むことになる部屋番号だった。

「いや、違うって。私の住んでる部屋番号だよ」

 俺は先ほどの言葉の意味を理解できていなかったらしい。どうも、信じたくないのだが、二〇三は坂本杏里の部屋番号のようだ。

「聞いてないんだが」

 両親よ。何故話してくれなかったのだ。

「いいねぇ、その顔が見たかったのだよ」

 彼女は意地の悪い笑顔を浮かべ、俺の顔を覗き込む。やっぱまつ毛長いなという感想を飲み込んで、慌てて距離をとった。

「……で、こんな朝っぱらから何しに来たんだ」

「いやぁ、起きてるだろうなぁと思って」

「訳わからん」

「小中高と入学式の日に早起きしすぎて、犬の散歩してたじゃん。時間もいつもの二倍……いや、五倍? くらいかけてやっててさ」

 確かにそうだった。早起きしすぎてつけたテレビはつまらなくて、犬のポチとともに早朝の町に繰り出した。そして、いつもは行かないような場所に行って、迷ったり、変な人に会ったりした。今となってはいい思い出だ。

「でも、こっちにはポチもいないしねぇ。何しようとしてたの?」

 離れたはずなのに。ちょっとの釣り目が俺をまっすぐに見つめてくる。

「マンガ……読もうとしてた」

「ほぉほぉ、いいじゃん」

 腕を組み、うんうんとどこぞの女上司のように頷いた。

「……ねぇ、部屋の中入ってもいい?」

「はぁ……どうぞ。まだ片付いてないけどな」

 最初に部屋に入れる人物がこの坂本杏里になるとは。ある意味予想通りであるが、この予想は是非とも裏切ってもらいたかった。申し訳程度の失礼しますとともに、杏里は俺の部屋へと踏み込んだ。

「まだ、段ボール状態じゃん」

「昨日引っ越し完了したんだよ」

「入学式の前日なんて、慌ただしいというか計画性がないというか」

「うるせぇ」

「まぁまぁ、私も手伝ってあげるからさ」

 入学式当日。午前五時を指したころ、俺と幼馴染で段ボール解体作業を開始する。


   〇


 九時から始まる入学式に合わせて、自室で着替えを始めた杏里を外で待つ。ようやく顔を出した太陽が思いの外まぶしくて、日陰を求めてアパートの周囲を歩き回る。見つけ出した自転車置き場横に生えていた大きな木の陰で、ほっと息をついた。

 どうやら春の日差しは俺に強すぎたらしい。葉の隙間から覗かれるくらいの陽が俺にはちょうどいい。

「お待たせ」

 きっちりスーツに身を包み、杏里は颯爽と現れた。

「さぁて、感想を聞かせてもらおうか」

 ない胸をはり、さほど高くない身長をめいっぱい伸ばして、様々なポーズを取っていく。それでも、俺には見慣れた幼なじみの姿で、特にこれといった感想は浮かんでこなかった。

 こんなことを言ったら、彼女の機嫌が一気に悪くなってしまうので言わないが。

「あぁ、可愛い可愛い」

「……」

「……」

 俺の反応に納得いかないのだろう。口をとがらせている。

「さっさと行くぞ。タクシー割り勘な」と気まずさを紛らわせるために言った。

「えぇ」

 ぶつくさ文句を言いながらも、財布の中身を確認している。

「そういえば、今日の昼ご飯どうするの?」

「あぁ、そういや拓也と喰い行く約束してたわ」

「……誰?」

「誰じゃねぇよ。何回か会ってるだろ。同じ高校だったし」

「……誰?」

「お前、まじか」

 彼女は小刻みに頷いて肯定する。相変わらずだと笑い飛ばしたいところではあるが、これから大学生となるのだ。笑ってもいられない気がする。

 この女、恐ろしく他人の顔と名前を覚えるのが苦手なのだ。職員室で教師の呼び出しの時に名前を思い出せないという理由で、俺を校舎のどこからか見つけ出すという無駄なワンクッションを必要とした。長期休み明けは特にひどい。坂本杏里を落としたいと心底願っている男には、短いスパンでコンタクトを取り続け、顔と名前を忘れさせないようにしろと助言する。助言を無視した男はもれなく、誰だっけという気まずい目で見つめられ、挙句の果てに名前を間違えられるというトラウマを植え付けられる。

「あぁ、あの背の高い人?」

「まぁ、確かに高い。が、ちゃんと分かっているか怪しいものだな」

 背の高いという特徴の人物は世界を探せば五万といるし、坂本杏里からすれば俺は背の高い人間になるだろう。

「たぶん、おそらく、きっと」

 とりあえず似た意味を並べてみましたという彼女の返答からは、とりあえず確実性が皆無であるということしか分からなかった。おそらく、きっと彼にあっても「誰?」と言いつつ、首をかしげるのだろう。

「とにかくさっさと行くわよ」

 彼女はスマホを取り出して、タクシー会社へと電話している。電話する彼女は満面の笑みだった。

 タクシーはすぐに到着した。

 何かややこしいホールの名前をタクシー運転手に告げると、十分たらずでどでかいホールの前に到着した。真新しいスーツに身を包んだ新入生らしき人々が群れを成している。「人ごみなんて嫌だな」と坂本杏里は窓ガラスに張り付いた。

 タクシー運転手に運賃を握らせる。割り勘の約束をしていたような気もするが、全額俺が出した。隣には驚愕の表情を浮かべ、「やばい、今日は雨が降るかも」とか騒ぐ女がいる。

「席とか決まってんのかね」

「さぁ、適当でいいんじゃない?」

 新入生の長蛇の列に並び、いつも通りの語るまでもないくだらない雑談をして、何やら分厚い書類やらが入った紙袋を手渡され、「席は適当でいいですよ」とおそらく先輩であろう美人女子大生に教えてもらった。

 薄暗いホールにはスーツ姿の男女がごった返している。それぞれが思い思いのメンバー、もしくは一人で席に座っていく。俺と坂本杏里は空いていた後方四席の中央二席を陣取った。

「これから、バラ色のキャンパスライフが始まるわけね」

 頬杖ついて坂本杏里は言った。


   〇


 さて、入学式が終了した。何をしていたのかの記憶は驚くべきことにきれいさっぱりなかった。もしかすると、脳内の記憶をつかさどる部位が入学式を拒絶しているのかも知れない。

「いや、寝てたよ」

 なんてことはまるでなくて、ただ単純に寝息を立てていただけであった。

「……言わなくてもいいだろ」

 二人で大学行きのバスに乗り込んだ。どっかの誰かの雑談曰く、十数分で着くらしい。

 商店街前の大通りを超えて、並木道のトンネルを通り抜けて、緩やかな坂道を上っていく。大学最寄りのバス停は何もない場所にポツリと立っていた。

 バスが止まる。

 扉が開かれる。

 黒々とした集団は再び坂道を上っていく。その坂道に沿って桜が列をなしていた。こざっぱりした春の風に乗って、薄ピンクの花びらが舞っている。隣では坂本杏里が感嘆の声を幾度となく漏らしていた。

 たどり着いた坂の頂上には大学の名前が刻まれた石碑が一つと一際大きい桜の木が一つ。そして、圧倒的な美人が一人。肩くらいまでの長さの茶髪をなびかせて、漆黒のスーツに身を包み、仁王立ちしていた。端整な顔立ちと少し高め鼻。すらりと伸びた高身長。十人中十人が振り返るだろう美貌の持ち主だった。

 彼女はガラパゴス携帯を耳に当てている。これまた今時珍しい。携帯には薄汚れたUFOのストラップが揺れていた。

「あ」

 声が漏れた。

 もしかして、という疑惑が心に浮かんでは消える。彼女は通話が終わって顔を上げた。俺と目が合う。しかし、彼女にとって俺は背景と一緒だった。

 俺は違う。

 思い出されるのは中学の入学式の日。

早朝の朝だった。ポチと一緒に散歩して、いつもは行かないような場所に行ってみようと思い立った。

 俺は行ったことのない道をポチとともに進んでいって、結局よくわからないことになって、気づけばどこか緑豊かな丘の上に立っていた。

 そこにいたのが彼女だった。

 肩くらいまでの長さの茶髪と女子中学生にしては高い身長。整った目鼻立ち。


 ――あなたもUFOを探しに来たの?


 俺はよく意味も分からず、適当に頷いていた。そのために彼女は勘違いしたのだろう。UFO仲間の証ということで渡されたのが、UFOのストラップだった。

 彼女の話は小難しくて、電波的でよく分からなかったけれど、彼女が楽しそうに話すのを見ていると何だかこちらまで嬉しくなってしまって、結局長い時間を二人で過ごした。

 その彼女の笑顔が俺は未だに忘れられない。

 隣では彼女を見つめている坂本杏里がいた。


   〇


 俺はスーツの人間が大多数の大学食堂で、唐揚げが一つのっているカレーに食らいついていた。前にはイケメン、隣には坂本杏里がいる。食堂前で待っていたイケメンこと石井拓也は、百八十後半に届こうとしている高身長のおかげでよく目立っていた。予想に反して坂本杏里は、駆け寄って来た石井拓也に対し、ちゃんと久しぶりにあった同級生らしい挨拶を交わしていた。これは帰りに大雨洪水警報がでるかもしれない。

 坂本杏里はうどんを無表情ですすり、石井拓也はカツ丼を貪っていた。異様に暑苦しい奴と無駄に涼しい奴だ。高校時代から何ら変わりがない。

 俺と拓也は会っていなかった期間の短い思い出話を互いに交わした。坂本杏里は俺の行動なんて九割把握しているだろうし、名前すら怪しい他人の行動なんて興味もないのだろう。何もしゃべらずうどんをすすっていた。そんな話の最中、

「それにしても、相変わらず隣には坂本杏里がいるんだな」

 拓也はにやにやしながら、残りわずかのカツ丼を口に運んでいく。

「……まぁ、そうだな。相変わらずだ」

「別にいいじゃない」

 無心で話も聞かず食べているのだと思っていたのだが、杏里はうどんから顔を上げて言った。ほんのり顔が赤くなっているような気がする。

「別にいいんだけどな。他人がどうこう言うことじゃない」

 俺はキンキンに冷えている水を一息に飲み下す。

「なぁ、UFOっていると思うか」

「何だ突然」

 脳裏にちらつくのはUFOのストラップ。

「……そういえば、中学のころUFO探しが趣味ですっていう女がいたな。だから、いるんじゃねぇの」

「おい、接続詞がおかしいぞ」

「火のないところには煙がたたない、って言うだろ? つまりはそういうことだ」

 どういうことだか分からんが、つまりはそういうことらしい。

「そういえば、弘毅が中学生のころ。一時期UFOだとかにはまってたよね」

 さすがは幼馴染だと拓哉は笑う。俺は黙って食事を続けた。


   〇

 午後は学科ごとに別れて今後の説明をされた。長机が規則正しく並べられた教室にぞろぞろと新入生が入っていく。俺と拓也は真っ先に教室に入って後ろの席を確保した。一通り席が埋まった後、おじさん達が自己紹介を交えながら、入れ替わり立ち替わり入ってくる。

 俺は教卓に立つ教授の話を右から左に聞き流しながら、サークル紹介の冊子に目を通していた。高校の頃とは違い、数も種類も豊富だ。とりあえずアニメ研究会と映画研究会にシャーペンで黒丸をつけておく。一方拓也は真剣な面持ちで話に耳を傾け、メモを取り、つまらない冗談に笑っていた。

 そんな時間もあっという間に終わった。断じて眠っていたわけではない。文字通り早く終わったのだ。

「これからどうする?」

「とにかく着替えたい」

「だな」

 短い話し合いの結果、満場一致でそれぞれ自宅に帰宅後着替えてから、俺が拓也の家に遊びに行くことが決定した。途中までは道は一緒らしいのでそこまで一緒に歩いて帰る。

「……そういや、お前なんかサークルはいるのか」

「とりあえず全部入るぞ。本腰入れるのは軽音だな」

 冗談かと思ったのだが、どうやら本気らしい。

「お前らしいな。じゃあ、着替えたら行くわ」

「了解」

 分かれ道の四つ角を、俺は東へ拓也は西へと帰って行った。


   〇


 自室に入ると畳まれた段ボールが山積みになっているのが目に入る。組み立てた本棚に漫画と超常現象だとかの書籍がきちんと整理されて並んでいる。他には組み立て途中のパソコンパーツが部屋の一角を占拠している。ベットには皺一つない。

 スーツを脱ぎ、ハンガーに駆ける。そして、着慣れた私服に袖を通した。

 さて、どうしたものか。

 とりあえず、荷物の整理をしようとプリントが乱雑に突っ込まれた紙袋の中身を、テーブルの上にぶちまける。

「拓也は軽音……だったか」

 卓也はピアノだかシーケンサだかギターだかがうまかった気がする。対して俺はどうだ。自慢ではないが、歌も楽器も全くできないと言い切れる。

 そして、あの彼女の携帯で揺れていたUFOのストラップがどうしても脳内でちらつく。

 とりあえず一度黒丸を消して、軽音に丸をつけてみる。

「いや、やっぱりダメだな」

 考え直して、また消して、黒丸は結局アニメ研究会と映画研究会につけられた。そして、これでいいのだと机に投げ出す。卓也にLINEで今すぐ出ると送り、財布をポケットに突っ込んだ。すぐに『コンビニで待っている』と拓也から返信が来た。

「どこのコンビニだよ」とぼやきながら、戸締りを二度三度確認して家を出る。春のくせに異様に暑い気がした。

 拓也の言っているコンビニは大学近くのセブンイレブンだった。行ったとき拓也は自転車にまたがってガリガリ君を食べていて、拓也の住んでいるアパートはぼろぼろで階段が腐っていて危うく踏み外しそうになって、無駄にいっぱいあるギターの一本を俺が適当に弾いてみると、隣の人が怒鳴り込んできて……などなど色々あったが語るに値しない些細なことだ。

 最後に、予想通り石鹸やら髭剃りを買い忘れて地味に困ったことを付け加えておこう。


   ☆☆


 肉の焼ける音と食パンの焼けたにおいで目が覚めた。

 ゆっくりと体を起こす。まともに開いてない目をこすり、テーブルに目を向けると、卵焼きの載せられたパンがあった。ついでに紅茶が添えられている。

 小さな台所からはかわいらしい鼻歌。起きたなら歯磨きしてねという声も聞こえてきた。

「どうやって入った、坂本杏里」

「扉が開いてた」

 そうか、ならば仕方がない。実際の所、親に鍵を渡されたとかだろう。

 食パン上の卵焼きは塩こしょうで味付けされている。まさしく俺好みの味付けで、さすがは幼なじみだと言える。食パンもオーブンでいい感じに焼かれた色をしていて、食欲をそそる。

 時計を見れば、七時を指していて、もう少し寝かせろよと愚痴を言いたくなる。しかし、眠気と食欲の戦いは食欲の勝利だった。とにかく、洗面所に行って水をバサリと顔に浴びせることで、残りわずかの睡魔を追い払う。

 ついでに今日の予定を考えてみた。

 確かあれだ。履修登録だとかいうやつの説明が午前中にあるはずだ。すべて石井拓也のメモ帳の受け売りだが、間違いはないだろう。いや、石井拓也のメモ帳だからこそ、間違いはないと言うべきか。その後、サークル登録会だったはずだ。これは自信がある。

 食卓のつもりはなかった部屋中央のテーブルは、冬には子龍になるという優れものである。俺が睡魔払いをしている間に食事は完成していて、テーブルに並べられていた。坂本杏里は座って、箸にすら手をつけず、黙って俺を待っていた。

 とりあえず「ありがとう」と「いただきます」と伝えて、静かな食事が始まる。この状況は、幼なじみがいた場合の理想的シチュエーションベスト一であろうが、何か慣れた。……今この瞬間全人類を敵に回した気がする。

 部屋片隅のパソコンパーツの一団をゴミだとけなされ、捨てられそうになるのを寸前で回避し、洗い物は断固として俺が行うとして早々に坂本杏里を部屋に帰した。

 そして、俺は捜索を開始する。

 探すのは小さなストラップ。幼い頃の思い出であるUFOが揺れているやつだ。中学時代超常現象の本を読みあさっていたのも今となってはいい思い出で、今でも俺の知識として人格形成の一端を担っている。

 集合時間まではかなり余裕がある。たかが、男の一人暮らし。物はさほどない。

 しかし、ストラップは見つからなかった。

 時計の長針が一週、二週と回転し、短針の指し示す数字が八、九と大きくなっていく。数少ない収納スペースの小物を床に並べ、全てのタオルを広げ、ズボンのポケットをひっくり返す。それでも、目的の小さなUFOは出てこない。

 もしや、実家の元俺の部屋に転がっているのか。引っ越し業者の車の中で押しつぶされているのか。元いた星に帰っていたのか。燃やされ、つぶされ灰になったのか。

 真相は何処。

 結局急いで着替えて飛び出して、後ろを追いかけてきた坂本杏里と一緒に大学へと向かった。慌ただしい朝だった。


   〇


 履修登録をご存じだろうか。ちなみに、俺はよく知らなかった。

 配られていた書類の全てに目を通していた石井拓也の通訳を聞きながら、登録を行った俺に分かったことと言えば、単位の修得状況と時間割を見ながら、取りたい単位を自由にとれるというものである。そう言うと、簡単なものだけとれば遊び放題じゃんと言われるかも知れないが、それは学務が認めない。学部によって取れる単位が違うのはもちろん、必修単位という存在のせいで、一年生の単位選択の自由度はゼロらしい。しかも重たそうな内容ばかりである。微分積分の応用問題を今でも解ける自信はない。

 数学が苦手なくせに工学部に来た俺を馬鹿と罵りたければ後勝手にどうぞ。今更後悔しても現実は変わらない。

 本来九十分の授業は早めに切り上げられて、競うようにみんな食堂へと向かっていく。昨日とは違い、色や柄は多種多様である。

 結局食堂の席は全て埋まっていた。食堂横の小さな売店でおにぎりと缶コーヒー(ブラック)を買って、拓也と外のベンチに腰掛ける。拓也は素早くパンに食らいつき、あっという間に胃袋の中に収めてしまった。その速度に唖然としながら、俺は細々と食事を進める。あぁ、梅の酸味と米の甘さのコンビがたまらない。

「サークルは考えてるのか」

 筋肉質な腕には似合わないイチゴ牛乳のパックを握りしめて、拓也は言った。

「あぁ」

「ほぉ、何だ」

「……モテそうなやつ」

「何だそれ」

 深く突っ込まれることはなかった。聞かれても困ってしまうのでありがたい。

 日差しが強くなってきている。幸いここは木陰だった。


   〇


 サークルとは何か。

 部活と違うのだろうかという疑問に対する答えは、サークル登録会会場の体育館前で、これまた美人の女子大生が配っているチラシに書いてあった。

 サークルには大学支給の活動費がないらしい。実に単純明快な答えである。ということは部活には活動費があるのだろうかという疑問に対する答えも、予期していたかのようにすぐ下に記載してあって、どうやらきちんとあるらしい。こうして美人手渡しのチラシの隅々まで見ていた俺に対して、拓也は冷めた目で、

「杏里も来てるのか?」

「何で俺が知ってると思うんだ」

「……さぁ。まぁ、お前がいれば勝手に来るだろ」

「あのなぁ、俺を坂本杏里呼び寄せ機か何かと勘違いしていないか?」

 何だ、その需要はどこからもないだろう機械は。自分で言っていて何か悲しくなってきた。

「だが、間違ってないだろ」

 間違っていないからこそ困るのだ。

「……朝ちゃんと発信器がつけられてないことを確かめたからな。無問題だ」

「そうかよ」

 そう言って俺と拓也は笑った。

 こうして男二人が体育館前で笑っているのもなんか変な感じがする。互いにさっさと乗り込もうとアイコンタクトで確かめ合った。

 体育館にはブルーシートが敷き詰められているので、大学生の集団は土足で上がっていく。部の名前が書かれたのぼりを掲げた人達から、どれほどこのサークルが有意義かを書き殴られたチラシを押しつけられる。俺は自分でも分かるほど変な笑顔を貼り付けて、目的の場所を探した。

 坂本杏里は今、この瞬間隣にいない。

 遠くののぼりに目的のサークル名を見つけて、人混みをかき分けて向かって行く。実に暑苦しい。面倒くさい。しかし、ここでためらってはいけない。これはただの予感であり、理系の人間らしく、小難しい言葉を並べ立てるようなことはできない。今までの俺とは変わるべきなのだ。

 そんなくだらない思考を脳内で繰り広げつつ、軽音サークルの長机の前に仁王立ちした。

「入部希望ですか」という問いに対して、元気よく頷き返す。

 手渡されたボールペンで登録用紙に名前と連絡先を記入して、プリントをもらう。来週新歓の水曜日新歓があることが書かれていた。

後ろでは「お前も入るのかよ」と拓也がつぶやいている。俺は黙ってペンを拓也に押しつけた。

 そして拓也の記入が終わるのを待つ。体育館の喧噪は収まる様子はなく、より一層騒がしさを増していた。来年にはこの群れの中に俺がいるのかと思うと、少し気恥ずかしい。

 記入自体は一瞬で終わり、何やら先輩方と親しげにベースがどうやら話している。それらの単語がまるで電波のように聞こえてしまう。この場にいる俺がどうにも場違いな気がして、「暑いから外出てる」とだけ拓哉に告げて、俺は人混みへと突っ込んでいった。

 時刻は十二時をとうに過ぎている。

 高い天井で光っている蛍光灯は、外で爛々と輝いている太陽どころか、生い茂る葉を通ってくるわずかな光にすら劣っている。そのくせに、この暑さは何なのだ。

 ばかでかい室内に対して狭苦しい入り口は逆光のせいで、真っ白だった。

 外のアスファルトには太陽光が照り付けている。しかし、室内の暑苦しさに比べれば幾分ましだった。

 そして、また出会う。

 目の前には『UFO研究会』の文字が揺れている。昨日見た冊子にはなかった名前だ。

 ミニスカートを大人っぽく着こなしている、昨日の女性がそこにいた。俺は一歩、一歩と歩み寄り声をかける。

「入部してもいいですか」

 彼女一瞬驚いた表情をして、静かに頷いた。

 その後のざっくりとした自己紹介で初めて、彼女の名前が中村千絵であることを知った。


   〇


 その後大学側に認められていないからという理由で退却を余儀なくされた俺と中村千絵は、UFO研究会ののぼりを畳んで、そそくさとその場を後にした。許可を取っていなかったことを言及すると、中村千恵曰く、俺程度には理解できない高度な心理戦というやつらしい。

 しかし、ぶつくさと文句を言っている中村千恵を見る限り、悔しさから出る強がりという気がする。もちろんそのことは突っ込まない。心にそっとしまっておく。

 帰ろうという彼女の言葉に頷く。二人は並んで体育館から離れ、桜咲く坂道を下る。すぐ下のバス停前で互いに家の方向が真逆であることが判明。俺と彼女が二人並んでいた時間はあっという間に終わってしまった。その間十数分に満たない。

「じゃあね。第一部員」

 俺の名前は、と訂正するよりも先に彼女は駆け足で帰っていく。姿はあっという間に小さくなって消えた。

「あ」

 そういえば連絡先を交換していなかった。というか、彼女が中学生の入学式の日に会った女子であるという確認すらしていない。自己嫌悪に苛まれ、ため息をつきながら帰った。

 家に帰ってからは、買い溜めしたポテチを何か忘れてるような居心地の悪さを感じながら食べた。「中村千絵か」と名前をつぶやいていたのは、我ながら心底気持ちが悪い。

 次の日石井拓哉に「探したんだぞ」と怒られ、ご機嫌取りにアイスを奢ったり、坂本杏里に入ったサークルをしつこく問いただされ、「UFO研究会と軽音」と正直に答えたにも関わらず信じてもらえなかったり、買い溜めポテチを坂本杏里に没収されたりしたり、バラ色のキャンパスライフには程遠い生活であった。

 ちなみに、UFO研究会は学務の許可を得て無事に創設されたのは、それから一週間後の火曜である。


   〇


 キャンパスライフに限らず、何事においてもスタートダッシュは大切だ。その点、俺はどうなのだろう。軽音とUFO研究会に入った俺はプラスマイナスゼロといったところだろうか。いや、ギターも何も弾けない俺にとっては、むしろマイナスかもしれない。

 そんな俺に対して、石井拓哉は全てのサークルに入るという冗談みたいなことを実現させ、何故か俺も連れまわされた。彼は文句なしの百点満点だろう。他人にはまねできないことを見事成し遂げている。

 坂本杏里はアニメ研究会と映画研究会に入ったらしいが、一回行って満足したらしい。もうどっちにも行かないと宣言していた。俺に宣言されても困るのだが。

 このようにして、大学生活が本格的に始まった。

俺は講義中にソーシャルゲームを嗜む大学生をしり目に、真面目に講義を聞いていた。携帯は電源を切ってカバンの中。ノートには文字が整然と並んでいた。そんな大学生の鑑である俺に対して、一週間もたないだろと石井拓哉は言う。坂本杏里にまで同じことを言われた。中村千絵には会えてすらいない。

 それは絶対ない、と二人に誓ったのだけれども、ノートの文字が解読不能となっていたのは、入学式から数えて六日目の今日だった。黒板に向かって話す教授や声量が雀の涙の教授のせいにしておこう。

 数字の羅列と俺の辞書にはない単語に頭を痛めつつ、ため息交じりに坂道を下っていく。相変わらず自転車は買っていない。バイトを始めなければいけないと思いながらも、大学に慣れてからかなとか、夏休み中に研修した方がいいかなとか考えて、保留という結論をだした。別に面倒くさいというわけではない。

「一号」

 白シャツにダークのボトムスを着こなした中村千絵がバス停横に立っていた。どうやらバスを待っているのではなく、俺を待っていたらしい。来るのが遅いと頬が少し膨らんでいる。この一週間どうにか連絡をつけられないかと考えていた俺にとって、ものすごくうれしい状況だった。

「サークルが学務に認められたわ。てことで、名前と連絡先教えて」

 彼女は本当に、心底嬉しそうに笑う。俺は言われるがまま名前とメールアドレスを教えた。

「ありがとう。他にもメンバーが最低一人必要なんだけど、あてない?」

「……あぁ、まぁ、なくもない」

「そっか、じゃあ明日新歓やるから。詳しい連絡は夜にでも送るね」

 彼女は相変わらずの駆け足で道の先に消えていった。

 新歓。

 他のサークルの新歓に連れまわされた結果分かったことは、俺に酒は厳しいということだった。恥ずかしい行動や言動によって黒歴史を作ったことは今のところないが、明日もこの幸運が続きますようにとお祈りしておく。

 コンビニで買った豆乳を帰宅後冷蔵庫に突っ込んで、事情をまとめて拓哉に送信する。そして、俺は返信で気づかされた。

「そっか、明日軽音の新歓か」

 軽音かUFO研究会か迷った時間は一分くらい。杏里からのメールを十一時まで待っていた。もちろん拓哉も道連れにする。言い訳は聞いてやらないつもりだ。


   ☆☆☆


 新歓の集合は大学下のバス停に夜九時。それまでの時間、食堂でたむろすることにした。俺はコーヒーを、拓哉はイチゴミルクを飲んでいる。そういえば言ってなかったなと俺はUFO研究会の部長の名前を告げた。

「……中村千絵って、あの中村千絵か!」

「お前の言う中村千絵かは知らん」

「UFO追っかけてる中村千絵なんてそうたくさんいてたまるか!」

 確かに。

「もしかして、知り合いか」

「中学時代の同級生だ。まぁ、仲は悪くないと思う。たぶん俺のことも覚えていてくれると思うんだけどな」

「そうだったのか」

 時間はあっという間に過ぎていく。腹が減って仕方がないのだが、居酒屋かどこかに行くのだろう。拓哉は軽いものを食べると言いつつ、カレーを食べていた。ひょっとしたらバカなのかもしれない。

 食堂の人が少なくなって、寂しさすら漂って、そこにいることが辛くなってきたころに外に出た。太陽は地平線の彼方へと沈んでいて、代わりに欠けた月が浮かんでいる。月明かりの下、桜の散りゆく坂はピンクに染められていた。

 坂道下のバス停に人影が二つ。月のかすかな光に照らされ立っている。

 顔は見えない。腕を組んで仁王立ちして、何やら大きな荷物を持っているのは中村千絵だろう。もう一人は……見覚えがあった。というか、毎朝会っている。

 坂本杏里と中村千絵がそこにいた。

「あ」

 その「あ」はどちらが発した驚きの声なのか。それは分からなかった。

「拓哉君」と絶句している中村千絵。

「弘毅!」と喜びの表情の坂本杏里。

「おぉ、千絵と杏里か」と笑顔の石井拓哉。

「……」と無表情の俺。

 こうして登場人物が全員そろう。星空がきれいな夜だった。


   〇


 UFOの探し方を知っているだろうか。知らないからと言って、落胆しないでほしい。それが普通だ。ここで「誰それの論文によると……」なんて言う人がいれば、よっぽどノリがいい人なのだろう。

 おそらく、きっと。

 中村千絵の情報によると、UFOは電波塔などの付近に出没しやすいらしい。それからも彼女のUFO談義は終わらない。

「2013年9月7日にね。NASAが開発した『キュリオシティ』って火星探索機が、送ってきた画像にUFOが写ってたんだって」「NASAは火星には水が存在していることを公式に発表してるから、宇宙人と言わなくても、生物がいる可能性はあるんだって」「古くなるけど2010年には、同じような火星探査機『スピリット』だったかな。それには人工物が写ってて」「白いヒト型の生物が確認されたことも」「世界各地で目撃証言はあって、あ。もちろん明らかにインチキなものもあるんだけどね」

 恥ずかしながら自分は大半分かってしまう。坂本杏里は「へぇ」と適当な相槌。石井拓哉は「ロマンだな」と良く分からない相槌。俺は自ら進んで荷物持ちを志願して、中村千絵が持って来ていたでかい荷物を背負っているため、相槌をうつ気力はない。

 こんな感じで俺たち四人は近所の小高い丘に向かっていた。そこには近くに電波塔があり、高い建物などはなく、観測には適した場所であるらしい。てっきりどこかで飯でも食うのだろうと思っていた俺の「食事は?」という問いは、「食べてないの?」という驚きの声で一蹴された。

「拓哉君と一号は仲がいいの?」

「……一号?」

「拓哉。俺のことだ」

 悲しいことに。

「ちなみに私は二号だって」

 坂本杏里はため息をつきながら言った。

「それにしても、俺のこと覚えててくれたんだな」

「……もちろん。ずっと」

 中村千絵は消え入りそうな声で言った。他の誰にも聞こえていないようだが、俺は確かにこの耳で聞いた。

「拓哉君は、サークルに……その、入ってくれるの?」

 彼女の声は不安そうで、少し震えていた。

「入るさ。俺は全てのサークルに入るって決めてんだ」

「そっか」

 安堵の息はいったい誰の者だったのだろうか。

 小高い丘に到着。ブルーシートをひいて、カメラを用意。何をするのかと思いきや、ただ空を眺めるだけという天文部的活動を行った。もう天文部でいいのではないかという俺の申し立ては、嫌だという部長の一言で却下され、一時間ほどしてそれぞれ帰路に就いた。

 当然ながらUFOは発見できていない。


   〇


 バラ色のキャンパスライフとは何なのか。

 入学式で坂本杏里が言っていた。ざっくり言うと、主観的に見て楽しいということ言いたかったのだろうか。度々俺の頭の中をループしていたわけだが、結局具体的な答えは出てきていない。

 例えば今日一日はどうだろう。記念すべきUFO研究会初回活動なわけだが。

 坂本杏里はアニメ研究会と映画研究会に入っていたのに、もう行かないと宣言してUFO研究会に入っていた。理由は何だ。

 中村千絵。俺は彼女が中学一年の時にあった電波女ではないかとすぐに気が付いた。ストラップは裏付けに過ぎない。では、彼女は俺のことに気がついたのか。答えは明白、気がついていない。

 何となく携帯に手を伸ばした。連絡先は実家の固定電話。時刻は零時を回ろうとしているが、どうせ起きてるだろう。

 着信音が鳴り響く。

『はい』

「あ、もしもし母さん」

『あぁ、弘毅。どうしたの?』

「……UFOのストラップそっちにない?」

『ストラップ? 何かあんたが大切にしてた奴ね。持ってったんじゃなかったっけ? まぁ、必要なら探してみるけど』

「んじゃ、頼んだ。あぁ、それとさ。坂本杏里に勝手に合い鍵渡しただろ」

『えっ、渡してないけど』

「……」

『……』

 シンと部屋が静まりかえる。黙って俺は電話を切った。

 自室の鍵は、俺が使っているのとは別に二つある。一つは実家に、もう一つはこの部屋に。それはどこにあっただろうか、と深夜に捜索を開始する。

 結局見つかることはなかった。


   ☆☆☆☆


 俺は元々物をなくすことが多い子だった。酷いときは教科書を紛失した。その時は隣の席だった坂本杏里に、注文した教科書が届くまで見せてもらった。体操服も一回なくしたし、靴下なんて一度や二度ではない。

 それが大学に入って合鍵をなくした。普通に使う鍵よりも先に合鍵を、だ。

 今日の朝もいつも通り朝食を作りに来てくれた坂本杏里にかける言葉が思いつかなかった。まさかという疑惑の念がふつふつと湧いてくる。

 彼女の家はすぐ隣だった。両親がおらず、年金暮らしの老夫婦の家に住んでいた坂本杏里に変な同情心を掲げて、俺の両親は度々世話をしていた。食事に連れて行ったり、本や漫画を買い与えたり、そこまでするかということを度々していた。

 だからこそ俺にとっては幼なじみと言うより、家族という方がしっくりくる。

 恋愛感情なんてものはないのだ。

 UFO研究会の緊急招集は昼休みに出された。メールは六限終わりに食堂とだけ書かれたシンプルな物だった。

 午後の講義には全く集中できなかった。坂本杏里との過去の思い出が駆け巡る。思えばいつも隣にいた。俺と彼女は一セットみたいに扱われていた。

 からかわれたことだって多かった。しかし、幼なじみだからという言葉で逃げてきた。実際そう思っていた。ただの幼なじみだ。漫画の中のようなことは実際にはないのだ、と。

 気づけば六限も終わっていた。集合場所へと向かって行く。足取りは重い。

 食道の端っこで三人が集っている。中村千絵がこっちだと手を振っていた。足の速度が少し上がる。四人がけのテーブル中央には段ボールが一つ、置かれていた。

「全員揃ったわね。では、この段ボールの中身をお見せします。驚かないでね。ね!」

 そうして開かれた段ボールには無線機のような形の物体が青に塗られて入っていた。彼女の長ったらしい説明を聞く限り、『宇宙物質探知機』というらしい。宇宙から飛来する物質の発する不思議電波をキャッチして、大きな音を出すのだという。

「んじゃ、来週は宇宙物質を持ってくるように! 分かった?」

 俺を含めた残りの三人は適当に返事をした。坂本杏里はバイトを始めたらしく早足で帰っていく。石井拓也は他のサークルに顔を出すと帰って行った。残されたのは俺と中村千絵だった。そして、気づく。

「そういえば、ストラップは――」

「あぁ、何か取れちゃったみたいで。探してるんだけど、なかなかね」

 彼女のガラパゴス携帯にはストラップが付いていなかった。

「……実はあれね。二つで一セットなんだよね」

「……」

「一つは中学生の入学式の日にね。UFO探しに家から少し遠い丘に行ってさ。そこで、変な男の子に会って、その子に渡したんだ」

「どう変だったんだ」

「犬を連れててさ。その犬の名前なんだと思う? ポチだってさ。今時そんな名前つける人いないよ」

 確かに。俺だってそう思う。

「それにさ、私の話を……まぁ、適当だったんだけどさ……まじめに聞いてね。目を輝かせてね。私嬉しかったんだ」

 適当だったのかよ。

「また会いたいなって思ってた」

 ドキリとした。

「だから、ずっとストラップを目立つように持ってたんだ。顔は覚えてなかったけど。向こうから気が付いてくれないかなって」

「……その話誰かにした?」

「入学式の日に、杏里ちゃんに。あの娘もちょっと変わってるよね。突然話しかけてきてさ。ストラップかわいいですねって。だってUFOのストラップだよ。かわいいとはちょっと違うと思うんだ」

 あなたに言われたくはないよなと思いながらも、俺は黙って話を聞いていた。

「今思うとあれが初恋だったのかもしれないなぁ」

 彼女は言っちゃったとあざとい笑みを浮かべた。


   〇


 中村千絵は、俺を一人置いて帰って行った。取り残された俺はカレーを注文して、四人机に一人腰掛けて食べる。甘口のカレーはどうにも物足りない。しかし黙って食べ進めた。

 帰るころにはもう誰も学食にはいなくて、無音で、暗くて、なんだかんだで毎日寄り道していたコンビニにも足は向かなくて、気づけばアパートの前に立っていた。

二階に上がって、見慣れた薄暗い廊下を歩いていて気が付いた。二○四号室がなかったのだ。四という不吉な数字のせいだろう。こうしてみると、俺から彼女に声をかけたことは今まで一度だってなかったんだと思う。ニ◯三号室が隣だと今まで気づかなかったのだから。

 部屋に入ってもすることがない。課題を出されたような気がしないでもないが、覚えていない。後で卓也にLINEでも送ろう。

 鞄を開けてみれば真っ青な機械が目に飛び込んでくる。

「なんだよ。宇宙物質探索器って」

 宇宙を浮遊する謎の物質といえば、暗黒物質。いわゆるダークマターというやつのことだろうか。中二病が好きそうな名前だ。

 とにかく、電源をつけてみた。

 そして、鳴り響く警告音。

 慌てて電源を切る。部屋が静まり、緊張感が高まる。手汗が一気にあふれ出す。

 ゆっくりと深呼吸。

 再び電源をつける。

 ピーという音が間隔を開けて繰り返される。

 つけては消してを繰り返して、気が付いた。部屋の場所によって音の間隔が違う。その間隔が一番短いのは、隅のコンセントの近くだった。そのコンセントには四足のコンセントが差し込まれている。

 引っこ抜く。これが、所謂ダークマターというやつなのだろうか。電気店で売っていたその四足配線が、宇宙を漂い、世界の誰一人として正体をつかむことができていない宇宙の神秘なのか。

 なんてことはまるでない。

 分解して出てきたものは、ただの盗聴器だった。


   〇


 盗聴器発見機とは本来、周波数を合わせることで、盗聴器から発せられている電波を受信し見つけるらしい。しかし、俺は電源しかいじっていない。偶然にも盗聴器の電波と宇宙物質探索器の受信する電波が合致したということだ。

 そんなことは今となってはどうでもいい。誰が、何のために仕掛けたのか。それが問題だ。

 しかし、仕掛けることができた人間は一人しか思い当たらない。ここで突然全く関係ない人間が出てきたら、ミステリーとしては失格だろう。

 俺はどうするべきなのだ。


   〇


 土曜日の朝がこれほどまで怖かったことはない。坂本杏里に昼頃部屋に来るようにLINEを送り、拓哉にも同じ旨のLINEを送った。

 俺がするべきは話し合いだと判断した。

 バラ色のキャンパスライフ。これには、俺と坂本杏里と拓哉と千絵が必要だと思う。

 ただ空を眺めるだけで楽しかった夜が思い出される。中村千絵にとってもそうなんだと思う。結局空を眺めるという行為だけでなく、誰と見るのかも大切なのだ。

 誰一人として欠けてはいけない。この盗聴器を持って警察署に行けば、彼女は退学をさせられると思う。それは解決ではない。

 それに彼女が仕掛けたものではないという可能性もある。

 ピンポーン。

 扉に駆け寄り覗き穴から外を見る。見慣れた坂本杏里の顔がそこにはあった。

 静かに扉を開ける。

「おはよう。今日はちゃんと起きてたんだね」

「……おはよう」

 彼女はいつも通りの笑顔だった。


   〇


 彼女との会話にこれほどまで困ったことがあっただろうか。その気まずさを破ったのは坂本杏里だった。

「……呼び出したってことは、何か話があったんじゃないの?」

「あ、あぁ」

 言いにくい。しかし、言わないと話が進まない。

「なぁ、この部屋の合鍵持ってるのか?」

「うん。持ってるよ」

 彼女はあっさりと言った。

「そうか。親の許可は?」

「許可? 息子のこと頼みますって言われたんだよ? だったら、無問題じゃん」

「……じゃあ」

 ごくりと唾を飲む。

「盗聴器はお前が仕掛けたのか」

「そうだよ」

 彼女はあっさりと答えた。

「それがどうかしたの?」

 彼女はかわいく小首をかしげて言う。

「ねぇ」

「……何だ」

 考えろ。ここで彼女にかけるべき言葉は何だ。彼女の顔が俺にゆっくりと近づいてくる。黒髪がそんな小さな動きに合わせて揺れた。

「好き」

 耳元で囁かれた。体が強張る。

「あなたのためならば、私は何だってできる」

「俺は……」

 俺にとっての彼女は何だ。

 考えた。

 しかし、結局彼女はただの幼馴染だ。それ以上には、どうしてもならない。

「お前はただの幼馴染だ」

「……」

「なぁ、分かってくれ。合鍵も返してくれ。盗聴器も外してくれ。警察には連絡したくないんだ」

 彼女は長い間考えていた。そして、

「……分かった」

 最後に彼女はお茶を入れさせてと言って、キッチンへと向かった。これで解決なのか。予想以上にあっさりと彼女は引いてくれた。やかんに水がくべられて、ガスコンロにかけられる。沸騰するまでの時間が恐ろしく長く感じられた。

いつものコップに紅茶が注がれて、コトリと、俺の前に置かれる。

 好きな香りだった。

 手に伝わってくるぬくもりが好きだった。

 ゆっくりと味わう。

「美味しい?」

「あぁ、美味い」

「そっか」

 彼女の笑みはどこかさみしげで、憂いを帯びていて、今まで見たことのない顔だった。こんな顔もできたのかと俺は問いたい。

 これで幼馴染としての関係は終わりなのだろうか。あぁ、そうだ。俺が終わらせようとしてたんだ。何を言っているんだ。

 でも、ほんの少し。毎朝の食事がなくなるのかと思うと寂し……い。

 あれ、お……かしい……な。意識が……遠のく。

 最後に見たのは彼女の満面の笑顔だった。


   ☆☆☆☆☆


 私は彼を愛していました。

 私に血のつながった両親はいません。それを心配して、彼の両親は本当によくしてくれました。一人の娘として扱ってくれたように思います。そして、言われたんです。


 ――息子をよろしく


 言われたのは私が小学生のころですかね。言われなくとも私は彼を愛していましたし、所謂両親公認の仲になったことがうれしかったんです。まぁ、息子には内緒にしといてと言われたんで秘密にしておきましたけど。

 彼の部屋に盗聴器ですか。当然ですよね。何か問題なんですか?

 だって、私に黙ってポテトチップスなんか食べてたんですよ? 体に悪いから食べないでって言ったのに。もちろん没収しました。

 それに私に隠し事をしてました。入ったサークルです。……いや、あれは実際私が悪かったですね。彼がサークル登録会の紙に丸を付けてたのは、アニメ研究会と映画研究会だったんですから。まさかUFO研究会と軽音に入ったなんて思いませんよ。UFO研究会に至っては名前もなかったんですから。私は深く反省しました。彼のいうことを信じるべきだったんだって。


 中村千絵? 彼女は彼と同じストラップを持ってたんです。私がどんなに探しても見つけられなかったUFOのストラップです。どこで買ったのか聞くつもりで話しかけたんですけど、予想外の話を聞かされました。彼女と彼が過去に会っていたという話です。ポチなんて名前つける人、彼くらいですからすぐに分かりました。

 だから、彼のストラップを没収したんです。

 理由がいりますか? だって、あんな女と同じストラップを持ってるなんて、彼がかわいそうです。私が何か彼とおそろいのストラップを買ってあげようと思ったんです。でも、その前に彼がおかしくなってしまって。

 具体的にですか……。

 合鍵を返してくれって言われました。盗聴器を外してくれって言われました。意味わかんないですよね。なんせ愛し合ってたんですよ?


 彼の体にも盗聴器を仕掛けてました。警察の方なら知ってますよね。盗聴器は周波数なんて決まってないんです。周波数が違う盗聴器を彼に仕掛けてたんで、見つからなかったんですよ。見つかったのは宇宙的確率ですよね。まぁ、その盗聴器を聞いてた時です。


 ――今思うとあれが初恋だったのかもしれないなぁ


 って中村千絵は言ったんです。私はバイトに向かってるところだったんですけど。この時です。彼女を殺そうって思ったのは。

 えっ、おかしい? 私がですか?

 だって、私は彼のために同じ大学に進学しました。彼の隣の部屋を借りました。奨学金だって限界まで借りて、バイトもして、彼のために私は生きてたんです。

 バラ色のキャンパスライフって知ってますか?

 私にとっては彼がいれば良かったんです。ただ、それだけで幸せだったんです。

 あの女はそれを奪おうとしてたんです。

 彼のいない人生なんていらないんです。

 死んで当然です。


 彼は話し合いをしようと場を設けました。場所は彼の部屋です。彼が言うには警察には連絡したくないというのです。

 私は伝えました。自分がいかにあなたを愛しているのかを。でも、彼は恋愛感情なんてないの一点張りです。

 だったらもう一緒に死ぬしかないじゃないですか。その準備をしていたら石井拓哉が来たんで、こうして生き残ってしまいましたけどね。

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キャンパスライフを永遠に メモ帳 @TO963

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